⑩教育改革が進まない理由

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

ヒップホップダンス禁止騒動

参考動画

麹町中「ヒップホップ禁止令」報道も…指導方針を決定するキーパーソンとは?教

 育改革が継続できない裏側について議論 【工藤勇一・合田哲雄/加藤浩次】 

 NewsPicks /ニューズピックス 2024.8.14 13:36

 かなり議論が広範に及んでいたようで必ずしも「ヒップホップ禁止令」に限定されておらず、しかも内容的に散漫な印象は避けられない。とはいえ今の日本の学校の課題がどこにあるのか、把握する上でそれなりに役立つ動画であろう。ただし議論の焦点が分散しがちであり、解説する教師側の予備知識、理解の程度で授業の展開がかなり左右されてしまうことは覚悟すべきだろう。

「受験が悪」高偏差値を求める日本の弊害。"夢がない・意見言わない"大人を作る

   教育の課題を徹底議論【工藤勇一・合田哲雄/加藤浩次】2Sides

   NewsPicks /ニューズピック  2024/08/19  13:28

   学力問題だけではなく日本の児童生徒たちの抱えている心の問題にも注目したい。一番の問題は彼らの幸福度と自己肯定感の低さだろう。目の前の変化にほとんど適応できなくなった学校と教師たちの振る舞いを通じて大人社会への絶望に近い諦めが児童生徒たちに早くから植え付けられてしまった…そうした経験の積み重ねが今の若者たちの早過ぎる諦念の背景にあるのは間違いあるまい。子どもたちの自己決定機会の少なさが現実に関与する姿勢を喪失させているとの指摘も重要だろう。

参考記事

麴町中ヒップホップ問題 学校説明に保護者から異論「実態と異なる」

 朝日新聞社 によるストーリー 2024.7.9

「改革」で知られた中学校は今…服装ルール強化、ダンス部でヒップホップ縮小

 「中体連の大会目指す」東京新聞 2024.6.25

改革で知られた東京・麴町中学校が方針転換 「規制強化」の声も

   朝日新聞社 によるストーリー 2024.6.11

   工藤氏の改革で知られた麹町中学校が現校長のもとでたちまちありきたりな管理主義的学校へと戻ろうとしているらしい。10年近く前に始まった宿題無し、定期テスト無し、制服無し、担任無し…などの改革は10年後に完全な見直しが行われつつある。

 現校長によると見直しの理由は改革に伴う弊害の発生、らしい。旧来の学校経営による弊害の払しょくを試みた工藤氏への当てつけとしか思えない屁理屈であろう。改革にはメリットだけでなく多少のデメリットも伴うのは当たり前の事であり、それらを総合的に判断したうえでの、今回の見直しならば少しは納得がいくだろうが、イマイチ見直しの理由は明確ではないようだ。

 10年もたてば当時を知る教師が一人もいなくなっているだろうから、今の麹町中学校は普通の学校から転勤してきた教員ばかりで占められているに違いない。とすれば管理職を含めて改革の理念すら理解しようと思わない反動的な管理職が、教師としての本質的な力量を問われる、慣れない特殊な取り組みに苦戦するよりも、従来のありきたりの学校運営に切り替えた方が自分を含めて多くの教師たちは楽になる…おそらく現校長の思惑はそんな程度のことだろう。

 今、日本の学校教育に何が最も求められているのか、まともに考えないような集団が未来の日本を担う人材育成の最前線に立っていることの恐ろしさを感じてしまう。

呂布カルマもモノ申す!「日比谷高校経由、東大行き」エリート養成の麹町中学

   「ヒップホップ禁止騒動」の深すぎる闇

   アサ芸プラス によるストーリー 2024.6.18

   騒動のポイントは工藤元校長の改革をどう評価するかであろう。「ヒップホップ禁止」はあくまで改革否定派による一連の動きの中の一断面に過ぎない。ヒップホップ自体への論評はやや的外れであろう。それよりも今の動きが表面化する以前の麹町中学校の状況が本当はどうだったのか、その実態の解明がなされなければなるまい。仮にこの記事が指摘するような、モンスター化した生徒や保護者による無政府状態が麹町中学校にはびこっていたとするならば、工藤氏による改革は完全に間違っていたと評価されても当然である。しかしそれは果たして本当なのだろうか。那須氏の指摘は一体どこまで信用できるのだろうか。

 「かつては官僚を目指す優秀な生徒を日比谷高校⇒東京大学法学部へと送り出していた名門、東京都千代田区立麹町中学校」という書き出しからしていきなり記事の怪しさがプンプン臭ってくると感じてしまうのだが、いかがか。日比谷高校が名門と言われていた時代は1960年代を中心とする。しかし東京都による学校群制度の導入によって日比谷を含めた名門都立高校の進学実績は1970年代後半に入ると急落している。すなわち半世紀前の出来事を記事の読者には明記しないでボカしつつ、ここ10年近くのマズイ改革によって名門麹町中学校が一気にダメにされてしまったかのような印象操作を記事の冒頭から平気で行っている事が分かる。

 つまりこの記事は煽り記事特有の、主観的記述で満ちているのではあるまいか。記事の題にある「…深すぎる闇」との煽り文句はこの記事自体の方こそよく当てはまるものだろう。

