その6 .教師の下位文化に関する私的考察(前編)

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

はじめに

 高校教師の下位文化を二つの観点に絞って簡単に考察してみたい。一つは教科別の観点でみた各教科に特有の教師の価値観、行動特性、組織としての態様などである。もう一つは教師が属する高校のタイプ別にみた特有の教師の価値観、行動特性、組織としての態様などである。特定の集団内における高校教師たちの間で一定程度共有されている考え方、価値観、行動様式などはこの二つの観点に分けて考えると自分なりの納得感が出てくるのだ。とはいえわずか35年間に8校という限られた数の学校に勤務してきただけ…極めて狭い個人的経験や観察が基本となる考察であるため、どのタイプの学校にもすべてきっちりと当てはまる考察とはなっていない。しかも私には定時制の一校を除けば他7校はすべて県立の全日制高校普通科の経験しかない。当然、都道府県別にも教員文化の違いが多少はあるだろうし、特に職業高校や通信制高校には独特の下位文化が見られるに違いないが、勤務したことの無いタイプの高校を語ることは避けるべきだろう。したがってここでの考察はもっぱら千葉県における全日制普通科高校を対象とするものであり、安易な一般化が極めて困難なものであることは予めご了承いただきたい。

   そもそも、どんな集団に属していても個性の強い教師は一定数いて、良かれ悪しかれ郷に入れども郷に従わない人がいてもおかしくは無い。あるいはどんな人でもどんなに努力し、時間をかけたとしても最後まで郷になじめないことはままある。いずれにせよこの考察にほとんど合致しない教師たちがどの学校でも少なからずいることは間違いない。ただし私がここで試みたいのはあくまでも各学校や各教科、各職員室では「郷」=「場」の力のようなものが必ず発生し、教師集団に作用するため、その場にいる教師たちをある程度までは意識無意識のうちに一定方向へと突き動かす力を持っているであろうこと、そしてそれぞれに場の力がどういうベクトルを持ってどのように働くのか、そのメカニズムをわずかでも明らかにしたい、ということである。

   もちろん以下に示される考察はきちんとした学問的実験や調査、観察に基づいてはいないので、あくまでも主観的な仮説の提示にとどまる。加えて参照した先行研究がさほどあるわけでもない。このため客観性に欠けるただの個人的思いつき、限られた経験に基づくただの憶測に過ぎないと言われても反論の余地はない。にもかかわらず、なぜこんな駄文を今になってわざわざ書くのか…

   最大の理由は学校が伝統的に抱えてきた隠蔽体質と近年、苛烈さを増す労働環境などによってこの20年余りの間に学校全体がかなりの程度、ブラックボックス化してしまい、教師に関して世間からの理解と共感を十分には得られなくなってきたからである。結果的に学校のブラック化が一気に加速し、とうとう教師を志望する若者が激減してしまった。実際に全国各地で深刻な教員不足が表面化していて、他方で学校に行かない、行けない児童生徒は増える一方となっている。すなわちサービスを提供する側とそれを受け取る顧客側の双方とも同時に人員が急減していることになる。これは学校教育にとって本来は存亡の危機が迫っているといっても良いほどの非常事態に他ならない。しかもこのピンチを加速させてきた主因はおそらく文科省や教育委員会が矢継ぎ早に繰り出してくる数々の「教育改革」と称する施策の中に見いだされよう。その過半は学校現場への偏見や無理解に基づく、見当はずれの施策であると思われ、ひたすら教師の体力と意欲を奪うものばかりであったと私は考えている。

   学校改革は多くの場合、教師たちがその成否のカギを握っている。肝心の教師たちが普段、何を考え、どう感じているのか、どのような力にもっぱら突き動かされているのかを探ることは改革を構想し、進めていく上で本来ならば極めて重要であったはず。しかし政治家や官僚はこれまで冷淡にも学校現場への理解をほぼ完全に欠いたまま、無謀な政策を一方的に強行し続けてきたと私は考える。しかも学校で問題が生じるとすべて学校の責任、とりわけ教師の責任とされ、教師への処罰と労働強化を柱とする対症療法的な「教育改革」が続々と実施されてきた。それがまた事態の悪化を招き、再び現場の理解を欠く無慈悲な「教育改革」が施され、更なる事態の悪化を招く…この絶望的状況がこの20年余りのうちに怒涛の如く押し寄せてきたのではなかったか。

