⑳10年前のOECD調査
※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。
世界経済フォーラムが発表する国際経済競争力調査でも2001年から2006年までフィンランドは首位または二位の座を維持していた。厳しい自然と少ない人口を考慮すればたしかにフィンランドの健闘ぶりには目を見張るものがある。一方、日本の学校事情は先進国としてはお寒いばかりであった。1970年代半ば以降、日本政府は残念ながら国家予算の伸び率に比例するようには教育費を伸ばしてこなかった。その結果、国家予算やGDPを基準に見た教育費は先進国中最低の部類に属している。2014年の対GDP費ではOECD34か国中24位。しかも国家財政中に占める教育予算の割合は31か国中30位。学校教育費に占める公的負担の比率も28か国中26位である。
つまり教育における私費負担の割合が非常に高い。しかも学校教育費には個人的な通信教材費や塾代、家庭教師代、予備校代は含まれていない。日本の場合、こうした学校教育費以外の教育費の支出が異常に高いと言われている。
総じて日本は国や自治体が教育予算を大胆なまでにケチっており、家計に大きく依存した教育が行われているといえる。この結果、日本では家庭の経済力の格差がそのまま学歴、学校歴格差につながりやすい社会となっているともいえよう。日本が格差社会であるといわれて既に久しい。かつて「国家100年の大計」といわれ最重要視されてきた教育政策の現状が今、いかにお寒いものとなっているか、私たちはきっちりと確認すべきだろう。
一学級あたりの児童生徒数は2013年、小学校で27.9人(OECDの平均値は21.2人)、中学校で32.7人(同23.3人)であり、日本より悪条件なのはOECD加盟国では韓国だけという有様である。教員一人当たりの児童生徒数もまったく同じ傾向がみられ、韓国とともに日本ではOECDの中で最も劣悪な環境のもとに初等・中等教育が行われていることになる。
世界では少人数のクラス、小規模の学校ほど教育効果が高いというのはもはや常識となっており、WHO(世界保健機関)も生徒総数100人を上回らない学校規模を勧告している。
確かに日本はかつて国民の同質性が高く、集団主義が広く社会全体に行きわたっていたため、クラスや学校規模が大きくとも児童生徒は極めて学力が高く、規律正しいといわれてきた。
しかし地域社会の崩壊(隣近所の助け合い減少)、家庭教育力の低下(核家族化、共働き…)、格差の拡大、個人主義の蔓延と外国人の増加(=同質性の低下)などが進んできた現在、かつてのような高い教育の効率性が維持できるとは思えない。
本来、10年以上前に騒がれたPISAの順位の低下が示していたのは日本社会のこうした激変とそれに対応できなくなった日本の学校教育の残念なまでに遅れた姿であったはずである。
※実はカッパは個人的に日本の学校教育が北欧のそれとある意味では百年余り、遅れてしまっていると
感じている。これは決して大げさな表現ではない。
実際、100年以上昔の日本には大正「新教育運動」が教育界の最先端の潮流としてあった。その動
きの中では…チャイムをなくす、学習集団は固定化せず、時間割もフレクシブル、一斉講義形式を辞
め体験学習を重視する…といった斬新な取り組みが既に一部で試験的に行われていた。そこでは児童
生徒への内発的動機付けが試みられ、子供たちの自主性が今以上に重んじられていた。
この100年近くの間、日本は学校教育に対して一体何をしてきたのか…厳しく問われなければなる
まい。
ところが今の日本は1000兆円を超える国家全体の負債を教育予算や福祉予算を削ることで賄おうとしている。現在、日本の各地で小中学校だけでなく、高校もまたすさまじい統廃合の危機にさらされていることを皆さんは知っているだろうか。
日本では世界の趨勢である小規模の学校が望ましいとする流れに完全に逆行する動きが今、加速しているのである。急速に進んだ小中学校の統廃合によって170億円の「効率化」が進められたと財務省はむしろ学校の統廃合を手放しで絶賛している。しかしその陰で自宅から遠く不便な大規模校に通学することを余儀なくされた児童生徒が大勢いることを忘れてはならないのである。
学校基本調査をもとに学校数の変化を表示してみる。
|
平成20年 |
平成29年 |
増減 |
小学校 |
22476 |
20095 |
―2381 |
中学校 |
10915 |
10325 |
―590 |
高等学校 |
5242 |
4907 |
―335 |
少子化によっていずれは小規模学校や少人数学級の実現が苦も無く実現できるという楽観論も学校の統廃合の強行によって完全に消え去った。ただでさえ教育予算をケチってきた日本がさらに教育予算をケチり、正教諭の数を急速に減らして非正規雇用の講師を急増させ、教育条件をいっそう悪化させている。公立小中学校の教員に占める講師の割合をみると1980年には全体の2.6%に過ぎなかった講師率が2007年には8.9%に達している。3倍に増えたわけである。不安定な雇用の下で低賃金、過重労働を強いることのできる講師を増やすことは教師全体の労働環境を悪化させることでもある。
