⑳10年前のOECD調査

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

 世界経済フォーラムが発表する国際経済競争力調査でも2001年から2006年までフィンランドは首位または二位の座を維持していた。厳しい自然と少ない人口を考慮すればたしかにフィンランドの健闘ぶりには目を見張るものがある。一方、日本の学校事情は先進国としてはお寒いばかりであった。1970年代半ば以降、日本政府は残念ながら国家予算の伸び率に比例するようには教育費を伸ばしてこなかった。その結果、国家予算やGDPを基準に見た教育費は先進国中最低の部類に属している。2014年の対GDP費ではOECD34か国中24位。しかも国家財政中に占める教育予算の割合は31か国中30位。学校教育費に占める公的負担の比率も28か国中26位である。

 

 つまり教育における私費負担の割合が非常に高い。しかも学校教育費には個人的な通信教材費や塾代、家庭教師代、予備校代は含まれていない。日本の場合、こうした学校教育費以外の教育費の支出が異常に高いと言われている。

 

 総じて日本は国や自治体が教育予算を大胆なまでにケチっており、家計に大きく依存した教育が行われているといえる。この結果、日本では家庭の経済力の格差がそのまま学歴、学校歴格差につながりやすい社会となっているともいえよう。日本が格差社会であるといわれて既に久しい。かつて「国家100年の大計」といわれ最重要視されてきた教育政策の現状が今、いかにお寒いものとなっているか、私たちはきっちりと確認すべきだろう。

 

 一学級あたりの児童生徒数は2013年、小学校で27.9人(OECDの平均値は21.2人)、中学校で32.7人(同23.3人)であり、日本より悪条件なのはOECD加盟国では韓国だけという有様である。教員一人当たりの児童生徒数もまったく同じ傾向がみられ、韓国とともに日本ではOECDの中で最も劣悪な環境のもとに初等・中等教育が行われていることになる。

 世界では少人数のクラス、小規模の学校ほど教育効果が高いというのはもはや常識となっており、WHO(世界保健機関)も生徒総数100人を上回らない学校規模を勧告している。

 

 確かに日本はかつて国民の同質性が高く、集団主義が広く社会全体に行きわたっていたため、クラスや学校規模が大きくとも児童生徒は極めて学力が高く、規律正しいといわれてきた。

 しかし地域社会の崩壊(隣近所の助け合い減少)、家庭教育力の低下(核家族化、共働き…)、格差の拡大、個人主義の蔓延と外国人の増加(=同質性の低下)などが進んできた現在、かつてのような高い教育の効率性が維持できるとは思えない。

 

 本来、10年以上前に騒がれたPISAの順位の低下が示していたのは日本社会のこうした激変とそれに対応できなくなった日本の学校教育の残念なまでに遅れた姿であったはずである。

 

※実はカッパは個人的に日本の学校教育が北欧のそれとある意味では百年余り、遅れてしまっていると

 感じている。これは決して大げさな表現ではない。

  実際、100年以上昔の日本には大正「新教育運動」が教育界の最先端の潮流としてあった。その動

 きの中では…チャイムをなくす、学習集団は固定化せず、時間割もフレクシブル、一斉講義形式を辞

 め体験学習を重視する…といった斬新な取り組みが既に一部で試験的に行われていた。そこでは児童

 生徒への内発的動機付けが試みられ、子供たちの自主性が今以上に重んじられていた。

  この100年近くの間、日本は学校教育に対して一体何をしてきたのか…厳しく問われなければなる

 まい。

 

 ところが今の日本は1000兆円を超える国家全体の負債を教育予算や福祉予算を削ることで賄おうとしている。現在、日本の各地で小中学校だけでなく、高校もまたすさまじい統廃合の危機にさらされていることを皆さんは知っているだろうか。

 

 日本では世界の趨勢である小規模の学校が望ましいとする流れに完全に逆行する動きが今、加速しているのである。急速に進んだ小中学校の統廃合によって170億円の「効率化」が進められたと財務省はむしろ学校の統廃合を手放しで絶賛している。しかしその陰で自宅から遠く不便な大規模校に通学することを余儀なくされた児童生徒が大勢いることを忘れてはならないのである。

 学校基本調査をもとに学校数の変化を表示してみる。

 

 

平成20年

平成29年

増減

小学校

22476

20095

―2381

中学校

10915

10325

―590

高等学校

5242

4907

―335

 