 麹町中学校が工藤氏の間違った改革によってすっかり荒れてしまったと那須氏が指摘したいのならば、その証拠を主観的な印象論や信用性の極めて薄い元同僚の証言などではなく、説得力のある客観的なデータおよび信用するに足る複数の証言で示すべきだろう。麹町中学校の内申点が二極分化していた、と指摘したいのならば実際に当時の同校の内申点分布をデータとしてしっかりと示す必要がある。授業が成立しがたいほど荒れてしまっていたのならば、最低限でも当時の授業評価アンケートの詳細な結果を示す必要がある。進学指導に問題がある、とするならば当時の高校進学状況を改革時の前後を含めたデータできちんと示す必要がある。仮にそうしたデータが入手困難なのであるならば、せめてその点を予め断っておきつつ、「以下は憶測の域を出ないが…」などとの文言を入れるなど、少し節度ある論評をすべきであろう。これらは記事として公表する上で最低限のルールであり、マナーでもあるはずだ。

 しかし、この記事では情報の源が何と間抜けなことにもっぱら匿名の元同僚による証言に過ぎない。当然、この実在するのかどうかすら疑わしい人物の「証言」こそが記事の主要な部分を構成しているのだから驚きだ。中学校が荒れているとする客観的なデータ、数字で示せるはずの証拠は何一つ、提示されていない。こうした欠陥を糊塗すべく、卑怯にも有名人たる呂布カルマ氏の発言を引用してヒップホップ禁止、麹町中学校の「正常化」を正当化しようとしている闇深い狙いが見え隠れしている。このような軽薄な記事に「中学校の部活動に首を突っ込む親も親なら、それを書き立てる大新聞社も大新聞社だ」と大上段に批判する資格などあるわけがない。

 授業では近年、マスゴミのネット記事に目立ってきた、こうした根拠レスな主張、煽り記事の危うさに生徒たちの注意を大いに喚起すべく、議論のたたき台として提示したい。教師が誘導せずとも生徒たちからこの記事に対する真っ当な批判が出てくるようであれば、対話型討論を軸とするこれまでの取り組み、授業の成果が挙がりつつある、と見て良いだろう。

中学部活動「ヒップホップ禁止令」生徒ら泣いて抗議 専門家も疑問

   朝日新聞社 によるストーリー 2024.6.17

【東京】麹町中学校で『ヒップホップダンス』を校長が禁止 理不尽な理由が話題に

  保護者からは「合理的な理由になってない」「理屈がわからん」
 シュフーズ の意見 2024.6.13

 この分野の授業の導入にはうってつけの記事であろう。

 突如として始まった麹町中学校での動きは、10年ほど前の工藤勇一元校長が中心となって一躍注目された斬新な取り組みを何が何でも完全否定しようとする方向であることがこの一件でより明確になったと言えよう。高校の授業では工藤氏が麹町中学校で目指した主な改革の内容と理念をまず紹介したい。そして現校長がヒップホップダンスを禁止した件についてぜひ生徒たちの意見を募りたい。ヒップホップダンス自体の解説も必要だが、こちらは生徒たちの調べ学習として各自ネットで検索させても良いだろう。
 元来が非行少年たちの生み出した文化であり、学校で公認される筋合いのものではないとする呂布カルマ氏の主張は十分傾聴に値する。しかし、だからといって現校長の一方的な管理主義の動きは決して肯定されるものではあるまい。ラップやヒップホップダンスの起源は確かにアメリカの非行少年らに由来するものであり、大人社会への反抗的気分をそのパフォーマンスの中に濃厚に漂わせてはいる。が、かつて発達心理学などで言われてきたように大人への反抗的気分そのものは第二次反抗期の若者にひろく見られる現象であり、大人として自立していくための、若者たちがくぐるべき成長過程の一つと見なせないわけでもない。むしろその反抗的側面の成熟における積極的意義にこそ大人は着目すべきであり、文化としての反抗性だけをもってして学校側が一方的に否定すべきではあるまい。
 またヒップホップがそれなりの世界的広がりを見せている現在、ヒップホップダンスのありかた自体はいつまでも原点や伝統にがんじがらめに縛られている必要はないだろう。新たな要素を次々と取り込んでヒップホップの世界のすそ野をぐんぐん広げてきたこれまでの経緯もまた尊重されるべきではないか。
 日本の格式ある伝統文化の中にも、原点はいわゆる「不良」「非行」の文化に求められる歌舞伎のような芸能が存在している。派手で異様に目立つさまを示す「傾(かぶ)く」という当時の言葉に由来するとも言われる歌舞伎は今でこそ日本の伝統芸能として世界から脚光を浴びているが、江戸時代は風紀を乱すものとして度々、幕府により弾圧されてきた経緯がある。ラップやヒップホップもまた現代の「かぶき」なのかもしれず、いずれは古典芸能の一つに位置づけられる日がくる可能性は決して無きにしもあらず。
 授業ではヒップホップダンス部を一方的に潰そうとする現校長のふるまいの背後にある「何か」を生徒たちに想像させたい。なぜ、数多くある麹町中学校の部活動でこの部が狙い撃ちされたのか…区の教育委員会も含めて学校を管理する立場の人々の思惑を推理し、汲み上げてみよう。すなわち学校の管理職が通常心がける事、管理する側が陥りやすい心理、さらにはその背景まで深く推理させると現代日本の学校教育の病巣がより一層分かりやすく見えてくるかもしれない。