2013年、OECDは34の国、地域の中学校に当たる学校の教員に勤務実態調査を行っている。その結果は日本の学校教育が衝撃的に劣化している深刻な状況をあからさまに示した。まず日本の教員の仕事時間は週に約54時間でOECD平均の約38時間を大幅に上回った。
部活動や事務活動などに費やされる時間が飛びぬけて多いからである。週当たりの部活動に費やされる時間はOECD平均が2.1時間に対して日本は7.7時間、事務作業はOECD平均が2.9時間なのに対して日本は5.5時間。
ところが肝心の授業に費やす時間はOECD平均が19.3時間に対して日本は17.7時間でやや平均を下回っている。
また校外で行われる研修への日本の参加率は極めて低く、参加しない理由の8割が仕事のスケジュールを理由にしている。多忙感で教師として必要とされる知識や技能の習得がおろそかになっているという事態は日本の場合、致命的な結果を招くはずである。
日本はかつての師範学校による専門的な教師養成教育が戦時中の全体主義的教育を支えてしまったとの反省からか、専門的な教師養成教育自体を否定的にとらえられる傾向を戦後強めてしまい、師範学校が廃止されるとともに教員免許は極めて容易に取得できる(この事態は教員免許の「開放性」と呼ばれるが、その実態は教員免許が専門的な教育を受けずとも取得できる安易な資格に堕してしまったことを意味するに過ぎない)ようになってしまった。
したがって教員になりたての若者は学校教育が一体どんなものなのかをほとんど学習せずに現場で教えることになる。当然、教員になってからの研修で教師としての知識・技量不足を補っていかなければならないはず。実際、かつて日本の教師の自発的な研修は極めて盛んで、参加率も高かったはずである。
ところが現在、その肝心の研修が不足してきているということは日本の教師が多忙の中でどんどん劣化してきていることを意味する。教師の不祥事が相次いで報道される背景にこうした事態が急速に進行していたのである。
当然のことながら日本の教師の自己評価は世界の中でダントツに低い。「学級内の秩序を乱す行動を抑えられるか」という質問に対し、日本はおおむね「できている」と答えたのが52.7%でOECDの平均87.0%を大幅に下回る。「生徒に勉強ができる、と自信が持たせられる」に対し、おおむね「できている」と答えたのが日本はわずか17.6%、OECDの平均は85.8%。「勉強にあまり関心を示さない生徒に動機づけできている」に対し、おおむね「できている」は日本が21.9%でOECDの平均よりもやはり50%あまり低い。
かつて日本の教室は世界のどこよりも秩序が保たれていると絶賛されてきた。しかしそれは遠い昔のことになりつつある。特に教師にとって最も大切なはずの授業に対する自信の欠如は、授業や学級経営といった本務をないがしろにしてはびこる部活指導や事務仕事に大きな原因が求められる。研修不足の教師は自信を欠いたまま保護者からのクレーム対応にも追われる。教師の間にうつが蔓延するのも当然である。
2002年、精神疾患で休職した公立小中学校の教師は2700人近くだったが2009年には瞬く間に倍増しており、現在は年間5000人前後で高止まりしている。その数は当然、部活指導に追われる中学校が一番多い。
2013年のOECD調査で「もう一度仕事を選べるとしたら教員になりたい」と回答した日本の教師の割合は下から二番目という実に痛ましい状況も、日本の教師が直面しているこれらの問題点を知れば十分納得できる結果なのである。
自信に欠けたまま学校教育への理解も進まず、技能を向上させるチャンスを奪われ、ひたすら雑務に追われる日々。若い教師はただ自分の所属する学校現場しか知らず、酷い視野狭窄に陥っている。海外まで視野を広げれば日本の学校の異常さや自分の多忙さの背景を知ることができるのに、そうした自己研修の機会も奪われている。
若者が理想に燃えて保守的なベテラン教師を批判するという風景は完全に過去のものとなってしまった。今や若手はストレスをためこんだまま、眼前の職務を果たすことで一杯になっている。現状を批判し、変えようとする意欲を持つ若手は極めて希少。むしろベテランよりも保守的であるのが今の若手教員の実態といえよう。これでは現場からの変革は絶望的である。
自殺する教員、精神を病んで休職に追い込まれる教員の数は2000年に入って急速に増えた。サービス残業を強いる部活動の盛んな中学校や高校の顧問は過労死の危機にさらされ、ストレスをため込んで暴発し、体罰事件などを引き起こしたり、離婚や過労死、家庭崩壊の危険にまでさらされている。そして批判の矛先は常に教師個人の資質に向けられている。ひたすら予算を減らし、教育現場を荒廃させて多忙に追い込んでいる張本人に責任を求める声は小さい。日本の学校はもはや世界でも最悪レベルのブラック企業に近づいているのである。
こうして日本では予算の後ろ盾もない中で多人数の学級という悪条件が放置されたまま、無謀にも「自ら学び、考える力」を養成するための手厚い教育が学校・教師に求められてきた。ごく一部の恵まれた家庭の子供たちは「お受験」を経て私学での充実した教育を受けられ、優良企業への就職まで可能となってくる反面、過半数の他の児童生徒は「安かろう 悪かろう」の公教育を受け続けることになる。
そして進路の結果がたとえ無残なものになったとしても、責任を負うのは生徒や家族であり、国ではないとするのがまさに「自己責任」の国、日本の学校事情なのだと思われる。
