54.疫病への恐れと祠
江戸時代の石祠に祀られている神々一覧(祠数の多い順)
道祖神 |
25 |
大六天※2 |
1 |
子安大明神 |
21 |
馬頭観音 |
1 |
稲荷大明神 |
17 |
鈴木大明神(詳細不明) |
1 |
疱瘡神(痘瘡神) |
12 |
羽黒大権現 |
1 |
天神(天満宮) |
11 |
御嶽神 |
1 |
仙元大菩薩(浅間宮) |
9 |
清正公大神祇 |
1 |
金毘羅大権現 |
8 |
地神※3 |
1 |
牛頭天王 |
8 |
姥祖神(詳細不明) |
1 |
山神(大山祇神社) |
7 |
姫大神(詳細不明) |
1 |
大杉大明神 |
6 |
白山神社 |
1 |
庚申 |
5 |
十二所権現※4 |
1 |
妙正大明神 |
4 |
高良・武内大明神 |
1 |
水神宮 |
4 |
大宮大権現※5 |
1 |
天照大神 |
4 |
白鳥大明神※6 |
1 |
石尊大権現(雨降神社) |
3 |
天王神社※7 |
1 |
山王大権現 |
3 |
大日天子※8 |
1 |
神明神社 |
3 |
日之宮(詳細不明) |
1 |
弁財天 |
3 |
月読之命 |
1 |
八幡 |
2 |
月天子※9 |
1 |
淡嶋大明神※1 |
2 |
三夜講(二十三夜と同じ) |
1 |
二十三夜 |
2 |
榛名山満行宮※10 |
1 |
麻疹神 |
2 |
大天狗・小天狗※11 |
各1 |
※1:和歌山市の神社で婦人病に霊験ありとされる。人形供養や針供養でも有名。
※2:面足(おもだる)神社と同じ。
※3:国つ神、地祇のこと。またはその土地の神のこと。
※4:熊野権現と同じ。
※5:山王大権現と同じ。
※6:白鳥大明神は宮城県刈田嶺神社のことで、同社は式内社であり、名神大社とされ
た。日本武尊を主祭神とし、791年、坂上田村麻呂が祀ったことに始まると言う。
※7:午頭天王を祀る八坂神社、祇園社、八雲神社、津嶋神社と同じ。
※8:日天子はバラモン教の神で太陽を神格化したもの。観音菩薩の変化身ともされ
る。
※9:月天子はバラモン教の神で月を神格化したもの。勢至菩薩の変化身ともされる。
※10:現在は榛名神社(群馬県高崎市)。
※11:ともに相模大山雨降神社に祀られている。富士塚にはこれらの祠以外に石尊大
権現、仙元大菩薩(浅間宮)などの祠が祀られている場合がある。
石祠は比較的安価で手軽に祀れるため、個人的に購入して屋敷神とすることもできた。そのため、石祠に祀られる神仏の数は現世利益的な性質の強い、民衆の願いを素直に反映したものと捉えることができよう。すなわち上の表における太字の神に注目してみると、当時の人々がいかに疫病を恐れ、疫病神の侵入を恐れていたのかは明確に読み取れるのだ。
江戸時代後半、交通網の整備と商工業の発達は人々の移動を活発にしたが、他方で疫病の伝播の範囲を広げ、そのスピードを速めてしまったとも考えられる。そこで市内北部を中心に、特に疱瘡(痘瘡)神碑・祠の設置場所と年代を整理し、天然痘流行の様子を少しでも把握できればと思った。
なお下表中の「妙正大明神」は日蓮宗の寺院周辺(下総、上総、相模、伊豆、駿河)に見られるもので基本的には「疱瘡神」と同じと考えられるため表に加えておいた。「石のカルテ」(川村純一 崙書房 1993)によると船橋、八千代、市川などに多く見られ、計51基確認されている。そのうち最古のものは冨里の駒形神社にある宝暦元年(1751)のものという。同書では市原市内のものを2基確認しているが、カッパは4基確認しており、まだまだ総数は増えていくと考えられる。「続房総の石仏百選」(2010)では県内60基余りとされている。また各地の石祠は市川市妙正寺から勧請されたと考えられている。
大都市江戸では人々が密集して生活していた事もあってたびたび疫病の流行を見ている。江戸で流行した天然痘が市原にもたらされる主な経路としては五大力船などの海上輸送路を通じてのルート及び房州往還を軸とする脇街道を通じての陸上経路との二つが考えられよう。とくに陸上のルートを念頭に置けば船橋、千葉での疱瘡神祠の状況も参考になると思い、現在分かる限りのデータを挙げてみた。
