日本人とお祭り・日本の伝統的食文化 和食とは?

 

 引き続き、カッパが授業で用いたプリント資料をご紹介いたします。

 

・日本人とお祭り

 今回は「祭り」をテーマに民俗学の成果を援用して日本人の信仰と魂の根源に迫ってみよう。

 

1.「祭り」の起源と信仰

 「祭り」とは言うまでも無く、「を祭ること」である。では「祭る」とはどういうことなのだろう。尊いお方のお側にいて仕え奉ることを意味する「まつろう」(柳田国男)、あるいは神霊に供物を捧げ献(たてまつ)ることを意味する「たてまつる」(折口信夫)、あるいは神が現れて神意が告げられるのを待つことを意味する「まつ」など、様々な語源が考えられている。これらをまとめて大雑把に言えば、「祭る」とは神をもてなし、神意を伺い、神の御心のままに奉仕するということであろうか。

 日本古来の信仰である神道には仏教やキリスト教、イスラム教のような体系的な「経典」は無い。それらの宗教のように人々が文書によって教義を教えられたり、信仰したりということが神道ではほとんどなかったのである。神道にはそもそも体系的な教義自体が存在しないし、当然、教義を説く説教者もいなかった。専門の神職が登場するのはかなり後の時代であり、元は神社の建物すら無かった。教祖もいなければ、教団組織も無かったのである。ただ「祭り」の際に祭主がいて、儀式の作法や心得を説く者がいたが、その教えはもっぱら行為と感覚によって伝達されるべきもので、普段はそうしたことを話題にすることすらはばかられていたという。つまり毎年繰り返される四季折々の祭りを体験するなかで個々人に感得され、共通体験として村人に共有されて伝承されてきたのが神道という信仰なのである。

 人が神意に背けば神の怒りを買い、病貧争災がもたらされる。反対に人が神意に応えれば神は人を愛で喜んで五穀豊穣、平和、繁栄といった様々な恵みを与えてくれる。だから人は神の意のままに生きていくべきであると説くのが「神ながらの道」と言われてきた神道の基本であった。とはいえ神意を伺い、神意に応えるには大変なエネルギーが必要とされた。だからこそ、もっともふさわしい日と特別な場所を選んで、集団で想いを一つにする「祭り」が営まれてきたと考えられる。政治も本来は「まつりごと」であったように神を祭ってお伺いを立て、神意に沿うことは、日本人の考え方、生き方から日々の生活、家庭、村、国家のあり方まで貫かれていた。つまり、日本人のすべてが「祭り」を中心に形作られていたといっても過言ではないのである。

 

2.「ケ(褻)」と「ハレ(晴れ)」

 民俗学では労働を中心とする日常の生活を「ケ」、「祭り」などの特別な日を「ハレ」と呼んで区別する。古来「ケ」の日々が続くとやがて「魂」=「気」という名の生命エネルギーは弱まり、枯れてくると考えられていた。この状態が「ケガレ」=「気枯れ」であり、新たなエネルギーを充填するためにも一年の節目、節目に「ハレ」の日=「祭り」を設けて、神の威力の更新をはかる必要があるとされていた。

 「祭り」の日は共同体にとってきわめて大切な日であったのである。したがって「ハレ」の日に働くことは「節句働き」という言葉があるように厳しく戒められており、逆に「ハレ」の日に「祭り」に参加しないことは許されざる怠慢とされた。古来、日本人は辛く長い「ケ」の日々に時折「ハレ」の日を刻むことによって「気晴らし」をし、単調になりがちな生活に変化とけじめをつけて農作業などの重労働に耐えてきたのである。

 

3.「祭り」の基礎知識

ア.「依代」(神霊が現れるときに宿ると考えられた物)

 「祭り」の場に不可欠なものが「ご神木」や幟(のぼり)である。特に「五穀豊穣」とか「…神社例大祭」などと書かれた幟が青空に高く掲げられている光景を目にするとお祭りムードが一気に盛り上がる。しかし幟を立てるのは中世以降のことで古くは高い柱に榊などを飾って立てたり、山から伐りだしたばかりの生木を立てていたらしい。死傷者が必ずといってよいほど出る7年に一度の諏訪大社の祭礼「御柱(おんばしら)祭り」はそうした古風な祭りの代表である。この柱や生木は神が降臨するための標識であり「依り代」 であった。今でも注連縄を張った「ご神木」がある神社は非常に多い。じつは正月に飾る「注連飾り」も同様に「依り代」であり、日本では木が様々な場面で依り代として多用されてきた。日本人が古来、木を神霊の宿るものとしていかに神聖視してきたかが伺えよう。

