生と死の文化史・神道とは何? 

 

 今回はカッパが実際に授業で用いた日本の伝統文化に関わる穴埋め形式のプリント資料を2点ご紹介しております。

 なかには20年以上前に作成したものもあるので内容的に古くなっている部分があることをなにとぞご了承ください。また空欄はご自分で埋めてみてください。

 

生と死の文化史

始めに

 縄文時代の屈葬や抜歯の風潮、土偶や石棒などの呪物から、原始日本人の信仰については様々に推測されてきた。縄文時代以降、かつての日本には「生と死」を巡って一体いかなる観念が存在し、いかなる風習が存在していたのか…これは日本の伝統文化を考える上で、非常に重要なテーマであるはずだ。しかし今や出産は病院で済ませ、死もまた病院で迎えて葬式までもが「…セレモニーホール」等の業者にまかせっきりになってしまった。病院での死者数が自宅でのそれを超えたのは1975年のことであるという。本来誰であれ何時いかなる時代においても切実であるはずのこのテーマ自体が、現代に生きる日本人にとってはきわめて縁遠い問題になりつつあるようだ。つい最近まで「生と死」に関わる独特の風習が日本各地に残っていたはずなのに…

 人間の生と死に関わる伝統的な儀礼や観念にはその国の伝統文化の核心ともいえる重要な特性がうかがえるはずである。日本の場合、仏教だけでは語れない固有の要素がそこには数多くあるといわれる。仏教が伝来して1500年近く経とうとしている現在でも、決して仏教だけでは括りきれない、独特の習俗がいまだに残されているのである。神道とも関わるそれらを概観してみれば日本人の「生と死」に対する独自の観念、姿勢が浮かび出てくるに違いない。今回は民俗学の知見を取り入れながら、「生と死」に深く関わる出産と育児及び老いと死をテーマに日本人の「魂」の核心に迫ってみよう。

1.産育の文化史

①「魂」とは?

 まずは栃木県に伝わる興味深い伝承を一つ紹介しておこう。「昔々、ある人が占いをしてもらうと、何月何日の何時に死ぬと言われた。心配して家に閉じこもっていたが、その日になってもまだ死なない。馬鹿らしくなって遊びに出ようとすると、魂が体の外に出てしまった。魂となってフワリフワリ道をたどっていくと、一軒の家の前に人だかりがしている。何事だろうと覗き込んだが、戸が閉まっていて見えない。どうもその家ではお産の最中らしい。なおも覗き込もうとした拍子につい窪みに落ちてしまった。と同時に家の中では子供が生まれたらしく「生まれた、生まれた」という声がして赤子がオギャーオギャーと泣いている。ふと見ると魂はボロにくるまれていた。魂は「おれだ、おれだ」と叫んでも産婆さんは丈夫な赤子だと笑うばかり…」

 日本の生と死の文化史を考えるとき、「魂」のあり方を最初に取り上げなければなるまい。魂とはどういうものか?類話の多い上記の伝承は日本人の霊魂観をよく表したものだという。フワフワと肉体から遊離して肉体の死を招くとともに新たな肉体に宿り新しい生命の誕生に立ち会うもの…

平安時代の女流歌人和泉式部の有名な歌に「物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」(「後拾遺集」)というのがある。古くから日本ではすばらしいものや美しいものがあるとその人の意志に関わらず、魂だけが勝手に体内から飛び出してその方へ行ってしまうことがあると考えられており、その結果魂の抜けた肉体は一種の放心状態になるとされた。こうしたことは睡眠中やくしゃみ(直後に「こんちくしょう」などと唱える風習は各地に残っている)でも起こりうると考えられた。また「7までは神のうち」という言葉があるとおり、乳幼児期の魂はまだ不安定であり、肉体から遊離しやすい=死にやすいとされていた。人は魂を宿すことで初めて人として振舞えるようになれるが、その魂は必ずしも己の肉体に安住してはくれないのである。

