その6 .教師の下位文化に関する私的考察(後編)

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

2.教科別教員文化論

はじめに

 「1.学校間格差と教師の準拠集団」において学校の直面する状況、学校間格差によって初任の準拠集団が学年室に置かれる場合(=学年室常駐体制)、教科準備室に置かれる場合(=教科準備室体制)、さらに大職員室に置かれる場合(=大職員室体制)の三つの在り方を紹介した。ただし高校の場合にはかなりの学校が教科準備室体制を取っている。したがって最も注目すべきは教科間の違いになる。事実、種々の学校教育に対する教科間の取り組みの違いはどの学校種でも乗り越えるべき大きな課題ともなりうる。もちろん学校間格差の問題は小さくはなく、無視できないが、各教科における教員文化の違いは学年や分掌、学校行事などの学校全体の取り組み等、様々な場面において支障を来す場合があり、どの学校においても看過できない大きな課題となるだろう。当然、テスト問題の作成と評価の在り方も教科間の違いは相当、考慮すべき問題となると考えられる。ここでは社会学の用語である下位文化=サブカルチャーの概念に基づいて高校における教科別教員の下位文化を検討し、教科別、科目別の違いに留意した授業、学びの在り方に若干の考察を加えていこう。

 

①   共通テストの有無による教科別教員文化の差異

 従来、学校の外部からはあまり指摘されてこなかった大きなポイントが教科別教員文化の違いであろう。とりわけ教科間の違いを様々に際立たせているのは定期考査においての統一問題、共通テスト実施の有無であると思われる。基本的に共通テストを作成する教科なのか、それとも各教員の独自問題に評価をすべて委ねる教科なのか、この違いは同じ教科内での教員間における評価の主眼の違いや授業内容の違いをどこまで許容するのか…各教員の授業での自由度を大きく左右する決定的な要因の一つとなると私は考えてきた。当然、自由度が低い教科では授業内容や授業方法に対する教員独自の工夫の余地も少なくなるに違いない。そしてその自由度の差は教科別教員の下位文化の差異をも生み出す最大のポイントとなる部分だと考えられる。ここでは共通テストの有無を基準にして教科を二つのグループに大別し、分かりやすくするために敢えて対立的に描写することでそれぞれの特色の違いを浮かび上がらせていこうと思う。

 ただし予め断っておくが、これらの考察は特定教科の教員に対する批判や攻撃を意図したものではない。日本の高校教師に関しては未だに本格的な教員養成教育をほとんどの大学では施してこなかったという驚くべき、政策上、制度上の手抜きがあり、しかも未だに教科書検定制度を採っていて相変わらず教科書がバイブルのように扱われていたりする。こうした古色蒼然たる日本の学校教育の状況が続く限りは多くの教科において以下に述べるような歪な力学が作用し、大勢の教員の価値観が一定の方向に誘導されてしまいがちな点に是非注目していただきたいのだ。問題の本質は個々の教員の資質にあるわけではなく、その多くは教員養成や学習指導要領、教科書検定制を含めた日本の教育制度の重大な欠陥に求められる、と私が考えている点にご理解いただきたい。

 

② 共通テストを課す教科:国語・英語・数学・保健体育・・・

 もちろんこれらの教科でも少人数の選択科目の場合には共通テストを課さないことがある。が、必修科目の場合にはほぼ例外なくどの学校でも共通テストを実施している。その前提として生徒の成績に対する個々人の教員の恣意的影響力を出来るだけ排除することによって評価の公平性が保たれると教師間で考えられているからである。当然のことながら、様々な教育評価の在り方がある中で評価の公平性こそが最優先されるべきポイントだという教育評価への理解がこの背景にはあるだろう。到達度評価、形成的評価などの観点からすればもっぱら相対評価の観点だけに止まるこの古くさい日本の考え方自体も十分再検討される余地はあるが、ここでは深く追求しないことにする。