結果的には伝播のルートと疱瘡神祠の設置年代との対応関係にこれといった傾向は見られなかった。そもそも疱瘡神祠の設置されるタイミングと疱瘡の流行する時期とは必ずしもドンピシャリと一致するわけでもないだろうから、この結果はやむをえまい。
参考までに代表的な祠の写真を挙げてみた。いまだに注連縄を張って丁寧に祀られている箇所もある。もちろん天然痘は日本ではもはや根絶された疫病であり、今更、疱瘡の退散を願って祀られているわけではあるまい。おそらく昔、疱瘡で命を奪われた子どもたちの霊を慰めるために今も祀り続けている…という事だと思われる。
表1 市内における疱瘡神関係の碑・祠一覧
|
年代 |
地区と神社名 |
神号 |
1 |
1771 |
菊間八幡 |
疱瘡神祠 |
2 |
1772 |
川在大宮神社 |
疱瘡神祠 |
3 |
1775 |
番場山王権現 |
妙正大明神祠 |
4 |
1783 |
権現堂八坂神社 |
疱瘡神祠 |
5 |
1788 |
古市場天神社 |
妙正大明神祠 |
6 |
1791 |
廿五里宇佐八幡 |
疱瘡神祠 |
7 |
1799 |
草刈大宮神社 |
痘瘡神祠 |
8 |
1809 |
山田橋稲荷神社 |
疱瘡神祠 |
9 |
1813 |
神崎稲荷神社 |
妙正大明神祠 |
10 |
1817※ |
青柳若宮八幡 |
疱瘡神祠:子供中 |
11 |
同上 |
大作神社 |
宝祖神祠 |
12 |
1829 |
糸久諏訪神社 |
疱瘡神祠 |
13 |
1830 |
久々津諏訪神社 |
妙正大明神祠 |
14 |
1831 |
栢橋御霊神社 |
疱瘡神祠 |
15 |
1834? |
武士神社奥宮 |
妙正明神? |
16 |
1835 |
平田大宮神社 |
疱瘡神祠 |
17 |
1838 |
西野熊野神社 |
痘瘡神祠 |
18 |
1843 |
小折大宮神社 |
疱瘡神祠 |
19 |
同上 |
柳原大鷲神社 |
疱瘡神祠 |
20 |
1857 |
今津朝山鷲神社 |
疱瘡神祠 |
21 |
1864 |
村上諏訪神社 |
疱瘡神祠 |
22 |
1865 |
海士有木日枝神社 |
疱瘡神祠 |
23 |
1871 |
宮原大国主神社 |
疫神璽祠 |
24 |
1887 |
米原山神社 |
痘瘡神社碑 |
25 |
1890 |
海保路傍 |
疱瘡神社碑 |
26 |
1902 |
引田蓮蔵院裏墓地 |
痘瘡神碑 |
27 |
1914 |
今富八幡神社 |
疱瘡神社祠 |
28 |
1928 |
土宇玉前神社 |
疱瘡神社祠 |
29 |
1938 |
西広前廣神社 |
疱瘡神碑 |
※同年(1817)、不入斗小鷹神社に疱瘡神社が創建されている。また疱瘡神祠や痘瘡
神祠はこの他にも年代不明のものが能満府中日枝神社、八幡観音町稲荷神社にそれ
ぞれある。
表2.千葉市内の主な疱瘡神の祠一覧
年代 |
地区 |
神社名 |
1756 |
北生実 |
生実神社 |
1783 |
赤井 |
稲荷神社 |
〃 |
有吉 |
泉蔵寺 |
1786 |
貝塚 |
大六天神社 |
〃 |
矢作 |
春日大明神 |
1793 |
下田 |
白旗神社 |
1805 |
坂月 |
坂月神社 |
1806 |
大森 |
神明社 |
1809 |
村田 |
神明社 |
1812 |
中田 |
大六天神社 |
〃 |
都町 |
諏訪神社 |
1816 |
加曽利 |
貴船神社 |
1828 |
更科 |
稲荷大六天神社 |
1840 |
大井戸 |
大宮大権現 |
1848 |
谷当 |
栗嶽神社 |
1852 |
大金沢 |
六通神社 |
※「新編 千葉の歴史夜話」畑中雅子 国書刊行会 2011より
表3.船橋市の主な疱瘡碑
年代 |
地区 |
寺社名 |
1795 |
薬円台1丁目 |
神明神社 |
1829 |
夏見2丁目 |
日枝神社(妙正大明神) |
1844 |
西船6丁目 |
宝成寺 |
1858 |
西船7丁目 |
妙見神社 |
1864 |
飯山満3丁目 |
王子神社 |
※「船橋の歴史散歩」宮原武夫編 崙書房 2011より
