その5.私的覚え書き③

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

 小学校教師では向山洋一(1943~)氏が中心となった1980年代半ばからの教育技術法則化運動が注目されよう。しかし私は教育技術よりもまずは教育内容そのものを問うべきであるとの観点でこの運動にはまったく関心が無かった。確かに体育や算数、理科などは教える技術が強く問われる教科であるが、自分が受け持つ高校社会科に関しては「どう教えるか」を問う以前にまず「何を目的にして何を教えるか」の方が優先的に解決すべき問題だと当時は考えていたのである。

 1990年代に入るとさらに学校教師からの発言が拡大していく。特に注目すべきは別冊宝島第183号「日本の教育改造案~こうすれば日本の学校はガラリと変わる!~」(1993)で臨教審路線に反発し、学校改革への持論を展開した論者達であろう。その中には既に登場した松田博公氏(ジャーナリスト)、佐々木賢氏以外に1990年代以降の学校教育に関する言説をリードしていった名前が何人か登場している。

 彼らの言説は管理教育を唱えるプロ教師の会とは一線を画する側面と現場のリアイティを重視する点でプロ教師の会に接続する部分とを併せ持っているように感じる。総じて言えるのは「子どもより先生が大事」と主張し、教師を守る(⇒生徒を守る)ためには「速やかに公教育の機能を縮小せよ」という点を共通して訴えたグループと捉えられる。この視点は当然イリイチの影響もあるが、世間的に当時理想とされていた熱血教師像が普通の教師に強いてしまいがちな過酷な労働を問題視することにも繋がる。すなわち教師が置かれた劣悪な職場環境、労働実態の一面をいち早く世間に訴えた点で、学校のブラック化が社会的に問題視されている現在から見ればかなり先見性に富む画期的な主張であったと評価することができるだろう。

 以下、別冊宝島第183号で新たに登場した論者河原巧氏、夏木智氏、由紀草一氏、佐藤通雅氏、小浜逸郎氏の、私が所有する著作を列挙しておく。

河原巧(1934~:大阪府の中学校教師)氏の著作

・「学校はなぜ変わらないか」(JICC出版局 1991)

・「学校についての常識とウソ」(宝島社 1993)

夏木智(1955~:茨城県公立高校教師)氏の著作

・「誰が学校を殺したか」(JICC出版局 1992)

・「誰が教育を殺したか」(日本評論社 2006)

 他には由紀草一氏との共著に「学校の現在」(大和書房 1989)

由紀草一(1954~同じく茨城県公立高校教師)氏の著作

・「学校はいかに語られたか」(JICC出版局 1992)

佐藤通雅(1943~:宮城県立高校教師)氏の著作

・「生徒―教師の場所」(学藝書林 1988)

・「子どもの磁場へ」(北斗出版 1990)

・「学校はどうなるのか」(学藝書林 1991)

・「宮沢賢治から<宮沢賢治>へ」(学藝書林 1993)

小浜逸郎(1947~2023:当時は横浜で学習塾経営)氏の著作

・「学校の現象学のために」(大和書房 1985)

・「症状としての学校言説」(JICC出版局 1991)

・「先生の現象学」(世織書房 1995)

・「子どもは親が教育しろ!」(草思社 1997)

・「大人への条件」(ちくま新書 1997)

・「弱者とはだれか」(PHP新書 1999)

 この中では小浜氏の本が一番多い。小浜氏は当時、塾経営者という第三者の立場で学校教育を突き放し、やや批判的な論調を特色としていたと感じる。まだイリイチの影響下にあって学校教育に対するラディカルな批判を好んでいた私はその流の中で小浜氏を読み進めていたが、教育困難校に赴任した辺りから山本哲士氏の著作と同様、現場感覚が乏しく妙に観念的過ぎる危うさを薄々、小浜氏の著作に感じるようになっていた。他方で私が次第に惹かれていったのは著作数が少ないものの、佐藤氏の控え目で地に足の付いた穏やかな言説であった。