 定期考査で共通テストを課す教科の場合、次のような教員の下位文化が生じていく傾向が観察できよう。まずこれらの教科内では授業内容やテスト問題、採点基準において教科内における教師全員の足並みをそろえさせようとする同調圧力が極めて強くなる。初任教師には同質性を強いる方向での指導が何人もの先輩教師から丁寧にかつ執拗に行われる反面、足並みを乱すとされた教員への陰湿なイジメ・イジリまでも生じかねないほどの強い圧が存在している可能性は無きにしも非ず。教員間での教える内容や方法の違いによって生じた生徒達の学習状況の違いはその結果の良し悪しにかかわらず生徒達に対してあまり好ましくない不公平な指導の結果であると捉える傾向がこれらの教科ではとりわけ強いだろう。したがって教員個人の授業内容や方法に対する個性的な取り組み、工夫はただの目立ちたがりのワガママであるとされてしまい、教師個人の「恣意性」をできるだけ排除しようとする力が教科集団内で強くなる危険性がある。教員個人の工夫は授業中の説明に使われる「例え話」、例題、発問の頻度の違いなどに矮小化されがちである。

 基本的には多くの教員が「テキスト主義」に陥るため、教科書のどの部分をどの程度、授業で教えるのか、教えないのかに関してまで学年別に統一され、授業内容のどこを注意してどの程度強調するのかも、ある程度まで予め決められていると言って良い。板書内容も字の巧拙を除けば誰もが似たり寄ったりとなりがち。そもそも教科書を金科玉条のごとく教えることへの疑念自体がこれらの教科の、とりわけ年配教員には少なく、何を教えるかに関しての若手教員の自由度は限りなくゼロに近いといってよい。

 これらの教科での授業力は説明の仕方や模範解答、板書の見やすさ分かりやすさ、あるいは提出物の添削、朱書き、質問に対する丁寧な対応といった比較的些細な工夫が圧倒的に重要視される。説明の際の例え話の巧みさや余談でのユーモアがあればそれだけで授業技術として十分な評価が得られるだろう。たとえば国語科の授業で小説のような主観性の強い教材を扱う場合でも、その解釈はかなり画一的であり、統一的解釈が可能な範囲内でしかテスト問題は作成されない。すなわちテスト問題もまた画一的で制約の大きい没個性的なものになりがちである。このためこれらの教科において授業方法における革新的進歩は日本の場合、ほとんど見られない。達筆でびっしりと縦書きされた板書を生徒たちがノートにひたすら書き写す国語の授業風景は百年以上前から延々と続いてきた、すっかりおなじみのものとなっている。何一つ変わらぬ、だからこそ恐ろしいほどに異様な授業風景…個人的創意工夫の余地が極めて小さいため、授業での工夫が部分的なものに限定されてきたからこその光景である。

参考記事

 「読書習慣のある子」が“国語が得意な子”ではない…国語講師が語る「納得の理由」

  Yahoo!Japan ニュース 2024.6.13

      読書量の多さが必ずしも国語科の好成績を約束しない、ということは近年、よく指摘されている。

  詩や小説など、文章や物語の主観的な味わいを重視して豊富な読書量を誇る人は少なくあるまい。

  しかし客観的で論理的な分析を土台とする読解問題に関してはいったん、自分の主観的印象を脇に

  置き、あくまでも論理的に考察する冷静さを要する。つまり学問的な追及を可能とするある種の

  欲性が読解問題を解くためには欠かせない要件なのだ。

   確かに他人に自分の思いを伝えたい時に自分の感情、印象をあまりにも表に出してしまうのは押

  しつけがましさをにおせてしまい、双方向のコミュニケーションとしてよろしくないだろう。し

  かし人は誰でも自己表現欲求持っていて、作品に対する自分の主観的感想を思う存分述べたい時

  があるはずだ。読解力の養成をあまりにも前面に押し出してしまうと、児童生徒たちの主観的な自

  己表欲求を抑圧してしまう危険性が強まるのではあるまいか。

   児童生徒の中で国語の授業を苦手に思う人は少なくないらしい。それはあたかも教師から一方的

  に与えられた正解を覚え込むだけの暗記学習に陥りがちな社会科への嫌悪感と似て、読解重視の国

  語の授業がある種の息苦しさを児童生徒に与えてしまう危険性を私も生徒として感じてきた。

   授業の手順としてまずは作品への主観的印象を問うことから始めても良いのではないか。作品の

  読解を後回しにして、自分なりの感想を述べさせ、それからおもむろに問を深めていくべきなので

  はないか。問深めていく過程で初めて深い読解力が必要となるのではあるまいか。

   とりわけ感情を揺さぶるような教材の場合、読解よりも揺さぶられた感情の表現をまずは優先さ

  せるべきだと思うが、いかがだろう。いずれにせよ教科の如何を問わず、苦手意識、嫌悪感を持た

  せるような授業展開だけは避けるべきではあると私は考える。

  

