武士道と日本文化

 

参考動画

『侍の強い意志に恐怖した』”Shogun将軍”での描写が話題に

   頼むぜエディタ 2024.3.16 842

 

 今回も20年近く前に作成した授業プリントのご紹介。データが古いですが悪しからず。また空欄はご自分で埋めてください。

 

・「武士道」と日本文化

  )組(  )番(         

・はじめに

 10年程前のことであるがトム・クルーズ主演の映画「ラスト・サムライ」のヒットのおかげで100年以上前に出版された(     )稲造の「武士道」(1899年)が突然売れ出したという。日本文化といえばかつて欧米では「     ・ゲイシャ」とか「     ・サムライ」といわれたようなステレオタイプの紹介が多かった。最近でこそ姿を消したが、かつて欧米の教科書では変な和服を着て「まげ」を結った「芸者」風の女性が日本のどこの家庭にもいるかのような、時代錯誤もはなはだしいイラストで日本を紹介していたこともあったのである。欧米の人にとっての日本に対するイメージは幕末での印象が強烈であったためか、なかなか江戸時代のイメージから抜け切れていないようである。たとえば美術の面でも(     )がいまだに日本を代表する絵画とされ、葛飾北斎が日本を代表する画家としてたびたびクローズアップされたりしているのだ。

※欧米の切手の図案を見ても浮世絵によってもたらされた江戸時代の日本のイメージが現在に至るまで

 いかに強固であるかがよくわかる。(←「外国切手に描かれた日本」内藤陽介 光文社新書 2003)

 長らく「鎖国」政策によって「ワンダーランド」と化していた日本に19世紀中頃、はるばるやってきた欧米の国々が目にした日本とは確かに末期とはいえ武士の時代であった。「ハラキリ・サムライ」という表現からは当時の欧米人がいだいた「野蛮」で命知らずの日本武士への畏怖の念がストレートに伝わってこよう。1868年、土佐藩士が堺でフランス兵を11人殺害、5人を負傷させた事件が起こった。憤慨したフランス側の要求に応じて土佐藩士20名の(    )が始まったが、立ち会ったフランス軍の大佐はそのあまりの凄惨さ(最初に切腹した藩士は十文字に腹を切った後、内臓をつかんでフランス人の方へ投げつけたという)にたじろぎ、11名までで処刑を中止させたという有名なエピソードがある。当時の武士たちのこうした振る舞いは鮮烈なインパクトを欧米に与え、日本という国のイメージ形成に決定的な影響を与え続けたと思われる。

 アジア・太平洋戦争末期に日本軍がとった「万歳突撃」や「特攻」、「自決」などもかつて自分たちを震え上がらせた「侍」魂の復活と欧米人には見えたに違いあるまい。もっとも現代の日本人にとって「ハラキリ・サムライ」はテレビ等での時代劇の衰退もあってあまり身近な事柄とは言えなくなってしまった。しかし「ラスト・サムライ」のヒットぶりを見ると、海外から見た日本らしさを知るためにも江戸時代に確立した武士の生き様を振り返ってみたほうがよさそうである。そこで今回は「ハラキリ」とその底流に潜む「武士道」とは何かを概観し、日本人が捉えた「武士道」と映画「ラスト・サムライ」に見られる欧米からみた「武士道」との異同にも着目してみようと思う。

 新渡戸稲造の「武士道」:新渡戸稲造(1862~1933)は第一次世界大戦後に設立された(       )の初代事務局次長となり、東洋と西洋との融合、調和を目指して「太平洋の懸橋」たらんとした稀有の国際人として有名な人物である。

       )と交代するまでは5000円札の顔であった。

 彼はアメリカ滞在中に米人の妻とのやり取りのなかで日本の精神的文化の柱と捉えていた武士道を欧米に紹介し、西欧のキリスト教文化と日本の武士道との共存、共栄を図る必要性を痛感した。その結果、苦心して英文で著したのが「武士道」(1899年)である。欧米に限らず、日本の精神的文化を知る上で欠かすことのできない名著として広く世界に読み継がれてきた。

1.「ハラキリ」とは?