 本来、祭りはご神木や「ご神体」のもとで行われていたが、開墾などで人々の移動が激しくなると「ご神体」も移動を余儀なくされた。おそらくそうした事情から分霊という考え方が生まれてきたのだろう。分霊はたとえばご神木を挿し木して新しい土地に根付かせることで実現された。この分霊という考えは神様をより人間の身近なところにお迎えして「お祭り」する現象を生み出していった。神社でも伊勢神宮の正殿にある「心御柱(しんのみはしら)」のように霊山や鎮守の森から伐りだした一本の柱を依り代として神聖視していることが多い。諏訪大社の「御柱祭」はその柱立ての儀式そのものが祭りとなったものである。

 さらに神霊の移動を簡便にしたのは「御幣」であった。これは手に持てるほどの木の棒に「紙垂」を垂らしたもので「みてぐら」ともいい、文字通り手に持って移動できる「神の座」であり、自在に移動可能な依り代であった。この御幣を鎮座させた神の乗り物が「神輿(御輿)」である。また「山車」とか「山鉾」と呼ばれるものも本来山の模型であり、神そのものである霊山の移動可能となったものであった。いずれも神が氏子の住む地域を巡幸するタイプの祭りでは欠かせない存在となっている。なお神輿が乱暴に揺さぶられるほどに、神霊の威力が活発となり神様が喜ぶとする地方も多く(ケンカ神輿や大阪のダンジリetc)、神輿を壊してしまう地方まであるという。そもそも祭りの日に多少の羽目を外すことも、神霊が躍動しているから人も「血湧き、肉踊る」のだとされて容認されていた。人々の興奮、狂乱は神威の現れと受け取られていたのである。

 御幣の登場で神霊は一層移動させやすくなり、分社といって地方の神しか祭っていなかった神社に有名な大社の神を勧請(かんじょう)することが流行するようにもなった。その結果、多くの神社では複数の神を一つの社で祭ったり、本殿のほかに摂社・末社をいくつも設けて有名な神々を祭ることが全国的に見られるようになった。

イ.「お籠もり」

 祭りを行う側は祭りの前の一定期間(普通一週間ほど)、「物忌み」をすることになっている。けがれを嫌い清浄を好む神を招くには、けがれの無い清らかな者が主体とならなければならない。とはいえ誰しもが日常生活を送るなかで知らず知らずのうちに多少のけがれを積んでしまう。そこで祭りに携わる者は注連縄などで結界された神聖な特別の場所(「お籠もり堂」や拝殿、社務所など)に籠もり、けがれを祓(はら)い清める必要があると考えられた。お籠もりに入ると別火(べつび)生活をし、清浄な火で煮炊きした清浄な食べ物(動物の肉や生もの、臭気や刺激の強いものは禁じられた)だけを口にした。また朝夕「禊」をしてけがれを洗い流し、大声を出したり、歌ったり、笑うことも慎み、静かに過ごすことなどを要求された。ちなみにけがれを祓い、清める姿勢は祭り当日には祭礼を行う地域全体に拡大され、村境などに榊や注連縄を張ってその地域全体を神域にした。

ウ.「宵宮」

 祭日の前日を宵宮というが、かつてはこの宵宮こそが祭りの中心であり、神の降臨を仰ぐ、大切な儀式が行われた日であった。宵宮という言葉通り、祭りはそもそも夕方から始まり、翌日に及ぶのを基本パターンとしていたのである。本来は宵宮で氏子全員が水垢離(みずごり)などをして身を清め、清い装束を着て神社に集まり、夕御膳を供えて神の降臨を仰いだ。そして夜通し神に奉仕して翌朝、朝御前を供えた。この時神に酒食をささげておもてなしをするだけでなく、氏子一同も神の力にあずかるために神と共に同じものを食べ、楽しんだ。これは特に「直会(なおらい)」といい、祭りの中心的行事だったのである。