 ・日本と米国の「国語教科書」を比較すればわかる…日本人が「世界最高水準の学力」を生かせない根本

  原因 プレジデントオンライン 竹内 明日香 によるストーリー  2024.1.6

※もし多少の変化があるとすれば英語科。英語教育では近年、会話能力重視の傾向が強まり、発音や聞

 き取りなどの比重が高まっていて実務英語重視に移行している点が目立つ。その反面、英語科では英

 文法や英文学の読解力などが軽視され、言語学や文学としての学問的色彩はかなり後退しつつある。

 つまり英語という教科は現在、実用的価値に主軸を置き始めたことで技術的鍛錬を主とする技能教科

 に接近してきていると言えよう。

 

 これらの教科では内容、方法面での様々な縛りが強く、授業内容における教師間の差異、個性はまったく重視されない。授業内容にそれほどの個性や創意工夫が問われない分、自己責任の領域は極めて狭いといえよう。何を教えるべきか、という厄介ではあるが授業のキモとなるべき大問題がほぼ完全にスルーされているため、些細なテクニックとしての表面的な授業方法しか追求されない。このため、生徒側も授業中の教員に対しては外見の良し悪しとユーモアのセンス、生徒への気遣い、教え方の丁寧さ以外は授業中、ほとんど気にもとめなくなっているに違いない。おそらくこれらの教科の多くは授業の進め方において小学校、中学校からほとんど本質的な変化が見られないため、生徒達の授業への期待値が当初からかなり低く設定されていると考えてよいだろう。

※ただし数学科は生徒の学力のバラツキが大きく目立つために授業中も演習中心で机間巡視が重視され

 る。個々の生徒のツマヅキに一人一人丁寧に対応する必要に迫られる機会が多いことから比較的、画

 一的指導に対しては抵抗力のある教科と言えよう。ただ、教える内容に関しては公平性を保つ上で全

 員共通であるべきとの考えは数学科にも強く見られる。なお共通テストを課すことの多い情報科の場

 合は、そもそもコンピュータ学習が教育の個別化を推進する役割の中心を担うものであるため、本質

 的にはこのグループに入らないと考える。また共通テストであってもテスト点をさほど重視せず、情

 報科と同様に実習中心の授業からなる家庭科もまたこのグループからは除外して良いだろう。

 

 こうした教科としての特性ゆえにこれらの教科の教員、特に国語科教師には次のような傾向が見られがちである。意見が分かれやすい読解問題における採点基準のブレを恐れるあまり、教科内での同調圧力が極めて強く働きかねない。作者及び出題者の意図を読み取る力を問う傾向があるため、結果的に周囲の意向を忖度する傾向も生じやすい。他方で突出した個性、アクの強さは嫌われ、一定の集団内でのバランス感覚の良さが尊ばれる。基本的には伝統を固守する、無難で保守的な体質を持つ教師たちの集団的特質が観察されよう。

 年功序列がいまだに重視される体育科の場合には教科内だけではなく、分掌、学年、全校職員が足並みをそろえることに執着し、「チーム□△」を謳うスローガンに弱い。教科指導だけではなく生徒指導でも画一的で足並みをそろえることに執着する余り、管理主義に走る教員が少なからず見受けられるのは周知の事実である。少なくとも画一的指導に表立って異を唱える教員はそう多くない。

 またスポーツ体験を主とする体育の授業は保健体育とは違って生徒たちの人気度はもともと高い。しかし体育の授業の人気が高いのは必ずしも教師の指導力の高さや教師の努力の結果を意味しないだろう。多くの場合、生徒たちは体育の授業が好きなわけではなく、多くの生徒がスポーツ好きなだけに過ぎない。

 勢い体育科教師の場合、教材や教え方の工夫を準備する労力は他の教科と比べればさほど多くない。このため他教科の授業準備にかかる重い負担をまっとうには評価できず、運動部や生徒指導の負担を当然のことと見なす教師が少なからず存在する。つまり学校のブラック化へ積極的に加担してしまいがちな教科の一つと言えよう。

