④公立高校の独立行政法人化?

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

山内省二の一筆両断 公立高校の独立行政法人化? 変化し過ぎた「何でもあり」を

 危惧 産経新聞 2023.7.24

 公立中学校や公立高校の独立行政法人化を構想する政治家グループがいるらしい。明らかに少子高齢化に直面する地方の実情を無視する噴飯物の暴論である。これでは地域間格差の更なる拡大は不可避となるに違いない。

 かつて国公立大学で実施した政策をきちんと検証し、まともに反省しないうちに中等教育段階にも適用するという極めて無責任で安易極まりなく、かつ危険な構想。これ以上、学校現場を混乱させ、学校のブラック化を推し進めて何をしようというのだろう。

 競争原理を公立学校に導入して学校の淘汰を推進する試みの一部は大阪府で進められているが、大阪府での隠蔽問題を中心とする学校の不祥事は相変わらず続発している。特に表では学校の業績ばかりを喧伝する裏側で不祥事の隠蔽を進めかねないのがいかにもポピュリズムらしい「人気取り政策」の大きな欠点だと思われる。

 

 そもそも学校教育の質を向上させるにはまず教師養成教育の見直しを先行させる必要があるはず。それに仕事量の軽減と教師の授業力向上こそが喫緊の課題なのであり、余分な仕事を増やしかねない構想は百害あって一利無し。

 また山内氏は学校を保守的な任務を帯びるものと決めつけているが、大切なのは保守と革新のバランスであり、学校の保守的機能ばかりを強調するのは合点がいかない。こんな珍妙な議論が存在していること自体、今の日本の教育が腐敗しきっていて、まさに存亡の危機にあることを示しているのだろう。

高校無償化で公立離れ!? 「高校教育改革」を自公維が提案

    朝日新聞社 2025.6.13

 給特法改正や高校無償化が高校教育の改善と結びつく保証は無いだろう。もちろん、保護者にとって無償化は歓迎されよう。しかしそれは教育内容の改善とはほぼ無関係である。学校のブラック化やブラックボックス化を押しとどめるものでもない。

給特法改正に至っては教師の待遇改善すら望みようのないただのゴマカシに過ぎない。さも「教育改革」を進めているかのように見せかけ、その実、教員の持ち帰りサービス残業を増やすだけである。

    当然、教育内容のみならず、教育方法、教員人事を含む教育行政、教員養成…それらをすべて根底から見直すべきである。改革の目指すべき方向は部活動の地域完全移行を軸とする教師の職務削減、授業改革、授業改革を軸とする教員養成教育の見直し、画一的で管理主義的かつ不透明な教育行政の民主化、透明化などであろうか。

    「公立離れ」は主たる問題ではあるまい。場合によっては公教育の縮小すら視野に入れるべきかもしれない。いかがだろう。

「大阪ではタダなのに…」大阪で私立人気高まり公立70校定員割れ 兵庫県の県立高

   は独自策で志願者増 高校無償化巡る維新・与党議論は平行線

   FNNプライムオンライン   2025.2.11

   高校の授業料を完全無償化すること自体に反対する人は少ないだろう。現状として義務化と言って良いほどに高校の進学率は高い。同調圧力の強い日本である。高校への通学を半強制的に強いる日本社会ならば保護者の経済的負担は少ない方が好ましいに決まっている。しかし高校授業料の無償化自体は授業改革を柱に据えた、高校教育の質を高める経営努力に直結するわけではあるまい。

   もちろん授業改革を軸に据えて学校の個性化を大胆に推進し、教育の質を高める経営努力を行えるような環境がしっかりと公立高校に存在していれば、授業料の無償化は教育の質を上げていく可能性が出てくるだろう。授業料という公私の壁が取っ払われる分、授業の良し悪しを巡って公立と私立との競争が激化し、授業の質が良くない高校や教師は淘汰され、質の良い教師や高校は生き残る…結果的に高校教育全体の質は向上する…という事態は考えられなくもないからである。

 問題ははたして公立高校が授業改革を軸とした独自の経営努力を行えるほどに自由な環境にあるか否か、という点。あたかも金太郎飴みたいに授業内容から授業方法まで均質で、共産主義社会の様に厳重に管理されてきてしまった伝統を持つ多くの公立高校は、決して民間企業のような、独自の経営努力を行えるような環境に置かれてはいない。そもそも校長を含めた教師自体、自分の所属する学校への帰属意識は極めて低いのが現実であろう。