   いい加減、私たちはこの悪循環を断たねばなるまい。しかし疲弊しきった学校現場からは最早呻き声を上げる力すら失われつつある。私も現役の時には声を上げる気力などありはしなかった。この程度のブログですら、退職してからブログ開設までに3年近くを要してしまっている。そもそも疲弊しきった自分の心身回復にかなりの時間がとられていたのだ。しかし事態は切迫してきており、どうやら一刻の猶予も許されないように見える。まずは今、声を上げられるゆとりのある誰かが声を上げなければ…実際、YouTubeでは中途退職した少なからぬ数の元教師たちが動画を通じて盛んに学校の過酷な現状に関する声を上げ始めている。ならば私はブログで…

 以上がこの考察を公にすることになった私なりの経緯である。

 ただし以下の論考に入る前にどうしても予めお断りしておきたい重大なポイントが一つある。政治家や官僚を含め、学校に対する外部からの論調はどうみても学校や教師たちを乱暴にも十把一からげにして決めつける、偏見に満ちた粗雑な認識が目立っているように思う。確かに多様性や個性の尊重が叫ばれる時代に、日本の学校だけが教師や児童生徒の個性を軽視し、軍隊的な画一性と管理主義的統制がいまだに広くはびこって見えるだろう。そのためもあって、外部からすれば金太郎アメのようにどの学校もすべて同じように見えてしまうのは日本の場合、ある程度は仕方あるまい。それは良く言えばある程度まで全国どこでも「公平で公正」な公教育が実現できているということでもある。

   ところが学校現場に長期間、身を置き、こっそりと参与観察を続けてきた自分から見れば日本の学校間格差は悪い意味でも良い意味でも意外なほどに大きく、学年間格差、学級間格差、教科間格差、教師の個人的格差なども実際には無視できないほどに大きい。実はこれらの差異を無視してはどんな学校改革であっても一歩も前に進めないと思えるほどの重大な差異が学校特有の隠蔽体質の下に隠されているのだ。過去のあまりにも粗雑すぎる学校改革の残念な歩みは学校の随所に深く埋め込まれた、外部からは極めて見えにくい格差問題に十分な目を向けられなかったことに少しは由来する側面があると私は考えている。

   したがってここでは教師の息遣いまで聞こえてくるほどに学校のリアルな現場に立ち入って、実際の教師目線に沿いつつ、学校の内外における格差問題、とりわけ外部からは見えにくい諸問題を出来る限り表へあぶり出していこうと思う。この論考に対しては種々の批判や反論が学校現場からも寄せられるだろう。が、少なくとも公正や中立を盾にして教育から自由と活気を奪い続けた日本の文科省を頂点とする教育行政に対してはこのあたりで一矢を報いておこうと思う。またお粗末な学校教育を飽きることなく延命させてきた頑迷固陋な管理職、都道府県教育委員会、いわゆる「老害」教師の一群にも一矢を報いるものとなることを願っている。

 

1.学校間格差と教師の準拠集団

 高校は大雑把に言って生徒指導に重点を置く教育困難校と学習指導を重点に置く進学校とにまずは大別される。若い教師が校内において最も影響を受けるのは普段から接する事の多い教師達の集団=準拠集団であるが、学校の状態によって準拠集団のタイプが異なることには留意する必要がある。少なくとも教師が最初に過ごす職員室のあり方が良きにつけ悪しきにつけその後の教師生活に大きな影響を長く及ぼしていくことはぜひ知っておきたい。

  進学校において初任教員が影響を受けるのは多くの場合、同じ教科の先輩教師であり、その先輩の授業内容の素晴らしさや生徒との当意即妙のやりとりに圧倒されたりする。初任は自然と自分の授業力向上に専念するようになり、暇さえあれば専ら高度な教材研究に励むようになる。

  他方、教育困難校において影響を受けがちなのは同じ学年で担任をしている先輩教師である。始めのうちは反抗的だった生徒達が次第に生き生きと協力し合いながら文化祭などに取り組んでいく先輩のクラス運営に感銘を受けたりもするだろう。したがって初任は自らの学級経営に工夫を凝らすべく、学校行事や生徒指導に主軸を置いて教職に勤しむようになる。

※もちろん「部活命」の体育科教師などにおいては同じ部活の先輩顧問がロールモデルとして影響は大

   きいに違いないが、ここでは部活動の件を割愛する。

 