 少子化によっていずれは小規模学校や少人数学級の実現が苦も無く実現できるという楽観論も学校の統廃合の強行によって完全に消え去った。ただでさえ教育予算をケチってきた日本がさらに教育予算をケチり、正教諭の数を急速に減らして非正規雇用の講師を急増させ、教育条件をいっそう悪化させている。公立小中学校の教員に占める講師の割合をみると1980年には全体の2.6%に過ぎなかった講師率が2007年には8.9%に達している。3倍に増えたわけである。不安定な雇用の下で低賃金、過重労働を強いることのできる講師を増やすことは教師全体の労働環境を悪化させることでもある。

 2013年、OECDは34の国、地域の中学校に当たる学校の教員に勤務実態調査を行っている。その結果は日本の学校教育が衝撃的に劣化している深刻な状況をあからさまに示した。まず日本の教員の仕事時間は週に約54時間でOECD平均の約38時間を大幅に上回った。

 部活動や事務活動などに費やされる時間が飛びぬけて多いからである。週当たりの部活動に費やされる時間はOECD平均が2.1時間に対して日本は7.7時間、事務作業はOECD平均が2.9時間なのに対して日本は5.5時間。

 

 ところが肝心の授業に費やす時間はOECD平均が19.3時間に対して日本は17.7時間でやや平均を下回っている。

 また校外で行われる研修への日本の参加率は極めて低く、参加しない理由の8割が仕事のスケジュールを理由にしている。多忙感で教師として必要とされる知識や技能の習得がおろそかになっているという事態は日本の場合、致命的な結果を招くはずである。

 

 日本はかつての師範学校による専門的な教師養成教育が戦時中の全体主義的教育を支えてしまったとの反省からか、専門的な教師養成教育自体を否定的にとらえられる傾向を戦後強めてしまい、師範学校が廃止されるとともに教員免許は極めて容易に取得できる(この事態は教員免許の「開放性」と呼ばれるが、その実態は教員免許が専門的な教育を受けずとも取得できる安易な資格に堕してしまったことを意味するに過ぎない)ようになってしまった。

 したがって教員になりたての若者は学校教育が一体どんなものなのかをほとんど学習せずに現場で教えることになる。当然、教員になってからの研修で教師としての知識・技量不足を補っていかなければならないはず。実際、かつて日本の教師の自発的な研修は極めて盛んで、参加率も高かったはずである。

 ところが現在、その肝心の研修が不足してきているということは日本の教師が多忙の中でどんどん劣化してきていることを意味する。教師の不祥事が相次いで報道される背景にこうした事態が急速に進行していたのである。

 

 当然のことながら日本の教師の自己評価は世界の中でダントツに低い。「学級内の秩序を乱す行動を抑えられるか」という質問に対し、日本はおおむね「できている」と答えたのが52.7%でOECDの平均87.0%を大幅に下回る。「生徒に勉強ができる、と自信が持たせられる」に対し、おおむね「できている」と答えたのが日本はわずか17.6%、OECDの平均は85.8%。「勉強にあまり関心を示さない生徒に動機づけできている」に対し、おおむね「できている」は日本が21.9%でOECDの平均よりもやはり50%あまり低い。

 かつて日本の教室は世界のどこよりも秩序が保たれていると絶賛されてきた。しかしそれは遠い昔のことになりつつある。特に教師にとって最も大切なはずの授業に対する自信の欠如は、授業や学級経営といった本務をないがしろにしてはびこる部活指導や事務仕事に大きな原因が求められる。研修不足の教師は自信を欠いたまま保護者からのクレーム対応にも追われる。教師の間にうつが蔓延するのも当然である。

 2002年、精神疾患で休職した公立小中学校の教師は2700人近くだったが2009年には瞬く間に倍増しており、現在は年間5000人前後で高止まりしている。その数は当然、部活指導に追われる中学校が一番多い。

 

 2013年のOECD調査で「もう一度仕事を選べるとしたら教員になりたい」と回答した日本の教師の割合は下から二番目という実に痛ましい状況も、日本の教師が直面しているこれらの問題点を知れば十分納得できる結果なのである。

 

 自信に欠けたまま学校教育への理解も進まず、技能を向上させるチャンスを奪われ、ひたすら雑務に追われる日々。若い教師はただ自分の所属する学校現場しか知らず、酷い視野狭窄に陥っている。海外まで視野を広げれば日本の学校の異常さや自分の多忙さの背景を知ることができるのに、そうした自己研修の機会も奪われている。

 

 若者が理想に燃えて保守的なベテラン教師を批判するという風景は完全に過去のものとなってしまった。今や若手はストレスをためこんだまま、眼前の職務を果たすことで一杯になっている。現状を批判し、変えようとする意欲を持つ若手は極めて希少。むしろベテランよりも保守的であるのが今の若手教員の実態といえよう。これでは現場からの変革は絶望的である。