技術の高度化が進み、技術革新の担い手は一握りのエリートで十分な時代となってきており、企業の多くが正社員を大幅に減らして使い勝手のよい安価な非正規採用でコスト削減と人手不足の解消を図っている。多数の国民が今後、十分な教育を受けられずに学力を低下させたとしても、国家としては一定数のエリート層が健在ならばさほどの国家的損失は生じないと高をくくっているのだろうか。
もしもそうだとしたら…諸君の将来も、この国の将来も相当危ういだろう。
確かに日本の自殺者数は統計上(警察と厚生労働省がそれぞれ統計を出している)はかつての年間3万人台からここ数年で2万人台にまで減少してきている。これは景気回復に伴い、特に中高年の自殺者数が減少してきたからである。
しかし実は15~24歳の若者の自殺者数はこの間も増え続け、ついに世界一位になっていることはあまり知られていない。今や日本の若者の死因の一位は自殺なのである。若者の自殺は将来を悲観してのものが多いと考えられる。
つまり若者にとって今の日本は「出口無き絶望社会」となっているようである。若者に将来への夢や希望を持たすことに失敗した社会になっている日本という国と、若者を相手とする日本の学校の疲弊ぶりとはまったく無関係とは言えまい。
もういい加減なんとかしないといけないのである。
ではどうしたらよいのか?日本の若者の危機を救う手立てはあるのか?他の国を参考にして考えてみよう。ここ数年、国連が3月に世界幸福度ランキングを発表している。2017年3月20日に発表された最新のランキングトップ10を見てみよう。1位ノルウェー、2位デンマーク、3位アイスランド、4位スイス、5位フィンランド、6位オランダ、7位カナダ、8位ニュージーランド、9位オーストラリア、10位スウェーデンの順である。北欧を中心に白人系の常連国が並んでいる。日本はというと51位。やはり教育と福祉が充実している国々が上位にきている。日本が目指すべき方向は教育・福祉の充実であることは明白である。
しかしどうみてもこの目標達成には時間がかかる。今、現在を苦しむ日本の若者を救出するには別の観点も必要である。教育と福祉の充実は中長期的目標として取り組むにしても、短期的目標は別途に掲げておく必要があるだろう。そもそも国連の幸福度調査の観点は一人当たりのGDP、社会的支援、健康な平均寿命、人生の選択をする自由、性の平等性、社会の腐敗度などであり、どうみても先進国に有利な観点に偏っている。私たちは別の観点から幸福を捉えなおす必要もあるのだ。
先進国からは貧しくて自由度も低く、客観的には幸福に見えなくとも、主観的に国民が幸福感を強く感じている国々がある。フィジーやコロンビアである。幸福はやはり主観的な要素が大きい。どんなに豊かで健康であっても本人が幸福を感じられていないならば意味がない。そこで最後にフィジーの人々の幸福感を支えている考え方を紹介しよう。
フィジーは330ほどの島々からなる南洋の楽園。四国ほどの総面積に85万人が住む。平均寿命は世界119位、一人当たりのGDPは102位、民主主義指数は119位、報道の自由度は107位となっており、先進国の価値観からすれば幸福度は中の下。しかしフィジーの人々の満足度、幸福感はダントツの世界1位。物質的には恵まれなくともハッピーになれる秘訣はフィジーの人々の独特の価値観に潜んでいる。絶望的な日本の若者でもフィジーの価値観の中になら光を見いだせるかもしれない。
フィジーの人々の独特の価値観はまず物事を共有し、シェアする精神が豊かである点。彼らには私有の概念が極めて薄く、お金も土地も家族までも共有する。豊かな人が困っている人に金品を贈るのは常識である。また過去を振り返らず、未来を案じない。くよくよしないのだ。そのかわり今、この瞬間への注力度が極めて高い。
悪く言えば刹那的、享楽的。必然的に貯金はしないし、肥満も気にしない。細かいことは気にせず、実におおざっぱ。レストランや役場でも間違いだらけ。仕事はスローで効率は悪いがその分ストレスフリー。しかし人間関係をつくるスピードは光速で、瞬く間に友人となれるフレンドリーな国民性…
日本人の生真面目さ、律義さが悪いのではない。ただ少しだけ肩の力を抜いてみるべきなのかもしれない。般若心経が説くように物事は容易には変わらなくとも、それを受け止める私たちの主観が変わることで案外、楽になれるのかもしれない。
まずは自分の心を少しだけでもリラックスさせることから始めよう。
以上はカッパが10年ほど前に作成した授業プリントの一部。
この時からも既に10年経った…一体、日本は自分たちの学校教育に何をしてしまっていたのだろう。どんなことをやらかしてしまったのだろう。
参考動画
◎先生がいなくなる 日テレNEWS NNN 2024.10.30 5:35
授業で視聴させるなら、時間的に見てもこの動画が一番だと思う。10年以上前のOECDの調査から何一つ、改善されてこなかった学校現場の実情。「働き方改革」の掛け声だけが虚しく響く教員の世界で、今、学校教育は着実に崩壊してきている。文科省を含めて政府はそのことのリアルな認識を完全に欠いており、ただひたすら教員の仕事を増やし続けている。
生徒たちにはなぜこのような事が続いてしまっているのか、その原因と対策について考えさせたい。
参考記事
〇「教師を殺す気か」現役教員が語る"沈みゆく教育現場"、給特法改正は「評価でき