 祭りの主体たる宵宮の行事は氏子以外の外部には秘儀ともされていたが、最近では簡略化され、翌日の儀式(これは本来、宵宮という大切な神事がすんだ後の祝賀会のようなものに過ぎない)に力点が置かれるようになってきている。なお秋祭りの原型となった神嘗祭は宮中でその年一番に収穫された新米を伊勢の斎宮が神と共に食べるもので、稲と神の霊威にあやかろうとするものであった。また新嘗祭は稲刈りが終わる頃に天皇が神と共に食べる儀式で、これまでの神の労苦をねぎらう収穫感謝の儀式であった。現在は11月23日、勤労感謝の日として祝日になっている。

エ.お神楽

 宵宮における直会の儀で神霊に酒食を楽しんでいただくことに付随して、神にさらに喜んでいただくために催されるのが「お神楽」である。宵宮では酒宴のお慰みに歌舞音曲、劇など趣向を凝らした各種の催しが繰り広げられた。実は日本の伝統芸能の多くがこの神事から発展してきたものである。しかし「お神楽」は現在の芸能とは違って単なる余興ではなく、あくまで神事として執り行われた。基本的には神の面と装束を身に付けた演者は神迎え(神降ろし)の後に神の依りまし(あるいは依り坐=よりくら)として神の化身となり歌い舞う。神みずから人の肉体を借りて歌い、踊って楽しむと考えられたのである。正月の獅子舞も元々は「獅子神楽」と呼ばれ、神楽の一種であったし、秋田の男鹿半島の「なまはげ」もただの鬼ではなく、神がとりついた神の化身であるとされた。また最近のお祭りに欠かせなくなったひょっとこ踊りの「ひょっとこ」とは「火男」からきており、火の神様、かまどの神様のことである。 

 いずれにせよ神は演者に憑依(ひょうい)し、演者はそのために尋常ではない言動をすると考えられた。いわゆる「神懸かり」状態に入った演者は神そのものと見なされ、演者の歌う寿詞(よごと)は神からの託宣と受け取られた。したがって神懸かりした者の発する言葉には神の霊力が宿っていて、その言葉通りのことが実現するとも考えられていたのである。このために新年早々の祭りでは予祝という神事があり、あらかじめその年の豊作を祝ってしまい、神に感謝してしまうケースもある。

 翁(おきな)と媼(おうな)、「おかめ」と「ひょっとこ」のように男女一組でこっけいな踊りを演ずる所も多い。基本的には男側は「田の神」の化身であり、女側はその巫女(みこ)とされ、踊りは田の耕作の物まねと男女の交わり、妊娠、出産が演じられている。いわゆる「性交模擬儀礼」とでもいうべき、この手の祭礼にはさまざまなバリエーションがあり、興味深い。→右側資料参照

 「お神楽」は沖縄では「神遊び」と言われる通り、芸能のみならず古い遊びの源流でもあるという。たとえば子供遊びの「かごめ」は「籠目」のことであった。籠はそれ自体に容器としての呪力(物を入れる器には魂が宿りやすいと考えられ、呪物として利用されることが多かった)があるのに加えて、籠の編み目にも「邪視」という呪力(悪霊を払う)があるとされ、器のなかでも最高の呪物であった。童謡「かごめ」の歌詞の異様さは「籠目」が強力な呪物であり、古く「お神楽」に源流を辿れる秘儀的な神事であったことを物語る。

※「かごめ」の歌詞

   かぁごめ かぁごめ

   かぁごの中の鳥は

   いつ いつ 出やる

 夜明けの晩に

   鶴と亀とすぅべった

 「うしろの正面 だぁれ」

 

 なお神の依りまし役としては七歳以下の稚児があてられるケース(京都の祇園祭etc)も多いがこれは「七歳までは神のうち」といわれたように子供は純真無垢でけがれが無く、神に近い存在と考えられていたからである。これも「かごめ」や「はないちもんめ」などの子供の遊びが古い神事に由来することの傍証であろう。

 

