㉟高校社会科の授業
※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。
参考動画
◎【解明】面白い人の正体、●●を考えれる人は"おもしろい"
山田玲司のご機嫌解説集 切り抜き 2024/03/22 9:59
ここで強調されていることのほとんどは授業を面白くする上で必要なこととかなり重なるのではないかと思う。社会科の授業を面白くするにはとりあえず授業で強調したいことへの解像度を徹底的に高めていく、つまり教師たちは教材研究に「どハマリ」するのが一番だということではないか。
学習者として優れている教師の授業は面白くなる可能性を多分に秘めているはず。教科書的な知識への浅い理解と正解の暗記に走る授業に終始するのではなく、浅い理解や正解とされる知識の奥に潜むもの、表層的な知識、常識のベールを剥いで事の真相やウソを暴き出す…いったん正解というものを否定して深く探索するうちにいつの間にか深い森に入り込んで彷徨ってしまう…そうした先の見えないスリリングな授業展開の方が面白いに決まっている。
もちろん、授業の最後まで真っ暗な闇を彷徨ったままでは生徒たちを不安にさせただけで終わってしまい、学習の後味が悪くなる。教師としては一見、真っ暗な木陰の向こうに小さく遠くではあるが少しだけ明るさが垣間見える…といった、最低限の解像度、見通しは予め確保しておく必要があるに違いない。
◎原貫太に向けられている批判について話します。
原貫太・フリーランス国際協力師 2024/08/19 11:24
ジャーナリストが「伝える」ことの重要性を説く原氏の動画はそのまま社会問題を授業で扱う教師の立場をも説明するものであるだろう。「一人で出来ることは限られている」という認識と「魚ではなく、魚の釣り方を教えよ」という教訓は教師にとっても必要不可欠。
社会科授業を担当する教師としてもこの動画はぜひ視聴しておきたいが、授業で差別問題、貧困問題などを扱う際にあらかじめ視聴させておくと、生徒たちもすんなりとこのテーマに入っていけるだろう。時間的な余裕があれば視聴を途中で停止して原氏の考え方を生徒たちに予想させる、などの工夫を加えたい。
参考記事
◎トランプ政権によってアメリカ合衆国憲法修正第1条が攻撃を受けている
GIGAZINE 2025.4.2
アメリカで生じているこれらの事ははたして日本にとって「対岸の火事」なのだろうか…生徒にぜひ議論させたい。この記事で問題視されている内容とそれに対応する日本の現状とを比較検討させて、日本の現状が日本国憲法の精神を十分に反映できているのかは大いに議論の余地がありそうだ。
日本国民はトランプ政権の暴走に眉を顰める以上に、日本の現状に危機感を抱くべきなのかもしれない。まさに「人の振り見て我が振り直せ」ではあるまいか。この記事を上手く政治分野の導入として使えば、今後の学習を現代社会と意識的に結び付け、具体的なイメージを持って展開しやすくなるかもしれない。
◎未成年の選挙運動禁止は「憲法違反」と提訴 高校生「法律に怒り」
朝日新聞社 2025.2.28
ようやく未成年者の政治運動への関与に対する様々な制約への反発が日本でも表面化してきたようだ。かつての学園紛争の時代への過剰な警戒心からか、1970年代以降、日本では学校教育においても政治的主題から遠く距離を置こうとする傾向が異常なまでに強くなっていた。今、ここで問われている生臭い政治的な話題を授業で扱わない、深く追及しない…そうした社会科授業の弊害は決して小さくはあるまい。
学校のガラパゴス化は日本社会全体のガラパゴス化を招き、いたずらに老害を社会の隅々まで蔓延らせてきた…そうした側面があったのではあるまいか。
若者たちの政治への関心を高めるための取り組みを抜きにしたまま、形だけ選挙権を18歳から与えられても、日本の若者が適切かつ積極的に選挙権を行使できるようになるわけではない。それは2024年の都知事選、兵庫県知事選の際の、マスコミやSNSによる不確かな情報に踊らされてきた有権者の動きを見れば明らかだろう。
若者の政治参加に関して学校教育が果たすべき役割は大きいはずだ。しかし、肝心の学校教育、とりわけ政治教育のお粗末さが若者の政治参加の足を引っ張り、鈍らせてきた。今回の動きはそうした日本において大きな転機をもたらすきっかけの一つになりうると考えるが、いかがか。