ない」 弁護士ドットコムニュース 2025.6.12
西村氏が指摘するように給特法改正は学校のブラック化とブラックボックス化の歯止めにはつながらないだろう。学校行事の削減や校務のDX化が一気に進み、高校も含む部活動の地域移行が完全実施されない限り、教員の負担軽減は実現できない。確かに教員の給与引き上げも必要だが、他の公務員とのバランスを考えれば引き上げには限度がある。何より重要なのは教員の負担軽減および教育行政、とりわけ教員人事の透明化、民主主義化なのだ。
文科省、教育委員会、管理職が教員の仕事をひたすら増やし続けてきた過去への痛切な反省が行われない限り、西村氏の予想は的中するに違いない。また教師の職務を徹底的に授業中心としていくには大学での教員養成教育の見直しも不可欠である。無謀な「全人教育」を目標として教師の職務を無限定に膨張させてきた過去をしっかりと反省し、教師の職務を授業中心に限定していく作業が今、痛切に求められている。
〇業務減で長時間労働改善を 教員不足解消へ大学教授ら訴え 共同通信 2025.1.8
妹尾氏だけでなく内田良氏、現役高校教師の西村氏らが再三にわたり、業務削減を訴えてきたにもかかわらず、文科省やマスコミの反応は相変わらず冷淡なまま。一体、いつになったら現場の悲鳴は教育行政側に届くのだろう。中学校での部活動の地域移行が多少、進展したとしても、その波はほとんど高校にまで及んでいない。小学校もまたほとんど業務量の削減は進められていない。
給与を多少、引き上げたところで業務量が減らなければ教師たちは心身を病むばかりになる。業務量を減らさないまま、上辺だけ残業時間を減らしたとしても「お持ち帰り残業」が増えるだけである。そのしわ寄せは、高齢者介護医療の負担増とともに次世代を担う若い世代に集中するだろう。
こうして政府が何事も先送りしてゴマカシながらズルズルと日々を無駄にしている間に、日本は大地震、大噴火に襲われる日がきっと来てしまうのだろう。
◎今こそ金八先生が必要?部活は教師が指導すべき?大空幸星氏「授業外での教師と
の人間関係に救われてた子供はいる」
ABEMA TIMES (Microsoft) 2024.12.28
部活動を巡る老害発言の典型、まさに昭和の「ふてほど」発言がどんなものなのかを分かりやすく確認できる点できわめて役立つ記事。授業での利用価値は高い。武内彰氏は「部活は全人教育に必要」としているが、この「全人教育」の発想こそが学校のブラック化を招いた最悪の張本人である。そもそもただの教師に「全人教育」を担わせることの罪深さをまったく気付いていないらしいところに武内氏の老害としての痛々しさを感じてしまうのだ。
児童生徒にとって部活動の意義は極めて大きい。これはあらためて指摘されるまでもなく、分かり切ったことだ。スポーツ、音楽、美術、演劇、書道などが児童生徒たちにとってまったく無意味だ、と否定する人はまずいない。しかしそれをほぼ全面的に学校教師が担おうとする事は完全に時代錯誤。それが可能と思うことほど傲岸不遜なことはあるまい。再三、繰り返してきたが、教師はスーパーマンではないのだ。
私は体育や芸術科の教師でもないのに、剣道(3回)、バスケットボール(2回)、ハンドボール(1回))、ソフトテニス(1回)、ソフトボール(4回)、軽音楽(1回)などの顧問を任されてきた。太字の部活はメインの顧問を任されたことのある部活である。もちろんサブの顧問ではあっても大会や練習試合の引率は引き受けてきた。なお肩書だけの顧問としては書道部や美術部などもやってきた。同時に二つの部活を任された時さえある。一体、どこの誰がそれらすべてを児童生徒や保護者に満足のいくレベルでこなせる力をもっているのだろうか。
このような酷い校内人事が横行している現状があることを教師生活の長い武内氏が知らないはずはないだろう。にもかかわらず、学校の部活動には教育的意義があるのだから存続させるべきだというのは、「自分は頑張ってきた、だからお前たちも頑張るべきだ」という老害教師による、あまりにも痛すぎる自慢話、すなわち若い教師たちへのマウンティングに過ぎまい。しかも、おそらく彼が部活動を頑張ってこられたのはもっぱらバトミントン部ばかりの顧問生活という幸運に恵まれた事に加えて、察するに、夫および父親の長期の不在に人知れず(?)耐えてきた家族の大きな犠牲があったからこそ…なのではあるまいか。
大空幸星氏の「授業外での教師との人間関係に救われてた子供はいる」との指摘も耳にタコができるほど聞き飽きたセリフ。当たり前すぎて「だから何?」と言い返したくなる。この発言の最大の問題点は「授業外」での役割を重視するあまり、授業自体を軽視しかねない点であろう。もちろん大空氏は決して「授業を軽視しろ」などとは言っていないのだが、日本の教師の多くが部活動や様々な校務によって不本意ながら結果的には授業を軽視してきた(「10年前のOECDによる調査」参照)これまでの経過がある。
生成AIの活用など、日々刻々、教える内容と技術のアップデートが絶え間なく必要とされてくるこれからの教師たちにとって、授業準備時間の確保は教職に留まろうとする限り、深刻な死活問題となってくるはずである。自身の授業のレベルの低さを部活動の熱心さで補う、などということが決して許される時代ではないことに多くの教師たちは気付き始めている。