 武士道の美学は武士の(  )を恐れぬ潔い死に様に象徴されると言われている。したがって切腹はそうした武士の勇気と(    )を示す最高のチャンスでもあり、死に臨んでは何らのためらいも許されるものではなかった。まさに「武士道とは(    )ことと見つけたり」(「葉隠」)なのである。

 新渡戸稲造によると切腹とは「武士が罪を償い、過ちを謝し、恥を免れ、友を贖(あがな)い、若しくは自己の(    )を証明する方法」であり、「感情の極度の冷静と態度の沈着となくしては」実行できない、いかにも武士にふさわしい「洗練せられたる自殺」だったとしている。つまり誇り高い武士にとって切腹とは

    )ある自死の手段であったのだ。なお戦国時代には戦いに敗れた大将が切腹すれば家来の命は助けられるという暗黙のルールまであったという。当然、藩主などからお咎めを受けたりした場合、武士ならばただの処刑ではなく、自ら切腹することを望んだ。もしこれが受け入れられずにただの処刑と決すれば大変な恥辱となるため、(「藩命は絶対」ではあったが…)武士は一族郎党率いて藩主などに逆らい、屋敷にたてこもることすらあった。このため江戸時代において武士は余程の場合(上意討ち…)を除き、最後まで名誉を重んじて切腹させるのが死刑の通例であったという。またたとえ斬罪の命が出ても処刑される前に切腹して果てることも多かった。反対に庶民はみせしめのために「火あぶり・磔(      )・死罪(切腹無しの斬首)・獄門・鋸引き」などバラエティーに富んだ死刑が執行されていたのである。ただし自殺の手段としては庶民もまた名誉ある切腹を選ぶことが多かったという。

 ではなぜ切腹という方法が武士にとって名誉ある死に方なのだろう?

 まず考えられるのは、武士に最も要求される資質として(    )に長ずることが挙げられ、武勇を誇示することを信条とした武士が自死を余儀なくされたときに最も武勇を要する切腹という形式を好んでとるようになったこと。また自らの潔白を示すための切腹の場合には腹部が霊魂と愛情の宿るところとの観念(←「腹黒い」「腹を割って話す」…)から、その真心を示すために腹を切るとする見方もある。この場合には内臓を露呈させる習いであった。

 武士の時代=(    )の始まりと共に切腹の歴史もスタートしたが、江戸時代には切腹が洗練され、制度化されていった。戦国時代までは敵に生け捕りにされれば(    )が普通であったが、武士身分が確立する江戸時代には刑罰として本来なら斬罪のケースでも切腹が一般的になったのである。そもそも(    )志向の強かった中世の武士達は切腹を命じられても素直には従わず、逃亡して他の主君に仕えることも普通にできた。

 しかし江戸幕府が成立すると多くの武士は領地を取り上げられて経済的な自立性を弱められ、組織に属さないと生きてゆけなくなった。つまり組織の長である主君から死ねと言われれば一族のためにも死なざるを得なかったのである。また「君、君たらずとも、臣、臣たれ」といった儒教的な(    )の精神も強調されて精神的な面でも武士は自立性を失っていったため、主君から切腹を命ぜられる前に自らの落ち度に気付けば即刻、腹を切って謝罪するまでになった。

 こうして切腹は江戸期において武士の死刑の主流となったのである。刑罰としての切腹に加えて江戸初期に流行した(    )(主人の死出の供をするために切腹すること)の影響から、自殺の手段としても切腹は一般化した。殉死そのものは、平和な時代が続いた4代将軍家綱の時、武断政治から儒教の教えに基づく(    )政治へと転換したことに伴って禁止されたが、切腹自体はその作法も整備されていき、武士道と共に武家の美風として発展していったのである。

 しかしここで強調されたような武士の潔さはあくまで主君に仕える中流以下の武士層で賛美され、強制されたものであり、藩主などの上層部には自らの責任はとらずに、部下を切腹させて事をうやむやにしてしまう傾向がかなりあったことは十分注意しなければなるまい。

 本来は最高責任を負うべき支配層が自分の責任逃れのために、部下だけに潔い死を強制するという醜い側面も美談の裏側には隠されていたのである。また本来主君といえども道理に反する言動をとれば家臣の誰かが命がけで制止するべきところ、主君の命が絶対視され、しかも切腹が美談とされる風潮が強まれば、主君に諫言する気概すら薄れ、かえって「トカゲの尻尾切り」に終始する無責任な事なかれ主義をはびこらすことにもつながっていった。この点を顧みれば気骨の失われた現代社会の風潮を嘆くあまり、過去の侍魂を懐かしんでもあまり意味はあるまい。むしろ日本人の特色といわれる(    )主義を理解するための一要素と冷静に捉える視点が必要だとも考えられる。