オ.吉凶を占う神事

 見物客を集めて昼間に行われることが多いのが、その年の吉凶を占う神事である。競技的な儀礼が多く、「流鏑馬神事」や「奉納相撲」(力士が土俵に塩をまくのは清めの意味であり、行司の「はっけよい!」は占いの「八卦」からきているetc)、綱引きなど多種多様である。これらは単なる娯楽ではなく、その勝敗を通して神意が示される神事であった。

 競技性の薄い年占いとしては「粥(かゆ)占い」があり、葦や小竹などを管状にしてその一本一本に作物などの名を書き、粥と一緒に煮て中に入り込んだ飯粒の数で豊作を占ったりするものである。ほかに「水占い」「氷占い」等、多様な占いが各地で行われている。

 

参考文献

・「祭りと日本人 信仰と習俗のルーツを探る」宇野正人(監修)青春出版社

 2002

・「新しい日本史の授業 地域・民衆からみた歴史像」千葉県高等学校教育研究

 会歴史部会編 山川出版社 1992

・「陰陽の世界」別冊太陽 平凡社 2003

・「国民の祝日の由来がわかる小事典」所功 PHP新書 2003

・「神社と神々」井上順孝(監修) 実業之日本社 1999

・「日本神道がわかる本」本田総一郎 日文新書 2002

 

日本の伝統的食文化 和食とは?

  )組(  )番(          

始めに

 欧米で低カロリーの健康食として日本食が注目されるようになってから既に相当の年月が経った。「    」「とうふ」はもはや世界の共通語となりつつある。しかし当の日本ではマクドナルドやケンタッキーといった(     )フードや洋食冷凍食品の隆盛もあって、伝統的な和食文化は家庭の食卓から徐々に姿を消しつつあるのでは…と危惧する向きもある。しかも外食産業ではエスニックブーム以降、国際色豊かなメニューが目白押し。都会では無国籍を標榜する店まで出現する有様である。今や普段の食事からは日本らしさを見つけるのに一苦労する時代なのだ。さらには個食化に見られる人間関係の希薄化といった現代特有の社会病理現象、あるいは成人病=生活習慣病の低年齢化、メタボ問題、アレルギー性疾患の多発等、普段の食生活に由来すると考えられる健康上の問題も数多く指摘されてきた。

 近年、イタリアあたりからアメリカのファーストフード店の進出に対抗して

        」運動が提唱(1986年以降)されてきている。食文化はただの栄養補給と味だけの問題にとどまらない。食卓を囲む家族などとの関係性、社会性も問われる、まさに人の生き方そのものに関わるテーマであろう。さらに多様で豊かな地域文化の保存とも関わってくる。「早くて、安くて、うまい」がモットーのファーストフードの進出によってグローバル化の名の下に消滅の危機に追いやられている地域独特の伝統料理を守り、復活させることは、ただ単に昔のメニューを守り伝えること以上の意義があるという。

 食事に栄養を摂取すること以上の意味があるとすれば、和食においてそれは一体、どういう意味なのだろう?今回はこのことを念頭に置きながら、伝統的な和食文化にはどんな特色があるのか、探ってみたいと思う。

1.(    )文化

 海洋国家日本の食文化は魚食に支えられているといっても過言ではない。縄文時代の(   )を見ても、日本人と魚との関係の特別な深さが伝わってくる。日本の箸の先が細くなっているのも魚の骨と骨の間の肉を取るためという(中国、韓国では箸は長くてずんどう形、先は丸い)。同じ東洋でも神饌として神に捧げられるのはもっぱら生の魚介類と海藻であり、羊や豚を捧げる中国や韓国とは大きな違いがある。

 「さかな」という言葉は本来「酒菜」からきており、酒とともに食べる副食の一つであったが、やがて「真菜」(本当のおかずというほどの意味)と呼ばれて別格扱いされるようになった。「真菜」という言葉自体は廃れたが、「    」という言葉は残っている。日本人にとって魚は米と並んで最も大切な食材なのである。またこれだけ多くの海藻を食べるのも海洋国家日本の特色であると言われている。