極論すれば、既に教師たちには部活動などに割く時間がほとんど残されていないと考えるべきなのだ。そんな中で、転職してまで部活動に拘るのか、それとも学校に踏みとどまって授業を磨いていくのか、の二者択一を実情として今の教師たちは迫られている…そしてこの問題は非常に切迫してきており、教師たちを心身ともに追い詰めている…だからこその教師たちの休職者、中途退職者の増加であり、若者の教職離れなのではあるまいか。
そうした、教師たちの切羽詰まった状況にあって、大空氏のような、どっちつかずの曖昧で、あまりにも無難、表面的過ぎる国会答弁そのものの発言を敢えて記事にして紹介する、さらには「今こそ金八先生が必要?」などと一応疑問符は付いているものの、教師たちをひたすら不快にさせる煽り方をしてくるマスコミの鈍感さも、もはや我慢の限界を超えて噴飯物。やはり教師を愚弄しているとしか捉えようがあるまい。この記事、まさに報道する者としての責任感や誠実さをそっくり失っており、もはやどうにかしているマスゴミレベル…だと思うのだが、いかがだろう。
〇定数改善や授業こま数減を 長時間労働で日教組 共同通信 2024.12.11
日教組の影響力の低下がなぜ起きているのかをまざまざと見せつけられる記事であろう。教員の定数改善や授業のこま数の削減では長時間労働の改善に結びつくわけがあるまい。学校行事やクラブ活動の削減、学校カウンセラーの増員、事務仕事のDX化による負担軽減をまずは急ぐべきである。
教員定数の改善や授業コマ数減を先に進めてしまうと、給与引き上げ等の対応も加わることで教員の業務自体はかえって増やされる危険性まで出てきてしまう。英語や情報の授業などが追加され、小・中学校教師の負担はこれまで増える一方であった。わずかな定数改善やコマ数減ではたして教師の負担がどれほど軽減するだろうか、極めて疑問である。
授業負担の軽重は週当たりのコマ数だけでは判断できない。教師一人が担当する教科・科目数と単位数、及び担当学年数との兼ね合いがより重要なのだ。たとえ一週間の授業数が減ったとしても、担当する教科・科目数、学年数が多ければ負担はむしろ重くなる。ただし授業負担の軽減が教科数や科目数、あるいは担当学年数を減らすことで実現できる可能性があるとしても、その実現は現状ではかなり難しい。
組合として最初に強く要求すべきは学校行事の精選と簡素化、クラブ活動の廃止、学校カウンセラーの増員と各学校への常置化であると考えるがいかがか。
〇学校教員の給与増額、首相に提言 条件なしで、自民党特命委
共同通信 2024.12.10
政治家の多くがいかに学校の現状を把握していないか、この提言だけでも明らかである。教師の給与増額で教師のなり手が増えるという、恐ろしいほどの的外れな見通しを立てているようだが、勉強不足も甚だしい。教員採用試験の前倒しと同様、これでは教員不足の解消にはつながらない。また、たとえ教員定数を少しばかり増員したとしても、それだけでは効果が上がるとも思えない。
教員不足をもたらしているのは常人の能力をはるかに上回るレベルにまで達してしまった教師の過重負担であり、それに加担してきた教育行政への無責任さに対する猛烈な反発が学校現場に充満してきていることに求められる。たとえ熱心な教職志望の学生であったとしても、わずかな教育実習期間ですら体験する仕事の過酷さを感じて教職を諦めるケースが後を絶たないのだ。
問題なのは膨大な仕事の量だけではない。見過ごされがちな質の問題も極めて大きい。教職は言うまでも無く、人間相手の仕事である。質を落とすことは出来るだけ避けたいのが「サービス過剰」気味を良しとする「おもてなし」日本の精神的風土であり、教師もまた質の低下を恐れている。
しかし、不登校や引きこもり、イジメ、学習指導に進路指導、部活指導、保護者対応、学校行事、それらすべてに高度な専門性を求められても常人には無理。教師はスーパーマンではない。自分の能力を遥かに上回る質と量の仕事を抱えて心身共に疲弊し、病んでいく。質を落としたくない真面目な教師ほど真っ先に病んでいく憂鬱さが学校から無くならない限り、教職を目指す若者は減り続けるしかあるまい。そしてわずかばかり給与が上がり、教員定数が増やされても、この問題は一切、改善しないだろう。理由は簡単である。
心身の健康を害することと引き換えにわずかばかり増額した給与をもらいたいと一体、どこの誰が思うのであろうか。ブラックなままの学校現場に高潔な使命感だけで就職した若者が辿る人生は決してバラ色ではあるまい。真面目な若者ほどひどい目に遭うのが落ちである。もちろん、教員定数を増やそうとも、人気の無い高校が定員割れを毎年の恒例行事のように繰り返してしまうように、人気の低落した教職を希望する若者は減り続け、教員定数の増員は多くの場合、ただ単に教員の定員割れの規模を大きくするだけである。つまりこの提言では人手不足による学校ブラック化の進展を押しとどめることは一切できない。
教師にスーパーマンであることを期待するような日本の学校教育のあり方そのものを根本から変える必要があるのだ。端的に言えば学校でのすべての部活動を禁止し、社会教育機関や民間に完全移行させる。さらに学校行事の多くも大幅な削減を実行すべきである。事務仕事の合理化もより一層大胆に進めるべきだろう。
