㉚「教師のバトン」の皮肉

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

「教師のバトン」ってどんなバトン? 

 かつて文科省が上から目線で使った「教師のバトン」というフレーズは教師の皆様方にどのように響いたのだろう。カッパはむしろ全国の教育現場に絶望的な思いを一層募らせただけだと感じている。多くの教師が激しい憤りを持って受け止めたに違いないとさえ思っている。

 「教師のバトン」という本質的に重い言葉は、悲惨な学校現場の泥水を一切浴びたことのないただの第三者、高学歴エリート役人達が脇からしゃしゃり出てきて云々するものであってはなるまい。当たり前過ぎることだが話の本筋としては学校という現場において日々行われている魅力的な教育活動を通じて当事者である教師自らが次世代の生徒達にバトンを渡していくはずのものである。とりわけ学校の教師が日常的に面白くて有益な授業をすることこそが生徒達に教職への憧れを募らせるのであり、そのことこそがバトンを次世代に渡していく行為そのものだと思うが、いかがだろう。

 

 そうであるにもかかわらず、目標申告シート(自己評価シートetc)の記入、学習指導計画の作成、朝令暮改を繰り返す大学入試改革へのネコの目対応、学習指導要領の改訂、進学用調査書や指導要録の改訂、果ては混乱ばかり招いた不備だらけの校務IT化、意味不明な校内研修のつるべ打ち・・・息つく暇も無く矢継ぎ早に文科省や県教委から下々へ、あたかも罰ゲームのように押し寄せてくる仕事の山、山・・・ 

 その多くは教育行政を熱心に「やってます」感を演出すべく仕組まれた、いざというときのためのアリバイ作りに過ぎないような、絶望的なまでに不毛感漂う雑務の塊。そして過熱する一方の部活動と噴出する学校や教師への批判、モンペアへの対応・・・これらに忙殺される余り、肝心の生き生きとした授業実践に手が回らなくなるどころかついには本務であるはずの授業までもが教師及び生徒達にとっても耐えがたい苦痛になってきている・・・

 日本の学校教育が直面している本当の危機はそこにあるはずであった。

 

 そうした学校の惨状に一切目をくれず、「定額働かせ放題」とか「やりがい搾取」という罵声が激しく飛び交い始めた学校に対して、現場で悪戦苦闘する教師の立場からすればどう見ても皮肉としか受け取りようのない「教師のバトン」という、美しすぎるほどセンチメンタルな表現を文科省の官僚は用いてしまった・・・

 この人たちの究極的とも言って良いほどの現場に対する理解の無さ、鈍感さがSNS上での大炎上を招いた主な原因であったはずである。当然の帰結として現在、全国的に教師のなり手が不足してしまい、いよいよ学校教育の危機が深まってきている。

 

 そんなことにすら今の今まで気付くことのできない、学校現場に恐ろしく無知な官僚や政治家が厚かましくも学校教育行政を動かしているのだから、学校現場が萎える一方となるのも致し方あるまい・・・などと思わず毒づいてしまうほどに学校現場のお上に対する積年の恨みが溜まりに溜まっているのが現在の学校教師達の実情ではないのか。

 

 もちろん文科省の官僚にも言い分はあるだろう。文科省に限らず、官僚の多くが安月給で過労死ラインを遙かに超える重労働を常時強いられているという。つまりお互いの職場がブラック化しているのだから、実はお互いに被害者でもあり、今こそ鬱憤をぶつけ合っている場合ではないのだ。官僚も教師も、同じ公務員として分断と対立を乗り越え、お互いに連携し、自分たちの労働環境の劣悪さを世間にもっとアピールして労働環境改善に持ち込んでいくのが事の本筋であろう。

※参考記事

なぜ若い教師の代わりを私たちが…割を食う「氷河期世代の40代教師」の嘆き【学校現場の働き方改

   革の実情】 THE GOLD ONLINE によるストーリー 2024.7.9

   割を食っているのは40代だけではあるまい。大胆な負担の軽減と公平な職務の分担が実現出来ていない責任を教育委員会や管理職が一切負わないままで済んでしまうような人事考課システムこそ、大きな問題なのではあるまいか。思い切った職務の削減と公平な校内人事を上手にできない管理職の存在こそが学校のチームワークを崩壊させる側面を決して過小評価してはなるまい。

   当然、文科省の当てにならない調査結果も決して鵜呑みにしてはなるまい。「働き方改革」の推進が管理職のお手柄となるような、「見せかけ」の定時退勤が横行している学校現場の実態は文科省の調査結果にはまったく反映されていない。信頼に足るデータを持たないままブルシットジョブをひたすら垂れ流してくる教育行政のあり方を根本から変えていかない限り、教員不足は加速するだけであろう。