◎「御上先生」で考える"教科書の記述"を巡る問題 実際に教科書を作る難しさはどこに
あるのか? 東洋経済オンライン 西岡 壱誠 2025.2.10
教科書検定に携わってきたA氏の、「思想の偏りを是正するために教科書検定があると言ってもいいのではないか」との意見には呆れてしまう。A氏はあくまでも厳正中立な立場で教科書の作成が行われているように見せかけようとしているようだが、一方で教科書の検定に際しては「基本的には、政府見解に沿っていれば揉めることはない…」と言い放つ。これってかなり自己矛盾してはいないか。
そもそも政府見解自体、基本的には自国の立場を優先しようとする政府の政治的判断、思想に基づくものであり、決して厳正中立で学問的な厳しい吟味を経た上で表明されたものではあるまい。そして多くの国の政府が多少の偏りを孕んだ、自国優先の見解を表明していることくらい、むしろ常識的と言っても良いのではあるまいか。そうした自国優先の、多少の偏りが不可避となる「政府見解」に沿っていれば、教科書検定の際、確かに自国政府と揉めることはあるまいが、領土問題の記述に関してはこれまで度々、隣国政府などと揉めていた事実がある。
…「竹島と北方領土に関しては領土問題だが、尖閣諸島は領有権の問題は存在しない」というのが国の立場です。「領土をめぐる問題」として尖閣諸島を扱うのはOKだけれど、「領有権が日本にあるのは確実なものであって、尖閣諸島については勝手に中国が主張している」というのが国としての立場なので、そのように記述しないとそこは指摘されます。…
日本政府が尖閣諸島に領有権の問題は存在しない、と主張すること自体に問題はさほど無いだろうが、中国政府としては日本の主張に大きな問題があると考えている。もちろん中国の主張をかなり自分勝手なものと日本が判断すること自体も特に問題無いだろう。しかし、だからといって日本の主張がどこからみてもまったく完璧であり、一つとして偏ったものではない、と言い張る根拠の方は果たして万全であると言い切れるだろうか。その根拠にどこまで合理性、正当性があるのかはある程度、議論の余地が残るはずである。
実際、かつての琉球王国は日本の元号を使用するよりももっぱら明や清の元号を用いていたのだから、江戸時代以前まで遡れば、歴史的に見て日本の沖縄領有自体、完璧なものとは言い切れない側面がある。とりわけ中世において琉球王国は独立国であったのだから、日本の領有の根拠はあくまでも近代以降の歴史の中に求めるほかあるまい。そして近代以降の歴史を振り返ってみても、琉球処分以降、日本政府の沖縄支配にはかなりの問題があったことも事実と言える。
日本政府の公式見解ばかりを重視し、沖縄住民の意向を無視しがちであったこれまでの歴史を振り返る時、A氏の意見には明らかに承服しがたい面が多々あると思うが、いかがか。授業では政府の公式見解よりももっと遥かに大切な見方、考え方がこの世には存在しうることにぜひ気付かせたい。また教科書検定制度が生み出す各種の問題点についても各自で調べさせたい。
◎国立大学法人法改正案に教職員、学生らから怒りの声 「学問の自由」を殺すな
AERA dot. 石田かおる によるストーリー 2023.11.30
大学での学問の自由が政府から侵害されてきている現在、高校での教育内容がこれまでどれほど政治的統制を強く受けてきたのかに関して、高校教師としても自覚的であらなければなるまい。経済的利益と軍事に結び付く学問分野への集中的予算配分が大学の自治と学問の自由を揺るがす大問題に発展していくことは日本の戦前の歩みを振り返れば明らかだろう。とりわけ高校社会科の授業内容は大学における学問の自由度をも左右する側面を持っていると考えるが、いかがだろう。
生徒たちにほとんど学ぶ自由を認めない、狭量で硬直化したカリキュラムを押し付ける公立高校の存在こそが、結果的に大学における学問の自由をいつの間にか侵害してしまう側面を持つ可能性について一度しっかりと考えてみるべきではないか。
・理科と社会科の下位文化と責務