 社員ならば企業の成長が自分の生活に直結するため、管理職を含め、多くの社員たちは会社の経営状態に無関心ではいられない。他方で公立高校の多くの教師は、勤務校の定員割れや中退者の増加に、我、関せず、である。公立高校教師の多くは運命共同体的帰属意識など勤務校に対してほとんど持っていない。学校経営の責任者たる管理職自体、勤務校の経営に無関心であるばかりか、授業の質を高める事への意欲、知識すら皆無の人物が少なくない。

 そもそも勤務校へ3年間しか在職しない管理職に独自の学校経営など出来るわけが無いのだ。彼られのほとんどは自己保身に走り、ひたすら不祥事が起きない事だけを欲している。ゴールはあくまでも自身の円満退職とその後の好条件な再就職先の確保なのであり、本音では目の前にいる生徒たちの人生など知ったこっちゃない…

 管理職に授業改革の意欲、資質すらほとんど存在しないような公立高校と、少子化の中で必死に生き残ろうとあがき、独自の経営努力、授業改革を強いられてきた私立高校とがこれまでのような公私の「棲み分け」をやめて生徒募集で激しい競争を行うことになれば、その勝敗は明白である。大阪府や東京都の様に公立高校の過半は淘汰されていく他あるまい。もちろん、それは好ましくもあるのだが、視聴率稼ぎに奔走するあまり、不祥事を招いてしまったフジテレビの例もある。中学生の人気取りに走るだけの高校は大きな危険性も秘めているだろう。

 特に管理主義的傾向の強い千葉県などでは学校経営という言葉が教師や生徒たちへの管理統制、というマイナスの意味合いでしか用いられてこなかった伝統が濃厚に受け継がれてきた。だからこそ入学試験の志望者が入学定員の3割にも満たない県立高校が毎年のように複数、存在しているのだ。そうした高校を含めて授業の見直しを軸とした独自の経営努力を目に見える形で行っている県立高校を、私自身も経験したことは無い。

 つまり、今、根本から見直すべき重要案件は公立高校の硬直した管理主義、画一的教育の在り方なのである。もちろん、授業料無償化は直ちに実現すべきであるのだが、授業改革もまた別途、真剣に検討されるべきである。ただし、授業改革にあたって大きな障がいが立ちはだかっている。学校のブラック化である。

 授業料完全無償化と教師の仕事の削減は喫緊の課題であり、どちらも蔑ろにはできない。授業料の無償化に加えて、教師たちが自己の授業改善に取り組めるだけの時間的体力的余裕を生み出す…すなわち学校の仕事量の大幅な削減こそが、現在、真っ先に求められていると考えるが、いかがか。

N高・S高の生徒数が3万人突破8年5か月で20倍に リセマム 2024.9.2

 なぜこの学校が急速に生徒数を増やしてきたのか、その理由について生徒たちに考えさせたい。また全日制普通科の公立高校が入学希望者数を増やすには今後、何が必要なのかも考えさせたい。

大学院卒なのに…「国立大教員の求人募集」で示された年収が驚きの低さだった

 ダイヤモンド・オンライン 朝日新聞「国立大の悲鳴」取材班 2024.12.1

「日本の研究力」は韓国・イラン以下…20年で順位を急落させた「犯人」とは?

 ダイヤモンド・オンライン 朝日新聞「国立大の悲鳴」取材班 2024.12.2

 国立大学の法人化から20年、その弊害が日本の研究力の低下と大学院進学者数の減少となって表面化しているという。日本の場合、大学院進学がかえって経済的なデメリットとして機能してしまうのだから、当然の結末ではある。若手研究者への待遇悪化はもっぱら人材力に頼ってきた日本経済をさらに悪化させるだろう。何せ、教育予算をずば抜けてケチり続けてきた日本である。当然の報いというほかあるまい。

 これは高等教育だけの問題ではない。高校以下、すべての学校が抱える問題でもある。講師の増加と正規教員の不足はすべての学校種で生じている。人材育成をケチってきた政策はいよいよ少子高齢化の極致に向かう日本をどん底の奈落に突き落としていくだろう。このことは何十年も前から指摘されてきたはずなのに、なぜ、政府はひたすら経済力を低下させる政策をわざわざ取り続けてきたのか、文科省はなぜこの動きを阻止できなかったのか、見直すべき点は余りにも多い。