他方で増やすべきなのは教員定数ではなく、学校カウンセラーやケースワーカー、スクールロイヤーといった専門職の方である。給与や定数を含めた待遇改善はむしろそうした専門職を最優先すべきなのだ。教師の双肩に背負わされた重荷を分相応のレベルまで軽くする上で、教師以外の専門職が学校で果たす役割は極めて大きい。
自民党の特命委員会の顔ぶれをじっくりと見てみたいものである。
〇教職員84%「勤務開始前の日常的な業務がある」実態調査
リシード 2024.12.4
個人的には初任の時から早朝の出校は日常的なルーティーンと化していたので、特に意識せずに多くの日々は早朝出勤を続けて来た。最初の20年間では朝7時を超えると酷く道路が混雑する勤務校だったので、敢えて6時30分頃に自宅を出て7時頃に学校へ到着する日課を続けてきた。結果的には技能員の方よりも早く学校に来てしまい、校門がまだ閉まっていて私が校門や昇降口を開けることもままあった
学校にまだ誰もいない時間帯はもっぱら提出物の点検や授業の準備、教室の清掃などにあててきた。もちろん時折、朝補習や登校指導にも加わっていたが、普段から7時20分前には出勤していたので、特にそのために早起きすることはほとんど無かったと記憶している。ただし遠足や修学旅行、文化祭、部活動の大会、練習試合などでは普段よりもさらに早く自宅を出なければならないことがある。大会の会場校を任された時などは天候とグランドのぬかるみとが気になってしまい、朝6時には学校に来ていたこともあった。併せて10回、引率した修学旅行では三泊四日や二泊三日の行程で合計の睡眠時間が10時間を超えたことは一度も無かった。こうしたことはおそらく普通の企業ではほとんど考えられないような、極めて歪な勤務形態だろう。
しかも学校を出る時間は早くとも午後7時であった。勤務先によってはほぼ毎日、午後8時を過ぎないと帰宅できない時もザラにあった。午後5時以降の多くの時間はもっぱら部活指導にさかれていたが、進学補習、就職指導や提出物の点検、授業プリントの作成にもあてられていた。
早出の時間帯も残業の時間帯に含めれば一日平均の残業時間はだいたい4時間前後だったように記憶している。当初は週6日間勤務だったので一週間では平日(月~土)が合わせて20数時間の残業、それに日曜の部活指導などが加わる。日曜の場合、普段は4時間程度の出勤時間となるが、かなりの割合で練習試合や大会が入り、その時には一日勤務となってしまう。試合が遠くの学校や会場の場合、自宅を朝6時過ぎに出ることもあり、かつ帰宅時間が午後8時になることもあって、平日の勤務よりも祝祭日の方が「校務」に費やされる時間が多くなったりした。当然、試合の方が練習よりも疲労度が大きい(監督・コーチに加えて審判も任される)ので翌日の月曜日から体と頭が重く、週の始まりから気持ちがドンヨリとしていることは決して少なくなかった。
通常、一か月間の残業時間は合計で大体100時間以上はあったかと思う。これに加えて組合員だったので分会長や支部長になると動員がかかり、わずかな休日でも出かけざるを得ない事がある。さらに結婚後は家族サービスとして少なくとも月に一回程度、家族を連れて外出するのだから時間的な余裕などどこにも見いだせずにひたすら時ばかりが慌ただしく過ぎていく。特に体力的に衰えてきた40代後半以降、授業の準備にもっともっと時間と労力をかけたい、という焦りに似た絶望的な気持ちに苛まれる辛い日々がとうとう退職の日まで続いてしまった。
以上は決して私だけの特殊な事例ではなく、多くの教師が似たような経験をしてきたことであろう。文科省はこうしたブラックな働き方をしっかりと直視し、「やりがい」という言葉で美化したり、給与の引き上げでゴマカスのではなく、教師の業務量の大幅な削減を最優先して全力で取り組むべきだと思うが、いかがか。
◎大学院卒なのに…「国立大教員の求人募集」で示された年収が驚きの低さだった
ダイヤモンド・オンライン 朝日新聞「国立大の悲鳴」取材班 2024.12.1
国立大学の法人化から20年、その弊害が日本の研究力の低下と大学院進学者数の減少となって表面化しているという。日本の場合、大学院進学がかえって経済的なデメリットとして機能してしまうのだから、当然の結末ではある。若手研究者への待遇悪化はもっぱら人材力に頼ってきた日本経済をさらに悪化させるだろう。何せ、教育予算をずば抜けてケチり続けてきた日本である。当然の報いというほかあるまい。
これは高等教育だけの問題ではない。高校以下、すべての学校が抱える共通の問題である。講師の増加と正規教員の不足はすべての学校種で生じている。人材育成をケチってきた政策はいよいよ少子高齢化の極致に向かう日本をどん底の奈落に突き落としていくだろう。このことは何十年も前から指摘されてきたはずなのに、なぜ、ひたすら経済力を低下させる政策をわざわざ取り続けてきたのか、文科省はなぜこの動きを阻止できなかったのか、見直すべき点は余りにも多い。
優秀な日本の若者はいち早く日本に見切りをつけて、いよいよ海外に飛び出していくだろう。中高年も同じように海外での再就職を目指すだろう。そして賃金が低く、外国人の受け入れに後ろ向きな日本には、観光目的以外に外国人が来てくれる可能性は極めて低くなるだろう。日本における良質な労働力の、致命的レベルでの不足が生じてしまうのは最早、時間の問題なのだと思うが、いかがか。
かつて「国家百年の大計」と言われて重視されてきた日本の学校教育はいまや瀕死の状態にある。目先の損得ばかりを優先し、教育を散々冷遇してきた日本の今後に果たして明るい兆しはあるのだろうか。
