⑩教育改革が進まない理由

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。
 

参考動画

全国35万人不登校時代を逆転!五十嵐立青の〈つくばメソッド〉【前編】#11

 東修平の対話チャンネル【公式】 2025/05/06  32:39

 つくば市が掲げた「教え」から「学び」へ、「管理」から「自己決定」へ、「認知能力偏重」から「非認知能力の再認識」へ、という三つのスローガンは決して目新しいものではないが、それらを実際の学校現場に実装していくには大きな困難が伴うであろう。特に行政と教育行政との間に立ちふさがる壁はなかなか手ごわいようである。

    五十嵐氏は時間をかけて壁を乗り越え、教師の負担を減らすためにも教育予算を増額し、スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカー、学校支援員を増員して教育と行政をつないでいったという。こうして東氏、五十嵐氏、高島芦屋市長、石丸氏らが続々と地方行政の立場から学校改革に乗り出してきており、教育改革は教育界の外側から少しずつ実現しつつある。

 工藤氏の麹町中学校のように、そろそろ本家本元の教育界の内側からも大胆な改革が表面化してきて欲しいところであろう。

【激論】国80億vsつくば5億!五十嵐市長が語る不登校"逆転パッケージ【後編】

    #12 東修平の対話チャンネル【公式】 2025/05/09  30:20

 学校の保守性、閉鎖性を管理職の一部が創り出している傾向はどこでも見られるだろう。管理職の適性が厳しく問われるべきではある。しかしつくば市を見ると、そうした壁を市長がある程度まで崩すことは可能なのかもしれない。

【成田修造vs川上量生】日本教育の失敗!?受験勉強は必要か?【ZEN大学vsHR高

    等学院】 ReHacQリハック【公式】 1:28:35

 未来の学校のあり方を探る上でドワンゴ学園の動きを知っておくことは必須であろう。N高を中心とする通信制高校に加えて通信制の大学であるZEN大学をスタートさせた背景にある川上氏の狙い、日本の学校教育に対する批判は教師にとって大いに参考となるはず。

 専門分化して学際的な研究が難しい日本の高等教育においてZEN大学が掲げる学問横断的な学習の重視、大学で横行する徒弟制的仕組みの撤廃などは非常に魅力的。いわゆるオンライン大学としてN高と同様、数多くの学生を集め、高等教育のすそ野を拡大していく戦略も期待大である。

 行き詰まりを見せている日本の学校教育に大きな風穴を開けつつあるドワンゴ学園のチャレンジからは決して目を離せないだろう。

子どもの教育目的に移住する中国人たち…日本の教育はどうなる?

    塾講師チャンネル 2025/05/07  15:53

    日本社会の変化していく兆候がどこに表れてくるのか、身近な現象から探る上で参考となる動画。日本の経済的衰退と学校教育の停滞、中国の武力侵攻に頼らない日本社会への浸食…この動画から読み取れること、推測できることは多い。ぜひ、生徒たちに一つでも数多く、日本社会変質の兆候を読み取らせたい。

【最新0410】遂に明らかに!再生の道が参院選で目指すものとは・・・【石丸伸二 

   リハック 再生の道】   BDV NEWS【政治のエンタメ化】2025/04/10 14:31

    再生の道が今後の国政においては教育投資の充実をワンイシューとして打ち出すことを石丸氏がついに明言した。とりわけ公立高校への投資を最優先するとのこと。高校のブラック化を阻止することは確かに喫緊の課題ではあるが、公立高校に予算をつぎ込んだだけで教育のアップグレードが出来るとは到底思えないのは私だけではあるまい。酷く硬直化してしまった公教育においては、教育行政側の大胆な改革をも伴わない限り、公教育の再生自体、絶対的に不可能だと思うのだが、いかがか。

    学校教育のリニューアルを本格的進めるならば、教育基本法、学校教育法の改正だけではなく、文科省及び各教育委員会の組織改革や大学での教員養成の見直しをも含む、大規模で抜本的な変化が求められると私は考えている。これは教育投資の増加だけで成し遂げられるはずがあるまい。

 仮にN高のような、あるいは非一条校のフリースクールのような大胆な試みを現状の「古くて貧しい」公教育の枠組み内で実現しようとするのは既に完全な無理ゲーであろう。そして民間の資本力や技術力を学校教育に生かして教育改革のスピードアップを図るためには、地方で依然として大きなシェアを占める、旧態依然の公教育の存在がひたすら改革の足を引っ張るだけの、因循姑息な障害物となりつつあると思うのだが、いかがか。

 国政政党としての政策に学校教育の改革を打ち出すだけならば異論は無いが、高校での公教育をメインターゲットとする事には反対である。法制度の抜本的な改革を伴わない、教育予算の増大レベルの「改善」で公立高校が再生できる…とするような現実離れした絵空事にはまったく違和感しか覚えない。

フィンランド教育の失敗:日本の詰め込み教育はそこまで悪いのか?

 社會部部長  2024/08/14 46:19

 この動画、一見、データを基に客観的な立場でフィンランド教育を批判しているように思えるが、実は極めて短絡的な意見に過ぎないと私は考える。もちろんフィンランド教育を全面的に否定するといった単純な内容ではなく、また教師の待遇の悪さなど、日本の学校教育の欠点も指摘しており、表面的には公平な視点を保っているようにも感じられる。ただし、じっくりと内容を検討してみるとこの動画にはフィンランド及び日本の学校教育への本質的な理解が決定的に欠けていることに気付くだろう。

 そもそもただのペーパーテストを通じて示されるに過ぎないPISAの国別の平均的学力はあくまで学校教育の成果の一断面を示す指標の一つに過ぎない。PISAの結果だけで国の教育レベルを云々するのはいかがなものか。PISAの結果を取り上げてフィンランド教育の失敗を過剰に説くかたわら、日本の管理主義的、画一的学校教育を擁護しようとするこの動画の論法は明らかに間違っていると考える。

 また識字率の高さが画一的で管理主義的な教育によって実現された、という認識が仮に正しいとしても、途上国ならばともかく、現代の先進国としては識字率の高さを持って国の教育レベルを測る尺度とするような認識は余りにも時代遅れ。過去、識字率を高めたとされる教師主導型の管理教育を、今後も有効な教育方法として正当化するかのごとき論法はもはや時代錯誤に過ぎないだろう。