・刺身とすし

      )の腐りやすい気候風土のなかで、日本では食品の新鮮さが強く要求され、生食できるほどに新鮮であることが最高の贅沢とされた。従って今でも

    )が魚の食べ方として最も高級ということになる。(ただし盆地で新鮮な魚が手に入れにくい京都では煮魚が好まれ、海に面した   では刺身が好まれたらしい。淡白な味の刺身には濃い口の醤油が一番合うため、刺身を好む江戸では関西に比べて味付けが濃くなったとも言われている。)

 一方で魚の保存方法にも工夫が重ねられた。古代からある「なれ鮨」は中国伝来の魚の保存法であった(琵琶湖の名産「鮒鮨」の場合、鮒に塩をしてしめ、米飯と一緒に木の桶に数ヶ月の間、漬け込む。米飯が乳酸菌によって発酵し、デンプンから乳酸が生じて、その作用で鮒の腐敗を防ぐ。米飯はドロドロになるため、食前には捨てられていた)。やがて15世紀以降、1・2週間漬けただけの「生なれ」(魚のタンパク質が熟成して独特の旨みが味わえた)が食べられるようになった。「生なれ」は米飯もまだドロドロになっていなかったので魚と一緒に食べられたため、「すし」の主流となっていった。

 江戸時代の後期になると漬け込んでから2・3日で酢を加えて食べる「早ずし」(鯖ずし等の「押しずし」や「箱ずし」として各地に伝来)が出現、さらに化成年間、気の短い江戸っ子を対象に江戸で「   ずし」が登場してきた(→華屋与兵衛)。当時は屋台でちょいとつまんで食べるという気軽な食事であり、江戸のファーストフードといえるものであった(従って正統な日本料理を謳う     料理のメニューに「握りずし」は今も登場しない)。本来、魚の保存法として伝来した「すし」がやがて刺身を乗せる「握りずし」として新鮮さを売りにするというすしの歴史を見ても日本人がいかに魚介類の生食にこだわってきたか、わかるだろう。

・鰹節と東西日本の差

今でも京料理ではハモなどの淡白な味の(   )魚が好まれているが、これは古代の貴族の趣味が反映したものであった。中世においても赤身のカツオなどは関西では下魚とされていた。しかし鎌倉時代の東国武士は激しい肉体労働を要する武芸に生きるために、高カロリーの赤身魚を食べる途を選んだ。特にカツオは「勝つ」に通じる戦勝魚としてもてはやされ、初鰹の風習も生まれた。さらに江戸中期、土佐で鰹節が発明されると、しょうゆ味の単調さを補い、引き立てる出汁(   )として江戸の町に鰹節も急速に普及。(    )だしにこだわる関西と味付けの面でも大きな違いが生まれていったのである。

2.仏教と食文化

 日本の食文化に決定的な影響を与えたのは(   )伝来であったという。それまで肉食に対するタブーが無かったのに、(   )天皇の時(7世紀後半)仏教の殺生禁断の教えによって獣の肉を食べることが禁じられていった。以後一部の貴族(後に武士も)らは「薬猟」と称して獣を狩り、「薬食い」と称してひそかに食べ続けていたが、それも例外的であった。この肉食禁止令によって日本の食文化は魚食と

   )を中心とするものになっていったのである。

・菜食

 古代、貴族の間で魚が「真菜」と呼ばれたのに対して野菜は「粗菜」(現在も「蔬菜」という表現が残っている)と呼ばれ、格下の扱いを受けていた。しかし中世に入ると、調味法(醤油や味噌などの調味料と「出汁」)や切る技術(四条流等)、あるいは保存法(漬物)の発達によって野菜は次第に魚と同等の地位を占めるようになっていった。しかし欧米の「サラダ」のように野菜を生食することは「大根    」以外はほとんど日本では見られなかった。魚の生食にこだわる日本人が野菜に関しては生食を避け、「煮る」か「漬ける」かして食べてきたのである。その理由はおそらく主食のご飯との絡みで、「    」としての使命から野菜は塩味等で強く味付けされねばならなかったことに求められよう。「サラダ」はパンには合うが、まさかご飯の「おかず」にはなるまい。

 ちなみに日本自生の野菜は「セリ、ミツバ、フキ、ゼンマイ、ウド、ミョウガ、ヤマイモ」などに限られ、今、野菜として知られている多くの品種は大陸等から伝来してきたものである。