そもそも理科は教科準備室が少人数の科目ごとに置かれているために集団的な同調圧力からほぼ免れている点で教師の個性的な在り方が担保されており、授業での自由度は極めて高い。しかも教科書以外の教材選択の幅が広く、どれをどの程度まで扱うかも個々の教師の判断に相当程度、委ねられている。各科目はせいぜい2~3人程度の小集団に過ぎず、考査が共通問題となったとしてもそれなりに授業における教師個人の自由度は保障されている。芸術科目と同様、他教科に比べて教師の専門性が重視されており、専門外の科目を担当することは極めて稀である。
ただしその反面、生徒指導などで足並みそろえてチーメワークで臨む必要が高い、荒れた教育困難校では身勝手な言動によってチームワークを乱し、非協力的な姿勢に傾く教員が出てしまうのもこれらの教科であったりする。学年室常駐に加わらず、教科準備室に籠もってしまって当番の時間にも中々姿を見せない…これでは生徒指導の成果は不十分になるだろう。
学校全体の課題と個人的な課題とをバランス良く把握し、対応していくのは誰であっても難しいが、学校教育を俯瞰できるだけの視野の広さが少しでもあれば妥当な落としどころが見つかるはずである。問題はその教科、科目に視野の広さを持つ教員がいるかいないか、であろう。
社会科は国数英などとほぼ同規模の集団になるが、共通テストを行う高校は稀であり、授業や考査における教師個々人の自由度はそこそこ高い。また公民科の場合、教える内容や方法まで含めた自由度の高い科目が存在するため、教科内での同調圧力はかなり弱いと言えよう。教科準備室において稀に同じ科目の教員からアドバイスを受けることはあっても、授業内容やテスト問題に深く介入されることは滅多にないといってよい。
ただし芸術科や理科と比べて社会科の場合、科目の専門性はあまり重視されず、専門外どころか複数の科目を担当することもなぜか多い。おそらく2単位ものの選択科目群に設定されやすいからだろう。結果的にはおそらく授業準備に最も苦労を強いられる教科となっている。
ただし、一度、授業用に作成したノートを何年も使いまわして安易な一斉講義形式の授業を繰り返す、手抜きの教師の存在を一定数生み出してしまう教科でもある。こうした授業が少なからず残存するため、残念ながら生徒から最も嫌われがちな教科の一つとなってしまうことがままある。
たとえ地理歴史と比べて多少、自由度の高い公民科であっても下手に受験を意識し過ぎたため、暗記中心の一斉講義形式を続けてしまう教師が散見される。この場合には受験に無関係な生徒から最悪の授業評価が与えられる可能性は十分にあるだろう。
※歴史科目は受験科目に選ばれることが多いため、進学校の場合、授業進度や授業内容が複数の教員間
で余りにもズレが酷くなると生徒からのクレームが出る恐れがある。度が過ぎれば公平性に欠けてし
まう点は確かに否めない。授業展開もほとんど教科書に沿うことの多い歴史科目は社会科の科目とし
ては最も自由度が低いと言える。したがって地歴科の教師は国語科とかなり類似する下位文化を持つ
傾向があろう。結果的に世界史や日本史は社会科の中でも生徒から最も眠気を誘われる科目となりが
ちであることも否めない。歴史科目は本来、内容に加えて授業方法にも相当の工夫が必要とされると
考えるべきである。
授業における自由度が高い分、公平さや内容の偏りが問題視されやすいのがこれらの教科の弱点でもある。確かに受験に大きく関わる科目の授業の不公平さは教師にとって致命的になり得るが、受験のための補習授業などを別個に設けることである程度は不公平感を解消できるだろう。従って補習さえ行えれば、正規の授業での多少の逸脱は許されるに違いない。いや、むしろ高校教育の完成教育としての役割を踏まえれば、生徒達の個性を引き出し、育てる上でもこれらの教科は折に触れては積極的に教科書的、画一的な内容から時宜にかなう内容へ勇気をもって逸脱すべき義務すら背負っているとさえ考える。
そもそも「画一的で公平な授業」が最重要視されるのは義務教育段階までである。高校卒業後、個別に進路先が異なる高校教育では教育の画一性よりも、教育の多様性、個別化の方がより大切になってくる。全員一斉に同じ事を学ぶ意義は高校では義務教育ほど重くはない。生徒一人一人の進路が異なるように、授業もまた一人一人の個性、興味関心に応じてその内容を時宜にかなった形で多彩にしていかなければならないのは高校の社会科における当然の義務といってよいだろう。