※魂は人の身体だけでなく、くぼんだ器物(お椀や枡、杓子etc)や丸い石、こん

 もり茂った森などにも宿るとされ、それらは呪物に使われたり崇拝の対象とされる

 ことも多い。

②出産・育児にともなう風習

 妊娠とは基本的には母体が夫の魂に触れて新しい魂を創造することとされたが、①の冒頭の伝承はその変形と見なされよう。ここで注意すべきは赤子の魂にとって重要なのは夫の魂であり、妻の魂ではないということである。血統を重んじる天皇家にあっても、母方の血は父方ほどには重視されなかった。天皇の母は「仮腹」と言われて天皇の神聖な魂を乗せる乗り物のようなものに過ぎず、極論すれば聖なる魂が受肉するための肉体でしかなかったという。この魂の継承という観点からすれば日本は典型的な男系社会といえよう。

 出産は医学の未発達な当時の女性にとっては生命の危険をともなう、きわめて過酷な出来事であった。多量の出血と死産の恐れ…中世に広まった穢れ=「気枯れ」の観念によって妊婦と出産の場も穢れたものという意識が生じ、産屋(うぶや)を設けて一定期間妊婦を隔離したり、別火(べつび)と称して妊婦と他の家族とは煮炊きの火を分ける風習も地方によっては存在した。ただしこれによって妊婦が村落共同体や家族から排除されるというわけでなく、むしろ胎児と母親を皆で守ろうという考えに基づいて行われた風習であるという。そうした発想は臨月を迎えた妊婦に対して餅をついて贈る風習にもあらわれていよう。

 安産の守護神は犬や子安地蔵だったりするが、犬は出産が軽いことに加え、悪霊を追い払う力があるとされて安産の神となった。妊娠5ヶ月目の戌(いぬ)の日に腹帯(はらおび)を締める風習(「帯祝い」などと言われる)もそこから生じている。なお不幸にも流産した場合には「水子」(間引きされた子も含む)として墓場ではなく川に流されたり、土間や縁の下などに埋められることもあった。いずれも現世と他界との境界とされた場所にあたり、魂の再生復活を期すための処置と考えられた。この処置は「水子」だけでなく、乳幼児の死にも適用されていたようである。実際多くの地方では7歳までは子供が死んでも魂の再生を期し仏にさせないために普通の葬式を施さなかったという。間引きを「おっかえし」とか「ひっかえし」というのも他界からきた子の魂を再び他界に返すという観念から生じた言葉に違いない。当時の人々は魂の再生復活を信じるからこそ、堕胎や死産にもさほど罪の意識を覚えないで済んだのであろう。

 無事生まれた赤子は不安定な霊魂を落ち着かせるよう産湯で清められて真っ白な産着を着せられた。出産及び生まれた子の運命をつかさどるのが産神(うぶがみ)であるが、産神は山の神であったり、水神や便所神、道祖神、荒神、かまど神などであったりとその出自は多種多様である。御神体は丸い小石であることが多く、出産直後に盛り上げた米飯=「産飯;うぶめし」(米飯そのものに呪力があるとされていた)を供えて祀られた。まだ不安定な赤子の霊を強化するのが狙いで、供えられた産飯は産婦や産婆、見舞いの人にご馳走され、ともに産神の加護を得ようとしたという。

※ちなみに分娩体位は江戸中期まで座産が多く、天井からつるした力綱につかまり、背後から抱いてもらう形で介助された。西洋の分娩椅子による出産に比べ介助が難しいことなどからやがて仰臥位(ぎょうがい)に移行。

 生後七日目に名付けの祝いである「お七夜」を行う。出産に伴う血の穢れも父親に限り七日目には消滅すると考えられたらしく、神主や近隣の人達の意見をもとに父親が名付けて赤子の社会的な認知を求めるならわしであった。もっとも父親以外に名付け親がいる場合も多く、名付け親はその子の生涯にわたって関係を持つとされ、仮親の一つとして地位も高かった。母子ともに血の穢れが消滅し、忌明けを示すのが生後三週間から一ヶ月後頃に行われた初宮参りである。初宮参りは氏神、産土神(うぶすながみ)に氏子として公認してもらう機会であるため、わざと神前でつねって泣かせることで赤子の存在をアピールさせる地方もあった。

 生後百日頃にはお食い初め(おくいぞめ)という儀式を行い、一人前に成長して一生食べ物に困らぬよう願った。通常、子供のために新しいお膳や茶碗、箸が用意され、正式なものになると一の膳には握り飯、鯉か鯛などの焼き魚、それに梅干と小石を添え、二の膳には紅白の餅を添えるらしい。小石は産神の依代(よりしろ)であるとともに歯固めの意も込められている場合もあるという。もちろん子供はまだ歯が生えてきていないので食べる真似だけで儀式は終わった。