中学部活の“ヒップホップ禁止令”が呼んだ波紋。「些細な問題すら当事者間で解決

 できない」社会が示すもの 日刊SPA! の意見 2024.6.14

 この論評を生徒たちがどのようにうけとるのか、興味深い。ぜひ、アンケートを用い、時間をかけて生徒たちの意見を引き出しておきたい記事である。

 一見、第三者の立場から公平に、客観的に論じているように見える石黒氏の意見だが、残念なほどに今の学校現場が置かれている状況への理解を欠いているため、ひどくトンチンカンな印象はぬぐえない。工藤勇一元校長が試みた改革の理念と背景をまったく理解されていないようで、この事態をたかがヒップホップダンスレベルのことで国会議員までしゃしゃり出る滑稽な事態となった…とあしざまに捉え、嘆かわしい出来事として矮小化させてしまっている。ただ単に校長側の説明不足や保護者側の対応のお粗末さが事態をこじらせた原因であると見なす石黒氏の視野の浅さ、狭さには呆れるほかあるまい。

 この件がここまでこじれてしまった背景には現校長が麹町中学校で行われてきた改革の歩みを短期間で徹底的に否定する復古的動きを見せていたこととそれへの疑念や反発が一部の保護者側に生じていたことが一番に挙げられるはず。これは決して「些細な問題」ではなく、そう簡単に当事者同士で解決できるほど単純で底の浅い問題でもない。日本の学校教育をどういう方向でリニューアルしていくのか、根本的な理念が麹町中を舞台にして問われているのだ。

 したがって「社会の断絶」という、いかにもボンヤリとした曖昧な社会問題の中に論点を拡散させて溶かし込み、校長と保護者や生徒たちとの鋭い対立から目を逸らさせる効果しか感じられないようなお粗末な論評を堂々と掲載するマスコミのレベルの低さには絶望感しか覚えないのだが…
※参考記事
 〇人気ラッパー、世間で話題の「ヒップホップ禁止令」に持論。「こっそりやれ」「基本的には非行

  です」AllAboutニュース 2024.06.12
※参考動画
 
Natsuki - HIPHOP Dance class/ NOA DANCE ACADEMY
  NOA CHANNEL  2023 0:43

 
耳が遠すぎたラップバトル【8小節×3本】
  シャラララックス【岡山弁アニメ】 2022/10/28 2:29

  この動画はラップの世界の裾野の広がりを示す一例として説明したい。呂布カルマ氏はこうした裾

  野の広がりをも、原点とはズレ過ぎ、と切り捨ててしまうのだろうか…
 

参考動画

フィンランド教育の失敗:日本の詰め込み教育はそこまで悪いのか?

 社會部部長  2024/08/14 46:19

 この動画、一見、データを基に客観的な立場でフィンランド教育を批判しているように思えるが、実は極めて短絡的な意見に過ぎないと私は考える。もちろんフィンランド教育を全面的に否定するといった単純な内容ではなく、また教師の待遇の悪さなど、日本の学校教育の欠点も指摘しており、表面的には公平な視点を保っているようにも感じられる。ただし、じっくりと内容を検討してみるとこの動画にはフィンランド及び日本の学校教育への本質的な理解が決定的に欠けていることに気付くだろう。

 そもそもただのペーパーテストを通じて示されるに過ぎないPISAの国別の平均的学力はあくまで学校教育の成果の一断面を示す指標の一つに過ぎない。PISAの結果だけで国の教育レベルを云々するのはいかがなものか。PISAの結果を取り上げてフィンランド教育の失敗を過剰に説くかたわら、日本の管理主義的、画一的学校教育を擁護しようとするこの動画の論法は明らかに間違っていると考える。

 また識字率の高さが画一的で管理主義的な教育によって実現された、という認識が仮に正しいとしても、途上国ならばともかく、現代の先進国としては識字率の高さを持って国の教育レベルを測る尺度とするような認識は余りにも時代遅れ。過去、識字率を高めたとされる教師主導型の管理教育を、今後も有効な教育方法として正当化するかのごとき論法はもはや時代錯誤に過ぎないだろう。

 現在、直面している日本の学校教育の危機はもちろん教師の待遇の悪さ、教師不足などにも起因するが、おそらくそれだけではあるまい。日本の画一的、管理主義的教育がはらむ負の機能によって広範に生じていると思われる児童生徒たち及び教師たちの自己肯定感の低さ、社会への当事者意識の低下なども、日本の民主主義を将来的に脅かす深刻な問題であるはず。

 児童生徒のみならず、教師にすら自己決定権をまともに行使する機会を与えてこなかった日本の管理主義的公教育自体が、IT化時代の趨勢と決定的な齟齬を生じている側面は決して見逃せまい。集団主義的一斉指導から個別最適化ならびに個性化へと教育の舵を切り、イジメを見逃さない、豊かな多様性が尊重される学校社会を構築する…そうした方向性を強く打ち出すには第一に教師主導による一斉講義形式の授業を最小限にとどめる工夫が絶対的に必要となるだろう。