 優秀な日本の若者はいち早く日本に見切りをつけて、いよいよ海外に飛び出していくだろう。中高年も同じように海外での再就職を目指すだろう。そして賃金が低く、外国人の受け入れに後ろ向きな日本には観光目的以外に外国人が来てくれる可能性は極めて低くなるだろう。日本における良質な労働力の、致命的レベルでの不足が生じてしまうのは最早、時間の問題なのだと思うが、いかがか。

 かつて「国家百年の大計」と言われて重視されてきた日本の学校教育はいまや瀕死の状態にある。目先の損得ばかりを優先し、教育や研究を散々冷遇してきた日本の今後に果たして明るい兆しはあるのだろうか。

 規律正しく、親切でサービス満点かつ安価な接客、独自のエキゾチックな伝統文化と世界最高レベルの料理、最高に安心・安全で清潔な社会、世界に冠たる日本の漫画・アニメ、伝統と共存する近未来的な東京の都市景観、時刻表通りに縦横に走る公共交通機関・・・少なくとも観光資源においては様々な観点においても断然、世界トップクラスを誇り、年々、日本を訪れる観光客は増えている。確かに現時点での日本は表向き、最も魅力に満ちた国ではある。

 ただし、それはあくまでも海外の観光客の視点に限られることはしっかりと認識しておきたい。今やネトウヨのごとく、もろ手を挙げて「日本万歳」を唱えている状況ではないと思うのだか、いかがだろう。

 もうしばらくすれば海外に雄飛できなかった日本の若者の多くが「無敵化」し、闇バイトは一層はびこるだろう。となればかつて日本が誇ってきた安心安全神話がたちまち崩れ出すに違いない。これまでは時間通りに運航出来ていた公共交通機関などでも、労働力不足等により遅延し始める。故障や事故も増えてくるだろう。橋や道路、ダム、高層ビル、港湾施設などの一部は老朽化し、深刻な人口減少に直面する地方では急速に廃墟が目立ってくるはずだ。研究力の後退によって日本企業の多くは競争力を失い、少子高齢化が進む中で国家の財政はいよいよ危機に瀕する。そして防衛費は倍増すれども教育予算は相対的に目減りしていく一方となる。これからの日本はこうした悪循環の中でひたすら落ちていく運命にあるのではないか。閣僚の選定からして石破内閣にそうした危機感はどう見ても感じられまい。

東京都立高校の4分の1が定員割れ。授業料の実質無償化で私立or都立のどちらを選

   ぶべき? ダイヤモンド・教育ラボ 2024.12.5

   いわゆる公立高校民営化の動きは、公立高校の独立行政法人化構想の改変バージョンとして大阪府、東京都で真っ先に先鋭化してきていると考えられるが、いかがか。いずれにせよ少子化への強い危機感をバネにして柔軟かつ大胆に改革を進める私立校の人気は今後、一層増大していくだろう。他方で硬直した官僚主義のシステムに縛られがちになり、改革が遅れ気味な公立校の人気はさらに低下していく。これは教育予算のさらなる削減を狙う都道府県としてはまことに好都合な状態であろう。

 少子化に便乗して学校の統廃合を推進し、厄介な教職員のリストラも同時に実現できれば、行政としては願ったり、かなったり。確かに地方財政の赤字は緩和されるだろう。しかし選択肢の多い都市部はともかくとして、公立しか選択肢の無い地方はどうなっていくのだろう。実はこの問題もスマートシティ構想の枠からすれば想定内であり、財政的に重荷となってきた地方が今後はさらに情け容赦なく切り捨てられてていくことになるのだろう。地方もどんどん「スマート」になっていくのだ。

 動きの取れない高齢者も切り捨てられ、公教育の改革は中途半端なまま、公教育の衰退だけが進行していく。現今の教員不足も、都道府県の財政からみれば人件費節約につながり、実に好都合。だからこそ文科省も都道府県も市町村も、軒並み、本音の部分では公教育の改革に消極的なのではないか。行政側は表向き、批判をかわすために「教育改革」を声高に叫ぶが、実際に改革する気は無い…とすればこれまでの文科省の的外れな弥縫策の連発も、実は本当の意図を知られないための、国民への「目くらまし」戦法として極めて有効なのかもしれない。