 現在、直面している日本の学校教育の危機はもちろん教師の待遇の悪さ、教師不足などにも起因するが、おそらくそれだけではあるまい。日本の画一的、管理主義的教育がはらむ負の機能によって広範に生じていると思われる児童生徒たち及び教師たちの自己肯定感の低さ、社会への当事者意識の低下なども、日本の民主主義を将来的に脅かす深刻な問題であるはず。

 児童生徒のみならず、教師にすら自己決定権をまともに行使する機会を与えてこなかった日本の管理主義的公教育自体が、IT化時代の趨勢と決定的な齟齬を生じている側面は決して見逃せまい。集団主義的一斉指導から個別最適化ならびに個性化へと教育の舵を切り、イジメを見逃さない、豊かな多様性が尊重される学校社会を構築する…そうした方向性を強く打ち出すには第一に教師主導による一斉講義形式の授業を最小限にとどめる工夫が絶対的に必要となるだろう。

 一方的で押し付けがましい公教育から、教師、児童生徒ともに主体的で意欲的に学ぶ授業の創設こそ、日本の公教育に切実に求められている本質的「改革」であり、小手先の「改善」を説く本動画には個人的に万不同意である。

参考記事

「ますます教育格差も」 自公維の高校無償化に、和歌山県知事が苦言

   毎日新聞 2025.3.7

 高校の無償化が公立高校の志願倍率を下げ、私立高校のシェアを拡大することで教育格差の問題を悪化させるという意見は、保革の立場を超えてかなり多く支持されているように見受けられる。確かに東京都や大阪府のような、公立高校の低受験倍率状況がこれを境に全国に広がってしまう可能性は決して低くは無いだろう。

 議論が錯綜しがちに見える理由はこの政策が一見すると、家庭間の経済格差によって生じてしまいがちな、教育を受ける機会の不均等さへの是正措置となりうるように見える点にある。しかし維新の会の真の狙いは、そんなことよりも無競争的であるがゆえに自己改革を怠りがちな公立高校と教師たちの淘汰、すなわち学校間、教師間の競争を煽って公教育の民営化を強力に推進することにあるように見受けられる。そうした立場からは公立高校の没落はむしろ大歓迎されることになるだろう。

 ところが長らく文科省が及ぼしてこれた高校教育における強大な影響力、統制力の大きな低下を恐れる官僚たちや自民党の保守派は、私立よりも管理統制しやすい公立高校の没落を必ずしも歓迎しないのではあるまいか。だからこそ和歌山県知事のような、格差拡大の論理を用いて高校無償化を危惧し、本音では公教育の保守性を固守せんとする…そういった動きも各方面で見られるのだろう。

 教育の画一性を緩め、過剰な管理統制主義を排して児童生徒の個性や多様性、自己決定権を重んじる方向へと大胆に舵を切ろうとするのであるならば、改革への動きの鈍い公立高校の淘汰は少なからずプラスに働くかもしれない。

 私立高校のシェアがたとえ半分を超えたところで、和歌山県知事のように教育の格差が拡大するはずだと決めつけるのはいかがなものだろう。実際には、彼の主眼は教育の格差拡大を脅し文句に使って財政負担の避けられない高校教育の無償化を妨害しつつ、公立高校のシェアを守ることで公教育が孕んできた頑迷な保守性の存続を画策することにあるのではあるまいか。

「決まったことが伝達されるだけ」になってしまった学校の「職員会議」。「学校

 運営にかかわりあいたくない」という若い教員も多数派に

 日刊SPA! の意見 2025.1.7

 児童生徒の当事者意識、主権者意識を育む立場の教師たちの心中に所属する学校への当事者意識がほとんど見られない点は、学校がガラパゴス化の道を歩み続けてしまう大きな原因の一つであろう。2000年から職員会議は校長の職務をサポートすることと位置付けられた。これはあたかも大日本帝国憲法下での天皇と議会との関係のようであり、民主主義からは程遠いのが現在の学校である。こうした非民主主義的な学校運営が職場を腐敗させてしまったのではあるまいか。学校教育法改悪の結果、職員会議で多数決を取る場面がなくなり、職員の意向を無視して校長の独断が横行するようになったのは千葉県だけではあるまい。

 企画委員会のメンバーになったことがあるが、その企画委員会ですら、今は校長らの諮問機関に成り下がっている学校は少なくないのではあるまいか。意見は言えても結論は校長任せ…これで当事者意識が生まれるわけがあるまい。

 こうした結果、様々な問題を抱えて学校が定員割れを起こし、地域住民の信頼をすっかり失っている状況であっても、新任の教師たちの多くは「外れクジを引いた」とばかりに転勤希望を出すだけとなる。自分たちが学校を改善しようとする意欲は近年、ほとんど見られなくなっているようである。むしろ下手に意見を言えば、多くの学校では「あいつは管理職を目指している」と後ろ指を指されるのがオチであろう。

 千葉県の公立高校受験の志願状況などをみると新学年2クラス、新入生80人の募集なのにわずか20人台の志願者しか集まらない高校が複数、存在している。つまり1クラス分すら集まらない、大規模な定員割れがそこでは生じている。確かに少子高齢化の中で過疎地の学校は生徒集めに苦戦を強いられている。しかし中には比較的、都市部に近い立地にありながら、20年余りも危機的な状況に置かれている高校もある。そこでは少子高齢化を定員割れの口実にするわけにはいくまい。あきらかに学校経営の失敗がその高校には随所に見られるはずである。

 かつてはそうした教育困難校でも危機感を持った管理職や教師たちが中心となり、どうすれば少しでも志願者を増やせるのか、学校の荒れを沈静化できるのかについて各種会議で白熱した議論を続けていた。私も20年近く前に学校改善委員会を組織して教師や生徒たちを対象にした質問紙調査を行い、その結果を踏まえた学校の改善案を職員会議で幾度か提示した経験がある。こうした動きは当時、どの学校でもごく自然発生的に見られていたはずである。