 1980年代前半まではほとんど目立つことのなかった高校教師による発信は前述したように1980年代の後半から臨教審の動きに触発された形で目に付くようになり、1990年代になると急激に増えてきた印象がある。この時期は「ゆとり教育」の導入が検討されており、学校の特色化も入試改革を伴って進められつつあった(例:岐阜県の「特色化選抜」2002~2012)。

 岐阜県が始めた特色化選抜は直ちに千葉県も採用している。この入試改革によって千葉県の公立高校入試は1年間に「特色」と「一般」の二度も行われるようになり、ただでさえ忙しい学年末の教師達を瀬戸際まで追い込んでいった。さらに「ゆとり教育」の余波からか、特色化選抜においては部活枠が導入され、生徒の個性、多様性を尊重すべく学力以外の能力も適正に評価する、などという美名に隠れて実際には学業よりも部活動を重視する風潮が多くの中学校や高校で強まっていった。土日は遠征試合に明け暮れ、下手をすれば教師も生徒も授業は二の次・・・当然、中学、高校のブラック化が加速していく。それは以下のようなメカニズムが働くからであると考える。

※参考動画

 ◎公立高校から最難関大学へ合格者が減ったのはなぜか。公立復活はあるのか?歴史から考えてみ

  る。中学受験のrestart  2021/05/15 21:46

  高校入試と大学入試の歴史的経過が非常に分かりやすく見事に整理されていて、中学校、高校の教

  師必見の動画。やや古いが、今のところこれほど簡略で完璧に近い説明は無いように思う。入試改

  革から見た公立高校の凋落ぶりを理解するのはこの動画がイチオシ。

※参考記事

 ◎部活実技以外冷遇か 千葉県教委「透明・公平性に問題も」 幕張総合高入試

  千葉日報 2017年3月24日 10:58 |

 ○【知りたい!】高校入試 謎の内申書 部活動はどう評価?

  NHK 2022年6月29日 19時06分

 ○部活の過熱化、内申書反映への過度な期待も一因…高校入試での評価基準明示を文科省要望 

  読売新聞 2022/10/25 09:55

 

 まずは部活動の実績を今まで以上に学校の宣伝材料にしようとする安易な発想から部活動の強化を推進するという一点に過半数の学校が「特色化」の目標を定めてしまい、結果的に高校間で有望選手の奪い合い、青田買いを招いてしまった。夏休みには高校の顧問が相次いで中学校を訪問し、めぼしい選手を物色しては推薦枠を用いて自校への受験を促す。管理職としては入試での定員割れを防ぐ上でも早めに一人でも多くの入学希望者をおさえておきたいので末端でのこの動きに異論は無い。そして中学校の顧問と高校の顧問との密接な関係を築くため、中高の合同練習や練習試合が盛んになる。どの中学生が有望か、早めに知っておくことが選手獲得の第一歩であるからだ。

 また一定レベル以上の選手を一人でも多く確実に獲得するために、教育困難校では中学生の学業成績をこれまで以上に軽視していく。中学校側でも成績の振るわない生徒は部活動に専念させ、試合で一定の成果をあげさせてから推薦枠で高校進学を実現させようとする。こうした動きが加速すると授業時間をきちんと送ろうとする姿勢は教師、生徒共に崩れていきかねない。実際、高校によっては運動部の推薦枠で合格となった生徒の多いクラスほど授業が成り立たなくなる。授業は最早、教師や生徒の本業ではなくなり、ほとんど消化試合となってしまう。したがって生徒の中には放課後になってからようやく登校し、部活だけ参加する者まで出てくる。私の四校目の学校がまさにそうした状況に直面していた。

 運動が苦手で部活動には入らないが真面目に授業を受けたい生徒や、部活動の指導を苦手とする教師にとっては一部の学校がいよいよ辛い場所となっていった。また部活動を片手間にこなしてきた教師達は授業準備よりも部活指導に本腰を入れざるを得なくなり、時間的、体力的なゆとりを失っていく。こうして高校教師の世界にも臨教審以降、くすぶり続けていた新自由主義的「改革」の火の粉がついに情け容赦なく降り注ぎ始めたのである。それは高校のブラック化が一気に加速した瞬間でもあった。

