⑨学校を知らない教師?
※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。
◎同級生から暴言で不安障害、「いじめ重大事態」に該当 佐賀県対策委
朝日新聞社 によるストーリー 2024.10.10
これだけ世間を騒がせてきた学校によるイジメ事件隠蔽などのイジメ事案に対する不適切対応が非常識にもいまだに頻発しているようだ。かねてから児童生徒たちの学ぼうとしない姿勢を批判し、学習指導を強めてきた学校側の圧倒的な学びの欠如が実に痛々しい。わざわざ県の対策委員会から指摘されない限り、まともな対応をしようともしない学校側のふてぶてしさにも呆れてしまう。
この学校、イジメ防止対策基本法、子どもの権利条約や子ども基本法などの存在はまったく眼中に無きが如くである。教師たちの動きも呆れるほどに常識外れレベルの古色蒼然たるものを感じる。イジメられた側とイジメた側との話し合いを事前の十分な調整を抜きにして行うことの恐ろしさはとっくに昔に教育界では周知されていたはず。それがどんな重大事態を招きかねないのかは、学校関係者の誰もが知っていて当然の常識だろう。
どうやら佐賀県では偉そうに児童生徒たちを教える前に、まずは率先垂範、教師たちが学校教育のあり方の基本をしっかりと学んでおくべきだろう。
◎なぜ日本人は「仕事のための読書」すらしないのか…「日本人は世界一学ばない怠
け者」という誤解を解く 2023/2/17(金) 小林 祐児 プレジデントオンライン
ここでの指摘はビジネスパーソンだけではなく、高校教師にも該当する部分が多いように思える。日本では個人的な努力によって大学や大学院で教師になるために必要と思われる学習や技術をどれほど習得したとしても、それが全くといって良いほど教員採用試験では評価されず、その後のキャリア形成にも結びつかない。そもそも、赴任先の人事にすらほとんど影響を与えていない。
たいていの場合、次年度に担当する部活や科目は教師の専門性などはわずかしか考慮されず、学校現場の都合によって一方的に決定されているのが実情なのだ。つまりジェネラリストの養成を前提にして企業の人事が成り立ってきたように、学校でも専門性よりは服従的で使い勝手の良いジェネラリストが求められてきたと言っても過言ではない。
他方で高校教師は教科教育の専門家としてのみならず、世間的には各種運動部、文化部の指導においても高い専門性を求められてきた。加えて近年では不登校やいじめ問題の解決、貧困問題、進学・就職指導、保護者への対応など心理カウンセラーや進路カウンセラー、ソーシャルワーカーとしての能力まで期待されてきている。
教育行政側は人事や待遇面で教師の専門性を完全に軽視しているクセに、これだけ多種多様な専門性を残業代もつかない安月給の公務員に要求してくるのだから厚かましい限りである。しかも幸運にも幾つかの専門性を身につけられたとして、それが人事考課や次年度の人事に結びつくとは限らない。だから管理職を目指さない限りは専門性を身につけるインセンティブなど十全には働かなくなっている。
また、たとえ教員側にやる気があったとしても、残念ながら真面目で有能な人ほど瞬く間に多種多様な仕事が集中してくるため、多くの真面目な教員は体力と気持ちが次第にすり減ってしまう。
つまり学校に必要とされる教師ほど早めにバーンアウトしやすくなっているのだから、まさに「やってられない」・・・これが今の教師たちの本音ではないか。
〇日本人の仕事満足度「わずか5%」で世界最低!賃上げの他に必要な改革とは?