 しかし、教育困難校では今や誰もが普段は押し黙ったまま、大して文句も言わずにただ年末になると転勤希望を出し続けるアリサマ。管理職も、定員割れに対して県から何ら責任を問われることが無いため、入学時の定員割れは放置されたまま。他方で自分の管理責任が問われてしまう教師の不祥事を極端に恐れている。結果的に厳しく教師たちを隅々まで管理しようとしているのが多くの管理職の実態である。自己保身こそが管理職の管理に対するインセンティブを生み出しているのだ。

 こんな状況で学校現場から自己改革に向けてのインセンティブが生まれるわけはあるまい。児童生徒の当事者意識の薄さを問う前に、教師たちの学校運営者としての当事者意識を高めていく工夫とは一体何なのか、文科省はぜひ熟考すべきだろう。

生成AIの学校活用ガイドライン、文科省が改訂 リシード 2024.12.27

 今や生成AIを学校現場でも積極的に活用することが求められる時代であることは間違いなかろう。とはいえ、生成AIを自在に活用できるだけの知識、技術を身につけられるだけの時間的余裕は今の教師たちに残されているのだろうか。これもまた教師の自腹、自助努力に結局は依存することにならないか。

   特に40代以降の教師はかなり手こずるのではないか。夏休みや春休みなどに、各学校を会場とする無料の出前講習会を最優先で開催するといった工夫はできないのであろうか。生成AIを利用できる教師と利用できない教師との間には今後、明らかに埋めようもないほどの落差が生じてしまうだろう。その技量の有無が人事に反映されてしまうのはもはや時間の問題である。教師間に、さらには生徒間に生成AIの利用が出来ない「IT難民」を増やすことだけは避けたい。

オワコン化した従来教育、捨てられる教師の末路

 塾講師チャンネル  2024/01/26  15:59

 小林氏が指摘する共通テストの問題点に注目したい。教育内容の国家統制につながるテストは今すぐにでも廃止するのが一番。小林氏が提案するようにせめて限定的に利用するだけにとどめるべきだろう。いずれにせよ知識詰込みを中心とする画一的、管理主義的教育の見直しは必要不可欠。そのためには教育改革をうたい文句としながら非情にも学校のブラック化を推し進めてきた張本人であり、実際には教育改革における最大の障害物と化している文科省自身の根本的な組織改革がとりあえずは避けられないと考えるが、いかがだろう。もちろん、諸悪の根源は改革を捻じ曲げ、阻んできた老害政治の総本山である日本政府及び国会そのものなのだが…

 

参考記事

茨城県、2025年に教員採用改革…エン・ジャパン 2024.12.18

 一見、素晴らしい取り組みに見える茨城県の試みであるが、実は非常に危険な方向性も感じられてしまう。認識としては社会の進展に旧来の学校教育が取り残されつつあることは間違いない。外部の人材を積極的に取り入れる試みも正しい。

 しかし学校現場では旧来の教師たちが相変わらず多数派であり、校長、教頭もまたしかり。外部から招いた人材が多少は新風を学校に吹かせることもあるだろうが、それも一時的に過ぎない現象かもしれない。結局は「多勢に無勢」となりかねないのは東京の麹町中学校の現状が雄弁に物語っているだろう。「大山鳴動して鼠一匹」では時間と労力の無駄遣いに過ぎなくなる。

 改革を成功させる上で最終的にカギを握る教師の多数派を少しでも改革に向けて変えていくには、やはり少数精鋭作戦では無理がある。相当、まだるっこさがあるもの

の、教員養成教育の見直しや現職教員に対する研修内容の見直しは欠かせまい。ただしそうした取り組みに先立って解決すべき緊急の課題がある。

 学校改革の成否は一般の教師たちの取り組み次第であることは、一世紀も前から明らかにされてきた。一般教師が容易にはできないことを当面、外部人材で補う、という発想は必ずしも悪くは無いのだが、そこには大きな危険性が伴うことは学校全体に周知させておくべきだろう。

 最終的には教師全体が改革の方向を理解し、改革の実質的推進力にならなければ意味が無い。とすれば教師たちが改革に取り組めるだけの十分な時間的、体力的余力をあらかじめ設けておく必要があるはず。つまりまず最初に取り組むべきは学校の仕事の大幅な縮小、削減である。

 そして茨城県の教育委員会にそうした心構えがどれほどあるのか、社会は厳しく監視していく必要がある。でなければ今までと同様、「学校改革」という名で再三繰り返されてきた酷い仕打ちに、教師たちはまたもや疲弊し、挙句の果てに心身の極限まで追い詰められてしまうだろう。

 長野県の取り組みと同様、学校の仕事量の大胆な削減を先行させないような改革への取り組みは、それがどんなに素晴らしい目的を持つ、どんなに斬新なものであっても、決して釣られてはなるまい。そうした改革は結果的に教師の健康を蝕み、家庭生活まで破壊し、ついには学校全体、公教育全体を崩壊させ、児童生徒を混乱させるだけのものに過ぎない、と考えるが、いかがか。

 「教育改革」という名の「やりがい搾取」によって、その裏側で一部の教育委員会のメンバーの功名心の犠牲に捧げられてしまった教師たちの数々の屍を、もうこれ以上積み重ねることだけは絶対に許してはなるまい。その点、実に差し出がましい限りなのだが、茨城県の教師たちは今後、県の「改革」の動向に関して一層厳重な警戒をしておくべきであろう。

怒濤の出店で1兆円が見えたロピア!大きな進化と懸念される副作用とは

   DCSオンライン によるストーリー 2024.11.8

   とある業界で今、どのような企業の戦略が功を奏しているのか、なぜ功を奏しているのか、これらを知ることは経営の観点からすれば極めて重要であろう。もちろんすべての業界の動向についてまで学校としては知っておく必要が無いが、消費者の動向に大きく左右される小売業界の最新動向などは進路指導、就職指導にも生かせるので社会科教師や進路指導部員、学校管理職などはぜひ注目して欲しい。

 小売業界は飲食業界と並んでCMなどを通じ、児童生徒にとって比較的身近な存在である。その成功事例は社会の変化を捉えるための事例として、また生きた経済の動きを知るためにも授業で取り上げれば比較的とっつきやすく、理解しやすい。同時に校長などは学校経営の立場から時折、注目しておくべきポイントが潜んでいる。