3.米食文化

 縄文時代末期に伝来した水稲耕作の文化は5世紀頃、鉄器の普及などによってさらに進化を遂げ、湿田から(   )を中心とするものへと切り替わっていった。その結果、米の収穫高は飛躍的に高まり、米を(   )とする食文化が成立していったという。ちなみに主食と副食とを分ける発想は米文化圏特有のもので、(   )語には「主食、副食」に該当する言葉は無いという。

 米はしばらく煮て食べられていたが、弥生時代の終わり頃から蒸して食べることも始まった。その結果、もち米を蒸した「強飯(こわいい)」を握り飯にしたり、天日で干して「乾飯(ほしいい)」にして携行することもできるようになった。現在のようにうるち米を炊いたご飯は「姫飯(ひめいい)」と呼ばれ、平安時代に始まった。「姫飯」が一般にまで食べられるようになったのは高温で炊き上げることのできる鉄釜が普及した室町時代以降のことであるらしい。それまでは固いうるち米はもっぱらお粥として煮て食べられていたという。

 なお米の品種は江戸時代には何と3600種ほどもあったと言われるが、現在、実際に栽培されているのは約60種でそれも「ササニシキ」や「       」といったお金になるブランド米が主流らしい。この現状に対して地方の気候風土に適応した品種の栽培が廃れ、一握りのブランド米が地域の気候風土を無視して化学肥料や農薬の力を借りて栽培されていることに若干の気がかりが残るとする指摘もある。

4.調味料

・塩

 古代から塩は神への供え物であり、特別な扱いを受けてきた。これは日本だけでなく、キリスト教も別名「塩の宗教」と呼ばれたように塩は生命維持のための不可欠な食品として世界各地で尊重されてきたからである。岩塩の産出しない日本ではとりわけ塩は貴重で、海水から煮詰めたりして苦労しながら塩を得てきた。海から離れた山間部には「     」が古代から通じていたことが知られている。

 米を主食とする日本人はとりわけ塩味を好み、塩分を欲しがる。これは米や野菜にはカリウムが多く含まれており、カリウムが排出される際、塩分の元のナトリウムも一緒に排出されてしまうからだという。実際、塩は梅干などの保存食にもふんだんに使われている。

・酢

 7000年ほど前にバビロニアで酢が(  )から作られていたことが知られているが、日本では5世紀前後に中国から伝来したという。古代の上流階級にとって酢は塩や酒、醤(ひしお)と並んで重要な調味料であった。室町時代には酢味噌、ワサビ酢、カラシ酢など様々な和え酢が登場し、バラエティーに富んでくる。江戸時代には大量生産が始まり、一般にも普及。「塩梅(     )」という言葉にあるように塩辛さをまろやかなものにし、魚介類の臭みを消す効果が酢にはあるという。

・醤油

 中国伝来でもともとは肉や魚を塩に漬けて発酵させた塩辛のようなものであったという。やがて大豆、米、麦などを原料とするものが主流となった(秋田の「ショッツル」のように魚醤もわずかながら残存)。13世紀、味噌を作る過程で生ずる「溜り」を調味料にしたのが現在の「しょうゆ」の元である。17世紀以降、大消費都市江戸に近い野田(→        )や(   )(→ヤマサ)などで大量生産が始まり、普及していった。

・味噌

 古くは「未醤(みしょう)」と書き、未だ醤にならないものを指した。発酵分解して液状化する以前の半固形を調味料として用いていたのである。茹でた菜などの味付けとしてそのまま舐めていたのが、鎌倉時代から汁物にも利用されるようになった。醤油よりも簡単に作れて安価だったため、「味噌汁」は早くから庶民にも普及していったらしい。

5.保存の工夫

 高温多湿の気候風土は食品の保存技術を高度に発達させた。縄文時代には加曾利貝塚に見られるようにすでに貝を干して保存食にしていたことが知られている。かつて(    )屋という店が存在していたほど日本には乾物が数多くあったのである。

塩漬けも古くからの保存方法であった。また(  )で「〆る」という調理法も奈良時代からあった。さらに高温多湿をうまく利用した(    )食品も保存食品として忘れてはならないものである。既に触れた酢や醤油、味噌などの調味料に加えて