 とはいえ、もちろん体育科の教師が楽をしているわけではない。普段の授業準備はともかくとして、運動部の指導が必須となるため、そこでは手抜きが許されない。放課後や土日の部活指導に加えて各スポーツの専門部を任され、各種大会の運営などにも関わるため、膨大な時間と労力が割かれてしまう。部活指導に専念するということは、下手をすれば過労死、離婚など、心身の健康や家庭生活の安寧を脅かす危険を覚悟することでもある。近年、中学校での部活指導が地域社会へ委ねられつつあるが、おそらくこの先、高校でも同様の動きが本格化するだろう。ただし体育科教師とすればそれは自身の生きがいを奪われることにもつながりかねず、単純には移行できない側面がある。

 管理職における体育科教師が占める割合は他教科と比べてかなり多い、とのぬぐいがたい印象はおそらく全国共通のものだろうが、なぜ、こうまでも学校の管理主義化、ブラック化が進んでしまったのか、その背景に管理主義的人材、すなわち管理職を多く輩出してきた体育科独特の下位文化が横たわっていると私は推察している。逆に芸術科の管理職が異様に少ないことも全国共通の現象だろう。芸術科(音楽を除く)が画一的管理主義に最もなじまない教科であることは明白であり、芸術科の真反対に位置するのが体育科なのである。

 こうした教科の教員はよく言えば空気を読むことに敏感であり、和を乱さない組織への順応性を何よりも優先するため、教員集団としてのチームワーク力は決して低くない。チームワークの良さが求められる生徒指導重視の教育困難校では特にこれらの教科に属する教員は(もちろん例外はあるものの)適応力がある方だと言えよう。しかもこれらの教科に属する教員の総数はどこの学校でも少なくはない。むしろ困難校では管理職から優遇される傾向があるため、主流派を形成する可能性が高い。従って日本の多くの学校が保守的で変化を好まない体質と言われがちであるのはある意味、当然のことなのである。

※高校に限らず、日本の学校全体が「ガラパゴス化」に近い状況に陥っていると思われる。日本の教員

 の多くは相変わらず前近代的な古い意識レベルに止まっているのではあるまいか。実際、これまでの

 運動部を中心とした部活指導の過熱した勝利至上主義やブラック校則のおかしさ、イジメ事件の隠蔽

 体質に教員自体がいつまで経っても改めることができないなど、自分たちの指導の在り方にあまり疑

 問を持たない教員達は教科や学校種を越えて広く普遍的に見られるだろう。

  特に大学における教員養成教育が極めて不十分な日本の高校教師には世界の教育の潮流に無関心な

 傾向が随所に見られる。本格的な教員養成教育を受けないまま高校教師となった初任の多くは世界の

 教育の趨勢を知らず、ほぼ免疫力を欠いた状態で因習にまみれた問題だらけの高校の教壇に立つ。こ

 のため、古臭い体質の先輩教師の指導が良くも悪くも若手に大きな影響力を与えてしまう。これでは

 若い教員が新しいことにチャレンジする折角の機会を奪い、閉鎖的で保守的な古い体質をそのまま引

 き継いでしまうことになりかねない。こうして何時までたっても自らの力では変革できなくなった日

 本の高校教育界の体質こそが日本社会の停滞を招いた大きな原因の一つであるとさえ私は考えるが、

 これは大袈裟な暴論であろうか・・・

  ただし体育科の若手教師の中には近年、心理学、リラクゼーション、コーチングなどの理論に通じ

 ていて保健体育での見事な授業が出来、なおかつ従来支配的だった管理主義や精神論から距離を置い

 て新たな原理に基づく運動部の指導を試みる有為な教師も目立つようになってきた。世代交代までま

 だ多少の時間は要するだろうが、いずれ体育科でも従来とはまったく異なる下位文化が見られるよう

 になることは十分期待してよい。

 