 

 自殺する教員、精神を病んで休職に追い込まれる教員の数は2000年に入って急速に増えた。サービス残業を強いる部活動の盛んな中学校や高校の顧問は過労死の危機にさらされ、ストレスをため込んで暴発し、体罰事件などを引き起こしたり、離婚や過労死、家庭崩壊の危険にまでさらされている。そして批判の矛先は常に教師個人の資質に向けられている。ひたすら予算を減らし、教育現場を荒廃させて多忙に追い込んでいる張本人に責任を求める声は小さい。日本の学校はもはや世界でも最悪レベルのブラック企業に近づいているのである。

 

 こうして日本では予算の後ろ盾もない中で多人数の学級という悪条件が放置されたまま、無謀にも「自ら学び、考える力」を養成するための手厚い教育が学校・教師に求められてきた。ごく一部の恵まれた家庭の子供たちは「お受験」を経て私学での充実した教育を受けられ、優良企業への就職まで可能となってくる反面、過半数の他の児童生徒は「安かろう 悪かろう」の公教育を受け続けることになる。

 そして進路の結果がたとえ無残なものになったとしても、責任を負うのは生徒や家族であり、国ではないとするのがまさに「自己責任」の国、日本の学校事情なのだと思われる。

 

 技術の高度化が進み、技術革新の担い手は一握りのエリートで十分な時代となってきており、企業の多くが正社員を大幅に減らして使い勝手のよい安価な非正規採用でコスト削減と人手不足の解消を図っている。多数の国民が今後、十分な教育を受けられずに学力を低下させたとしても、国家としては一定数のエリート層が健在ならばさほどの国家的損失は生じないと高をくくっているのだろうか。

 もしもそうだとしたら…諸君の将来も、この国の将来も相当危ういだろう。

 

 確かに日本の自殺者数は統計上(警察と厚生労働省がそれぞれ統計を出している)はかつての年間3万人台からここ数年で2万人台にまで減少してきている。これは景気回復に伴い、特に中高年の自殺者数が減少してきたからである。

 しかし実は15~24歳の若者の自殺者数はこの間も増え続け、ついに世界一位になっていることはあまり知られていない。今や日本の若者の死因の一位は自殺なのである。若者の自殺は将来を悲観してのものが多いと考えられる。

 

 つまり若者にとって今の日本は「出口無き絶望社会」となっているようである。若者に将来への夢や希望を持たすことに失敗した社会になっている日本という国と、若者を相手とする日本の学校の疲弊ぶりとはまったく無関係とは言えまい。

 もういい加減なんとかしないといけないのである。

 

 ではどうしたらよいのか?日本の若者の危機を救う手立てはあるのか?他の国を参考にして考えてみよう。ここ数年、国連が3月に世界幸福度ランキングを発表している。2017年3月20日に発表された最新のランキングトップ10を見てみよう。1位ノルウェー、2位デンマーク、3位アイスランド、4位スイス、5位フィンランド、6位オランダ、7位カナダ、8位ニュージーランド、9位オーストラリア、10位スウェーデンの順である。北欧を中心に白人系の常連国が並んでいる。日本はというと51位。やはり教育と福祉が充実している国々が上位にきている。日本が目指すべき方向は教育・福祉の充実であることは明白である。

 

 しかしどうみてもこの目標達成には時間がかかる。今、現在を苦しむ日本の若者を救出するには別の観点も必要である。教育と福祉の充実は中長期的目標として取り組むにしても、短期的目標は別途に掲げておく必要があるだろう。そもそも国連の幸福度調査の観点は一人当たりのGDP、社会的支援、健康な平均寿命、人生の選択をする自由、性の平等性、社会の腐敗度などであり、どうみても先進国に有利な観点に偏っている。私たちは別の観点から幸福を捉えなおす必要もあるのだ。

 

 先進国からは貧しくて自由度も低く、客観的には幸福に見えなくとも、主観的に国民が幸福感を強く感じている国々がある。フィジーやコロンビアである。幸福はやはり主観的な要素が大きい。どんなに豊かで健康であっても本人が幸福を感じられていないならば意味がない。そこで最後にフィジーの人々の幸福感を支えている考え方を紹介しよう。

 