 ロピアのケースで注目すべきは人材登用のスピード感が学校におけるそれとはまったく違う点であろう。教頭や校長といえば、通常、多くの教師にとっては最終到達点であり、30年以上の歳月を要して年功序列の階段を上った挙句にようやくたどり着ける、あたかもスゴロクの「上がり」のような地位となって見えるだろう。

 しかし私立高校の中には30代の若者を校長に大抜擢して一気に学校の評判をあげ、急成長を遂げた事例があるように、教育界でも旧来の年功序列型人事を見直す動きが無いわけではない。日本の政治や教育が旧態依然のままであり、時代の急速な変化にしっかりと追いつけてはいない印象があるのは、まさに年功序列人事による「老害政治」、「老害教育」が今の日本にはびこってしまったせいでもあるに違いない。

 実際、わずか数年で店長になれるケースまで存在するロピアでは店員たちの職務へのモチベーションが高く、出世のチャンスは年齢を問わずに存在している。それがロピアの急成長と店舗数の拡大へ、大いにつながっているようだ。

 また若手にも広くチャンスが与えられるため、旧来の伝統にとらわれない、新奇なアイディア、発想が続々と各店舗、各売り場から出てくる点もロピアの成長を支えているようだ。店舗の置かれている環境、消費者の動向の変化や特色をいち早く捉えて即、売り場に反映させていくスピードも速いのだそうな。

 振り返って学校教育界を見てみよう。斯界の変化の遅さは「金魚の糞」にもよく例えられるように、極めて遅い。よく言えば時代の風潮に安易に流されない、手堅さがある。時代の変化がゆっくりしていた時代なら、それでも大きな不都合はなかったかもしれない。しかし科学技術の進歩は日進月歩の勢いで、社会もそれに伴い、急ぎ足で大きな変化を求められている。「百年一日」のごとき日本の教育界だって、今や時代の急速な変化にそれなりのスピード感を持って対応すべき時代であろう。

 政治家と教育会の人事的若返りは日本が世界の進運に後れを取らないために、今こそ切実に求められているはず。過去の栄光にしがみつき、保身に走りがちな「老害」を一刻も早く排除して、清新な発想と失敗を恐れない、意欲に満ちた30代、40代の大臣や校長が普通に存在する日本でありたい。

授業時間は韓国の「10分の1」中学生の情報教育 教員不足も深刻なぜ? #みんなの

   ギモン 日テレNEWS NNN によるストーリー 2024.10.30

   最も力を入れるべき情報教育においてすら、惨めなほどまで世界から遅れてしまっている日本の学校教育の現状に背筋が寒くなる思いがする。日本経済停滞の原因となっている学校教育の遅れについて日本政府は一体、どんな認識を持っているのか、厳しく問い詰めたくなる。

   文科省はこれまで口を開けば自分たちの手柄話、自慢話を繰り返し、ひとたび問題が露見すると自分たちの失敗はすべて棚に上げて学校現場に責任転嫁してきた。そのツケはいずれ国民全体が支払わされることになるだろう。

   日本の教育政策、教育行政のどこに問題があったのか…一刻も早く、学校教育の根本的改革を進めていかないと手遅れになってしまうのではあるまいか。

「保護者からの個人的な電話に悩まされている」“うつ病”で休職する教師が激増…

 日本で“教員不足”が深刻化する本当の理由

 文春オンライン 池上 彰 によるストーリー 2024.8.19

 教師不足の原因に安い給料と重い負担の二つはよく挙げられている。特に負担軽減は一刻を争う問題であり、部活動の地域社会への移行を中心に取り組むべきことは多い。しかし給与の引き上げは一刻を争う問題ではあるまい。むしろ給与と仕事の責任の重さとは比例する部分があるため、給与の引き上げは時に負担や責任の増大を招きかねない。したがって中教審の給特法改正案は極めて危険な要素を秘めており、要注意である。

 教員不足の原因は他にも考えられるだろう。教師の質的低下、教師集団の強い同調圧力がもたらす職場の息苦しさ、年功序列型の給与体系と人事などにおける老害の跋扈、無能な管理職の存在、放置される職務分担の不公平、旧態依然な授業内容や授業方法の残存、事務仕事に見られるブルシットジョブの増大、的外れな研修の増加、教師の社会的威信の低下、児童生徒や保護者への個別対応の増加による集団的、管理主義的指導の行き詰まり…いずれも教職の魅力を酷く押し下げている現象であるにもかかわらず、これらに対する文科省の対応はイマイチ、学校現場の実情とズレており、トンチンカンな印象が強い。

 本質的に改革すべきは上意下達の管理主義的教育行政のあり方であり、教員養成教育の根本的見直しであると考えるが、いかがか。これらをぼやかし、ごまかしておきながら、給与の引き上げと新味のない教職の魅力アピールばかりで教師志望者の増大を狙うのはまさにキャッチセールスに等しい詐欺的行為ではないか。

公立高校の校長「現場と自治体の間」で揺れる苦悩 人手不足の中、問題行為起こした

   先生の対応も 東洋経済オンライン   濱井 正吾 によるストーリー 2024.7.11

   公立中堅校の困難さはまず進路多様校であり、進学から就職まで、幅広く指導できる力を教師たちに求められる点が挙げられる。生徒指導も生徒の多様性に応じた幅広い対応が求められるため、意外に厄介である。当然の事ながら、授業に対する要求も幅広く、受験対応から思考力重視、楽しさ重視など、授業も重点の置き方を時折、変えて臨む必要がある。加えてこうした学校は校数が一番多いため、教師もまた多様性を極めており、かなり大きな問題を抱えている教師が複数いたりする点も困難さを招く要因として挙げられるだろう。

   しかし、特に目立つ問題点は校長の話に出てくるように、意欲に欠ける教師たちが少なからずいる点である。彼らは進学校への転勤を希望している事が多く、そのほとんどは自分の現勤務校を進学校へ転勤するための、ただの一時的通過点として捉えがちで、ややもすると日常的に不本意で残念な思いを引き摺りながら過ごしている。しかも進学校を志向しているため、生徒指導の手を抜くことが多く、かつ授業も難易度を下げようとしないため、生徒の実態からかけ離れた指導や授業を続けがちとなる。こうした教師たちが一定の割合を超えてくるとたちまち学校の評判が悪くなり、入学試験で定員割れとなる危険性が高まってくる。