 一方的で押し付けがましい公教育から、教師、児童生徒ともに主体的で意欲的に学ぶ授業の創設こそ、日本の公教育に切実に求められている本質的「改革」であり、小手先の「改善」を説く本動画には個人的に万不同意である。

オワコン化した従来教育、捨てられる教師の末路

 塾講師チャンネル  2024/01/26  15:59

 小林氏が指摘する共通テストの問題点に注目したい。教育内容の国家統制につながるテストは今すぐにでも廃止するのが一番。小林氏が提案するようにせめて限定的に利用するだけにとどめるべきだろう。いずれにせよ知識詰込みを中心とする画一的、管理主義的教育の見直しは必要不可欠。そのためには教育改革をうたい文句としながら非情にも学校のブラック化を推し進めてきた張本人であり、実際には教育改革における最大の障害物と化している文科省自身の根本的な組織改革がとりあえずは避けられないと考えるが、いかがだろう。もちろん、諸悪の根源は改革を捻じ曲げ、阻んできた老害政治の総本山である日本政府及び国会そのものなのだが…

参考記事

「保護者からの個人的な電話に悩まされている」“うつ病”で休職する教師が激増…

 日本で“教員不足”が深刻化する本当の理由

 文春オンライン 池上 彰 によるストーリー 2024.8.19

 教師不足の原因に安い給料と重い負担の二つはよく挙げられている。特に負担軽減は一刻を争う問題であり、部活動の地域社会への移行を中心に取り組むべきことは多い。しかし給与の引き上げは一刻を争う問題ではあるまい。むしろ給与と仕事の責任の重さとは比例する部分があるため、給与の引き上げは時に負担や責任の増大を招きかねない。したがって中教審の給特法改正案は極めて危険な要素を秘めており、要注意である。

 教員不足の原因は他にも考えられるだろう。教師の質的低下、教師集団の強い同調圧力がもたらす職場の息苦しさ、年功序列型の給与体系と人事などにおける老害の跋扈、無能な管理職の存在、放置される職務分担の不公平、旧態依然な授業内容や授業方法の残存、事務仕事に見られるブルシットジョブの増大、的外れな研修の増加、教師の社会的威信の低下、児童生徒や保護者への個別対応の増加による集団的、管理主義的指導の行き詰まり…いずれも教職の魅力を酷く押し下げている現象であるにもかかわらず、これらに対する文科省の対応はイマイチ、学校現場の実情とズレており、トンチンカンな印象が強い。

 本質的に改革すべきは上意下達の管理主義的教育行政のあり方であり、教員養成教育の根本的見直しであると考えるが、いかがか。これらをぼやかし、ごまかしておきながら、給与の引き上げと新味のない教職の魅力アピールばかりで教師志望者の増大を狙うのはまさにキャッチセールスに等しい詐欺的行為ではないか。

公立高校の校長「現場と自治体の間」で揺れる苦悩 人手不足の中、問題行為起こした

   先生の対応も 東洋経済オンライン   濱井 正吾 によるストーリー 2024.7.11

   公立中堅校の困難さはまず進路多様校であり、進学から就職まで、幅広く指導できる力を教師たちに求められる点が挙げられる。生徒指導も生徒の多様性に応じた幅広い対応が求められるため、意外に厄介である。当然の事ながら、授業に対する要求も幅広く、受験対応から思考力重視、楽しさ重視など、授業も重点の置き方を時折、変えて臨む必要がある。加えてこうした学校は校数が一番多いため、教師もまた多様性を極めており、かなり大きな問題を抱えている教師が複数いたりする点も困難さを招く要因として挙げられるだろう。

   しかし、特に目立つ問題点は校長の話に出てくるように、意欲に欠ける教師たちが少なからずいる点である。彼らは進学校への転勤を希望している事が多く、そのほとんどは自分の現勤務校を進学校へ転勤するための、ただの一時的通過点として捉えがちで、ややもすると日常的に不本意で残念な思いを引き摺りながら過ごしている。しかも進学校を志向しているため、生徒指導の手を抜くことが多く、かつ授業も難易度を下げようとしないため、生徒の実態からかけ離れた指導や授業を続けがちとなる。こうした教師たちが一定の割合を超えてくるとたちまち学校の評判が悪くなり、入学試験で定員割れとなる危険性が高まってくる。

   生徒たちもまた進路が多様な分だけ、逃げ道が多い。すなわち部活動推薦で入学してきた生徒の多くは次も推薦で進学しようとするため、一般受験のための準備は怠りがちとなる。彼らは部活動に専念するあまり、学力向上には元々関心が高くない。中には部活動の実績で次の進学先も決めようとする生徒もいる。では在校中、部活動に本当に専念するのかというと、実はそうでもない。練習が苦しくなると、塾に行く…などといって勉強を口実に練習から逃げ出す者も出てくる。学習、部活動どちらにせよ中途半端な印象が拭えないのが、中堅校の生徒たちなのである。

 私の経験であるが、当初、センター試験(現共通テスト)の受験希望者が若干名いたものの、全員、二学期に推薦で進学が決まってしまい、誰一人として共通テストを受験しない年があった。いわゆる偏差値で50を超える市内の公立高校のトップに位置していた学校であるにもかかわらずセンター試験の受験者ゼロ…これにはビックリ仰天であった。