ダイヤモンド・オンライン 真壁昭夫 によるストーリー 2023.6.27
世界最低の仕事満足度を記録している日本の経済界の低迷ぶりは、おそらく児童生徒に対して世界最低の授業満足度しか与えてこられなかった日本の学校教育と連動しているはず。高度成長期のモデルを性懲りもなく使いまわしている日本の企業と学校…ひたすら改革の足を引っ張るだけの「老害」政治家と企業経営陣と学校管理職。これらが三つ巴となって日本の進歩を阻害し、青少年の自尊心と幸福感の低下を招いているのではあるまいか。
◎教員の3割が「子どもの権利」の内容知らず、誤って理解している回答も 教員調査、
約半数が「子どもの権利教育」せず
2022/07/22 東洋経済education × ICT編集部
子どもの権利に対する教師の認知度の低さがブラック校則やイジメの隠蔽、体罰を日本の学校にはびこらせている背景にありそうだ。また画一的で管理主義的な教育行政に起因する学校社会の強い同調圧力、根強い一斉講義形式の授業の残存もまたブラック校則等を生み出す土壌となっているように思える。
つまり教師や生徒の個性を軽視して多様性を圧殺する日本の伝統的学校体質がその根幹から見直されていかなければなるまい。そもそも教師の人権が十分な保障を受けられていない状況下で生徒の人権だけが尊重される事など期待する方もおかしい。
日本の教師の労働者としての人権保障がこれまであまりにも不十分であり、そのことに教師自体が鈍感になってきている…そしてこの時代遅れな教師たちの労働環境が子供たちの人権保障に対する鈍感な教育風土を醸成してきたと思えるが、いかがか。
○【元教師の願い】どうか学校のことで苦しまないでください
ダイヤモンド・オンライン 親野 智可等 の意見 2024.9.1
元教師からすれば親野智可等氏の見解には違和感しか覚えない。日本の学校教育が10年以上前から急激におかしくなってしまった…との認識ははたして正しいのだろうか。本来、学校は子どもたちを幸福にするためのもの…という彼の学校論はいかがなものか。彼の認識は客観的認識を欠く、ボンヤリとした一時的感情論に過ぎないように思うのだが、いかがだろう。
近代的な学校の成り立ちを振り返ってみれば良い。日本の学校は子どもたちを近代的な国民国家を担う人材にふさわしい存在にするため、無理強いして通わせる洗脳機関としての性格を早くから備えていたはずである。小学校は昭和に入り、国民学校と改称されて皇国民錬成のための教育機関としてさらに先鋭化された洗脳機関となっていったではないか。
では、日本の学校は敗戦後、本当に「子どもたちを幸福にする」教育機関に生まれ変わっていったのだろうか。いや、「平和主義」と「民主主義」の美辞麗句にシュガーコーティングされてはいるが、その実、アメリカの思惑を日本の子供たちに押し付ける側面があったことは否定できまい。また高度経済成長期には政財界の圧力を受けて学校は政治的中立性を守るという口実のもとにむしろ子どもたちからまともな政治教育の機会を奪い、政治的主権者としての成長を阻んできたのではないのか。
さらに子どもたちの多くは学習やスポーツを通じてひたすら競争熱を煽られ、もっぱら受験戦士として不毛な暗記中心の学習を強いられていたのではなかったのか。大人となっても企業戦士として過労死まがいのブラック労働に明け暮れてしまったのではないのか。
何よりも学校は一人一人の子どもの幸福実現よりも人材の「選別・配分・社会化」の機関として、すなわち国家の秩序維持と経済的繁栄に役立つ洗脳的機関として社会的に機能してきた側面が大きいと考えるのが筋だろう。日本国憲法と同様、教育基本法の表層的なキレイ事だけで学校教育を語れるわけがあるまい。
今、私が日本の学校教育の根本的な改革を必要としていると考える理由は以上のような歴史的認識を土台としている。たかがここ10年ほどの間に表面化してきた学校問題だけを土台にした浅薄な理解など本質的な意味を持つわけがない。この記事が夏休み明けを前にして暗い気持ちに沈んでいる子どもたちへの励ましのメッセージだとしても、親野智可等氏の見解は余りにも的外れ。そもそも不登校の児童生徒の中にはもっと先鋭なレベルでの学校批判の思いを抱えている人も少なからずいるに違いない。
授業では彼の見解についてどう思うか、ひとまずアンケートをとって意見や感想を募るところからスタートしてみてはいかがだろう。