 フィジーは330ほどの島々からなる南洋の楽園。四国ほどの総面積に85万人が住む。平均寿命は世界119位、一人当たりのGDPは102位、民主主義指数は119位、報道の自由度は107位となっており、先進国の価値観からすれば幸福度は中の下。しかしフィジーの人々の満足度、幸福感はダントツの世界1位。物質的には恵まれなくともハッピーになれる秘訣はフィジーの人々の独特の価値観に潜んでいる。絶望的な日本の若者でもフィジーの価値観の中になら光を見いだせるかもしれない。

 

 フィジーの人々の独特の価値観はまず物事を共有し、シェアする精神が豊かである点。彼らには私有の概念が極めて薄く、お金も土地も家族までも共有する。豊かな人が困っている人に金品を贈るのは常識である。また過去を振り返らず、未来を案じない。くよくよしないのだ。そのかわり今、この瞬間への注力度が極めて高い。

 悪く言えば刹那的、享楽的。必然的に貯金はしないし、肥満も気にしない。細かいことは気にせず、実におおざっぱ。レストランや役場でも間違いだらけ。仕事はスローで効率は悪いがその分ストレスフリー。しかし人間関係をつくるスピードは光速で、瞬く間に友人となれるフレンドリーな国民性…

 

 日本人の生真面目さ、律義さが悪いのではない。ただ少しだけ肩の力を抜いてみるべきなのかもしれない。般若心経が説くように物事は容易には変わらなくとも、それを受け止める私たちの主観が変わることで案外、楽になれるのかもしれない。

 まずは自分の心を少しだけでもリラックスさせることから始めよう。

 

 

 以上はカッパが10年ほど前に作成した授業プリントの一部。

 

 この時からも既に10年経った…一体、日本は自分たちの学校教育に何をしてしまっていたのだろう。どんなことをやらかしてしまったのだろう。

参考記事

他の教員も「過労死ライン」超え 訴訟で明らかになった残業の実態

 毎日新聞 によるストーリー 2024.4.7

教員多忙化「支援体制を」 OECD局長インタビュー

 共同通信 によるストーリー 2024.4.3

 教員の多忙化に対する取り組みの不十分さが現今の教員不足、不登校やイジメ事件

 の増加を招いているとの認識はOECDでも共有されているのだが…

じつは「日本の15歳」は世界でもトップクラスに「数学ができる」のに、なぜか

   「数学に自信がない」…最新のPISAの結果から見えてきた意外な実態

   現代ビジネス 飯田 一史 の意見 2024.4.30

   PISAの結果だけで日本の学校教育を評価するとこんな暴論が出てしまう点に総

   じて日本の学校教育に対する理解の低さが現れてしまっているように感じるのだが

   いかがだろう。一向に減らない不登校やイジメ、教職志望者の減少、児童生徒の自

   己肯定感や幸福度の低さ…どれをとっても日本の学校教育の行き詰まりは明白。

    そもそも通り一遍のPISAの調査で判明するのは学校教育のごく限られた一面

   でしかない。この結果に一喜一憂する方が間違っているのだ。加えて日本は伝統的

   に数学を得意としてきた。さかのぼれば高度経済成長期から政財界の圧力を受けて

   理数系の教育が重視されてきたのだから、今回の数学の高得点など決して不思議で

   はあるまい。ましてこの結果が日本の教育行政の素晴らしさを証明する材料になる

 とは思えない。

    解答の正誤が明確な数学の場合は日本の学校教育が持つ画一的で管理主義的な体

 制がプラスに働く側面もあるだろう。しかし日本の学校に根強く残るこの体制は社

 会科にように必ずしも答えが一つに限定されず、どれが正解なのかを決めつけるこ

 と自体難しい内容を扱う教科ではマイナスに働く側面が少なくあるまい。だからこ

 そ管理主義的な日本の社会科授業ではあたかも数学のように正解を一つに絞る暗記

 中心の学習を主体としがちになるのだ。もちろん人材の選別配分の基準としての公

 平性、客観性を担保する上でどうしても一問一答式の設問が多くなるという、試験

 の宿命的な性質が社会科にも及んでいる側面が大きいのは否定できないのだが…

  「…産業界を中心になんでもかんでも教育のせいにする風潮があるし、保護者も

 学校現場も大学の先生もメディアもみんな口を開けば文科省批判をしがちだが、も

 う少し客観的に実態を把握した上で日本の初等・中等教育に対して提言したほう

 が、生産的な話になるだろう。」とのご託宣、実に軽薄な意見であり、飯田氏は文

 科省の回し者なのではないかと疑わざるを得ない。「もう少し客観的に実態を把握

 した上で日本の初等・中等教育に対して提言したほうが、生産的な話になるだろ

 う。」という言葉はまさにブーメランとなって飯田氏を直撃するだろう。