 9月中に推薦で進学がほぼ決定した少なからずの生徒は、それまで真面目に取り組んでいた授業を、10月以降、まさに手に平返しでサボり始める。中には運転免許を内緒で取得し、バイクを乗り始める者もいたりする。成績は二学期後半からガタ落ちし、進学先の大学から課された課題の提出までサボりだすような者も出現する。こうした生徒たちの進学先での成績をあくまでも個人が特定されない、大雑把なデータではあるが、何度か大学側から見せてもらったことがある。地元では伝統のある有名私大だが、推薦入試で入学した学生の半分近くが成績不振で留年、退学者すらチラホラ出ていた。もちろん苦労して一般入試で入学した学生でも成績不振に陥る者がいないわけではないが、数は明らかに少ない。推薦入試の合格によって瞬く間に遊び癖、サボり癖をしっかりと身につけてしまった一部の残念な生徒は中堅校では決して少なくなかったのである。

 大学側でもこうした事態をかなり憂慮していたようで、別の地元私大(こちらも伝統校)では、たとえ推薦入試で合格していたとしても入学前の課題を出さない生徒は合格を取り消す、との発言があった。またそうした生徒を送り出した高校の指定校推薦枠を減らす、という大学も実際にあった。生徒数の減少に焦り、現在の総合選抜型入試(かつてのAO入試)や一般推薦の枠を拡大する私大が多くなる一方で、こうした悩ましい問題を抱える大学も増えてきたようである。

 私は以上のような経験から、これらの問題を主に発生させているのがもっぱら公立の中堅校であった、と考えている。教師にとって意外に感じるほどに中堅校の多くはけっこうな困難校だと言っても過言ではない。中堅校に転勤することとなった教師はあらかじめ相当の覚悟を固めておく必要があると考えるが、いかがか。

公立高の履修単位数、約98%が学習指導要領の最低基準を上回る

 リセマム 2024.6.27

 単位制を取る定時制や通信制ならば普通は最低基準の年間履修単位数を基に担任が生徒の履修指導を行う。もちろん単位制なので生徒が多少、単位数を多めに履修申請することは頻繁に見られる。また単位制ならば卒業年次まで基本的に留年が無い。年度途中で家庭環境が激変したり、心身の状況が悪化したりしても、クラスが下の学年と一緒になる心配は卒業年次以外無いのだ。こうした点は中学校時代、不登校気味の生徒にとっては極めて喜ばしいシステムだろう

 また単位制を取っている場合、1~2年次で真面目に目いっぱい単位数を稼いだ生徒たちは、3~4年次ではかなりゆとりのある時間割となっている。これもまた進学を考えてバイトを必須とする生徒たちにとっては大きなメリットになっている。特に三部制の定時制などでは結果的に年次が進むにつれて生徒によって来校する時間や帰宅する時間がかなり異なってくるため、HR、清掃の時間設定が難しくなるといった欠点はあるものの、時間の割り振りが生徒たちのそれぞれの家庭事情に応じられる柔軟性を持つ点は単位制が高く評価される所以であろう。

 しかし多くが学年制をとるごく普通の全日制普通科では各学年で取得できる単位数がおおむね画一的に決められている。このため全学年で同じような単位数の時間割となっている学校が多い。もちろんほぼ全員が同じ時間に登校し、下校している。その中で進学校では受験を意識した選択科目の講座を3学年で数多く用意するため、どうしても最低基準を上回る履修単位数となりがちである。

 全日制普通科の教育困難校であっても成績や出席数が足らずに単位を落とす生徒が続出するので、1~2講座程度ならば単位を落としても何とか3年間で卒業できるよう、あらかじめ多めの単位数、講座数が設けられている。

 以上のことから公立高校の履修単位数は概して学習指導要領を上回ることが多くなると考えられる。しかしそのこと自体は大した問題ではあるまい。ここで問われるのは果たして全日制普通科の高校で、今後も引き続き今までのようなリジッドな学年制を取る必要があるのか、否か、である。実は何でもかんでも全国画一にして管理しやすい体制を志向する、といった日本の悪しき教育行政の伝統がこの問題の背景にも潜んでいるのではあるまいか。

 すなわちできるだけ必修科目ばかりにして選択科目を少なくし、一講座でも落とすと留年決定…生徒からすれば選択の余地が無く、一講座も落とせない学年制の不自由さの中でひたすら我慢を強いられるカリキュラム…これは既に在宅ワークが増えて勤務時間もフレキシブルになり、転職の自由も拡大してきた近年の労働環境の変化とのミスマッチを起こしかねない、かなり時代錯誤の教育体制ではないだろうか。

 本来ならば3年間の最低取得単位数は74時間であり、一日5時限、週5日の授業日数で3年間を送れば卒業できるはず。これは全日制普通科高校であっても同じである。仮に一日の日課が5時限とされれば放課後を自分なりに有意義に過ごしたい生徒にとってはうれしい限りである。逆に遠距離通学や早起きが苦手な生徒ならば2時限目から学校の授業が始まると嬉しいに違いない。学校の時間割は一日6時限で組まれるが、生徒はそのうち自分の都合に合わせて5時限だけ受講すれば良い、というシステムは現行の学習指導要領でも十分可能に見えるのだが、いかがだろう。