③子育て

 幕末から明治初期に来日した欧米の人々は一様に日本人の子育てを驚嘆の目で眺めている。大森貝塚の発見で知られるアメリカ人のモースは「日本は確かに子どもの天国である。…世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国は無い」と書いた。またロシアの海軍中佐ゴロヴニンも「日本人は自分の子弟を立派に育てる能力を持っている。…日本人は天下を通じて最も教育の進んだ国である。…読み書きのできない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もいない」と日本の民度の高さと子育ての熱心さを絶賛していた。19世紀の日本は世界でもトップクラスの教育熱心な国であったらしい。実際寺子屋の普及によって江戸時代後期には民衆レベルでも「読み書きそろばん」程度の基礎知識は相当広範囲に習得されていた。およそ200年前には国民の識字率で日本はおそらく世界トップレベルに達していたと考えられている。このことが明治維新等の急速な近代化を可能とした重要な要因の一つだと指摘する学者(R.P.ドーアら)もいる位である。

 産業革命、市民革命を経て当時全盛を誇ったイギリスでさえ、19世紀前半までは民衆レベルの教育に関してはまだまだお粗末なものに過ぎなかった。特に民衆の子供の置かれた環境は劣悪で、工場や炭鉱での児童労働も平然と行われていたという。近代学校教育の成立は親が強いる過酷な労働から児童を守ることを大きな目的として欧米で発足したことも考え合わせると、19世紀の中頃、欧米の人々が見た日本の「溺愛」ともとれるほどに濃密な子育ては驚き以外の何ものでもなかったであろう。

 日本人の子供に対する深い愛情は「銀(しろがね)も金(くがね)も玉もなにせむにまされる宝子にしかめやも」(山上憶良)と万葉集の昔から歌に残されているが、もちろん親子の情愛自体は人類普遍のものであって日本の専売特許ではない。注目すべきは子育てのあり方である。日本では古くから親は子が幼いうちは添い寝をし、時には子供を挟んで「」の字になって寝るのが普通であった。今は日本でも万事において欧米風となり、子供部屋を早くから利用させる家も増えてきたが、100年以上前の日本には子供部屋のある家などほとんど無かったのである。しかし欧米では自立心を早いうちに養うためにスペースさえあれば幼児期から子供と親の寝室を分けてきた。親への依存は早目に断たれ、個としての人格の形成を幼児期から促していくのが欧米流の子育ての基本なのである。さらに18世紀頃のヨーロッパの都市部では乳幼児を乳母に預けたり、里子に出すのが普通に行われていたから、日本のような親子の密接な情愛の交流など望むべくも無かったらしい。

 欧米と違い日本では親からの自立をせきたてるような子育てはほとんどせず、むしろ親への依存を強めさせるような、欧米からは羨ましがられるほどの親子密着型の子育てが目立っていたのである。他方でそのことが、甘えん坊でなかなか自立できず、自己主張が乏しいなどと言われがちな日本人の欠点の主な原因として槍玉にも挙げられてきた。

 しかし日本人の「溺愛」の弊害については実は江戸時代から繰り返し指摘されてきたという。江戸時代の代表的な教育論者でもあった貝原益軒はただの溺愛は子の成長を損なうとして退け、早い時期からの厳しい躾と教育を唱えた。もっとも江戸時代の育児に大きな影響を与えた石田梅岩に始まる心学の立場は益軒と同様「溺愛」を否定しながらも一貫して厳しすぎる躾の弊害に触れ、優しく教え諭す形での躾を提唱している。育児にはまず親子間の親密な睦まじい感情を必要不可欠とするのが、この頃の育児論の大勢であったらしい。江戸時代は前述したように識字率も急上昇し、育児論、教育論の出版が相次いでいた。儒学者や心学者の育児論の持つ影響力は決して小さなものではなかったとすると、日本人の伝統的子育ては江戸時代に普及し、完成していったことがうかがえる。明治期以降も戦前までは日本の子育てスタイルはさほど大きな変容はなく、旧民法の家父長制のもと「厳父慈母」といわれたような夫婦間での子育てにおける役割分担が進んでいった程度の変化しか認められない。この伝統的な子育てが急激に崩れるのは1960年代から1970年代のいわゆる高度経済成長期であった。