    )も代表的な発酵食品である。中国の塩納豆(大豆を塩に浸し、コウジカビを用いて発酵、熟成させたもの)が起源であるが、現在の糸引き納豆がいつ出現したかは不明であるらしい。おそらく煮豆を藁でくるんでいたら糸を引いて粘っこくなった(藁についている納豆菌=バクテリアの一種が繁殖)のを偶然、誰かが発見し、東国で食するようになったのが始まりであろう。

6.麺(うどんとそば)

 世界最古の麺食文化は(    )で7世紀頃にほぼ完成し、シルクロードを経由してアラブからさらに(      )へ伝播し、パスタ料理(スパゲッティやマカロニなど)として花開いた。日本へは鎌倉時代、(    )とともに伝来、当初は(     )とそうめんの二種であったと考えられている。当時は一日二食であったため、空腹と眠気で集中力を落とす僧侶が多かったので、昼頃にお茶を飲み、さらに軽い食事をとるようになった。この昼食に相当する食事において禅院では饅頭や豆腐などとともにうどんが好まれていったという。ちなみに空腹や寒さをまぎらわすために僧侶が懐に入れた温石(おんじゃく)から(    )料理の名が生まれている。鎌倉時代以降、西日本中心に米の裏作として(  )が作られる(二毛作の普及)ようになったことも麺食文化発展に大きく貢献した要因である。(       )の仏教弾圧以降、寺院の権威が低下すると、それまで禅院の秘伝となっていたうどんの製法が一般にも流布し、上方中心に町人の夜食として普及するようになったという。

 一方、(    )はヨーロッパでも栽培されているが、麺にして食べるのは日本と中国の一部だけと言われている。日本でも当初は粥などにして食べていたが、鎌倉時代以降、小麦粉を挽く石臼が普及したことによりそば粉を挽けるようになったため、練って団子状にして茹でたり、焼いたりする食べ方も始まった。しかし小麦粉と違ってグルテン(粘り気の元)が含まれていないそば粉はそれだけではなかなか麺にすることができなかった。(    )時代に入ってようやく小麦粉をつなぎ(小麦粉2割そば粉8割なので「二八そば」と言われた)麺を作る技術が開発された。もともと寒冷地に適し、備荒作物として東日本中心に栽培されていたため、うどん食の西日本に対して東日本はそば食が主流となっていった。特に独身者の多い江戸では屋台を含め、1万店近くのそば屋があったほど隆盛をきわめたという。

7.おせち料理

 「おせち」とは「御節供(おせちく)」のことだそうで、節会(1.1,3.3,5.5,7.7,9.9)に出されるご馳走を指していたという。しかしやがて正月料理だけを言うようになった。現在のような料理となったのは(   )時代であり、日本の伝統料理の代表であるかのごとく思われがちだが、歴史は意外と新しい。基本的には大晦日までに作って正月の三が日まで保存が効く料理であり、正月のめでたさを演出する祝儀物でもある。食材によく使われる海老、干し柿、梅干、とろろは

   )を願い、里芋、数の子は多産、勝ち栗は「勝つ」に通じ、昆布は「   」に通ずるとされた。他に田作り、なまこは豊作を願うものであった。新年を迎えるにあたり家族そろって食べる料理、そこには日本人の切実な願いが込められていたのであるが、現代人の口には合わなくなってきたため、最近では洋食を取り入れたおせち料理も目立ってきている。

8.和包丁と和食の伝統

 和食の料理人は武士が刀に対すると同様の真剣さと愛情を持って包丁を扱う。彼らの多くは自分専用の包丁を持ち、毎日、それらを砥石で磨き上げ、ただの道具以上に大切に付き合っていくのを常とする。両刃の欧米や中国などと違い、和包丁は

   )であることが最大の特色となっている。このため切り下ろすと左手の方へ少しずつずれて切れていく。そのおかげでキュウリの薄切りや大根の千六本などの際、切れたものが自然に右側へこぼれていくので素早く連続的に切ることが可能となる。しかも切り込む角度を一定に保たせやすいので、大根のかつらむきもできる。