※参考記事

 「同質化の罠」にはまらないために大切な、たった1つのものとは

  ダイヤモンド・オンライン 仁藤安久 によるストーリー 2024.4.18

  千葉県の特色化選抜もまた多くが「同質化の罠」にはまってしまったようである。

 ◎「中体連は全国大会に反対するために作られた組織なんですよ」ブラック部活を生む“全中”は廃止

  できるのか 70年間で中体連の方針が「真逆」になった理由

  文春オンライン 早稲田大学教授・中澤篤史氏インタビュー 2022.8.12 

  日大成績改ざん、ジャニーズ問題…諸問題を「なあなあ」で処理してきた日本型社会に変革が迫ら

      れているという事実 集英社オンライン 2023.10.14

  

 

 これらの動きに先立って出された進ゼミエコール臨時増刊「高校サバイバル戦略」(保坂展人&S・I戦略研究グループ編 日本ドリコム1992)は様々な観点から注目すべき冊子であった。まず編者の一人保坂展人(1955~)氏は麹町中学校内申書裁判の原告として知られ、当時は教育ジャーナリストであった。著書として「学校が消える日」(晶文社 1986)などがある。以後、衆議院議員を歴任し、現在は東京都世田谷区長となっている。しかし30年ほど前は管理主義教育批判の急先鋒であった。この冊子は学校の多様化、自由化を目指して企業の経営戦略である「C・I」を学校に応用した「S・I(スクールアイデンティティ)」戦略の導入を公立学校にも浸透させようという狙いで編集されている。

 「S・I」の狙いは1996年の第15期中央教育審議会第一次答申によって提唱された「特色ある学校づくり」を先取りしたものとして評価できるだろう。1998年の教育課程審議会答申でも学習指導要領において各学校が創意工夫を生かし、特色ある教育活動を展開することが繰り返し強調されている。ただし夏野剛氏の「N高等学校」レベルならばともかく、学校が企業の発想の上面だけ真似ただけで根本から改革されていくのかどうかは多くの学校の現状を見れば一目瞭然であろう。

 「S・I」からはいわゆる「ネオリベ」(新自由主義)の臭いが強烈に漂ってくるのだ。金太郎飴のように画一的で硬直化した公教育の弊害は確かに大きいに違いないが、優先して尊重されるべきは学校の個性よりもむしろ一人一人の児童・生徒や教師の個性の方ではなかったかと思うのである。

 またこの冊子で個性ある取り組みとして紹介されている北星学園余市高校は全国から高校中退者や不登校者などを含む多様な生徒を受け入れていることで一時期、全国的にその名を馳せていた。「ヤンキー先生」の活躍ぶりもテレビ等で有名になった。しかしあれだけ成功事例として当時は有名になった学校ですら、2015年以降、入学生徒数の減少によってしばらくの間、存続の危機を迎えてしまっている。

 「S・I」という発想はそこにいる教師や生徒達の一体感をほどほどに醸成する程度ならば何らかの意味を感じる事が出来るが、それが行き過ぎて過剰なまでの一体感を生み出してしまうと、「チーム学校」の掛け声と同様に教師や生徒達を一定の枠内に縛り付け、窒息させてしまう虞のある概念ではないか。

 そもそも公立学校は利益追求を旨とする企業とは違う側面を持つべきであり、そうでなければ「公立」にする意味が無くなるはずである。企業と同様、競争原理の下で公立学校の多様化、個性化と改革を推し進めようとの意図は分からぬでもないが、公立学校が「公立」であることの意義、価値をも見失ってはなるまい。第一義的に競争させるべきは教師の授業内容と授業技術であり、学校の知名度アップを狙うだけの、見かけ倒しの個性や部活動の成果、進路実績に関する、なりふり構わぬ宣伝広告の巧拙ではあるまい。当時、特に売名行為に露骨だったある県立高校では「生徒棟、冷房完備!」などと謳った気色悪い垂れ幕を恥ずかしげも無く校舎から垂らしていた。ネオリベに屈して生徒、保護者の人気取りに汲々とし、商品化の波に公立学校が丸ごと押し流されることがあってはならないのだ。