いかにして授業の中で生徒個々人の異なる個性に丁寧に寄り添い、多様な要望に応えていけるのか、その工夫がこれらの教科では厳しく問われよう。そのための授業改善は日々、怠ることができない。
古くさい一斉講義形式、板書やプリントの穴埋めが中心となりがちな授業を続けていては授業の個性化を進めるのは至難の業である。無論、旧態依然の日本の教科書にしがみついていては決して個性化は実現できない。中学校で生徒たちから最も不人気な教科として毎年のように英語科や社会科が挙げられてしまうのはもっぱらお上から与えられた知識の丸暗記を強要する一斉講義形式に起因するだろう。
生徒の実態に合わせた教師独自の教材、授業構成、独自の方法論が必要とされているのだ。これは一朝一夕には到達できない目標であるが、理科、社会科、芸術科といった教科は他の教科の教師がたとえやりたくともあまりにも障害が大き過ぎて容易に実現出来ない授業の「個性化」という重要な任務を背負っている。
その恵まれた条件と環境の中でひたすら授業改善に取り組む必要がある、貴重な教科なのだ。実際、社会科や理科、芸術科には極めて個性的で優れた授業の実践家が少なくないように思えるのは気のせいだろうか。
さてそれでは授業の個性化を進め、受け身になりがちな生徒達の主体的な授業参加を促すには今、どのような工夫が考えられるだろうか。理科では以前から仮説実験方式の授業が行われてきた。こうした実験や観察という生徒参加型の授業を比較的数多く行いやすい理科と違い、生徒が受け身になりがちな一斉講義形式に傾く社会科にとって生徒参加型授業の実践は極めてハードルが高いように思える。しかしそれでも幾つかの工夫は考えられよう。
授業の最後でアンケートをとり、アンケートの結果を受けて次回の授業展開に活かしていくという方法は授業のどの分野であってもかなり有効である。この手法で「自衛隊は必要か、否か」といった議論の分かれやすいテーマのアンケートをとって次回にその結果を発表し、面白い意見をピックアップしてそれへの賛否を問うようなアンケートを再びとり、次回の授業へとつなげていくという試みを一ヶ月ほど続けたことがある。
「紙上討論」と題してこのやり取りをしばらく続けてみたが、様々な意見が活発に飛び交って面白かった。
※ただし、この手の授業準備は膨大な時間と労力が必要とされる。授業前日はほぼ毎回、徹夜同然とな
るのは覚悟しなければならない。
こちらがいくら発問しても率先して手を挙げて応えてくれるような積極性があまり見られなかった学校、クラスの場合は特に、アンケート形式をとると意欲的に意見交換が行える。
こうした授業展開が可能となれば、アンケートで問うたテーマに関して400字程度の論述問題を出すことも可能となり、定期考査自体、生徒参加型の色彩を帯びてこよう。さらには自己表現の訓練にもつながる点でアンケートや論述問題は生徒の授業参加度を高める、極めて有効な手立てとなると考える。
※不登校だった生徒が多い場合にもアンケート形式は有効であった。文化祭の出し物やクラス役員を決
める際にも、まず、無記名のアンケート形式で希望を書かせておくとその後の話し合いがスムーズに
行えるかもしれない。
もう一つの工夫としては理科の手法を参考にして社会科の授業でも実験や調査、観察を導入することが考えられる。これも個人的な工夫になるが、過去二十年近くにわたって現代社会や倫理では心理学における錯視の実験や性格検査、リラクゼーションとしての呼吸法の実践などを通じて理科的な手法と内容を繰り返し授業に取り入れてきた。社会科の授業で理科的な授業をするアングルの斬新さに生徒は素直に驚き、喜んでくれた記憶がある。
最大の工夫はもちろん討議形式であろう。匿名の「紙上討論」でも効果はそれなりに大きいが、やはり顔の見える意見交換の場は必要である。
討論を授業で成立させるために重要な観点とは…まず、以下の参考動画を視聴して欲しい。
・バカになるな!論破のテクニックで騙されてはいけない!【宇野常寛】
たかまつななチャンネル 2022.10.10 22:50
討論中心の授業とする場合、ディベートのような論争の勝ち負けにこだわる「ひろゆき」流あるいは「橋本」流の論破ゲームに陥らないような配慮が肝要となってくる。宇野氏の指摘する「スネ夫症候群」に要注意。