 ところで江戸時代の武士は過酷なまでの厳しい(    )性と潔さの両方が求められていたため、現在では死ぬに値しない、些細なことでも切腹を覚悟しなければならなかった。たとえば薩摩藩では門限に遅れただけで切腹を命じられた。ある旗本が門限に遅れた薩摩藩士が切腹しようとしていたのを助命しようと藩主に願い、藩主も快くそれに応じたが、家老はこれを不届きとみなし、改めて本人に切腹を命じただけでなく、介錯をするはずだった武士までも「後れを取った」という理由で切腹させたというケースまであるという。

 メンツを重んじる気風から、人に侮辱されただけでも切腹の理由となった。悪口を相手に言えばこれも切腹を命じられる原因になりかねず、言われた側も言われっぱなしであると「臆病者」の汚名を着せられ、切腹の対象になりかねなかった。戦国以来の「喧嘩(     )」の伝統から、武士同士の切りあいはご法度とされ、厳しく罰せられたが、刀を抜いて襲い掛かってくる相手に無抵抗のままでは「武士にあるまじき振る舞い」とされ、改易ぐらいは覚悟しなければならなかったのである。当然、喧嘩の末、相手を首尾よく仕留めたとしても、自らは切腹による死を避けられなかった。喧嘩は即、死を意味したのである。しかもメンツを重んじる武士同士であるから喧嘩の種は尽きない。往来で刀の鞘が触れ合えばたちまち刀を抜いて切りあいに及ばなければ「   」とされて切腹の命を受けてしまい、刀を抜けば抜いたで双方とも最終的には死を免れないのだから武家社会とは厄介なものであった。江戸中期にはこの鞘当などによる喧嘩を回避するために、できるだけ人の通らない側(水溜り等)を選んで歩くべし…等のハウツー本がよく売れたらしいが、武士が生き残るためにはそれも当然のことであったのだ。

 なおもしも旗本などの上級武士が何らかの理由で切腹を拒否する場合にはひそかに服毒自殺を強要し、武家社会全体の名誉を守るために「病死」として報告するのが慣例であったという。建前ばかりの勇ましい美談の陰で個々の切腹や「病死」にどんな人間的なドラマがあったのか、想像しただけでも胸が痛くなろうというものである。

2.「武士道」のウラ側

 もちろんすべての武士達が「武士道」精神に凝り固まっていたわけではない。中にはその胡散臭さに気付いてか、およそ武士らしくない振る舞いをする武士達も大勢いたのである。江戸も(    )の世となれば戦は遠い過去のこととなり、平和で享楽的な町人文化が花開いてくる。いきおい武士といえども町人に習い、利己的で享楽的な振る舞いをする者が増えてこよう。

 当時の武士の日記にこんな事件が記されている。元禄16年(1703年)、ある尾張藩士が変死した。彼は金に困り、バクチ宿を開いて家計の足しにしていたが、バクチの常連が次々と「お縄」になっているとのうわさにおびえ、自殺したとのこと。しかしその死に方は武士らしく切腹というわけにはいかなかった。「冷麦、ところてん、すもも(500個という)など喰らい、この毒にあたりて死す。妾と十三になる男子あり」。何とこの男、武士でありながら刃物屋の看板の下を通るだけで顔色が変わるほどの小心者であったらしい。

 同じ日記にはこんな事件も紹介されている。元禄5年(1692年)のこと、都筑半助という六十歳ほどの男が殺された。彼は妻の死後、奉公人を後妻としたが、すでに嫁いでいるその連れ子と密通し、それがついに連れ子の夫にばれてしまった。夫は密通の現場に乗り込み、半助に切りかかって怪我を負わせたが、半助は丸裸で寺に逃げ込み、わなわなと震えて涙をこぼすばかりだったという。駆けつけた半助の親類がそのあまりのみっともなさに刺し殺してしまったらしい。