2.老いと死の文化史

①老いるとは

 現代の日本では老いることに対し、ひたすら心身ともに醜くく衰えてやがて死を迎えるだけの、人生の辛い終末期に過ぎないかのようなイメージが強いようである。しかしかつての日本では老いをただの老衰ではなく、魂があの世にいって神の子として生まれかわるための大切な通過点として捉えていた。江戸の町人たちは老いを楽しむことに余念がなく、「死光り(しにびかり)」といって死に際を立派に飾れるよう努力したという。若さが失われていくことに焦点をあわせた引き算の「老い」ではなく、若さに加算されていくものとしての目出度い「老い」であったのである。臨終に際しては「何も思い残すことはない」と言う最期の言葉とおだやかな死に顔こそが理想とされた。したがって死に関わる儀礼も魂の新しい旅立ちに関わると言う点で出産の儀礼と多くの面で共通しており、両者には以下で触れるように随所で似通った要素があることになる。老いと死は決して人生の悲劇的結末などではなかったのである。

②魂呼ばい(たまよばい)

 古代では死と仮死状態との区別はつけていなかったため、生理的には死んでしまっていてもなお死に切っているとは考えず、呪術的な作法を施せばよみがえらせることもできると信じられていた。古くは天皇の死後、数年もの間葬らずに仮宮に安置しておく「もがり」の風習もあった。平安時代には「もがり」の風習のかわりに死者の家の屋根に上り(死者の魂はしばらく自分の家の屋根のあたりをさまよっていると考えられていた)死者の名を呼ぶ「魂呼ばい」をしたことが記されている。この「魂呼ばい」は形態に様々なバリエーション(枕元で叫ぶ、井戸の底に向かって叫ぶ、杓子で招く、枡やお椀をたたいて叫ぶ、米を口に入れたり、米の音を聞かせる…)が見られるものの近年まで各地で行われていた。死者の名を呼んで魂を再び肉体に戻し、「死者」の復活を願うこの招魂の呪術でも生き返らないときに初めて肉親は本人の死を受け入れ、次の葬送の儀礼に移ることになる。

③葬送の儀礼

 死が確認されれば直ちに葬送の儀礼に入る。まず「死に水(しにみず)あるいは末期の水」と言って普通は筆などに水を含ませて死者の唇を潤すことが行われる。この風習に関しては生理的に重篤の患者が水をほしがることが多いためという説明もあるが、民俗学的には水が「魂呼ばい」にも使われることがあり(秋田の例;難産で気を失った女性に対し、盥に水を汲んで髪の毛を水にひたして名前を呼ぶ)本来は②の儀礼に属していたと推定されている。またお椀に飯を盛り切りにして箸を突き立てた枕飯(あるいは枕団子、産飯に対応)を急いで作り、死者に供えることも全国的に見られる風習である。米の呪力でいまだ不安定な死者の魂をつなぎとめ、悪霊などがよりつかぬようにする狙いがあったらしい。これも本来は②の儀礼に属していたと考えられる。

 枕飯と同様の狙いで死者の近くにはローソクや線香が絶やすことなく焚かれ、死者の布団の上には魔除けの小刀が置かれる。なお死体を北枕西向きにするという風習は仏教の影響(釈迦の入滅をまねたもの)でさほど古い風習ではないらしい。

死体は入棺に先立って湯灌(現在、病院では清拭(せいしき)と言われることもある。産湯に対応)が施された。死体は裸にされてお湯の入った(たらい)に入れられ、近親者によって洗い清められたのである。そして男の場合にはひげを剃り、女の場合には薄く死化粧を施し、死装束(たいてい装束であり、産着に対応)に着替えさせた。欧米ではエンバーミングといって消毒や防腐処理まで遺体に施す(静脈から血を抜き、動脈から防腐剤を注入)ことがあるが、湯かんでは遺体の保全までは考慮されていなかった。あくまで死者を清め、荘厳することが狙いであったようで、浄土信仰の広まった1000年ほど前から始まったと考えられている。やがて極楽浄土に旅立つ死者のために手甲、脚絆、草鞋に杖を持たせ、六文銭(三途の川の渡し賃)や穀物などを入れた頭陀袋をかけることも一般化した。なお死者の額や野辺送りの際に近親者の額へ白い三角紙を付ける風習はさほど古いものではなく、穢れた者が日にあたることを慎むために頭にかぶったものが簡略化されたものと考えられている。