   生徒たちもまた進路が多様な分だけ、逃げ道が多い。すなわち部活動推薦で入学してきた生徒の多くは次も推薦で進学しようとするため、一般受験のための準備は怠りがちとなる。彼らは部活動に専念するあまり、学力向上には元々関心が高くない。中には部活動の実績で次の進学先も決めようとする生徒もいる。では在校中、部活動に本当に専念するのかというと、実はそうでもない。練習が苦しくなると、塾に行く…などといって勉強を口実に練習から逃げ出す者も出てくる。学習、部活動どちらにせよ中途半端な印象が拭えないのが、中堅校の生徒たちなのである。

 私の経験であるが、当初、センター試験(現共通テスト)の受験希望者が若干名いたものの、全員、二学期に推薦で進学が決まってしまい、誰一人として共通テストを受験しない年があった。いわゆる偏差値で50を超える市内の公立高校のトップに位置していた学校であるにもかかわらずセンター試験の受験者ゼロ…これにはビックリ仰天であった。

 9月中に推薦で進学がほぼ決定した少なからずの生徒は、それまで真面目に取り組んでいた授業を、10月以降、まさに手に平返しでサボり始める。中には運転免許を内緒で取得し、バイクを乗り始める者もいたりする。成績は二学期後半からガタ落ちし、進学先の大学から課された課題の提出までサボりだすような者も出現する。こうした生徒たちの進学先での成績をあくまでも個人が特定されない、大雑把なデータではあるが、何度か大学側から見せてもらったことがある。地元では伝統のある有名私大だが、推薦入試で入学した学生の半分近くが成績不振で留年、退学者すらチラホラ出ていた。もちろん苦労して一般入試で入学した学生でも成績不振に陥る者がいないわけではないが、数は明らかに少ない。推薦入試の合格によって瞬く間に遊び癖、サボり癖をしっかりと身につけてしまった一部の残念な生徒は中堅校では決して少なくなかったのである。

 大学側でもこうした事態をかなり憂慮していたようで、別の地元私大(こちらも伝統校)では、たとえ推薦入試で合格していたとしても入学前の課題を出さない生徒は合格を取り消す、との発言があった。またそうした生徒を送り出した高校の指定校推薦枠を減らす、という大学も実際にあった。生徒数の減少に焦り、現在の総合選抜型入試(かつてのAO入試)や一般推薦の枠を拡大する私大が多くなる一方で、こうした悩ましい問題を抱える大学も増えてきたようである。

 私は以上のような経験から、これらの問題を主に発生させているのがもっぱら公立の中堅校であった、と考えている。教師にとって意外に感じるほどに中堅校の多くはけっこうな困難校だと言っても過言ではない。中堅校に転勤することとなった教師はあらかじめ相当の覚悟を固めておく必要があると考えるが、いかがか。

公立高の履修単位数、約98%が学習指導要領の最低基準を上回る

 リセマム 2024.6.27

 単位制を取る定時制や通信制ならば普通は最低基準の年間履修単位数を基に担任が生徒の履修指導を行う。もちろん単位制なので生徒が多少、単位数を多めに履修申請することは頻繁に見られる。また単位制ならば卒業年次まで基本的に留年が無い。年度途中で家庭環境が激変したり、心身の状況が悪化したりしても、クラスが下の学年と一緒になる心配は卒業年次以外無いのだ。こうした点は中学校時代、不登校気味の生徒にとっては極めて喜ばしいシステムだろう

 また単位制を取っている場合、1~2年次で真面目に目いっぱい単位数を稼いだ生徒たちは、3~4年次ではかなりゆとりのある時間割となっている。これもまた進学を考えてバイトを必須とする生徒たちにとっては大きなメリットになっている。特に三部制の定時制などでは結果的に年次が進むにつれて生徒によって来校する時間や帰宅する時間がかなり異なってくるため、HR、清掃の時間設定が難しくなるといった欠点はあるものの、時間の割り振りが生徒たちのそれぞれの家庭事情に応じられる柔軟性を持つ点は単位制が高く評価される所以であろう。

 しかし多くが学年制をとるごく普通の全日制普通科では各学年で取得できる単位数がおおむね画一的に決められている。このため全学年で同じような単位数の時間割となっている学校が多い。もちろんほぼ全員が同じ時間に登校し、下校している。その中で進学校では受験を意識した選択科目の講座を3学年で数多く用意するため、どうしても最低基準を上回る履修単位数となりがちである。

 全日制普通科の教育困難校であっても成績や出席数が足らずに単位を落とす生徒が続出するので、1~2講座程度ならば単位を落としても何とか3年間で卒業できるよう、あらかじめ多めの単位数、講座数が設けられている。

 以上のことから公立高校の履修単位数は概して学習指導要領を上回ることが多くなると考えられる。しかしそのこと自体は大した問題ではあるまい。ここで問われるのは果たして全日制普通科の高校で、今後も引き続き今までのようなリジッドな学年制を取る必要があるのか、否か、である。実は何でもかんでも全国画一にして管理しやすい体制を志向する、といった日本の悪しき教育行政の伝統がこの問題の背景にも潜んでいるのではあるまいか。

 すなわちできるだけ必修科目ばかりにして選択科目を少なくし、一講座でも落とすと留年決定…生徒からすれば選択の余地が無く、一講座も落とせない学年制の不自由さの中でひたすら我慢を強いられるカリキュラム…これは既に在宅ワークが増えて勤務時間もフレキシブルになり、転職の自由も拡大してきた近年の労働環境の変化とのミスマッチを起こしかねない、かなり時代錯誤の教育体制ではないだろうか。

 本来ならば3年間の最低取得単位数は74時間であり、一日5時限、週5日の授業日数で3年間を送れば卒業できるはず。これは全日制普通科高校であっても同じである。仮に一日の日課が5時限とされれば放課後を自分なりに有意義に過ごしたい生徒にとってはうれしい限りである。逆に遠距離通学や早起きが苦手な生徒ならば2時限目から学校の授業が始まると嬉しいに違いない。学校の時間割は一日6時限で組まれるが、生徒はそのうち自分の都合に合わせて5時限だけ受講すれば良い、というシステムは現行の学習指導要領でも十分可能に見えるのだが、いかがだろう。