 もちろんこのプランを実行に移すには教師の数を増やす一方で部活動の指導を無くすといった大胆な仕事量の削減が大前提となる。単位制による教師の授業負担の増大はかなり過酷なものであり、現在のブラックな学校の現状を変えない限り、単位制の導入はまったく不可能と考える。

 とはいえ単位制のメリットはどの授業においてもほぼ同じクラスのメンバーと一緒であり続ける、固定した人間関係の窮屈さから少しだけ生徒を解放する点にも見いだせる。これは単位制がイジメなどクラスの人間関係に起因する不登校や自殺問題への有効な対応策となることを意味する。戦後の教育改革で新制高校の三原則の一つであったはずの総合制の導入を一部でも実現するには単位制を念頭に置いたカリキュラム改革はもはや不可避ではあるまいか。

 繰り返しになるが、こうした抜本的な改革を行う上でも教師の負担軽減こそ、最優先される「改革」なのだと考えるが、いかがだろう。

中堅がどんどん辞める職場 「時間の無駄な朝礼、昭和みたいな会社。働き方改革と

   は真逆です」と語る女性 キャリコネニュース によるストーリー 2024.6.23

   まさに一部の学校でも同じ様な事態が進行している。職員会議はもはや話し合いの場ではなく教育委員会や校長からの指令を伝えるか、事務連絡の場に過ぎず、ほぼ教師全員が反対している案件でも校長の一存で決定してしまうのが千葉県の現状。そこには民主主義の精神の欠片すら、残っていない。当然、まともな教師ほど早く異動しようとする。毎年、異動する教師が多いため、煩雑を究める仕事の伝承が困難となっており、新任はいきなり主任やクラス担任を任せられる。こうした学校では4月早々から仕事上のミスや不祥事が連発しがちとなる。

 50年近く前から管理主義教育の権化として「東の千葉、西の愛知」と並び称された千葉県。その頃と比べても教師が置かれている境遇は改善されるどころか悪化する一方であり、学校の不祥事はいよいよ連発している。せいぜい改善されたと言えるものは校舎の一部にようやくクーラーが設置されたことと通知表を手書きしなくても良くなったことぐらいだろう。

 かつて教師が自主的研修に取り組むことを可能とした時間的余裕は完全に奪われ、学校運営に関して激論を戦わせた職員会議も今はつまらない連絡事項で埋め尽くされてしまった。教師の仕事もまたアリバイ作りの不毛なブルシットジョブの塊と化し、授業の工夫に費やす、もっともやりがいを感じられるはずの時間は欧米の教師とは比較にならないほど貧弱なものとなってしまった。このままでは一体いつまで教師たちを教職に引きとどめておくことができるのだろうか、疑問でしかない。

 「働き方改革」とは本来、教師たちの業務量を削減することを第一目標にすべきものだろう。ところが現実の学校ではもっぱら残業時間を削ることだけに特化し、退勤時間の厳守ばかりが徹底される。結果的に膨大な量の校務持ち帰りが常態化し、多くの残業は自宅での「勤務外時間」中に隠蔽される。のみならず帰宅途中のUSBなどの紛失による個人情報漏洩の危険性をも高めてしまっている。

 こうした実態こそが世に言うところの「働き方改革」が現場にもたらしている本当の姿であろう。文科省も世間もその現状を知ることはほとんどあるまい。残念ながら学校もまた「昭和」の中にずっと封印されたままなのだ。学校のブラック化とブラックボックス化は何一つ改善されていない…それが教師たちの早期離職、休職を招き、教師志望者を減らしている真因なのではあるまいか。

 

国立大を「授業料値上げ」に追い込んだ「真犯人」 大学はただ「ピーピー騒いでいるだ

   け」なのか 東洋経済オンライン   古川 雄嗣 によるストーリー 2024.5.28

 とりわけ教育いう観点から見れば国立大学の現状はまさに「亡国」的な悲惨さに直面しているのかもしれない。新自由主義的競争原理の導入によって営利目的の研究が肥大していく分、営利に直接結びつかない研究や教育がおざなりになっている…とすれば確かに日本の行く末は相当、ヤバイだろう。

   東京都や大阪府で進みつつある、ある種の高校教育の民営化もまた同じ論理で進められているとすれば、これはこれでヤバイのかもしれない。しかし、大学教育とは違ってこと高校教育に関しては現今の公立高校の停滞ぶり、低迷ぶりが甚だしく、もはや放置できる現状では決してあるまい。対してかつての国公立大学には現今の公立高校ほど酷評されるほどの低迷ぶりが表面化していたわけではなかった。にもかかわらず政治的判断で独立行政法人化が強行されてしまったのである。

 教育機関をもっぱら営利目的に従属させるような発想は児童生徒学生たちの学習における主体性を損ないかねない。そもそも彼らは営利目的オンリーで学習意欲をかき立てられてはいない。学びたいという欲求の源は多種多様であり、個性的である。彼らの多様性を受容し、個性豊かに育むためにも、国立大学が置かれている状況は早急に改善すべきだろう。