基本的には討論の過程で多様な意見の創出をまずは目指すべきだろう。そして大勢の意見を聞くことを通じて多様な価値観がこの世に存在することの社会的意義を確認していく・・・それこそが一人でも多くの生徒を巻き込む、討論を用いた授業の最重要目標とされるべきだろう。
意見の多様性を熱望する討論の場のあり方の中にこそ、ラディカルに「問いそのものを問い返す」可能性や問題解決に向けたオルタナティブで建設的な意見の創出に向かう可能性が胚胎するに違いない。従って教師は討論において決して議論を一つの結論に導いていくような誘導や断言をしてはなるまい。
一つ一つの異なる意見が持つ様々な意味、意義を注意深く見出し、生徒達にもしっかりと気付かせていく事に教師は最大限の労力と工夫を払っていきたい。
もちろん、議論の方向性が一定せずにあてどなく彷徨ってしまっては論点がぼやけてしまうので、ある程度構造化されたアンケートや発問計画を事前に用意してから討論に望むべきなのは当然の事である。
手前ミソになるが、カッパがオススメしている動画をピックアップして視聴させてみよう。5~15分間の視聴時間の動画がほとんどなので、利用価値は高い。
その後にどんな発問をするのかも生徒達の動きに大きな影響を与える。
単純な知識を問う質問ではなく、常識を揺さぶるような、意表を突いた深い問いかけが出来ればきっと議論は盛り上がり、深まるはず。
例:「千と千尋の神隠し」に関して
Q.なぜ「お湯屋」ではなく、「お油屋」なのだろう?
Q.ゼニーバが住む場所はなぜ寂しくてジメジメした「沼の底」という陰気な場所
なのだろう?
Q.なぜ「ゼニーバ」(→「銭婆」)という卑し気な名前がついているのだろう?
特にエモーショナルな反応が予想される動画の視聴後には生徒達の思いを自由に吐露させる自由記述を含んだアンケート形式のプリント提出が生徒達の多様な意見を引き出す上でもかなり効果的。
つまりアンケート形式と討論形式とのハイブリッド型授業こそが生徒たちの自己表現欲求を満たし、多様な意見の表明を重視する授業での理想的展開だと考える。
※逆に重要単語のみを教師が解説しながら穴埋めするプリントの形式は出来るだけ少なく。そもそも教
師からの一方的な教え過ぎによって序盤から特定の結論に誘導してしまうような展開、あるいは過剰
な情報量によって生徒達の関心や思考が混乱したり麻痺してしまうような展開だけは避けたい。
議論を活発にしていくためには授業の導入部で強烈に生徒達の心をワシヅカミしてしまうような訴求力のある動画を視聴させることで生徒の思考意欲、表現意欲を最大限、刺激していく工夫をしたい。
とりあえず様々な手段を講じて生徒達の自己表現欲求を僅かでも満たしていく努力こそが、インプットばかりで一方通行になりがちな授業に風穴をあけていくことにもつながるはず。生徒の感性や感情をしっかりと刺激する教材を用いて生徒の興味関心を最大限に引き出し、生徒自らが言葉を紡ぎ出したくなる…そんな機会をできるだけ多く作り出すことがこれからの社会科授業では最も大切な目標となると考える。その流れの中でこそ、生徒はおのずから社会科における重要語句の本当の重要さに気付いていくのではないのか。
物事に面白さ、驚き、怒り、悲しみを感じた時こそ、人は物事の仕組み、メカニズムを知りたくなるものである。この順序を逆にしてしまっては折角の素材の面白さが台無し。それはちょうど手品の種明かしをしてから手品を見せるようなものである。つまり授業の冒頭から重要語句の解説と暗記のための反復学習を強いる展開に生徒達がトキメキを覚えることは決して無いと考える。
こうした観点から授業に取り組んで行くには当然、他の教師や教科書に縛られ過ぎない独自の内容と展開の工夫が求められる。特に繰り返しの宣伝になるが、カッパが紹介しているyoutube動画を有効に使うと討論のたたき台にピッタリ。
他にも教科書的な内容ばかりになりがちな日本史では「地名・人名の由来」や「和食の特徴」、「お祭りの由来と意味」、「西欧と日本との美意識の違い」など、文化史的な側面から切り込んでいく工夫も行ってきた。文化史は他教科の内容とかなり交わるため、生徒たちの興味、関心をある程度は高めることにつながったようだ。