 もちろんこのプランを実行に移すには教師の数を増やす一方で部活動の指導を無くすといった大胆な仕事量の削減が大前提となる。単位制による教師の授業負担の増大はかなり過酷なものであり、現在のブラックな学校の現状を変えない限り、単位制の導入はまったく不可能と考える。

 とはいえ単位制のメリットはどの授業においてもほぼ同じクラスのメンバーと一緒であり続ける、固定した人間関係の窮屈さから少しだけ生徒を解放する点にも見いだせる。これは単位制がイジメなどクラスの人間関係に起因する不登校や自殺問題への有効な対応策となることを意味する。戦後の教育改革で新制高校の三原則の一つであったはずの総合制の導入を一部でも実現するには単位制を念頭に置いたカリキュラム改革はもはや不可避ではあるまいか。

 繰り返しになるが、こうした抜本的な改革を行う上でも教師の負担軽減こそ、最優先される「改革」なのだと考えるが、いかがだろう。

中堅がどんどん辞める職場 「時間の無駄な朝礼、昭和みたいな会社。働き方改革と

   は真逆です」と語る女性 キャリコネニュース によるストーリー 2024.6.23

   まさに一部の学校でも同じ様な事態が進行している。職員会議はもはや話し合いの場ではなく教育委員会や校長からの指令を伝えるか、事務連絡の場に過ぎず、ほぼ教師全員が反対している案件でも校長の一存で決定してしまうのが千葉県の現状。そこには民主主義の精神の欠片すら、残っていない。当然、まともな教師ほど早く異動しようとする。毎年、異動する教師が多いため、煩雑を究める仕事の伝承が困難となっており、新任はいきなり主任やクラス担任を任せられる。こうした学校では4月早々から仕事上のミスや不祥事が連発しがちとなる。

 50年近く前から管理主義教育の権化として「東の千葉、西の愛知」と並び称された千葉県。その頃と比べても教師が置かれている境遇は改善されるどころか悪化する一方であり、学校の不祥事はいよいよ連発している。せいぜい改善されたと言えるものは校舎の一部にようやくクーラーが設置されたことと通知表を手書きしなくても良くなったことぐらいだろう。

 かつて教師が自主的研修に取り組むことを可能とした時間的余裕は完全に奪われ、学校運営に関して激論を戦わせた職員会議も今はつまらない連絡事項で埋め尽くされてしまった。教師の仕事もまたアリバイ作りの不毛なブルシットジョブの塊と化し、授業の工夫に費やす、もっともやりがいを感じられるはずの時間は欧米の教師とは比較にならないほど貧弱なものとなってしまった。このままでは一体いつまで教師たちを教職に引きとどめておくことができるのだろうか、疑問でしかない。

 「働き方改革」とは本来、教師たちの業務量を削減することを第一目標にすべきものだろう。ところが現実の学校ではもっぱら残業時間を削ることだけに特化し、退勤時間の厳守ばかりが徹底される。結果的に膨大な量の校務持ち帰りが常態化し、多くの残業は自宅での「勤務外時間」中に隠蔽される。のみならず帰宅途中のUSBなどの紛失による個人情報漏洩の危険性をも高めてしまっている。

 こうした実態こそが世に言うところの「働き方改革」が現場にもたらしている本当の姿であろう。文科省も世間もその現状を知ることはほとんどあるまい。残念ながら学校もまた「昭和」の中にずっと封印されたままなのだ。学校のブラック化とブラックボックス化は何一つ改善されていない…それが教師たちの早期離職、休職を招き、教師志望者を減らしている真因なのではあるまいか。

 

国立大を「授業料値上げ」に追い込んだ「真犯人」 大学はただ「ピーピー騒いでいるだ

   け」なのか 東洋経済オンライン   古川 雄嗣 によるストーリー 2024.5.28

 とりわけ教育いう観点から見れば国立大学の現状はまさに「亡国」的な悲惨さに直面しているのかもしれない。新自由主義的競争原理の導入によって営利目的の研究が肥大していく分、営利に直接結びつかない研究や教育がおざなりになっている…とすれば確かに日本の行く末は相当、ヤバイだろう。

   東京都や大阪府で進みつつある、ある種の高校教育の民営化もまた同じ論理で進められているとすれば、これはこれでヤバイのかもしれない。しかし、大学教育とは違ってこと高校教育に関しては現今の公立高校の停滞ぶり、低迷ぶりが甚だしく、もはや放置できる現状では決してあるまい。対してかつての国公立大学には現今の公立高校ほど酷評されるほどの低迷ぶりが表面化していたわけではなかった。にもかかわらず政治的判断で独立行政法人化が強行されてしまったのである。

 教育機関をもっぱら営利目的に従属させるような発想は児童生徒学生たちの学習における主体性を損ないかねない。そもそも彼らは営利目的オンリーで学習意欲をかき立てられてはいない。学びたいという欲求の源は多種多様であり、個性的である。彼らの多様性を受容し、個性豊かに育むためにも、国立大学が置かれている状況は早急に改善すべきだろう。

 しかし公立高校の現状は硬直化が甚だしく、大学とは違って生徒たちの多様性、可能性を押しつぶす側面の方が目立ってきている。さらに画一的で管理主義的な教育行政の下で教師たちまでが窒息してきている。文科省や都道府県教育委員会の無意味で厳しい統制が続く限り、おそらく高校教育の行き詰まりは打開できないだろう。したがって高校教育の将来は、N校などの躍進ぶりを見るにつけ、公立よりも自由裁量の余地が大きい私学の創意工夫にまつところが大きいと思うが、いかがだろう。

日本の教育現場にもEBPM(証拠に基づく政策立案)を! EBPM導入によるメリッ

 トを慶應義塾大学・中室教授が解説TOKYO MX+ によるストーリー 2024.4.4

 これまでまともなデータすら持たないままできた日本の学校教育の世界は自分たちの教育が欧米に比べて惨めなほどに遅れているという歴然たる事実を頑なに認めようとして来なかった。日本が遅れているという事を示すまともなデータが手元に無いことを良いことに、長らく開き直ってきたのだ。近年ではPISAの得点ばかりを気にしているうちに、かえって日本の学校教育は一層の遅れをとり始めてしまったと考えるべきではないのか。