 しかし公立高校の現状は硬直化が甚だしく、大学とは違って生徒たちの多様性、可能性を押しつぶす側面の方が目立ってきている。さらに画一的で管理主義的な教育行政の下で教師たちまでが窒息してきている。文科省や都道府県教育委員会の無意味で厳しい統制が続く限り、おそらく高校教育の行き詰まりは打開できないだろう。したがって高校教育の将来は、N校などの躍進ぶりを見るにつけ、公立よりも自由裁量の余地が大きい私学の創意工夫にまつところが大きいと思うが、いかがだろう。

日本の教育現場にもEBPM(証拠に基づく政策立案)を! EBPM導入によるメリッ

 トを慶應義塾大学・中室教授が解説TOKYO MX+ によるストーリー 2024.4.4

 これまでまともなデータすら持たないままできた日本の学校教育の世界は自分たちの教育が欧米に比べて惨めなほどに遅れているという歴然たる事実を頑なに認めようとして来なかった。日本が遅れているという事を示すまともなデータが手元に無いことを良いことに、長らく開き直ってきたのだ。近年ではPISAの得点ばかりを気にしているうちに、かえって日本の学校教育は一層の遅れをとり始めてしまったと考えるべきではないのか。

 文科省は学校の実態、教師の実態を正確につかむ努力を徹底的にサボってきた。政治家や官僚たちの得点稼ぎばかりを目指す政府が休みなく繰り出すエセ教育改革の連打こそが教師を疲弊させ、学校の教育力を低下させた張本人ではないのか。真っ先に急ぐべきは教師の業務の徹底的削減を断行することであり、現状では教師たちにそれがどんなに素晴らしい内容であったとしても、教育改革を担っていけるほどの余力は既に残っていないだろう。加えてこのままでは教員採用試験の受験倍率は低下する一方である。すなわち日本の学校崩壊は目前に迫っているのかもしれない。

 もちろん信頼しうるまともなデータの収集も急がれようが、過去のデータが限られている分、残念ながらデータに基づく政策立案は当分先の話、と見てよい。一刻を争うべきは業務の精選を通じた教師の負担軽減の方であろう。

「どの都道府県で育つか」でこれほど違う大学進学率、背景に高校制度…普通科

 88.6%の東京、地方との圧倒的な機会差

 JBpress 松岡 亮二 によるストーリー 2024.4.5

 この記事でも文科省や政府の打ち出す教育政策に科学的な根拠の希薄さが指摘されている。世界ではいわゆるエビデンスに基づいた政策の立案が求められているのに、安倍政権が行った「教育改革」の策定からは教育学者、とりわけ重要な役割を果たすべき松岡氏のような教育社会学者がほとんど外されていたことを思い出してしまう。しかも「教育改革」への評価は客観性を欠き、ただの自画自賛に終始してきた点も見逃せまい。アノ犯罪的な教員免許更新制への振り返り方を見れば、これまでの教育政策の多くが実際には政治家や官僚の点数稼ぎに過ぎなかったと思わざるを得ないのだが、いかがだろう。

私人逮捕なぜ称賛?真山仁さん 背景に「何言ってもダメな社会」

   毎日新聞 によるストーリー  2024.1.10

 国民の間に広がりつつある無力感、閉塞感の正体を突き止め、そこから脱却する方途を探りたい。暗記と特定の考え方を押し付ける画一的で管理主義的な日本の学校教育を変えていくことも一つの方途。これまでどんなに批判されても、否定されても、「何言ってもダメ」だった学校、ダメな教師、ダメな教育委員会、ダメな文科省の壁をどう崩していくのか、ぜひ授業で討論させたい。

【日本軍の敗因】「悲惨な結果を生むリーダー」7つの共通点

 ダイヤモンド・オンライン 書籍オンライン編集部 によるストーリー 2023.7.4

 先の大戦における日本軍の敗因を探る中で日本人が伝統的に抱えてきた7つの「失敗の本質」が見いだされるという。軍隊と学校とは日本の富国強兵化、近代化を推進するための車の両輪であり、両者は兄弟のように近しい関係にあるとされている。したがって、以下の7点は学校という組織にもほぼ共通する弱点であると考えても差し支えないだろう。

 

 ① 「戦略性」──俯瞰的な視点から最終目標への道筋をつくれない

 ② 「思考法」──革新が苦手で錬磨と改善が得意

 ③ 「イノベーション」──ルールをつくり出せず既存のルールに習熟する

 ④ 「型の伝承」──創造ではなく「方法」に依存する

 ⑤ 「組織運営」──勝利につながる現場活用が苦手

 ⑥ 「リーダーシップ」──現実を直視できず、環境変化に合わせて判断できない

 ⑦ 「メンタリティ」──「空気」と同調圧力、リスク管理の誤解

 

 実際、太字にした部分などは日本の学校にもズバリ当てはまる組織風土に思える。現在の急速な技術革新にともない、柔軟で斬新な人材育成策が求められる中で、日本ばかりが多くの場面で世界に遅れをとってしまう大きな原因が企業社会だけではなく、日本の学校教育にもあることを示唆していると考えるが、いかがか。

 ブラック校則をいつまでもはびこらせ、相変わらず精神的鍛錬を軸とした部活動や学校行事、個性や多様性を犠牲にした画一性の強要などを温存してきた学校教育の頑強な保守性は、日々の革新を迫る、変転目まぐるしい現代社会との間に大きな齟齬を生み出してきていると考えられないだろうか。