  教師としてのロールモデルを誰にしていたのか、については2校目の転勤を前にした時、常に意識的である必要があるだろう。そのモデルが別の学校でも果たして有効であるのかどうか、転勤先では冷静に省みることが出来なければならない。学校が違えば教師の価値観や方法論、生徒へのスタンスなどに無視できないほどの差異があることは予め肝に銘じておくべきである。

 

①   教育困難校の場合

   荒れていた学校の多くは生徒達の沈静化を目指して厳しい生徒指導をとる傾向が強い。「ゼロ・トレランス」と呼ばれた、妥協しない指導を続けることで学校全体の平静さを取り戻していったケースは少なくない。こうした学校では生徒指導を強化するために学年室を設け、時間割に応じて特定の学年職員を当番に割り振り、指導の中核となる学年主任を軸に何人かの学年職員を常駐させるのが原則となる(学年室常駐体制)。もちろん理科や芸術、家庭、体育など、教科によっては自分の教科準備室を長時間、留守にはできない事情があるので多少、学年室にいる職員に教科の偏りが出てしまうのは避けられない。また学年職員の教科別構成によっては学年室運営に厳しさが出てしまう場合も少なくない。

   遅刻者や頭髪服装の乱れ、授業中の悪しき態度を指導するのは生徒をよく知る学年職員が中心となるべきである。職員が学年室に常駐することでクラスを超えた情報交換がスムーズとなり、担任も自分のクラスの他教科での授業中の様子をうかがい知る機会が増える。実際、1学年だけで毎日数十人にも達する遅刻者の指導は大職員室では行えず、きめの細かい指導は不可能と言って良い。各学年の職員室が無ければ遅刻指導も、頭髪服装指導も難しくなってしまうだろう。また学年室のロケーションは当然、学年のホームルームがあるフロアが原則。生徒達のホームルームから学年室が遠く離れていては授業中に頻発する緊急事態に後れを取り、機動力に欠けてしまう。まれに生徒棟に学年室を置かない学校があるが、それでは生徒指導上の意味をなさなくなるだろう。

   一方で学年ごとに指導の温度差が出てしまっては学校全体の足並みが揃わず、反抗的な生徒達につけ込まれてしまう。指導を成り立たせるためにはどうしても学年を超えた、指導上の共通理解が職員全体にある程度まで共有されていなければならなくなる。そこで生徒指導部を中心に学年を超えた一斉指導の機会を定期的に設けることがこうした学校では多く見られる。すなわち一定期間一定の時間を設定し、朝、生徒昇降口で遅刻や頭髪服装に関して学年を超えた職員団による一斉指導を行うのである。ただしこうした集団主義的な指導体制が自由で個性的な指導を好む教師にとっては精神的な圧迫感を強く覚えることにつながり、自身のストレス蓄積の一因となってしまう事は避けられないだろう。

   盗難や授業妨害、火災報知機のイタズラ、消火器の噴霧など、授業中の荒れが目立つ時には特定の時間を設定して校内の巡回を行う必要が生じる。ただでさえ授業担当者は普段から1対40の劣勢に置かれている。中学生の時から勉強嫌いで教師に反抗的だった生徒達は時間が経てばたちまち一部の教師を見くびり始め、様々な悪知恵を駆使して教師を挑発し、授業の崩壊を目論んでくる。したがって通常の指導体制のままでは授業中、クラスによってはほぼ無政府状態となりかねない状況が頻発する。

   困難を極めるのはすでに荒れてしまったクラスでの授業、あるいはクラスを超えて問題生徒が集まりがちな家庭科や芸術、理科の授業(困難校では体育を除き、移動教室の教科では授業の成立がかなり難しい)、生徒へのあたりの弱い教師の授業…こうした授業では第三者が授業を中断してでも介入せざるを得ないケースがある。そこで学年別に常駐メンバーが複数からなるチームを組んで当該学年の授業を定期的に巡回することになる。学校によっては学年を超えたチームで校舎内外を見回ることもある。廊下から眺めてスマホを見ている生徒、寝ている生徒、奇声を上げて立ち歩いている生徒などをチェックし、注意する。「ゼロ・トレランス」を標榜する学校では「違反切符」をその場で切り、枚数や点数などによって停学等の特別指導に持って行く手法をとることもある。

   さて授業中の指導が厳しくなれば今度は一部の生徒が校外で喧嘩をしたり、煙草を吸ったり、暴走行為に走ったり、万引きや恐喝を繰り返すなど、学校の外で様々な問題行動を起こす可能性も考慮しなければならない。したがってひどく荒れている高校では校内に加えて校外でも巡回を行う必要が生じる。当然、巡回指導に「空き時間」が奪われた教師は十分な授業準備も出来ず、疲弊しがちになる。特に押しが弱く腕力の無い教員には辛い日々が続くだろう。精神的にも相当追い込まれるので残念ながら特定の困難校では心身を病む教師が続出する。

