⑥一面に張り巡らされた献身性のワナ
※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。
参考動画
◎【最大の病】"この"ラインを超えると一斉に叩き出す日本社会の闇がヤバい山田玲
司の原作が10倍おもしろくなる解説【山田玲司 切り抜き】 2025/01/31 11:38
今、お笑いやアニメ、漫画などの大衆文化を通じて時代の精神を語らせたらこの人の右に出る者はいないのではあるまいか。かの「グレタ叩き」などのネットリンチや炎上を生み出す時代の精神とは一体何か、ネット社会の闇に潜む現代人の心理を探りたいのならば必見の動画だろう。
ただし、授業で扱うには難しく、時折、解説を加える必要はあると思われる。もちろん社会科の教師としては間違いなく授業の参考となるのでオススメ。教師の仕事における献身性を考える上でもぜひ視聴しておきたい。
◎【勝利至上主義】順位を決めない学校も?負けず嫌いは成長?本田圭佑&ひろゆき
|アベプラ ABEMA Prime 2024/08/01 12:38
大人主導の勝利至上主義は否定するが、子ども主体の勝利主義は必要…成功体験も失敗体験も必要であり、運動に限らず、様々な種目で勝負する、競争する機会を豊富に用意することが教育的には必要。目標達成のために合意形成をすることと同様に目標を立てた後の実行段階の経験も必要…いずれの議論も学校の現状をしっかりと踏まえたものではないため、学校の負担をひたすら重くする、お気軽な第三者的提案ばかりの、好き勝手な議論に終始しているといった印象は否めない。
まず必要なのは学校の現状把握であろう。競争的な場面が減っているとの印象論ではなく、運動会の種目と実施状況に関する調査データを踏まえた議論にしてほしい。また競技によって生じる正の側面だけではなく、負の側面(事故、指導の負担、自己肯定感の低下…)にもバランス良く目を向けて欲しい。
もちろん競争的場面は人間関係の中でも登場する。イジメは人間関係における力関係、上下関係の産物であろう。したがってただ競争を煽ればよい、というわけではあるまい。大切なのは勝利を目指す努力、工夫だけではない。自他ともに一つの尺度、限られた尺度で評価するのではなく、沢山の尺度を用いて多面的な人間理解が出来るようにすることである。そしてそのためにも日本の学校は実際、教科の学力だけではなく、運動や芸術、各種の技術、学校行事などを用意してきたのだ。
とは言え、欧米に比べれば日本の学校は余りにも多くのタスクを抱えすぎたことですっかりブラック化してしまった、と見るべき側面があるのでは。実際、社会的に必要とされている事だからと言って、何も学校だけがタスクを抱える必要など無いだろう。学校は社会に対して分相応の負担を果たせれば良いのである。
この議論の問題は前提とすべき議論の不在にあるだろう。日本の学校が負うべき分相応の負担とは何か、についての議論がしっかりと行えていないまま、理想論、机上の空論に基づいて学校の果たすべき任務ばかりが追及されてしまうと、学校のキャパを超えた無謀な議論となってしまうのは不可避である。
最初に厳しく問うべきは日本の学校が今、何が出来て、何が出来ないのか、その原因は何か、しっかりとデータを用いて検証することだと思うが、いかがか。
◎「全て他人のせい」日本人に主体性が育たない背景とは?レジェンド校長“工藤勇
一”が指摘する「教育の大問題」【成田修造/宮村優子/平川理恵/西村祐二】
NewsPicks /ニューズピックス 2024/05/18 14:39
◎「みんな仲良くなんてできない」先生主体のいじめ対応が子ども自身の解決能力を
奪う。当事者の生徒達が自ら考え、いじめを解決に導く方法とは?【工藤
勇一/平川理恵/西村祐二/成田修造/宮村優子】
NewsPicks /ニューズピックス 2024/05/25 14:31
工藤氏の主張のポイントは日本の教師の児童生徒への過干渉と管理主義が児童生徒の自主性、当事者意識、主権者意識を損なっている、という点にあるだろう。またこの主張を少し敷衍してみれば教師の過干渉と管理主義が同時に教師の多忙化、学校のブラック化の大きな要因ともなっている可能性に行きつくかもしれない。さらに教師と児童生徒との関係性は教育行政と個々の学校現場との関係性と同質の側面を有しており、行政側の現場への過干渉や管理主義が個々の学校や教師の主体性、当事者意識を損ねるものとなっている。
日本の教師の過干渉と管理主義は必然的に日本国民の間になかなか民主主義が根付いていかなかった歴史と大いに重なるはずである。そして当事者意識を持って社会問題に主体的に関わろうとする意識を児童生徒らに育むには工藤氏の、議論を柱とする授業こそが求められる。