 湯かん等が済むと入棺となるが、かつては桶棺が多かったため、遺体はしゃがんだ姿勢をとらせる必要があった。その際、極楽縄とか往生縄と呼ばれる縄で首と両膝を固く結ぶ地方(青森、新潟、石川、岐阜…)もあった。死後硬直が始まっていると首の骨が折れる場合もあるほど、傍から見ると凄惨な風習ではあるが、招魂の呪術を施しても魂の戻らぬ死体はもはやただの抜け殻に等しいという捉え方もあり、古風な地方ほど死体の扱いはぞんざいなものになりがちだという。どうやら大切なのは霊魂のほうであり、霊魂だけを祭れば十分というのが古来の考え方であったようである。ただし死体を縛り付けるのは無縁の死霊が死体にとりつくことを恐れてのことだという考えもあったようで、死者の胸の上を猫が跳び越えると猫魂(=無縁の霊魂?)が入って死人が立ち上がるというよく知られた伝承もそうした考えが存在した傍証となろう。また「お通夜」も本来は死者に死霊がとりつかぬよう、近親者が火を絶やさずに遺体とともに一夜を明かすのが古来の習わしであった。

④他界観

 仏教では極楽と地獄が代表的な「あの世」であり、日本の他界観も仏教の影響を強く受けてきたが、各地に残された伝統的な習俗からは山上他界観がほぼ共通してうかがえるという。死後しばらく近くをさまよっていた霊魂は祭られて清められる。やがて祖霊と融合した霊はまず近くの山や丘の頂に登り、そこでさらに清まると天に昇ると考えられていた。しかし霊魂の行方と山の神等とのつながりはもはや明確ではなく、そもそも古代の日本に明確な体系をもった他界観があったのかどうかさえあやしいようである。結局今もってはっきりしたことはわからないというのが現状のようだ。

 なお「古事記」には死の神話としてイザナミの死と死後の世界についての記述がある。ギリシア神話にも良く似た話しがあり、興味深いのであらましを紹介しておこう。男神のイザナギと女神のイザナミは夫婦協力して国を生み、多くの神々を生み出したが、最後にイザナミは火の神を産んで大火傷で死んでしまった。イザナミは死後の世界で地底にある黄泉国(「よみがえる」の語源)に行ってしまう。これを嘆き悲しんだ夫のイザナギは妻のいる黄泉国へ行くがそこで亡き妻に「私の体を見るな」と言われる。しかし妻の恐ろしい体を見た彼は追いかけてくる妻を尻目に一目散に逃げることになる。彼はこの世との境まで追いかけてきたイザナミに「一日に千人の人間をくびり殺す」と呪いの言葉をかけられる。一方イザナギも「それなら私は一日に千五百の産屋を建てよう」と言い返す。いわゆる人間の生と死の起源を示した神話である。女神が生と死の両方をつかさどる神話は世界最古の神話であるシュメールの叙事詩(約6000年前、妹のイナンナが天上と地上を支配し、姉のエレシュキガルが地下の死の世界に君臨する)にも共通する点がさらに興味深い。

 

3.参考文献

 「お産の歴史」杉立義一 集英社新書 2002

 「冠婚葬祭」宮田登 岩波新書 1999

 「日本人のしきたり」飯倉晴武(編) 青春出版社 2003

 「なぜ日本人は賽銭を投げるのか」新谷尚紀 文春新書 2003

 「江戸の子育て」中江和恵 文春新書 2003 

 「日本の葬式」井之口章次 ちくま学芸文庫 2002

 「お葬式の日本史」新谷尚紀(監修) 青春出版 2003 

 

 

神道とは何?

はじめに

 近年、「歴史」とか「伝統」という言葉はすっかり魅力を失ってしまった。もはやどうでもよい過去の残骸…?なにしろ今や激動の時代である。今さえ良ければ…あるいはせいぜい自分の近い将来だけ考えればそれで十分。多くの人々は目先の流れを追うので精一杯なのだろう。実際、現代という時代はわずかばかりの「新しさ」に価値を求め、過去を悠然と振り返る心のゆとりが欠けている、それゆえ心が消耗しがちな時代のように思えてならない。