 これらの教科の教員は良くも悪くも体制派であり、学校を支える主流派である。そのため、中には自由と個性を多少とも尊重する他の教科の特性をほとんど理解できず、反感すら示す教師が少なからず存在する。彼ら、彼女らが教務主任、生徒指導部長、学年主任などになってしまうと自分たちが得意とする画一的で一方的な指導を「公平・公正」という理念を楯にして生徒達のみならず、教員集団にまで一律に押しつけてしまいがちである。多くの場合、彼ら、彼女らにとって生徒や教員の個性、教科の差異とは、画一的集団の醸し出すべき統一的ハーモニーをひたすらかき乱す不公平、不平等の源泉に過ぎず、あえて極端に表現すれば、ただひたすら面倒で不愉快な雑音、不協和音のようなものでしかないのだろう。しかし上から一方的に押し付けられた「公平・公正」はもしかしたら人権抑圧そのものであるのかもしれない。

 

② 共通テストを課さない(重視しない)教科:理科・社会・芸術

 そもそも理科と芸術は教科準備室が少人数の科目ごとに置かれているために集団的な同調圧力からほぼ免れている点で個性的な在り方が担保されており、自由度が極めて高い。しかも教科書以外の教材選択の幅が広く、どれをどの程度まで扱うかも個々の教師の判断に相当程度、委ねられている。各科目はせいぜい2~3人程度の小集団に過ぎず、考査が共通問題となったとしてもそれなりに授業における教師個人の自由度は保障されている。他教科に比べて教師の専門性が重視されており、専門外の科目を担当することは極めて稀である。

 ただしその反面、生徒指導などで足並みそろえてチーメワークで臨む必要が高い、荒れた教育困難校では身勝手な言動によってチームワークを乱し、非協力的な姿勢に傾く教員が出てしまうのもこれらの教科であったりする。学年室常駐に加わらず、教科準備室に籠もってしまって当番の時間にも中々姿を見せない・・・これでは生徒指導の成果は不十分になるだろう。学校全体の課題と個人的な課題とをバランス良く把握し、対応していくのは誰であっても難しいが、学校教育を俯瞰できるだけの視野の広さが少しでもあれば妥当な落としどころが見つかるはずである。問題はその教科、科目に視野の広さを持つ教員がいるかいないか、であろう。

 なお、芸術科の場合、特に音楽科は体育科と同様、部活指導の負担が重い場合が少なくない。稀ではあるが書道科でも運動部なみの活動をしている学校が存在する。一見、教科準備室における一人当たりのスペースが広く、自由気ままに過ごせるように思われたりするが、部活指導の過酷さは見過ごせないだろう。

 社会科は国数英などとほぼ同規模の集団になるが、共通テストを行う高校は稀であり、授業や考査における教師個々人の自由度はそこそこ高い。また公民科の場合、教える内容まで含めた自由度の高い科目が存在するため、教科内での同調圧力はかなり弱いと言えよう。教科準備室において稀に同じ科目の教員からアドバイスを受けることはあっても、授業内容やテスト問題に深く介入されることは滅多にないといってよい。

 ただし芸術科や理科と比べて科目の専門性はあまり重視されず、専門外どころか複数の科目を担当することもなぜか多い。おそらく2単位ものの選択科目群に設定されやすいからだろう。結果的には授業準備に最も苦労を強いられる教科となっている。ただし、一度、授業用に作成したノートを何年も使いまわして一斉講義形式の授業を繰り返す、手抜きの教師の存在を一定数生み出してしまう教科でもある。こうした授業が少なからず残存するため、残念ながら生徒から最も嫌われがちな教科の一つとなってしまうことがままある。たとえ自由度の高い公民科であっても下手に受験を意識し過ぎたため、暗記中心の一斉講義形式を続けてしまう教師が散見される。この場合には受験に無関係な生徒から最悪の授業評価が与えられる可能性は十分にあるだろう。

※歴史科目は受験科目に選ばれることが多いため、進学校の場合、授業進度や授業内容が複数の教員間

 で余りにもズレが酷くなると生徒からのクレームが出る恐れがある。度が過ぎれば公平性に欠けてし

 まう点は確かに否めない。授業展開もほとんど教科書に沿うことの多い歴史科目は社会科の科目とし

 ては最も自由度が低いと言える。したがって地歴科の教師は国語科とかなり類似する下位文化を持つ

 傾向があろう。結果的に世界史や日本史は社会科の中でも生徒から最も眠気を誘われる科目となりが

 ちであることも否めない。歴史科目は本来、内容に加えて授業方法にも相当の工夫が必要とされるだ

 ろう。

 