 こうした和包丁の特色から「切る」ことに重点を置く日本料理の特性が生じてきた。料理を意味する「割烹(     )」の「割」は切ることを、「烹」は煮て味付けをすることを意味するが、和食の世界では「割主烹従」と言われていた。切り口などの(          )を重視し、刺身を第一とする傾向もそこから生まれてきたのである。室町時代には小笠原流、四条流などの流派が出て、「包丁式」と呼ばれる切り方から食べ方にいたるまでの作法が成立してきた。しかし見た目本位に走る傾向に疑問をもった(     )らは侘び茶の精神を料理の世界にも取り入れ、簡素でありながら見た目と味の調和をはかる懐石料理の基本を確立したと言われる。冷たいものは冷たいうちに、温かいものは温かいうちに召し上がってもらう「おもてなし」の発想からフランス料理のように一品ずつゆっくりと客に料理をふるまうのも千利休以後のことらしい。

9.日本食の味と香り

 日本食ブームのおかげで最近でこそ日本食を平気で食べられる欧米の人が増えてきたが、かつてはその特有の味と香りのせいで日本食を毛嫌いする欧米人も多かった。たとえば醤油は「ソイソース」として比較的早くから欧米になじまれてきた調味料だが、味噌はなかなか欧米人の口には合わないようである。「たくあん」や海苔もまずそのにおいから欧米人に嫌われてしまう代表的な日本食といわれている。納豆にいたってはいまだに多くの欧米人が最も苦手とする日本食である。これらの食品にほぼ共通するのは(    )化合物系の香りだそうで、米飯や醤油、日本酒にも含まれる、最も典型的な日本食の香りとされている。しかしこれは欧米では悪臭として分類されるのだそうだ。

 干し魚のにおいも欧米では嫌われてしまう。これは窒素化合物系の香りで魚を良く食べる日本人には苦にならないが、やはり欧米では悪臭とされてしまうようである。これらは魚食、菜食、藻食を伝統とする日本人ならではの嗅覚といえよう。ただし洋食に慣れきった最近の日本人のなかにもこれらのにおいを苦手にする人が増えてきているようであるが…

 日本人独特の味覚に「   」というのがある。欧米では「   い、塩辛い、酸っぱい、苦い」という四つの基本的味覚を前提に料理を考えるが、日本ではその四つには属さない「旨味」をさらに設けている。1908年、池田菊苗博士によって昆布の旨味成分の「グルタミン酸ソーダ」(後に「    」として製品化)が発見されて以降、日本人が出汁の旨味として愛好してきた味の成分(かつお節→イノシン酸、シイタケ→グアニル酸等)が化学的に立証され、日本食の味覚の多様性が明らかになってきた。これも魚食、菜食、藻食を伝統としてきた日本独特の食文化に由来するものであろう。

10.和食の特色―まとめ―

 以上の点を要約すると、和食は日本の高温多湿の風土から、まず新鮮さが追求され、「  」の素材を重視した、季節感あふれる料理を生み出してきた。そのため味付けも薄めで、目を楽しませる盛り付け等が重視された。また腐りやすい風土のため保存食も発達し、発酵技術などの進歩を招いた。さらに海に囲まれているため、料理に海産物の占める割合が高く、日本独特の味覚も生じてきた。しかし他方で海外との度重なる交流から多様な調理法や食材がもたらされ、日本人の食卓はきわめて国際色豊かな側面(カステラや天ぷらは16世紀に         から伝来etc)も持ち合わせてきた。

 

参考文献

 ・「食の文化史」:大塚滋 中公新書 1975

 ・「日本人のひるめし」酒井伸雄 中公新書 2001

 ・「和食の力」小泉和子 平凡社新書 2003

 ・「日本人は何を食べてきたのか」永山久夫 青春出版社 2003

 ・「食の変遷から日本の歴史を読む方法」武光誠 kawade夢新書 2001

 ・「世界地図から食の歴史を読む方法」辻原康夫 kawade夢新書 2002

 ・「本物を伝える日本のスローフード」金丸弘美 岩波アクティブ新書 2003

 ・「和の暮らし大事典」新谷尚紀監修 学習研究社 2004