 とりわけ神道の場合、戦時中の国家政策に積極的に関わってしまったため、戦後はその責任が問われ、歴史の授業でも影がすっかり薄くなってしまった。しかし日本の伝統を考えると、日本史の時間に日本固有の宗教である神道を無視するわけにはいくまい。私たちのすぐ近くにもたくさんの神社がある。そのくせ私たちの多くはその神社にどんな由来があり、地域とどう関わってきたのか、まったくといっていいほど知らないのである。実際に神社に行ってみると、境内にはいくつもの石碑があって、かつての地域の人々の生活と信仰のあり方の一端を今に伝えてくれている。普段、「初詣」や「お祭り」でしかふれることのない神社が、実はその地域の重要な歴史の証言者なのだ。

 今回は地元の歴史を学ぶ上でも欠かすことのできない神道を取り上げ、日本の歴史を身近に理解することを目的に特集を組んでみた。これを機にぜひ近所の神社に行って地元の歴史に触れてみよう。

1.基礎知識の確認;以下の質問に答えてみよう。

 ①日本にはいったいいくつの神社が存在するのだろう?        約11万

 ②千葉県で古来最も格式の高い神社とされてきたのは?       香取神宮

 ③全国で古来最も格式の高い神社とされてきたのは?        伊勢神宮 

 ④「天照大神」でなんと読む?            アマテラスオオミカミ

 ⑤雷と稲妻の語源は?

  雷:「神が鳴る」からきており、神が地上に来臨する際の現象と考えられた。

  稲妻:稲を実らす穀霊として雷は捉えられていたため。

 ⑥「日本武尊」でなんと読む?            ヤマトタケルノミコト

 ⑦日本の神々を知るうえで欠かせない書物で8世紀に成立したものとは?

                           古事記と日本書紀

 ⑧ねずみは「一匹、二匹…」では神様はどう数える?          ~柱 

 ⑨「天神様」は神様に祭られる前は誰?              菅原道真 

 ⑩全国で最も多い神社は何神社?                 稲荷神社

 

2.日本の神々と信仰

 日本の神々は「八百万(やおよろず)の神」と言われるように、「あらゆるものの霊魂が神」とも考えられるほど数が多いのが大きな特色であろう。そもそも原始日本人は人をはじめとする生き物だけでなく、山や川、あるいは雨や風といった自然現象までもが霊魂を持っていると考えていたらしい。「神」とはそうした霊魂のなかで特に人によって祭られた霊魂を指していたようである。

 また日本の神は人並みはずれた力を持つが、人々を威圧して支配することはないとされ、人間も神々も平等な価値を持つ霊魂と考えられていた。したがってキリスト教やイスラム教のように唯一絶対の神が人間世界に君臨して法で人々を縛るようなこともなく、「聖書」や「コーラン」のような体系的書物=経典も残していない。そのため欧米の価値観からみると日本には「ちゃんとした」宗教が無いように見えてしまう。しかし同じ宗教といえども西洋の一神教と同じ土俵で日本の神道を比較することは乱暴に過ぎよう。へたに比較すると神道がキリスト教などよりも劣っているといったような誤った印象を残してしまうおそれもある。

 そもそも神道の特色は日本固有のものというより、東アジアの民族宗教にも共通するものである。多神教としての特色自体は東アジアだけでなく、世界各地の民族宗教にも見られ、様々な自然物や自然現象にも霊の存在を認めるアニミズムも神道固有のものではない。祖先を祖霊、祖神として祭ることも東アジア全体に共通している。古来、大陸や南の島々から様々な影響を受け続けてきた日本の歴史から見ても、神道から純粋な日本らしさを取り出すことは不可能といってよい。むしろ「東アジアの一員としての日本」を念頭に置いて、神道と神社の歴史を見ていくべきであろう。

 

3.神道の歴史

 神道の起源が縄文時代にまでさかのぼれるかどうかは未だに不明である。おそらく様々な自然現象に対して科学的な説明のできなかった当時の人々が、霊的な存在を仮定してすべてを霊=神の働きで説明しようとし、霊=神への畏怖と崇拝を作り出していったのだろう。そこに大陸から金属器と水稲耕作を中心とする文化が伝来するとともに農耕儀礼としての新しい信仰も加わってきたということか。