また定時制にいた時には生徒の多くが不登校や貧困問題などに直面していたので政治経済や現代社会、倫理では授業の多くを貧困問題や就職問題、結婚や介護、欧米との比較を軸とした学校教育問題、ウツ対策のカウンセリング理論の紹介などにも時間を費やしてきた。
さらにアニメ「千と千尋の神隠し」のもつメッセージ性について1か月以上をつぎ込み、いろいろな角度から検討を加えたことが幾度かある。必ずしも生徒からの反応は良かったわけではなかったが、教科書一辺倒の授業よりはマシな反応が得られたと思う。
いずれにせよ教科書にはない教師独自のネタやユニークな授業構成を数多く持つことが、生徒の関心と意欲を継続的に高め、授業への自発的参加を活発にする大きなポイントとなる。ただでさえ勉強嫌いの生徒は多い。普段、見ることすら嫌な教科書をただ順番通りに工夫もなく教えて暗記を強いるような授業ではいつまで経っても生徒は「冷淡な傍観者」にとどまるだろう。
特に学習意欲の低い生徒が多い教育困難校にあっては通常の講義形式の授業が成り立つはずはない。これまでドンヨリとして重苦しかった授業を一新し、少しでも生徒たちの目の輝きを取り戻す上での思い切った工夫、チャレンジがこれらの教科では絶対的に欠かせないのである。
教師達が教科書から離れて独自のネタで悪戦苦闘しながら真剣勝負している姿を生徒達に見せる事が出来ればいつしかそれだけでも教師を見る生徒達の眼差しは変わってくるはず。最初から芸術的な仕上がりを見せる必要は無いし、それはどだい無理である。完成度を高めるためには手痛い失敗も避けては通れない。
一つのネタを完成させるために何年もの月日を要するのは当たり前のことである。たとえ授業が無惨な「脱線転覆」に終わろうとも、教師のチャレンジする心意気に生徒達はいつの日にかプラスの反応をしてくれるようになる。
「ウケ狙い」との周囲からのからかいに耳を貸す必要は無い。大切なのはあきらめずにチャレンジし続ける姿を率先垂範、生徒に示し続けること。続けていればいつかブレイクスルーできる瞬間が来ると少なくとも私は確信してきた。
独自の工夫を凝らした授業を成立させるための準備に費やす時間と労力はもちろん膨大なものになる。しかし理科、社会科、芸術科は生徒の興味関心に応えてくれる可能性のある数少ない教科として、多くの生徒達が実は密かに期待を寄せている教科でもあると感じてきた。
学校生活の最後ともなりかねない完成教育の段階で彼らの秘めてきた期待をあっさりと裏切ることは絶対に許されないだろう。とすれば授業準備は何にもまして優先されるべき、教師の本務となる。
特に理科、社会科の教師は授業準備を優先すべく、部活動への取り組みはほどほどにしておくべきだろう。海外の学校を見てみよう。実際、分掌の仕事、クラス経営は授業準備の次に来る副次的な任務に過ぎない。欧米で最も強く問われる教師の力量は圧倒的に授業力であることを忘れてはならない。
とりわけ理科、社会科教員の責任は、画一的で管理主義に走る日本の高校教育のお寒い現状を踏まえたとき、突出して重大なのだと考えている。ぜひその誇りと責任を持ってユニークな授業を通じて生徒の目の輝きを取り戻し、その輝きを我々教員が見失わないためにも日々、終わりなき授業準備に邁進してくれることを後に続く若き教師たちに願ってやまない。
参考記事
○東大より攻めてる?「上智大の日本史」問題の凄さ 「現代的な視点」から歴史を見る良
問だ 東洋経済オンライン 相澤 理 の意見 2024.3.11
現在の出来事と類似する過去の出来事とを関連させて説明するのは日本史や政治経済の授業の話の枕として多くの教師が以前から試みてきたことであり、それ自体は決して驚くほどのことではあるまい。大学入試問題にそのパターンが利用されるのは教師からすればむしろ当然の事だとすら思う。そうした点では正直に言って上智大の問題がとりわけ「攻めている」とか「凄い」との印象を私はまったく感じない。
ただしこうした問題が今後、他大学でも多くなっていくとすれば、それは高校の授業の実際と入試問題との親和性が高まる点で高校教師としてはおおいに歓迎すべきことだろう。
〇オワコン化した従来教育、捨てられる教師の末路 平成の価値観が通用しない
Z世代が親になる頃に危機
東洋経済オンライン 石川 一郎 によるストーリー 2024.1.10