イジメ問題の発生を児童生徒たちの主体性、当事者意識、主権者意識を育むうえでの絶好の機会と捉える工藤氏の逆転の発想はイジメ隠蔽に傾く日本の教師たちを過剰支配と過剰労働の悪循環から救い出す力をも秘めているのではあるまいか。
参考記事
◎絶対おかしい! 授業準備、テストの採点に「残業代が出ない」のはなぜ? 教員の
“時間外労働”謎ルール All About 坂田 聖一郎 2024.11.12
同感である。教師の仕事の内、その多くは学校外かつ勤務時間外で行われている。自宅への「お持ち帰りサービス残業」も多い。それらの時間の多くは厳密な測定が難しく、残業手当の対象とするのが困難ではある。したがって教師に対する残業手当の支給が始まったとしても、堂々と残業時間として計上できるものは実態に比べてかなり少ない時間になってしまうのではあるまいか。
教師の持ち帰り残業は現在、残業代をもらわないサービスであるがゆえに、ある種のお気楽さをも保証されている。たとえば自宅で音楽を聴きながら、ワインを片手に、ペットと戯れつつ…といった、極めてお気楽な「ながら残業」が許される。もちろん仕事に飽きれば、しばし、おやつをつまみ、家族とふざけ合うこともできる。そうしたお気楽さが残業代の支給によって奪われ、職場と同様の緊張感の中で自宅でのお持ち帰り残業を務める、となればそのことに強い抵抗感を持つ教師はきっと少なくあるまい。
教師の仕事は一旦、自宅に持ち帰るとなれば私生活の自由時間とランダムに混ざり合ってしまうため、どこからどこまでを正式な残業時間として申請するのかを厳密に判断できない場合が少なくない。すなわち教師の、厳密な意味での残業代支給はあくまで休日における研修、部活動、保護者等との面談、修学旅行中の勤務時間外での指導など、ある程度明確に時間が測定できるものに限られてしまうのはおそらくやむを得ないだろう。
しかしながら自宅での持ち帰り仕事をまったくの無給とするのも完全な間違いであると考える。ノート、プリントといった提出物のチェック、授業準備、文化祭の準備等は教師として極めて重要度の高い仕事であり、定刻を過ぎていたとしても、さらには自宅に持ち帰ったとしても真っ当に評価されるべき不可欠の任務ではある。これをただのボランティアとみなす発想は学校教育を腐敗させるだけではあるまいか。
そこで教師個々の役割に応じた、給与の基準を作り直すことが必要となってくるはず。クラス担任はどうしてもクラスに関わる事務仕事(成績、出席…)、文化祭や修学旅行の引率、生徒や保護者との面談、HRの運営といった仕事が加わる。したがってまずは担任手当として給与を一律に加算することが必要となる。
ただし副担任や学年に所属しない教師に様々な分掌の負担が集中する場合も少なからずあるので、分掌の負担を併せて給与に反映させるべきだろう。たとえば学級担任ではなくとも生徒会の顧問、各種委員会(教師の組織)の長、学年での仕事(特に重いのは修学旅行担当)などが特定の教師に集中することはままある。さらに加えて部活動の仕事、たとえばブロック主任などで大きな大会の運営にあたったりすれば、たとえ学級担任や学年、分掌の主任ではなくとも負担は相当、過酷なものとなり、下手をすれば「燃え尽き症候群」にも陥りかねない。
教務主任、生徒指導部長、進路指導部長、各学年主任はわずかながら主任手当をもらえるが、総務部長や管理部長などは主任手当を支給されないことがこれまでは少なからずあった。実は仕事の量と質に見合った評価や手当を教師がもらえていないケースが学校では数多く見られ、教師間に不公平感を醸成しかねない危険性が学校現場にはかねてから存在していたと個人的には感じてきた。したがって残業問題と同時に、肩書だけではなく、実際の校務の質と量にある程度まで見合った給与の支給をしっかりと検討すべきであろう。
教職調整額として一律支給するシステムは、教師ならば分掌を問わずに必要とされる自宅への持ち帰り残業を給与として多少とも評価できるようになる点で一定程度有効だが、それだけではかなり雑な評価にとどまってしまう。かといって残業手当の支給にも問題は残る。とすれば、もう少し学校現場の勤務実態に寄り添ったきめ細やかな評価システムの構築が今後は求めらるのだろう。
その際、学校の種別や個々の学校によって分掌のあり方や割り振りに多少の差異がある点はこの問題解決を難しくしているに違いない。そこでその実態を各都道府県教委などが緊急に調査して、給与・手当に結び付く、できるだけ公正できめ細やかな評価基準の策定を学校種別、職務別に作成すべきだと思うが、いかがか。