規律正しく、親切でサービス満点かつ安価な接客、独自のエキゾチックな伝統文化と世界最高レベルの料理、最高に安心・安全で清潔な社会、世界に冠たる日本の漫画・アニメ、伝統と共存する近未来的な東京の都市景観、時刻表通りに縦横に走る公共交通機関・・・少なくとも観光資源においては様々な観点においても断然、世界トップクラスを誇り、年々、日本を訪れる観光客は増えている。確かに現時点での日本は表向き、最も魅力に満ちた国ではある。
ただし、それはあくまでも観光客の視点に限られることは認識しておきたい。今やネトウヨのごとく、もろ手を挙げて「日本万歳」を唱えている状況ではないと思うのだか、いかがだろう。
もうしばらくすれば海外に雄飛できなかった日本の若者の多くが「無敵化」し、闇バイトは一層はびこる。となればかつて日本が誇ってきた安心安全神話がたちまち崩れ出すだろう。これまでは時刻通りに運航出来ていた公共交通機関なども、優秀な人材不足等により遅延し始める。故障や事故も増えてくるだろう。橋や道路、ダム、高層ビル、港湾施設なども一部は老朽化し、深刻な人口減少に直面する地方では廃墟が目立ってくるはずだ。研究力の後退によって日本企業の多くは競争力を失い、少子高齢化が進む中で国家財政はいよいよ危機に瀕する。そして防衛費は倍増すれども教育予算は相対的に目減りしていく一方となる。これからの日本はこうした悪循環の中でひたすら落ちていく運命にあるのではないか。
〇教職調整額について教員259名に調査「引き上げで教員志望者は増えない」が
96%、給与増より業務改善を求める
こどもとIT 正田拓也 によるストーリー 2024.11.27
これでは調査対象の人数が少なすぎてあまり参考にならない。財務省案に反対の立場をとるならば、このような調査をもう少し大規模にして文科省主体で行うべきだろう。せめて千人単位の調査人数でないと説得力に欠ける。ただし教師たちの意向をこれまで徹底的に黙殺してきた文科省がこのような調査を行うはずがあるまい。
まもとなデータ集めをサボり続け、相も変わらずふんわりとした要求しかできない、不甲斐ないお役所に教師たちの命が預けられていることの悲しさ…
〇忙しい職場ほど「考えない人」が増える驚きの理由 本人と組織の「ラクしたい」が生ん
だ悲惨な結果 東洋経済オンライン 深沢 真太郎 2024.11.27
この記事を敷衍すれば、教師が忙しい学校ほど、考えない教師が増えてしまうと考えて良いだろう。実感としてこれは相当程度正しいと思うが、いかがか。「思考」ではなく、もっぱら何かあった時の、管理職や教育委員会、文科省が責任逃れに利用するアリバイ作りに過ぎないような事務的「作業」と部活動、学校行事などの雑務に忙殺されている。これらこそが今の教師たちを疲弊させている元凶なのだ。
もちろん教師たちの中には学校教育への専門的な知識や理解が足りないため、学校において本来、教師は何を重視すべきかをしっかりと考えることが出来ない、残念な人物だって少なからずいるに違いない。そうした教師ほど、他の教師たちへ平気で無意味な作業を増やしてそれを手柄に管理職に就こうとする妙な傾向が、これまでの管理職をみていると時々感じられないわけではなかった。おそらく文科省の官僚や教育委員会にもそうした小役人体質の人物が少なからずいるに違いない。
教員採用試験で問われてきたのは明らかに学校教育に関する些末な「知識」が中心であり、批判的、創造的「思考力」ではなかった。淡々と正確に、表向き規則通りに、最低限の事務的処理ができれば教師として合格、と言わんばかりの教員採用試験だったのだ。「知らしめず、依らしむべし」は教員採用においても千葉県の不動の方針であったと思うが、いかがだろう。
かつて面接試験などで学校教育の現状を批判的に捉えるような思考力を不用意にも表に出してしまおうものなら、ブラックリストに名前が載ってしまい、ほぼ永遠に正規の教師として採用されないことは千葉県の場合、明らかであった。そんな採用試験を合格してしまった公立学校教師に、そもそもまともな思考力など期待する方が間違っているだろう。
いずれにせよ、教師たちの仕事を増やすことばかりが官僚や管理職の手柄とされている限り、学校でのブルシットジョブは増える一方であり、その中で教師たちは自ら考える気力、能力を失っていく。教師たちの思考力を回復すべく、学校の仕事を大胆に削減する方向での政策立案が文科省官僚たちの手柄とされる時代は一体、いつ来るのであろうか。
〇モンペ対応、無制限残業...教員の「ブラック労働」の改善は、日本全体の「生産性
向上」の試金石に ニューズウィーク日本版 加谷珪一 2024.11.21
見当はずれな対策ばかりひねり出す文科省と比べ、極めて常識的な意見である。学
校の業務削減こそ、最優先させるべきだろう。
○他の教員も「過労死ライン」超え 訴訟で明らかになった残業の実態
毎日新聞 によるストーリー 2024.4.7
○教員多忙化「支援体制を」 OECD局長インタビュー
共同通信 によるストーリー 2024.4.3
教員の多忙化に対する取り組みの不十分さが現今の教員不足、不登校やイジメ事件
の増加を招いているとの認識はOECDでも共有されているのだが…
◎不登校のキミはどう生きるか? 鴻上尚史が解く「不登校」の背景 学校・教師が抱え