   かつて校内暴力が吹き荒れた時代のように運動部を指導できるこわもての教師をかき集めてきて生徒指導を強化し、ゼロ・トレランスで沈静化を図ったケースは高校でも少なくないだろう。結局、教育困難校はこわもての指導や運動部の指導が苦手な教師にとっては極めて居心地が悪い場所になる。ただ、教育困難校としての歴史が長い学校では普段から生徒への指導が大変な分、教師同士の団結力は強くなり、お互いに助け合う場面も頻繁に見られる。既に実践的指導体制が整っているのでいざという時の対応が早い。実際、下手な進学校よりも困難校の方が担任としては居心地が良かった、と回想する教師は少なくなかった。

   千葉県ではかつて「等高線トレード」と呼ばれる人事異動が頻繁に行われ、困難校ばかりを異動している教師たちが数多くいた時代があった(進学校ばかりを異動する教師も少なくなかった)。つまり困難校での経験豊富なベテランたちが困難校の教育を支える中核として多くの場合、有効に機能していたのである。

   ただし「等高線トレード」には負の側面もあった。一旦、困難校に転勤してしまうとその学校、あるいは同程度の困難校から脱出したい状況が生じても、なかなか異動出来ないケースが少なからず見られたのである。実際、ある困難校では県に「10年条項」(同じ学校に原則として10年を超えて勤務できない…)が存在していたにも関わらず、毎年、転勤希望を出し続けても11年以上転勤できなかった教師は10人近くにのぼっていた。なかには同一校勤務14年目の方までいたのだ。当たり前のことだが、わざわざ進学校から困難校に転勤希望を出す教師は当時も極めて稀である。本音ではそれなりの進学校に転勤したいと思う教師がおそらく過半を占めていたと思うのだが、その本音は多くの場合、ただの夢か愚痴で終わっていた。

   こうしたことから「等高線トレード」は多くの教師にとって不公平な人事であると批判され、県教委もこれを20年余り前から本腰を入れて見直していくことになった。しかしこの見直しの結果も手伝って、一部の困難校では皮肉にも深刻な混乱が生じてしまったと思われる。困難校のベテランが転出していく一方で困難校の経験が無い、あるいは浅い教師が続々と困難校へ転勤してきたため、一時的にせよ、それまでの生徒指導、学習指導体制が崩れてしまい、ついには生徒の間から逮捕者や退学者が続出するとともに、入試での大幅な定員割れが恒例となってしまう学校まで出現したのだ。

   この混乱はなかなか終息しないまま、各学校で様々な問題を引き起こしていったように思う。残念なことに教師間でのチームワークが崩れ、組織的なバックアップすら期待できないブラックそのものの学校まで登場してしまったのだ。そうした学校では問題生徒たちと直面するのを可能な限り避けるべく、生徒棟ではなく特別棟ばかりに籠もる、あるいは教科準備室にしがみついて離れない進学校出身の教師がすこぶる多くなる。ついには噴出する生徒たちの問題行動で心身を病み、2~3年で異動を希望する、そんな教師が続出するようになる。

   ただし、幸いなことにかつての校内暴力世代やそのジュニア世代と違って、現在の高校生たちは自己顕示的な集団非行に走る者が極めて少ない。校舎の窓ガラスが何十枚も割られたり、校庭をこれ見よがしにバイクが走り回るようなことは当分の間、滅多に起きることはないように思う。他方で不登校の数がここ数年、急増してきている。実は今の生徒たちの不気味なまでの大人しさが、本来ならばとっくに危機的段階へ突入していたはずの高校を上辺だけでも今日まで学校として支えてきたのだと私は考えている。

※小中高校生の暴力行為、過去最多の9万5千件 20年前の2.8倍に

   朝日新聞社 によるストーリー 2023.10.4

   2022年度の統計は今後の学校が直面する危機的な事態を予測させるに十分だろう。既に同年度の統計

 により 小中高校などでのイジメ件数、不登校者数、自殺者数が過去最高の数値を記録している。加え

 て暴力行為の激増となれば一体何が起きてしまうのかはだれがどう見ても明白である。

  ただでさえ高齢化し、数的、質的にも不足している教師集団の急激な弱体化という現状からみて、

 もはや地域によっては次々と「学校崩壊」が生じてしまうのは不可避であろう。

  校内暴力第三世代…やはり侮るべきではなかったか…

  この論考(特に下線部)、やや楽観的過ぎたようである。

 