 弥生時代には村から国へと社会の規模も拡大し、集落間や小国間の抗争が激化するなかで、リーダーには大勢の人をより一層強力に統率する必要性が強まった。彼らは自らの権威と指導力を補強するために新たな農耕儀礼を主催し、祭祀の中心ともなっていったと考えられる。3世紀に入り、大和政権が突出した地位を築いていくと、それまでの小国ごとの信仰も統合され、大和政権によって再編成されていった。大和政権の王自身もかつては本拠地の大和三輪山の神(大物主神;蛇身で水源をつかさどる穀霊神)を祭っていたが、地方を征服していく過程で軍神を祭るようになった(鹿島神宮と香取神宮)。そして九州から東国までを支配下に置く5世紀後半には、唯一の太陽神(天照大神=アマテラスオオミカミ)を祭ることで、祭祀の上でも全国に君臨しようとした。しかし538年、仏教が百済から伝来し、仏教推進派の蘇我氏が実権を握るようになると造寺造仏が盛んになる一方、巨大な古墳を築いて祭祀を行う伝統的な信仰の見直しも始まった。仏教という異教を前にこれまでの伝統的な信仰が日本固有の「神道」としてあらためて意識されだしたのである。

 この頃、王権も動揺し始めたが、7世紀に入り、律令体制を柱とする中国の強力な中央集権体制を取り入れて王権の強化が図られていった。特に壬申の乱を勝ち抜いて王位についた天武天皇は神祇官制度を確立させて、祭祀全体を国家の強力な統制下に置いた。当時、寺院建築の影響を受けて社殿が造営され始めたが、そうした神社の主なものは官社として神祇官が統制(官社の総数は「延喜式」によると2861)するようになったのである。また「古事記」の編纂(完成は712年)も始まり、天皇は天つ神の中心天照大神の直系の子孫とされて神格化が図られたのに対して他の豪族の祭る神は天つ神の格下の国つ神とする神話が作られていった。さらに天照大神を祭る伊勢神宮が国家において最も重要な神社とされ、皇居に準ずる待遇を受けるようになった(やがて多くの神々に対して神位や神階を授与して皇祖神を頂点に神々の序列化が進められていく;例「正一位稲荷大明神」)のも天武天皇の頃である。

 ただし記紀神話にもうかがえる様に中国の陰陽五行説や道教の神道に対する影響は甚大で、後の各種神事にも大きな影響を及ぼし続けた。中央集権体制の確立に伴って神道は天皇を権威付ける教えとして政治的な意図を持って整備されたが、その際、仏教や道教等の要素も取り入れられるなどして、それまで地方や民間にあった素朴な信仰とは整合性が欠けていく側面もあった点は見逃せない。

 奈良時代に入ると仏教が国家鎮護のために一層手厚い保護を受け、国分寺・国分尼寺と大仏の造営がなされた聖武天皇の治世を中心に本格的な仏教文化が花開いた。この仏教優勢の流れのなかで生じた道鏡を巡る一連の事件は劣勢に置かれた神道にも若干の影響を与えた。いったん譲位して尼でありながら再び皇位に就いた称徳天皇は仏教主義をとるとともに道鏡を寵愛してついには彼に皇位を譲ろうとしたが、血統主義を軽んじた称徳の方針に危機感を抱いた貴族たちによって称徳の狙いは不発に終わる。この事件で改めて貴族たちの政治権力が天皇家との神話的絆と血統にあることを再確認することとなったのである。その結果、天皇の祭祀に関しては神仏分離の原則が確立したが、一般には仏教優位の形勢が強まるなかで神仏習合が進んでいき、次の平安時代には神は仏の仮の姿に過ぎないとする本地垂迹説(例;天照大神=大日如来)まで説かれるようになっていった。また平安時代には御霊信仰も広まり、非業の死を遂げた人々の霊の「たたり」を恐れて神として祭り上げることが相次ぎ、八坂神社や北野天満宮などが造営された。

 さらに密教が持っていた山岳仏教的側面と神道とが習合し、修験道と呼ばれる独特の信仰も発展していった。

 古代における祭祀は血族単位あるいは村単位であり、あくまで共同体の繁栄や平和を祈るもので、個人的な祈願を主目的とはしていなかった。しかし平安時代以降、本地垂迹説が広まり、さらに国家鎮護だけでなく個人的願望にも応える密教の教えが広まると、神もまた個人の救済者としての役割を期待されるようになった。加えて神祇官のもと統制されていた神社も律令体制の崩壊とともに国家の保護を期待できなくなったため、中世にはそれぞれ経済的自立を迫られた。多くの神社は個人的祈願の成就を謳い、地域や氏族を越えて参拝者数の確保を図らなければならなくなり、それまで営々と共同体を支えてきた神道は中世において一大転機を迎えたのである。