 授業における自由度が高い分、公平さや内容の偏りが問題視されやすいのがこれらの教科の弱点でもある。確かに受験に大きく関わる科目の授業の不公平さは教師にとって致命的になり得るが、受験のための補習授業などを別個に設けることである程度は不公平感を解消できるだろう。従って補習さえ行えれば、正規の授業での多少の逸脱は許されるに違いない。いや、むしろ高校教育の完成教育としての役割を踏まえれば、生徒達の個性を引き出し、育てる上でもこれらの教科は折に触れては積極的に教科書的、画一的な内容から時宜にかなう内容へ勇気をもって逸脱すべき義務すら背負っているとさえ考える。

 そもそも「画一的で公平な授業」が最重要視されるのは義務教育段階までである。高校卒業後、個別に進路先が異なる高校教育では教育の画一性よりも、教育の個性化、個別化の方がより大切になってくる。全員一斉に同じ事を行う意義は高校では義務教育ほど重くはない。生徒一人一人の進路が異なるように、授業もまた一人一人の個性、興味関心に応じてその内容を時宜にかなった形で多彩にしていかなければならないのは社会科における当然の義務といってよいだろう。

 いかにして授業の中で生徒個々人の異なる個性に丁寧に寄り添い、多様な要望に応えていけるのか、その工夫がこれらの教科では厳しく問われよう。そのための授業改善は日々、怠ることができない。古くさい一斉講義形式、板書やプリントの穴埋めが中心となりがちな授業を続けていては授業の個性化を進めるのは至難の業である。無論、旧態依然の日本の教科書にしがみついていては決して個性化は実現できない。中学校で生徒たちから最も不人気な教科として毎年のように英語科や社会科が挙げられてしまうのはもっぱらお上から与えられた知識の丸暗記を強要する一斉講義形式に起因するだろう。

 生徒の実態に合わせた教師独自の教材、授業構成、独自の方法論が必要とされているのだ。これは一朝一夕には到達できない目標であるが、理科、社会科、芸術科といった教科は他の教科の教師がたとえやりたくともあまりにも障害が大き過ぎて容易に実現出来ない授業の「個性化」という重要な任務を背負っている。その恵まれた環境の中でひたすら授業改善に取り組む必要がある教科なのだ。実際、社会科や理科、芸術科には極めて個性的で優れた授業の実践家が少なくないように思えるのは気のせいだろうか。

 さてそれでは授業の個性化を進め、受け身になりがちな生徒達の主体的な授業参加を促すには今、どのような工夫が考えられるだろうか。理科では以前から仮説実験方式の授業が行われてきた。こうした実験や観察という生徒参加型の授業を比較的数多く行いやすい理科と違い、生徒が受け身になりがちな一斉講義形式に傾く社会科にとって生徒参加型授業の実践は極めてハードルが高いように思える。しかしそれでも幾つかの工夫は考えられよう。

 授業の最後でアンケートをとり、アンケートの結果を受けて次回の授業展開に活かしていくという方法は授業のどの分野であってもかなり有効である。この手法で「自衛隊は必要か、否か」といった議論の分かれやすいテーマのアンケートをとって次回にその結果を発表し、面白い意見をピックアップしてそれへの賛否を問うようなアンケートを再びとり、次回の授業へとつなげていくという試みを一ヶ月ほど続けたことがある。「紙上討論」と題してこのやり取りをしばらく続けてみたが、様々な意見が活発に飛び交って面白かった。こちらが発問しても率先して手を挙げて応えてくれるような積極性があまり見られなかった学校、クラスだったが、アンケートでは意欲的に意見交換が行えた。こうした授業展開が可能となれば、アンケートで問うたテーマに関して400字程度の論述問題を出すことも可能となり、定期考査自体、生徒参加型の色彩を帯びてこよう。さらには自己表現の訓練にもつながる点でアンケートや論述問題は生徒の授業参加度を高める、極めて有効な手立てとなると考える。