る問題とスマホの悪影響 コクリコ編集部 の意見 2024.10.31
日本が教育予算をケチってきたがために様々な問題が生じてきているのは間違いあるまい。なぜ手遅れとなるまで学校教師を放置してきたのか、政治責任が厳しく問われるだろう。
鴻上氏が参考にしたユネスコのデータを下に紹介してみる。
・公的教育費の対GDP比率 国際比較
単位 : % 出典:UNESCO データ更新日:2024年9月20日
・世界の公的教育支出・教育費の対GDP比率 国際比較統計・ランキング。
・各国の公的教育費に対するGDP比率と国別順位を掲載。
・単位は%。
・公的教育支出は公的機関における教育上の全ての支出を含む。
・公的機関は中央政府・地方政府・地方自治体・市町村及び他の公的教育関係機関
を含む。
・ランキング表示では当年のデータが無い場合、過去のデータで補完表示。
以下、トップ10に加えて日本の順位の周辺にある国も併せて列挙してみた。このデータがどこまで信用できるのかについてはトップ10の国名を見ると、特に途上国のデータはかなり信頼性が欠けるように感じられる。したがって本来ならば比較的データが信頼できる先進国間での順位を重んじたいが、途上国込みのデータ自体の衝撃度はかなり大きいので、今回は途上国こみの順位の方を紹介する。
なお日本の順位は男女平等度の国際比較での順位と極めて近く、子どもや若者、および女性を尊重しようとしない歴代内閣の政策がものの見事に反映されているように思えるが、いかがか。
トップ10
1 キリバス 14.20
2 ツバル 12.85
3 バヌアツ 10.64
4 ミクロネシア連邦 10.54
5 キューバ 9.39
6 ナミビア 9.04
7 ソロモン諸島 8.29
8 ボツワナ 8.06
9 ナウル 7.81
10モントセラ 7.61
日本の順位と周辺の国々
119 フィリピン 3.62
120 アゼルバイジャン 3.58
121 ザンビア 3.58
122 アンギラ 3.55
123 パラオ 3.44
124 サンマリノ 3.43
125 コートジボワール 3.43
126 パラグアイ 3.41
127 ベナン 3.38
128 パナマ 3.37
129 ルーマニア 3.32
130 タンザニア 3.26
131 セルビア 3.24
132 日本 3.24
133 カタール 3.23
134 グアテマラ 3.18
135 エルサルバドル 3.17
136 ヨルダン 3.16
137 マダガスカル 3.14
〇前年比1.4倍に大幅増の「いじめ重大事態」 調査する校長にも大きな心身への負担
「今でも涙が出る…」 医療機関にも通院 弁護士を自費で雇おうともしたが…
TBS NEWS DIG_Microsoft によるストーリー 2024.11.1
日本の教育予算の少なさは先進国内でも突出している。このことがイジメ問題の解
決を極めて困難にしている事は明らかだろう。「子供中心社会」という口先だけのスローガンでは一時しのぎのゴマカシに過ぎない。
◎じつは「日本の15歳」は世界でもトップクラスに「数学ができる」のに、なぜか
「数学に自信がない」…最新のPISAの結果から見えてきた意外な実態
現代ビジネス 飯田 一史 の意見 2024.4.30
PISAの結果だけで日本の学校教育を評価するとこんな暴論が出てしまう点に総
じて日本の学校教育に対する理解の低さが現れてしまっているように感じるのだが,
いかがだろう。一向に減らない不登校やイジメ、教職志望者の減少、児童生徒の自己肯定感や幸福度の低さ…どれをとっても日本の学校教育の行き詰まりは明白。
そもそも通り一遍のPISAの調査で判明するのは学校教育のごく限られた一面でしかない。この結果に一喜一憂する方が間違っているのだ。加えて日本は伝統的に数学を得意としてきた。さかのぼれば高度経済成長期から政財界の圧力を受けて理数系の教育が重視されてきたのだから、今回の数学の高得点など決して不思議ではあるまい。ましてこの結果が日本の教育行政の素晴らしさを証明する材料になるとは到底思えない。
解答の正誤が明確な数学の場合は日本の学校教育が持つ画一的で管理主義的な体制がプラスに働く側面もあるだろう。しかし日本の学校に根強く残るこの体制は社会科のように必ずしも答えが一つに限定されず、どれが正解なのかを決めつけること自体難しい内容を扱う教科ではマイナスに働く側面が少なくあるまい。だからこそ管理主義的な日本の社会科授業ではあたかも数学のように正解を一つに絞る暗記中心の学習を主体としがちになるのだ。
もちろん人材の選別配分の基準としての公平性、客観性を担保する上でどうしても一問一答式の設問が多くなるという、試験の宿命的な性質が社会科にも及んでいる側面が大きいのは否定できないのだが…
「…産業界を中心になんでもかんでも教育のせいにする風潮があるし、保護者も学校現場も大学の先生もメディアもみんな口を開けば文科省批判をしがちだが、もう少し客観的に実態を把握した上で日本の初等・中等教育に対して提言したほうが、生産的な話になるだろう。」とのご託宣、実に軽薄な意見であり、飯田氏は文科省の回し者なのではないかと疑わざるを得ない。「もう少し客観的に実態を把握した上で日本の初等・中等教育に対して提言したほうが、生産的な話になるだろう。」という言葉はまさにブーメランとなって飯田氏を直撃するだろう。