 

 もちろん学校教育に関わる法制度の見直しや文科省や教育委員会の組織改革だけでは学校を変えることが出来ない。学校教育の改革を実効あるものとするには現場における改革の担い手である教師自身の改革が伴っていなければならないはず。まずは教師の意識や能力、技術、適性の見直しが必須となる。

 すなわち大学における教師養成教育の抜本的な改革(一斉講義形式からの脱却を目指すべく、探求型の個別学習・グループ学習や実験・調査・討論を軸とする授業力の養成を軸とする、今以上に充実したカリキュラムを大学では組むべきである)を基本的な前提とする包括的な観点からの法制度や組織などの見直しが行われる必要があると考えるがいかがか。

 

松谷創一郎×宮台真司×神保哲生【5金スペシャル映画特集+α Part1】ジャニーズ

 を「サンクチュアリ」(聖域)化し、ジャニー喜多川を「怪物」にしたものとは

 videonewscom  2023/07/01  1:56:11

 学校社会もまたジャニーズ事務所が君臨する芸能界やマスコミと同様に聖域化してしまい、法律以上に学校社会特有の掟が幅を利かす村社会、アウトローの社会なのかもしれない。だからこそ事件の隠蔽が横行し、不祥事が多発してもブラック校則や一斉講義形式の授業が残存し続けるのだとすれば、ジャニーズ事務所の問題と同様、学校社会もまた、一度は組織の膿を出し切らなければなるまい。

 

宮台真司】"他人を見捨てる"「日本社会」なぜ助け合わないのか?

   NewsPicks /ニューズピックス 2023.5.20

 現代日本の何がダメになっているのかを根本から見直す、有意義な見識に満ちていると思うがいかがか。民主主義を危機に導く「民意の劣化」をもたらしたのはもっぱらマスコミと学校であろう。特に学校教育の責任は重大であると考えるが、いかがだろう。

 民意を育てるには国民の知る権利が最大限保障されている事が一つの基本条件であるはず。しかしほとんど情報統制の道具と化してしまったマスコミや学校教育がもたらす情報の偏り、加えて本来、周知せしめるべき情報の隠蔽とがあいまって日本国民の「愚民化」を推し進め、今に至る…

 政治について論ずることの出来ない主権者の増加は再び民主主義の暴走を招くに違いない。未熟であっても論じ続ける場と機会が乏しい日本の社会を作り出したのも、生徒の意見を尊重せず、服従と忖度ばかり一方的に強要する一斉講義形式に依存してきた日本の学校教育ではなかったか。

参考記事

今の職場で本当に大丈夫?メンタルに悪影響を及ぼす「ブラックな職場」の特徴5つ

 ライフハッカー編集部 によるストーリー 2021.8.14の記事再編集

 1. 自身の権力と力の誇示に必死な上司・先輩がいる

 2.職場や現状に対する「あきらめ」がある

 3.陰口・噂好きな人が影響力を持っている

 4.フィードバックが個人攻撃になっている

 5.情報の周知が十分になされない

 以上の5点がブラックな職場に見られる特徴だというが、学校もこの5点を満たす職場が増えてきているだろう。生徒たちには資料を読ませる前に、あらかじめメンタルが病みやすい職場、組織の特徴をできるだく数多く挙げさせておくと話が進みやすくなるだろう。学校教師集団にはどのような特徴があるのかも挙げさせておくとさらに議論が活発化すると思うが、いかがか。

「教員や学生の声も聴いて」働き方改革めぐり、若手教員ら国に要望

 朝日新聞社 によるストーリー 2023.11.8

 上意下達の権化たる文科省がこうした要求に耳を傾けるはずもなく、相変わらず下らない弥縫策を自慢気に示すだけになるだろう。

首都圏の公立中高一貫校の志願者が大きく減っている4つの「理由」とは?【2024

   年中学入試を読み解く】 AERA dot. 井上修 によるストーリー 2024.5.22

   私立中高一貫校は人気となり、公立中高一貫校は不人気となった理由としてこの記事では以下の4点を挙げている。

      ①説明会など学校を知るチャンスの少なさ

      ②教育の硬直性

      ③施設の古さと柔軟性の欠如

      ④高校無償化

 ②と③は重なる部分が大きいだろう。①もまた公立学校の弱点である。つまり①から③までは中高一貫校に限らず、公立校の限界を示す弱点である。それらに加えて公立校唯一の長所だった授業料の安さ、無償化が大阪府や東京都を先頭に私立にも適用されることになれば、もはや公立校の売りは何一つ存在しない。大阪府が先頭になって推し進めている府立高校の事実上の民営化は今後、全国的に波及するだろう。この動きが公立校と比較して相対的に自由で個性的な私学の取り組みを日本の学校教育全体に少しでも普及させることにつながるとすれば大いに歓迎すべき現象である。

大阪で私立高校ブーム、専願者が20年間で初めて3割突破 授業料完全無償化で選択

 に幅 産経新聞 2024.6.19

 上の記事を補完する内容となっていて参考になる。特に公立高校と私立高校との教員採用のあり方の違いから私立高校の優位性が説かれている箇所は納得できる。