 文科省は学校の実態、教師の実態を正確につかむ努力を徹底的にサボってきた。政治家や官僚たちの得点稼ぎばかりを目指す政府が休みなく繰り出すエセ教育改革の連打こそが教師を疲弊させ、学校の教育力を低下させた張本人ではないのか。真っ先に急ぐべきは教師の業務の徹底的削減を断行することであり、現状では教師たちにそれがどんなに素晴らしい内容であったとしても、教育改革を担っていけるほどの余力は既に残っていないだろう。加えてこのままでは教員採用試験の受験倍率は低下する一方である。すなわち日本の学校崩壊は目前に迫っているのかもしれない。

 もちろん信頼しうるまともなデータの収集も急がれようが、過去のデータが限られている分、残念ながらデータに基づく政策立案は当分先の話、と見てよい。一刻を争うべきは業務の精選を通じた教師の負担軽減の方であろう。

「どの都道府県で育つか」でこれほど違う大学進学率、背景に高校制度…普通科

 88.6%の東京、地方との圧倒的な機会差

 JBpress 松岡 亮二 によるストーリー 2024.4.5

 この記事でも文科省や政府の打ち出す教育政策に科学的な根拠の希薄さが指摘されている。世界ではいわゆるエビデンスに基づいた政策の立案が求められているのに、安倍政権が行った「教育改革」の策定からは教育学者、とりわけ重要な役割を果たすべき松岡氏のような教育社会学者がほとんど外されていたことを思い出してしまう。しかも「教育改革」への評価は客観性を欠き、ただの自画自賛に終始してきた点も見逃せまい。アノ犯罪的な教員免許更新制への振り返り方を見れば、これまでの教育政策の多くが実際には政治家や官僚の点数稼ぎに過ぎなかったと思わざるを得ないのだが、いかがだろう。

私人逮捕なぜ称賛?真山仁さん 背景に「何言ってもダメな社会」

   毎日新聞 によるストーリー  2024.1.10

 国民の間に広がりつつある無力感、閉塞感の正体を突き止め、そこから脱却する方途を探りたい。暗記と特定の考え方を押し付ける画一的で管理主義的な日本の学校教育を変えていくことも一つの方途。これまでどんなに批判されても、否定されても、「何言ってもダメ」だった学校、ダメな教師、ダメな教育委員会、ダメな文科省の壁をどう崩していくのか、ぜひ授業で討論させたい。

【日本軍の敗因】「悲惨な結果を生むリーダー」7つの共通点

 ダイヤモンド・オンライン 書籍オンライン編集部 によるストーリー 2023.7.4

 先の大戦における日本軍の敗因を探る中で日本人が伝統的に抱えてきた7つの「失敗の本質」が見いだされるという。軍隊と学校とは日本の富国強兵化、近代化を推進するための車の両輪であり、両者は兄弟のように近しい関係にあるとされている。したがって、以下の7点は学校という組織にもほぼ共通する弱点であると考えても差し支えないだろう。

 

 ① 「戦略性」──俯瞰的な視点から最終目標への道筋をつくれない

 ② 「思考法」──革新が苦手で錬磨と改善が得意

 ③ 「イノベーション」──ルールをつくり出せず既存のルールに習熟する

 ④ 「型の伝承」──創造ではなく「方法」に依存する

 ⑤ 「組織運営」──勝利につながる現場活用が苦手

 ⑥ 「リーダーシップ」──現実を直視できず、環境変化に合わせて判断できない

 ⑦ 「メンタリティ」──「空気」と同調圧力、リスク管理の誤解

 

 実際、太字にした部分などは日本の学校にもズバリ当てはまる組織風土に思える。現在の急速な技術革新にともない、柔軟で斬新な人材育成策が求められる中で、日本ばかりが多くの場面で世界に遅れをとってしまう大きな原因が企業社会だけではなく、日本の学校教育にもあることを示唆していると考えるが、いかがか。

 ブラック校則をいつまでもはびこらせ、相変わらず精神的鍛錬を軸とした部活動や学校行事、個性や多様性を犠牲にした画一性の強要などを温存してきた学校教育の頑強な保守性は、日々の革新を迫る、変転目まぐるしい現代社会との間に大きな齟齬を生み出してきていると考えられないだろうか。

 

 もちろん学校教育に関わる法制度の見直しや文科省や教育委員会の組織改革だけでは学校を変えることが出来ない。学校教育の改革を実効あるものとするには現場における改革の担い手である教師自身の改革が伴っていなければならないはず。まずは教師の意識や能力、技術、適性の見直しが必須となる。

 すなわち大学における教師養成教育の抜本的な改革(一斉講義形式からの脱却を目指すべく、探求型の個別学習・グループ学習や実験・調査・討論を軸とする授業力の養成を軸とする、今以上に充実したカリキュラムを大学では組むべきである)を基本的な前提とする包括的な観点からの法制度や組織などの見直しが行われる必要があると考えるがいかがか。

 

松谷創一郎×宮台真司×神保哲生【5金スペシャル映画特集+α Part1】ジャニーズ

 を「サンクチュアリ」(聖域)化し、ジャニー喜多川を「怪物」にしたものとは

 videonewscom  2023/07/01  1:56:11

 学校社会もまたジャニーズ事務所が君臨する芸能界やマスコミと同様に聖域化してしまい、法律以上に学校社会特有の掟が幅を利かす村社会、アウトローの社会なのかもしれない。だからこそ事件の隠蔽が横行し、不祥事が多発してもブラック校則や一斉講義形式の授業が残存し続けるのだとすれば、ジャニーズ事務所の問題と同様、学校社会もまた、一度は組織の膿を出し切らなければなるまい。

 

宮台真司】"他人を見捨てる"「日本社会」なぜ助け合わないのか?