   今や非行を中心とした生徒指導上での問題を引き金にして公立高校の崩壊が生ずる可能性はほぼなくなったと考える。したがってかつてのような学年室常駐体制にこだわり続ける必要性も多くの高校では消滅してきた。今やほとんどの高校は授業中心の教科準備室体制を軸にして授業改革に専念すべき時だろう。これは高校本来の姿に立ち返る、絶好のチャンスが到来してきたということでもあろうか。しかし一方で公立高校の危機は教員不足の進展に象徴されるように、一層、深刻度を増してきているように見受けられる。

   ならば今後、何が原因となって公立高校の崩壊が起こりうるのだろうか。それは2022年度における千葉県の公立高校での入試採点ミスが1000件近くの数に上ったことで明確に示されてしまったのではないか。学校の危機は生徒側よりもおそらく教師集団側の要因、教師集団の組織的自壊によって本格化していく可能性が高まってきたと私は危惧している。以前から精神的疾患などで中途退職や休職に追い込まれる教師が目立っていた。加えて近年の教師志望者の減少はこれからの学校現場を二重に追い詰めていくだろう。当然のことながら学校を支えるべき人材の質と量の両面にわたる決定的不足は、学校の危機を招く最大の要因とならざるをえない。

   私が将来的に予想する学校教育の危機の真因はこれまでの教育改革と称する施策がまともに反省されることもなく徒に繰り返され、教師たちをひたすら疲弊させ、絶望させてきた点に求められるだろう。それは現場の実情を何一つ知ろうとしない独断専行の政治家や官僚によって強行され、長い間、無意味な迷走を繰り返してきたお粗末な教育政策がとどのつまり招いてしまった、当然の帰結なのだと思うが、いかがか。

   県教委が進めるその場しのぎの安易な再任用雇用策や非常勤講師採用の拡大などによって極度に深刻化した教師集団の高齢化と組織の弱体化…教員採用試験での倍率低下が加速させる教師の集団的劣化に起因する学校の自壊現象は決して入試採点ミスの多発だけで済ませられる性格のものではあるまい。かつて教師集団が持ち得ていた能力の限界ギリギリの状況の中でこれまでかろうじて破綻なく遂行されてきた様々な教育的営為全般においても、このままの状況が放置されるのであるならば、いずれ教師集団の勤労意欲の喪失と能力的破綻が一気に表面化する日が来てしまうだろう。そうなれば全学校のあらゆる局面で同時多発的に不祥事が連発し、ついには学校教育活動を麻痺させてしまうような破滅的な結末に発展していくかもしれない。学校のブラック化の放置がいずれ招き寄せる危機的事態を私たちは断じて軽く見てはなるまい。

 

②   学力中位層の学校(=進路多様校)の場合

   最も数多く存在している中間層の学校の場合、大会議室とは別個に大職員室を置く学校が少なからず存在している。そして大職員室に常駐するのを原則としている学校は多いが、学校が荒れている状態では生徒への指導が難しくなり、個別指導を前提とする進路指導の面でもあまり適切な職員室体制とは言えないだろう。こうした学校での大職員室体制はどちらかと言えば管理職が教員全体を監視しやすくするためのものであり、義務教育段階に適合的な体制と言える。教科の専門性が高く、進路指導など次第に個別指導が多くなる高校段階では多くの場合、あまり適合的とは思えない。実際、大職員室があったとしても教科指導の比重が困難校よりは重いため、結局は教科準備室に常駐する教員が圧倒的に多く、大職員室はほぼ朝の打ち合わせの時にしか使われないケースもある。

   今や多くのベテラン教師は教育困難校での経験を一度は経験してきているので中位校へ転勤しても学校を荒れさせないよう、遅刻指導と頭髪服装指導では妥協しない(=ゼロ・トレランス)スタンスを個人的にとろうとする傾向がある。ベテランであるがゆえにそうした教員は主任となることも多く、校内での発言力は相対的に強い。したがってとっくの昔に荒れを克服した学校であるにも関わらず、生徒指導中心の管理主義的指導体制をいつまでも保持して変えようとしない学校が数多く見られる。本来ならばそろそろ学習指導や進路指導に重点をシフトしていく段階にあるにも関わらず、荒れた時代への恐怖感からか、生徒指導中心のスタンスをなかなか変えられないのである。