◎嬉々として「サービス残業」する部活顧問の深刻 「やりがい搾取」だけじゃない部活顧
問の問題点 東洋経済オンライン広尾 晃 の意見 2024.7.28
部活動の過熱化の背景には過度ともいえるような顧問の献身的、自己犠牲的指導が潜んでいる。実は部活動のみならず、教師の職務には専念すればするほどにやりがいが増してきてその中毒性から抜けられなくなるものが少なくない。たとえば生徒会の顧問や就職指導、文化祭の指導などもやりがいが大きいために強い中毒性があり、幾度転勤しても同じ仕事を希望し続ける教師は少なくない。
かつてはそうした教師が熱心な教師としてもてはやされたため、多くの熱意ある教師が自己犠牲的精神を持って特定の業務に専念してきた。しかし生徒数の減少による学校の小規模化と事務仕事の肥大化が教師たちから仕事への熱意を奪い始めていたことを見逃してはなるまい。
学校の小規模化は一人の教師の仕事の種類を増やし、一つ一つの職務の責任を重くしていく。特定の職務ならば自己犠牲的献身を惜しまない教師であっても、場合によっては苦手な職務を複数、任されることが不可避となってくる。そこに意味不明なブルシットジョブがこれでもかと言わんばかりにのしかかってくる。やがて教師たちの熱意は空回りし始め、徒労感が募り始める。かつて職務に燃えていた教師たちほど要職に就くがゆえに真っ先に燃え尽き始める。
「嬉々として」サービス残業する部活顧問などは過労死さえ避けられればとりあえず自分の得意分野を多少任されている分、まだ幸運な部類に属する。しかし多くの教師たちは授業でさえ、自分の専門科目を担当できるとは限らず、分掌や部活動も同様に自分の希望が通るとは限らない。長く不本意な思いを抱えつつ、仕事は次第に多岐にわたり、不毛感きわまるブルシットジョブの山を前にして徐々に鬱屈していく。
今、多くの学校では「やりがい搾取」どころか根こそぎレベルでの「生きがい搾取」が始まっているのだ。それが教師の休職や早期退職の増大につながっていることは言を俟たない。
〇教育社会学者・内田良氏が公立教員「定額働かせ放題」問題に警鐘…「給特法」廃
止と現場の意識改革が不可欠 日刊ゲンダイDIGITAL によるストーリー 2024.6.9
給特法の廃止と聖職論的な献身性を前提とするような働き方の見直しは部活動の地域移管とともに学校のブラック化を抑止する上で必須であろう。
◎「あった方がいい病」が組織の生産性を低下させる 優秀な管理職は「引き算」発想で仕
事を取捨する 東洋経済オンライン 櫻田 毅 の意見 2023.5.11
「日本人は人のサイフは盗らないが、人の時間は平気で盗む」―時間価値の意識が
乏しい日本人を、こう揶揄する外国人も…との指摘はむしろ学校現場や教育行政の世界に最もよく当てはまるのではあるまいか。
〇学校の先生は大変…給食を“64秒”で食べる日も “やりがい”に依存した教育現場 何
を変えれば負担は減るのか?
【大阪発】 関西テレビ によるストーリー 2023.6.10
運動部の顧問ならば普段の練習のみならず、朝練や合宿、遠征、部員のお誕生会、グランドの整備(草取りと石拾いなど)、ルールや作戦の講習会、炎天下での審判、特に大会の関係者になれば部員達の指導に加えて会場の確保、早朝からの準備、日が落ちてからの更衣室の清掃、顧問や審判の昼食の準備・・・
教職員組合の学校におけるまとめ役ともなれば毎月の資料の配付、種々の会合への参加(夜遅くか休日)や教育委員会との交渉、駅前でのビラ配り・・・
いずれも本来の職務ではなく、自発的なボランティア的活動であったはずの取り組みなのに、いつの間にか有無を言わせぬ重苦しい義務と責任がズッシリとのしかかってくる、ある種の「職務」にすり替えられてしまう。
教師集団の同調圧力は極めて強い。従ってこうした事に運悪く個人的な事情(介護等の家庭の問題など)が重なった場合、あるいは勤務校が急激に荒れてきた場合、一体誰が自分の仕事を代替してくれるのだろう。そんな時、「昔からみんな文句も言わずにやって来た事だ、個人的事情を楯にして今更ワガママを言うな」という声が頭の中で反響してしまうのは私だけではあるまい。
授業という本務を差し置いて、本来は強制されないはずの自主的取り組みを最も重い不可避の職務にすら変質させてしまうのが、村社会化してしまった学校をギリギリで機能させてきた猛烈にストレスフルな教師集団の、強烈に歪んだ集団心理のなせる業なのである。