   NewsPicks /ニューズピックス 2023.5.20

 現代日本の何がダメになっているのかを根本から見直す、有意義な見識に満ちていると思うがいかがか。民主主義を危機に導く「民意の劣化」をもたらしたのはもっぱらマスコミと学校であろう。特に学校教育の責任は重大であると考えるが、いかがだろう。

 民意を育てるには国民の知る権利が最大限保障されている事が一つの基本条件であるはず。しかしほとんど情報統制の道具と化してしまったマスコミや学校教育がもたらす情報の偏り、加えて本来、周知せしめるべき情報の隠蔽とがあいまって日本国民の「愚民化」を推し進め、今に至る…

 政治について論ずることの出来ない主権者の増加は再び民主主義の暴走を招くに違いない。未熟であっても論じ続ける場と機会が乏しい日本の社会を作り出したのも、生徒の意見を尊重せず、服従と忖度ばかり一方的に強要する一斉講義形式に依存してきた日本の学校教育ではなかったか。

参考記事

今の職場で本当に大丈夫?メンタルに悪影響を及ぼす「ブラックな職場」の特徴5つ

 ライフハッカー編集部 によるストーリー 2021.8.14の記事再編集

 1. 自身の権力と力の誇示に必死な上司・先輩がいる

 2.職場や現状に対する「あきらめ」がある

 3.陰口・噂好きな人が影響力を持っている

 4.フィードバックが個人攻撃になっている

 5.情報の周知が十分になされない

 以上の5点がブラックな職場に見られる特徴だというが、学校もこの5点を満たす職場が増えてきているだろう。生徒たちには資料を読ませる前に、あらかじめメンタルが病みやすい職場、組織の特徴をできるだく数多く挙げさせておくと話が進みやすくなるだろう。学校教師集団にはどのような特徴があるのかも挙げさせておくとさらに議論が活発化すると思うが、いかがか。

「教員や学生の声も聴いて」働き方改革めぐり、若手教員ら国に要望

 朝日新聞社 によるストーリー 2023.11.8

 上意下達の権化たる文科省がこうした要求に耳を傾けるはずもなく、相変わらず下らない弥縫策を自慢気に示すだけになるだろう。

首都圏の公立中高一貫校の志願者が大きく減っている4つの「理由」とは?【2024

   年中学入試を読み解く】 AERA dot. 井上修 によるストーリー 2024.5.22

   私立中高一貫校は人気となり、公立中高一貫校は不人気となった理由としてこの記事では以下の4点を挙げている。

      ①説明会など学校を知るチャンスの少なさ

      ②教育の硬直性

      ③施設の古さと柔軟性の欠如

      ④高校無償化

 ②と③は重なる部分が大きいだろう。①もまた公立学校の弱点である。つまり①から③までは中高一貫校に限らず、公立校の限界を示す弱点である。それらに加えて公立校唯一の長所だった授業料の安さ、無償化が大阪府や東京都を先頭に私立にも適用されることになれば、もはや公立校の売りは何一つ存在しない。大阪府が先頭になって推し進めている府立高校の事実上の民営化は今後、全国的に波及するだろう。この動きが公立校と比較して相対的に自由で個性的な私学の取り組みを日本の学校教育全体に少しでも普及させることにつながるとすれば大いに歓迎すべき現象である。

大阪で私立高校ブーム、専願者が20年間で初めて3割突破 授業料完全無償化で選択

 に幅 産経新聞 2024.6.19

 上の記事を補完する内容となっていて参考になる。特に公立高校と私立高校との教員採用のあり方の違いから私立高校の優位性が説かれている箇所は納得できる。

後絶たぬ学校現場での個人情報漏洩、教員へのルール浸透に課題 5年度は218件発

   生 産経新聞 2024.8.27

   学校でヒューマンエラーが頻繁に生じる背景には教師たちの過重労働と強いストレスの蓄積があるはずだが、そこにはまったく触れようとしない教育委員会、教育行政側の認識に大きな問題を感じてしまう。教員へのルール浸透、情報技術の高度化…といった教師の負担を増やす方向でしか問題解決が模索されていない現状には絶望感すら覚えてしまう。

 授業ではこの問題に対する生徒たちの意見を募りつつ、学校現場にひたすらブルシットジョブの山を築いてきた教育行政側の問題点にも気づかせたい。

・茨城県ナンバースクール残存問題

「一高」「二高」茨城には全国最多28のナンバースクール…校名変更を議論へ

   「枠にはめ変化妨げていないか」 読売新聞  2024.9.19

   この問題も埼玉県の男女別学問題と同様、学校の役割を考える上で役立つ内容が含まれているだろう。隣の千葉県でも他県同様、戦後、しばらくの間であるが旧制中学校以来の伝統ある高校ではナンバースクールが存在していた。しかし60年近く前にはナンバーを付けない校名に変えられていったようである。

   いまだに28校ものナンバースクールを残しているのはいかにも保守王国茨城らしい。ナンバースクールの問題点は実態として一校、二校、三校…と進学校としてのランク付けがされてしまい、校名によってカーストのような学校間格差が固定してしまう傾向が生じてしまうことだろう。

   公立高校がたかだか校名によって優位に立ったり、劣位に立ってしまいがちになるのは明らかに不合理であり、公立として公平性に欠くのは間違いあるまい。即刻改善すべきであるのは論を待たないのであるが、なぜ、茨城や埼玉といった北関東には男女別学やナンバースクールのような不合理な古い体制がいつまでも残存してきたのかは、別途、解明の必要があるだろう。

   授業ではぜひ、他の資料も加えながら議題に取り上げてナンバースクールの是非と茨城の学校教育の体質の古さについて生徒たちから意見を募りたい。

数字入り高校名の議論頓挫 議会反発受け茨城県教委

   共同通信 によるストーリー 2024.9.25

   保守王国茨城県での県議会の反発は当然、予想された事態であり、この程度の事で議論を中途半端に終えるのは言語道断であろう。むしろ県議会の反発ごときで県の教育政策がいとも簡単に覆るといった先例が生じてしまう事の方こそ空恐ろしい。県教委の腰砕けぶりには呆れるほかなく、このザマでは公教育における政治的中立性自体が揺るぎかねまい。

   この問題は県立高校における学校間格差、すなわち学校間カーストの残存を県として認めるべきか否かが焦点となると考えるが、いかがか。おそらく県議の少なからずは学校間カーストの上位校出身者なのだろうが、そろそろ自信の特権的意識を捨て去るべきである。出身校が「~校にあらずんば人にあらず」とするような、古びた観念が地方によってはいまだに残っているようだ。

   この記事では全国の県立高校のナンバースクールの校数が都道府県別に表示されており、資料としても価値がある。茨城県が突出して数が多いことは明白である。戦前の旧制高等学校でもあるまいに、いい加減、改めたらよかろう。