 もう一つの工夫としては理科の手法を参考にして社会科の授業でも実験や調査、観察を導入することが考えられる。これも個人的な工夫になるが、過去二十年近くにわたって現代社会や倫理では心理学における錯視の実験や性格検査、リラクゼーションとしての呼吸法の実践などを通じて理科的な手法と内容を繰り返し授業に取り入れてきた。社会科の授業で理科的な授業をするアングルの斬新さに生徒は素直に驚き、喜んでくれた記憶がある。

 他にも教科書的な内容ばかりになりがちな日本史では「地名・人名の由来」や「和食の特徴」、「お祭りの由来と意味」、「西欧と日本との美意識の違い」など、文化史的な側面から切り込んでいく工夫も行ってきた。文化史は他教科の内容とかなり交わるため、生徒たちの興味、関心をある程度は高めることにつながったようだ。また定時制にいた時には生徒の多くが不登校や貧困問題などに直面していたので政治経済や現代社会、倫理では授業の多くを貧困問題や就職問題、結婚や介護、欧米との比較を軸とした学校教育問題、ウツ対策のカウンセリング理論の紹介などにも時間を費やしてきた。さらにアニメ「千と千尋の神隠し」のもつメッセージ性について1か月以上をつぎ込み、いろいろな角度から検討を加えたことが幾度かある。必ずしも生徒からの反応は良かったわけではなかったが、教科書一辺倒の授業よりはマシな反応が得られたと思う。

 いずれにせよ教科書にはない教師独自のネタやユニークな授業構成を数多く持つことが、生徒の関心と意欲を継続的に高め、授業への自発的参加を活発にする大きなポイントとなる。ただでさえ勉強嫌いの生徒は多い。普段、見ることすら嫌な教科書をただ順番通りに工夫もなく教えて暗記を強いるような授業ではいつまで経っても生徒は「冷淡な傍観者」にとどまるだろう。特に学習意欲の低い生徒が多い教育困難校にあっては通常の講義形式の授業が成り立つはずはない。これまでドンヨリとして重苦しかった授業を一新し、少しでも生徒たちの目の輝きを取り戻す上での思い切った工夫、チャレンジがこれらの教科では絶対的に欠かせないのである。

 教師達が教科書から離れて独自のネタで悪戦苦闘しながら真剣勝負している姿を生徒達に見せる事が出来ればいつしかそれだけでも教師を見る生徒達の眼差しは変わってくるはず。最初から芸術的な仕上がりを見せる必要は無いし、それはどだい無理である。完成度を高めるためには手痛い失敗も避けては通れない。一つのネタを完成させるために何年もの月日を要するのは当たり前のことである。たとえ授業が無惨な「脱線転覆」に終わろうとも、教師のチャレンジする心意気に生徒達はいつの日にかプラスの反応をしてくれるようになる。「ウケ狙い」との周囲からのからかいに耳を貸す必要は無い。大切なのはあきらめずにチャレンジし続ける姿を率先垂範、生徒に示し続けること。続けていればいつかブレイクスルーできる瞬間が来ると少なくとも私は確信してきた。

 独自の工夫を凝らした授業を成立させるための準備に費やす時間と労力はもちろん膨大なものになる。しかし理科、社会科、芸術科は生徒の興味関心に応えてくれる可能性のある数少ない教科として、多くの生徒達が実は密かに期待を寄せている教科でもあると感じてきた。学校生活の最後ともなりかねない完成教育の段階で彼らの秘めてきた期待をあっさりと裏切ることは絶対に許されないことだろう。とすれば授業準備は何にもまして優先されるべき、教師の本務となる。特に理科、社会科の教師は授業準備を優先すべく、部活動への取り組みはほどほどにしておくべきだろう。海外の学校を見てみよう。実際、分掌の仕事、クラス経営は授業準備の次に来る副次的な任務に過ぎない。欧米で最も強く問われる教師の力量は圧倒的に授業力であることを忘れてはならない。

 とりわけ理科、社会科の教員の責任は画一的で管理主義に走る日本の高校教育のお寒い現状を踏まえたとき、突出して重大なのだと考えている。ぜひその誇りと責任を持ってユニークな授業を通じて生徒の目の輝きを取り戻し、その輝きを我々教員が見失わないためにも日々、終わりなき授業準備に邁進してくれることを後に続く若き教師たちに願ってやまない。