20年近く前、ある学校で美化清掃を担当する管理部長の教師はとあるスポーツ種目の専門家として県の仕事を任される一方で、近隣からの苦情もあって自分の空き時間を見つけては大きなゴミ袋を肩に学校内外を歩き回り、せっせとゴミ拾いをしていた。何と学校から数百メートルも離れた場所でも、である。
私も当時は近隣からの苦情と変質者の出没などで雨天時以外は学校の周辺を2~3㎞ほどしつこく歩き回っていたので、彼の姿を時折見かけていた。その時、私もまた組合のまとめ役として県教委との人事交渉などにも休日を割いて当たっていた。
さて、こうした苦労談はただの個人的な自慢話なのだろうか、はたまた素晴らしい美談なのであろうか。
当時、他校の野球部顧問だった方は激務の中、組合の支部役員をも引き受けていた。実はそうした教師の中には分掌の主任まで同時に引き受けている方が少なからずいた。その多くはまさに「体力モンスター」でなければ務まるはずの無い膨大な仕事量に直面していたであろう。
こうした無謀なまでの献身性こそが教師として持つべき当然の美徳である、とするような教員社会の歪んだ滅私奉公的価値観は教育行政側から巧妙につけ込まれて「やり甲斐搾取」を招く一方で、特定の教師を追い込み、深刻なレベルまで心身を疲弊させてはこなかっただろうか。心身の破綻や家庭での修正不能な軋轢を生み出してこなかっただろうか。
献身性を美化する保守的立場の教師聖職論と労働者の権利を高めようとする革新的立場の教師労働者論とのせめぎ合いから一歩抜け出ようと 、50年ほど前、教師専門職論が台頭してきた。しかし専門職という、いかにも社会的ステイタスが高そうな言葉に幻惑されてしまったのか、教師の役割、職務を再検討する動きはそれ以降、さほど盛り上がらなかったようだ。
そもそも50年前に問い直すべきは待遇改善と同時に教師の専門性をどこに見出すべきなのか、教師の職務を何に限定すべきか、という点ではなかったか。とりわけ何でも屋を強要してしまいがちな聖職論が、「金八先生」以後、形を変えて生き残ってしまったような気がしてならない。その一方で、世の中全体の保守化と組合運動の低迷が公務員や教師の労働者としての権利を軽視する、ブラックな風潮を助長させてしまったのかもしれない。
私を含め、ベテラン教師の多くは今こそ胸に手を当てて学校におけるかつての自分自身と同僚達の仕事への献身ぶりを、絶対に美談化することなしに、虚心坦懐に反省してみてはいかがだろう。
果たして誰のための、一体何のための仕事だったのか・・・今やそれが招いた正の側面だけではなく、負の側面をも直視すべき時ではあるまいか。現在のブラックな状況の進展にこれまで私たちは何一つ関与してこなかったのだろうか。むしろもう少し早く自分達の負の役割に気付くべきではなかったのか・・・反省すべき点は数多いと思うが、さて、皆さんはいかがだろう。
参考記事
◎「生徒のために頑張るほど、自腹が増える」29歳女性教師の嘆き。公立校の予算
が使いものにならないワケ 日刊SPA! 2024.12.6
授業準備のための実物教材や参考図書の購入などに関しては、教師として転勤後も個人的に使用し続けたいので、ある程度は「自腹」を切るのもやむをえない。また部活動での用具の購入も同様に、多くは転勤後も使い続けるものなので多少の出費は仕方ないだろう。「自腹」のすべてが教師にとって不合理なものではあるまい。
しかし転勤するたびに違う科目の授業を持たされたり、指導したことの無い部活動を任されることはよくある。その都度、新たに購入するものが出てくる際に、高額の「自腹」を切らされてしまうことには私も強い抵抗感があった。基本的に自らが望んでもいない、不本意な仕事に対してさらなる自腹を強要されるのは誰でも辛さ、不合理さを感じてしまうのは当然の事である。
もちろんクラス担任としても、文化祭等ではかなり自腹を切る場面が多かった。周囲の教師たちもある程度の自腹を切るのは、学校教師という仕事の性質上、仕方ない事として諦めつつ受け入れてきた流れは確かにある。これまで授業準備や提出物のチェック、小テストの採点などは自宅でのお持帰り業務とされることが長く当然の事とされてきたように、教師の勤務時間の区切りは本来、極めて曖昧である。そのため下手をすれば公私の別すらなく、際限も無い、原則無償の奉仕活動を周囲から延々と期待されてしまいがちなのだ。
パワポを頻繁に授業で使用するために学校の備品では数的に不足しているプロジェクターやスクリーンを自前で用意している教師は今も少なくあるまい。それらは個人所有であるが、多くの場合、学校以外で利用することは滅多にないだろう。教育予算が先進国では極めて少ない日本のお寒い現状が教師たちの「自腹」の多さを招く主因である事は紛れもない事実なのだ。