教師の過酷残業と消える ”当たり前” テレ朝news によるストーリー 2024.3.28

 日本の教師不足の現状は私からすれば予想以上に軽度と言えるだろう。個人的には日本の学校教育が

   直面している絶望的な現状においてすら、まだ教師を志望する若者が今それなりに存在していること

   自体、実に不思議なことだと感じているのだ。

      内田氏が指摘しているように「半世紀遅れの教育現場」がほとんど改善されることなく、「もはや

   学校教育は崩壊している」と捉えるべき現状があるのに一体なぜ、一部の若者は「沈む船」に乗り込

   もうとするのか…どうして日本では少なからずの若者が敢えて教師を志望しているのか、その動機と

   原因が何としても気にかかってしかたない。つまり若者たちは「教育」というバラ色の幻想に目をく

   らまされ、大学の古臭い観念にとりつかれたままの教師たちによっていまだに洗脳されているのでは

   あるまいか。

      仮に私が大学の教職課程を教える立場ならば、現状では学生に教職を積極的には勧めないだろう。

   むしろ学校現場で教師が直面する数々の問題点を講義の中で赤裸々に取り上げていき、決して教職に

   関してはバラ色の未来を語るまい。そしてそれでもなお問題点を克服する意欲、能力のある若者に限

   り、教職に就くことを渋々黙認する、という立場を選ぶだろう。

    つまり私が大いに懸念しているのは大学での教員養成の中身が日本の学校の悲惨な現状をきちんと

   捉えたものにはなっていない、という恐るべき可能性なのである。一部の大学では相変わらず大昔の

   「教師聖職者論」に依拠した、教職の無限の可能性…などといった古の幻想を学生たちに無責任にも

   ばらまき続けているのではあるまいか。その一方で学校の急速なブラック化による児童生徒及び教師

   の心身の不調や幸福度の低下問題をひどく矮小化してしまっているのではあるまいか。つまり今、教

   職を魅力あふれる聖職として大学が宣伝することは極めて罪深い、詐欺的所業ではないのか。

      若者をだまして先々精神疾患などに追い込むことは犯罪的行為に等しいと言っても過言ではない、

 と私は思うのだが、いかがだろう。

 「無理ゲー」の霞が関 退職官僚がつづった思いとは   毎日新聞 によるストーリー  2024.1.9

  諸悪の根源は政治家の見識の低さであり、そうした政治家を選び続ける選挙民の意識の低さである。

   そして選挙民の意識の低さを巧妙に醸成してきたのはもっぱら日本の因循姑息にまみれた学校教育で

 あろう。時間はかかるが、学校教育のあり方を根本から見直さないと日本の政治はいよいよ低次元の

 俗悪なポピュリズムに流されてしまうに違いない。

 ○日教組加入率2割切る=過去最低更新―文科省 時事通信 2024.3.1

 学校のブラック化を止められなかった原因の一つが教職員組合の衰退。組合はなぜ衰退したのか、組

 合のあり方を含めて問い直さなければなるまい。

 

 …と思いつつも、「どうせお上はきれい事を並べては自分たちの手柄稼ぎのためにこれからも次から次へと現場の仕事を増やすつもりであろう。これまで通りに学校で生じた問題の責任も教師の資質の問題としてひたすら下々へ押しつけるだけであるに違いない」などとついつい愚痴ばかり並べてしまう。 

 この官僚達に対する根深い不信感とひがみ根性はもちろん健康的でも建設的でもない。それにわざわざお上から言われるまでもなく「教師のバトン」自体はしっかりと次世代へつないでいかなければならぬ教師自身の大切な使命であることに誰だって異論は無い。

 バトンをつないでいくためにはまずもって教師のゆとりを回復することが最優先されるべきであるのは現状からして当然である。そのための制度的見直しは大いに必要だ。しかし制度面の見直しに関しては現場の教師が出来ることは極めて限られている。せいぜいSNS上で学校の実情を訴えるべく、「先生、死ぬかも」といった苦痛に満ちたうめき声を上げるくらいしか出来ることはないのである。ただし折角勇気を絞り出して教師が「死ぬかも」とまでつぶやいたにも関わらず、文科省は一切聞く耳を持たないまま、例の「教師のバトン」の炎上騒ぎを引き起こしているのだから教師側としてはもう、どうしても憤懣やる方ないのだ。