 仏教との習合が進んでほとんど区別できないほどであった中世と比べ、近世には神道としての独自性が強調されてくる。仏教とは共存共栄を図りつつも、ある程度の住み分けと差異化が進んでいくのである。日本の古き伝統を探り、儒学や仏教を排して神道に着目した国学の成立と発展はそうした動きを一層助長することになった。加えて寺請制度によって民衆の支配に加担した寺院への反発も次第に高まっていき、これらが追い風となって、黒船来航の衝撃を機に神道は尊皇攘夷の名のもとに過激なまでの盛り上がりを見せることになったのである。この流れは明治維新期にも続いていき、廃仏毀釈運動に発展していった。

 また町人を中心とする民衆の成長によって神道もまた大衆性を持つにいたった。江戸時代には民衆がこぞって寺社参詣を繰り返し、その費用捻出のために様々な「講」が組織された。代表的なものに「富士講」や「伊勢講」「大山講」がある。特に伊勢参りはブームになると一時に百万人を越える大量の参詣が行われ、「お蔭参り」とも呼ばれた。一方、江戸期に多くの人の信仰を集めた「お稲荷」などの流行神もたびたび出現した。さらに興業的な性格を持つ御開帳も数多く行われ、寺社が秘蔵する御本尊や御神体などが一定期間、公開されて人気を集めた。人気歌舞伎俳優の市川団十郎が篤く信仰した「成田山」で知られる新勝寺の不動尊は江戸でも大人気となり、幾度も江戸まで運ばれて公開された(これを「出開帳」という)。すでに中世において個人的願望に応えるようになっていた神道側の変質がこうした江戸期における神道の民衆化に大きな役割を果たしたことは間違いあるまい。

 近代以降になると1873年からそれまでの太陰太陽暦(旧暦)にかわって太陽暦が採用されたことで年中行事における農作業のリズムと暦とのズレが目立ち始め、季節感もぼやけてしまった。また文明開化の名のもと、科学的思考法が定着する一方で従来の神仏への信仰を迷信と捉える傾向を強めたことなどにより、伝統的な信仰に基づく各種の習俗が衰退に向かっていった。さらにかつて共同体の儀礼としての性格を色濃く持っていた初宮参りや七五三などの通過 儀礼も一族や村社会から切り離されて、個人ないしは家族の儀礼という側面が強まった。

 今や神道は次第に宗教としての性格を薄め、信仰上の意味がぼやけていくなか、形式だけが踏襲されていく、ただの習俗に過ぎなくなったかのような状況であろう。本来、初詣は氏子として地元の神社にお参りするのが筋であるが、今や明治神宮や川崎大師など有名な神社に人は集まるようになってきた。従って正月三が日の初詣は確かに毎年多くの人ごみで神社も賑わうが、お参りする人々にどれだけ神への信仰心があるのか、かなり疑わしいのも事実である。

 民衆レベルでは熱気を失っていく神道であるが、政治的には一時期まで重要な役割を果たすことになる。幕末以降、欧米列強への脅威から高まった尊皇攘夷論を近代国家日本の統合原理に仕立て上げるために明治政府は天皇の神格 化を図り、神道を国教として保護した。「現人神(あらひとがみ)」である天皇の命令という形で国民を「富国強兵」という国家目的実現のために有無を言わさずに駆り立てていったのである。そしてついに1945年、アジア太平洋戦争の敗戦を迎えることになってしまった。戦後はその反省から政教分離と公教育における宗教への中立性が強調されるようになり、神道は戦争をもたらした迷信であるかのような印象も強まった。戦前、国家神道として戦争等の国策に協力した神社側の責任は確かに重いといえよう。しかし民衆レベルで神道が果たしてきた様々な役割(地域共同体や一族・家族の絆を強め、正直に礼儀正しく、謙虚に生活するetc)までが軽く見られるようになってしまったのは残念であるにようにも思える。

 

参考文献

・「神道 日本生まれの宗教システム」井上順孝編 新曜社 1998

・「神社と神々」井上順孝監修 実業之日本社 1999

・「日本人なら知っておきたい神道」武光誠 KAWADE夢新書 2003