なお習志野鷺沼では1825年12月に疱瘡が流行し、47人死亡。1835年と1836
年、1838年から1839年にかけて流行。1849年にも大流行。
以上の資料から疱瘡は江戸時代後半に入ると江戸湾沿岸の船橋、千葉、市原では余り間を置くことなく流行し、多くの人々を悩ませていた疫病だったことが伺える。特に乳幼児にとっては命にかかわる恐ろしい病であったことが石祠の多さにも反映していよう。
「稿本五井町歴史年表」(1963)によると1837年、1843年、1857年に市原郡内で疱瘡が流行しているが、実際、市内でも1843年と1857年の疱瘡神祠が残されている。また1837年の翌年ではあるがやはり祠が存在している。特に1857年は北五井で疱瘡が猛威をふるったようで今津朝山鷲神社にこの年の祠が存在している。
明治になっても天然痘は猛威をふるっていた。関所などによる交通の制限が明治になって廃止された事で天然痘が一気に各地へ拡大する現象が見られるようになったようだ。明治時代には三回の流行が確認されている。1885年から87年にかけての流行では死者3万余、1892~94年には2万4千余、1896~97年には1万6千余の死者を出している。大正年間にも1919年に死者938人を出したが、やがて種痘の普及によって死者が年間千人を超えることは大正以降、まったく見られなくなった。
※18世紀末にジェンナーが開発した種痘法の普及によって次第に天然痘は「死の病」
ではなくなっていった。1796年にジェンナーが始めた種痘はやがて日本にも導入さ
れ、1849年に佐倉藩が実施している。
1958年、WHOは天然痘の根絶をスローガンに掲げてその撲滅に力を入れ、1980年、天然痘の撲滅成功を宣言した。以後、患者は確認されていないが北朝鮮などが生物兵器として使用する可能性もあるため、現在もアメリカは種痘用として菌を冷凍保存し続けているという。
稀ではあるが市内には麻疹神祠も存在する。特に1862年(文久2年)は島崎藤村の「夜明け前」にも記述があるように全国的に麻疹が流行し、多くの死者を出しているが、同年、建てられた「麻疹神」祠が今津朝山鷲神社と中八幡にある。
「江戸の流行り病」(鈴木則子 歴史文化ライブラリー342吉川弘文館 2012)によると文久2年(1862)の夏、麻疹の大流行で江戸の町は銭湯や吉原などからも人気が消えたという。「はしか絵」と呼ばれた錦絵を通じて罹患しないための禁忌が広がり、入浴、月代、房事、音曲、酒、魚、野菜、蕎麦などがしばらく避けられたそうである。江戸時代には10数年から20数年の間隔で子ども中心に麻疹が流行した。かつて「疱瘡は見目定め、麻疹は命定め」という諺があった。
麻疹は一般的には疱瘡よりも軽い病気であったが、治療法が限られ、治療を誤ると命に関わる…ということであろう。ともかく文久2年の時には麻疹の為に江戸だけで1万4千を超える死者が出たという。
麻疹ウィルスの感染力はインフルエンザの10倍ほどもある強さで10~12日間の潜伏期間があるため、感染は爆発的に拡大する。免疫力が下がり、他の感染症(肺炎、腸炎、脳炎など)にかかると重症化しやすい。最近でも2000年に大阪で流行した時は合併症の発生率が30%を超え、入院率も40%ほどになった。世界では毎年2000万人が発症し、20万人近くが死亡している。WHOにとって麻疹の撲滅は未だに大きな課題の一つである。しかしヨーロッパなどは既に麻疹ウィルスの排除に成功しており、日本は先進国の中では麻疹後進国とされている。そこで2008年以降、10代で2回のワクチン接種を受けるように督励しているが、撲滅にはまだ時間がかかりそうだという。
コレラや赤痢などを含め、種々の疫病退散を願うために祀られた祠は疱瘡神祠、妙正大明神祠、麻疹神祠、牛頭天王祠以外にも、通称「アンバ様」として知られる茨城の大杉大明神の祠がある。利根川筋に多いが市内でもカッパが確認している限りでは薮八幡神社に宝暦7年(1757)、川岸富貴稲荷神社に寛政2年(1790)、山田橋稲荷神社に寛政6年(1794)、今津朝山鷲神社に安政3年(1856)、村上白幡神社と松崎春日神社に年代不明の祠がある。