 何よりも目先の損得勘定を優先すれば、確かにこうしたプランが生まれてくるかもしれないのだが、はたしてこれで良いのか、疑念は尽きない。

なぜ今になって…? 教育研究者が「日本の公教育の崩壊が大阪から始まる」と嘆

 く“納得の理由” 文春オンライン 鈴木 大裕 2024.12.5

 新自由主義的な観点から導入された全国学力テストの点数争いと入学希望者数を軸とした学校間の競争が一体、学校現場に何をもたらしているのだろう。大阪府民の多くはこのことにあまり関心が無いようだ。

 公教育の解体と教育予算の削減、節約が文科省の真の狙いならば大阪府の取り組みはモデルケースとしてかなり高く評価できるだろう。実際、大阪府の公教育は衰退の道を順調に辿っている。維新の会が大阪府政を掌握してから廃校に追い込まれてしまった府立高校は既に20校以上にも上っているのだ。東京都も大阪府に追いつけ追い越せとばかりに新自由主義的立場からの都立高校再編を矢継ぎ早に進めている。

 事は大阪や東京に限るまい。少子化という追い風に乗って全国的に公立高校の多くが定員割れを続け、各地に統廃合の嵐が吹き荒れている。はたしてこれで本当に良いのだろうか、真剣に問い直すべき時だろう。

「部活動は教員のボランティア」のままでよい? 学校部活動が「地域移行」するこ

    とで生まれる格差とは…今後保護者がお金で買うべきサービスに

    集英社オンライン 2025.5.14

 学校現場からこういう根拠の乏しい発言が出てくることに驚きを禁じ得ない。まず「…日本では、政治が教育に介入し、教育が戦争に加担してしまった第二次世界大戦の歴史から、政治が二度と教育に介入できないよう、教育の独立性が保障されてきました。」というが、この間違いだらけの歴史認識には明らかにファクトチェックが必要であろう。

    戦後はアメリカの占領下、GHQによって日本の教育はアメリカの政治的影響を強く受けるようになっていた。そしてサンフランシスコ講和条約後にはたちまち戦前への回帰、「Uターン」が始まり、戦前、戦時中の勢力が教育の世界にも復活してくる。そもそも学校現場では戦前と大差なく、画一的な一斉講義形式の授業と管理主義、そして体罰が横行していた。1960年代にはアニメ、漫画の世界にチャンバラや戦争物が再登場し、柔道、剣道が学校体育に復活してくる。

 いずれにせよ日本の学校教育では政府や財界による教育への干渉が排除され、「教育の独立性が保障」されてきた…などといったことは、過去、一度たりとも無かったと言って良い。学校教育には時々の政治や経済の論理が現在に至るまで途切れることなく、強く、露骨に反映されてきたのだ。

 戦後、教育の憲法とも言われる教育基本法にズラリと掲げられている理想的建前はほとんどがただのきれいごとに過ぎない。戦後における学校現場での体罰の横行などを見れば分かるように、学校は戦前からの伝統的な慣習と戦後の新たな法律の共存に対して、常にダブルスタンダードな、矛盾した姿勢を取り続けていたと言っても過言ではあるまい。

 したがって教育基本法に定められた「教育における政治的中立性」などは、公教育ですらまともには守られて来なかったと言うべきなのだ。ただし私は公教育が政治や経済の影響を受けてはいけない、とは一切思わない。シンギュラリティの到来が目前に迫ってきたと指摘する識者が増えてきた現在、学校での生成AIの利用は必須である。それは児童生徒たちに対して、個別最適な学習の保障にもつながるだろう。

 ほとんど自浄能力を失い、自己改革の意欲にも欠ける公立学校は多い。児童生徒たちが時代の進展に取り残されないようにするためにも教育産業のみならず、特定の業界とのつながりが学校としては不可避となるであろう。学校業務や授業のDX化を推進する上でも業界のバックアップは必要となる。

 授業は今後、一斉講義形式中心から議論を通じた多様性の理解と学習者主体の、個別最適化を軸とする授業へと大きく切り替えていくべきである。ただしこうした授業方法の大きな変化は教師の負担を一時的にせよかなり重くする。結果的に多くの教師たちは部活動指導を行うヒマなどほとんど無くなるに違いない。そうした点でも部活動の地域社会への移管は不可避であり、地域移管のためにも学校と地元の公民館などの社会教育との連携をさらに強めていくべきであろう。