   中位校では、容易に軽減できない生徒指導に加えて進路指導も進学、就職と多岐にわたっていてかなり煩雑である。結局、生徒の多様性、生徒間の格差が大きいゆえに学習指導も進学補習から赤点補習に至るまで多岐にわたり、学校行事や部活動にも教師がかなり手を掛けないと成立し難い。つまりいろいろな分野に渡って生徒達に手間暇を掛ける必要が大きく感じられる分、どれかに焦点を絞りきれない中途半端な辛さが進路多様校特有の苦しさ、難しさであろう。

   学年職員室を持たない、あるいは学年室がまともに機能していない進路多様校はかなり多い。結果的に多くの教師にとって教科準備室が準拠集団となり、生徒指導や進路指導において学年としての一丸となったチームワークを作るのはかなり難しくなる。実際、こうした学校では学年集団による生徒指導が徹底できない分、油断するとたちまち教育困難校に転落してしまう危険性は確かに侮れない。進学校へ闇雲にランクアップを図ろうとしてもバランスが崩れ、かえって転落しかねない悩ましさもある。近隣の学校の動きによっては現状維持すら難しい。そして一部の活発な部活動を除けば全体的な印象としてどれをとっても「中途半端」な学校、というイメージや評価が中位校にはしつこくつきまとってしまう。初任の教師にとって生徒がさほど荒れていない割には仕事の多様性、煩雑さが大きいため、進路多様校=教師の負荷が大きい学校、となりかねない。

 なお進路決定を迫られる3年生に対してはどうしても進路指導に重点を置いた指導が必要となってくる。特に就職希望者が多い学校では人手不足に陥りがちな就職指導に学年職員からの強力なてこ入れが必要不可欠となる。したがって一部の学校のように3学年職員室を進路指導室に併設して、学年と進路指導部との連携を強めようとする例がある。このシステムは進路多様校以外でも2年生までに退学者が続出し、3年生では落ち着きが見られるようになった比較的軽めの教育困難校あたりではかなり有効かもしれない。

 

③   進学校の場合

 私には進学校と言えるほどの高校に一度も勤務経験が無いため、ここではきわめてザックリとしか記述できない点、何卒ご容赦願いたい。またそのため、進学校の特色を詳述できないので、進学校出身の教師、あるいは初任校が進学校だった教師が直面しがちな難しさに焦点を絞って述べるにとどめよう。

 明確に授業と進学指導に重点を置く進学上位校の場合、教師の準拠集団はほぼ自分が所属する教科となる。いわゆる教科準備室体制である。多くの教師は自身が進学校出身であるため、どうしても高校の職員室は教科準備室(=教科研究室)であるとのイメージが強い。しかし教科準備室体制は学習指導中心の体制が成り立つ、生徒指導上、極めて平和な学校にしか本来は適合しない。そしてそうした公立高校の数は千葉県の場合、かなり限られている。つまり進学校での経験はほとんどの場合、他の多くの学校では十分に生かせないのが現実である。

 生徒たちがひどく荒れているにも関わらず、学年室が無い、あるいは学年室が形骸化している学校の場合、いずれ生徒指導や授業が破綻してしまう危険性は小さくないだろう。しかし自身が進学校出身者である教師の多くは教科準備室こそが自分の居場所であるとしていつまでも教科準備室に強いこだわりを持ってしまいがちである。生徒指導上、相当の困難を抱える学校であるにも関わらず、教科準備室に籠もり続け、学年室常駐を出来るだけ避ける傾向を持つ教師は少なくない。またたとえ自分の授業が崩壊していたとしても高いプライドが邪魔して他教科の教師が教室内に介入してくることを嫌がる教師は極めて多い。特に進学校で初任を経験してしまった教師にその傾向は強いだろう。

 また理科や芸術科、家庭科ではどの学校においても1~3人分の教科準備室を用意されるため、学年室の意義を理解できない教師がたまにいたりする。学校や生徒の実情に応じた職員室体制の違いを予め教師が理解しておかないと将来、転勤先の学校でトンチンカンな行動をしかねない点はぜひ留意しておきたい。

※参考記事

 「ヒト」を切り捨て衰退した日本、じつは「2023年後半」から流れが一変していた 

  現代ビジネス 石戸 諭 によるストーリー  2024.2.14

  「経営」の発想がいかに学校現場においても必要不可欠となっているのかが、納得できるだろう。