 およそ武士らしくない事件の数々。実際、元禄時代以降、臆病で欲望丸出しのいわゆる「人間的」な武士達が数多く、出現してくる。こうした動きは武士を頂点とした身分制社会を揺るがし、幕藩体制を根底から突き崩しかねないと捉え、体制維持という支配者側の視点から記されたのが、かの「葉隠」であった。武士道とは

       と見つけたり」と喝破し、「死に狂い」という武士の理想的あり方を強調する筆者の激烈な口調には、現実の武士達の「だらしなさ」に対する支配者層の苛立ちが見え隠れしているようでもある。

 名誉を重んじ、忠誠心や責任感が極めて強く、協調的で勇猛果敢…。ともするとそうした武士の「かっこ良さ」ばかりが強調される武士道論である。だが実は上司ばかりに都合の良い武士道精神を疑い、多少「かっこ悪く」とも、けっこう人間らしく生きようとした武士が少なからずいたのだと思う。

3.外国から見た「ハラキリ」

 今や「サムライ・ハラキリ」はアフリカや一部の中東地域を除けば世界中に知れ渡った言葉であるらしい。幕末に来日した欧米の人々を愕然とさせ、瞬く間に日本の「蛮習」として広まった「ハラキリ」は「サムライ」という身分と緊密に結びついて、その後の日本に対する、ある種の嫌悪感とともに語られ続けることになった。

 そもそもキリスト教社会では神から与えられた命を自ら奪う自殺自体に否定的である。自殺は(      )する行為だとして自殺の撲滅を訴える論調がキリスト教社会の主流なのである。したがって「ハラキリ」とはまさに神への冒涜であり、「文明人」を震え上がらす「野蛮人」の振る舞いでしかなかった。それはかつての武士達が考えていたような「名誉ある死」ではなく、「勇気ある死」ですらなかった。

 最近のアンケートでも「ハラキリ」に対してアルゼンチンの青年は「自殺は神を否定することであり、勇敢な行為ではなく、臆病者のすることだ」と手厳しく答えている。せいぜい「賛成はしないが、痛みに耐える精神力はすごい」(ニューヨーク)「勇気はある」(モスクワ、ブカレスト)といった意見が少数見られるだけで、外国では「ハラキリ」は今もってただおぞましいだけの野蛮な風習としか捉えられていないのだ。

 欧米人としてこの見方に真っ向から挑戦した形となったのが、トム・クルーズ主演の「ラスト・サムライ」であったかもしれない。とすれば日本人としてはこれまで一方的な偏見のもとで断罪されてきた自分たちの伝統的精神文化がこの映画のなかで初めて欧米人によって正当(?)に評価されたという点で多少とも彼に感謝すべきかもしれない。

 しかしうがった見方をすれば、この作品が作られていた頃はすでにアメリカと

     )との緊張が高まり、戦争のきな臭さが漂っていた時期であった。生まれながらの兵士たる武士が大義のために命を賭して戦う、潔さが強調されたこの映画の展開もやはり妙にきな臭い。「悪の枢軸を倒す正義の戦争」に備えてアメリカ国民の士気を鼓舞する…確かにそうした目的でこの映画は政治利用される危険性は大きかったであろう。実際、そうした効果は多少ともあったのではないか?そもそもこの映画では武士道の「かっこ良さ」ばかりが強調され、武士道の持っている非人間性、「奴隷道徳」的な負の側面がまったく見過ごされているのが解せない。

 結局、欧米では今もって武士道が日本の歴史上の産物としての公正な観点からは評価されていないように思われる。ただの「野蛮」ではないが、今さら賛美するわけにはいかぬ歴史的産物として「ハラキリ・サムライ」をもう一度、冷静に見直すべきなのは日本人の方かもしれない。一方的にアメリカの戦争熱に煽られないためにも…

 

参考文献

・「元禄御畳奉行の日記」神坂次郎 中公新書 1984

・「切腹の話」千葉徳爾 講談社現代新書 1972

・「武士と世間」山本博文 中公新書 2003

・「切腹:日本人の責任の取り方」山本博文 光文社新書 2003

・「世界が見ているニッポンという国」日商岩井トレードピア編集部編

 KAWADE夢新書 1996

・「武士道」新渡戸稲造 岩波文庫 1974