※参考記事

 〇山内省二の「一筆両断」 公立高校の独立行政法人化?進行する静かな革命

  産経新聞 2023.5.2

 ○学校が「サービス業化」教師が直面する受難の正体 ペアレントクラシーのもとで起きていること 

  志水 宏吉 2022/09/04 13:00 東洋経済オンライン

 ◎アメリカを真似したらガチガチに社会主義国化してしまった日本の大学 昭和以上に画一化が進んだ

  平成という時代 現代ビジネス 與那覇 潤,朝倉 祐介 2022/10/12 06:00

 ◎山内省二の一筆両断 公立高校の独立行政法人化? 変化し過ぎた「何でもあり」を危惧

  産経新聞 2023.7.24

  公立中学校や公立高校の独立行政法人化を構想する政治家グループがいるらしい。明らかに少子高

  齢化に直面する地方の実情を無視する暴論である。これでは地域間格差の更なる拡大は不可避とな

  るに違いない。かつて国公立大学で実施した政策をきちんと検証し、まともに反省しないうちに中

  等教育段階にも適用するという極めて無責任で安易極まりなく、かつ危険な構想。これ以上、学校

  現場を混乱させ、学校のブラック化を推し進めて何をしようというのだろう。競争原理を公立学校

  に導入して学校の淘汰を推進する試みの一部は大阪府で進められているが、大阪府での隠蔽問題を

  中心とする学校の不祥事は相変わらず続発している。特に表では学校の業績ばかりを喧伝する裏側

  で不祥事の隠蔽を進めかねないのが「人気取り政策」の大きな欠点だと思われる。

   そもそも学校教育の質を向上させるにはまず教師養成教育の見直しを先行させる必要があるは

  ず。それに仕事量の軽減と教師の授業力向上こそが喫緊の課題なのであり、余分な仕事を増やしか

  ねない構想は百害あって一利無し。また山内氏は学校を保守的な任務を帯びるものと決めつけてい

  るが、大切なのは保守と革新のバランスであり、保守的機能ばかりを強調するのは合点がいかな

  い。こんな珍妙な議論が存在していること自体、今の日本の教育が腐敗しきっていて、まさに存亡

  の危機にあることを示しているのだろう。

   ○東京都教委が250人大量「雇い止め」 スクールカウンセラーを3月末 契約更新の選考基準も不透明 

      東京新聞 2024.3.6

      スクールカウンセラーの立場の弱さは教育行政が不登校や児童生徒の引きこもり、自殺問題に対す

      る取り組みへの消極さを表しているだろう。実際、不登校の多かった定時制でもスクールカウンラ

  ーの待遇の悪さは既に数年前から取りざたされていた。もはや私たちは公教育にまともな対応を期

  待する事はやめた方が良いのかもしれない。国鉄民営化や郵政民営化の時のように、高校段階にお

  いても公教育の民営化を進める方が遅滞なく学校改革を実現できそうな気がしてきたのだが、いか

  がだろう。

   今後も義務教育の民営化はこれまでと同様に国家統制上、政府として厳しく歯止めをかけていく

  に違いあるまい。しかし義務教育ではない高校教育では民活導入を推進して市場経済の競争原理を

  機能させていく方が学校改革を実現する上でより効率的ではあるまいか。文科省の力不足、教育予

  算の貧弱さ、教育行政の硬直化による機能不全の現状を考えると公立高校の大幅な削減こそが一石

  二鳥の良策に思えてならない。

   もしかすると維新の会による大阪府の私立高校授業料無償化策も、それによって生ずる府立高校

  の人気低落に乗じて高校教育の民営化を一気に推進する心づもりなのかもしれない。だとすれば東

  京都もまた大阪府を見習って人心の公立離れを促進すべく、今回の措置をとったと捉えるのは余り

  にもうがち過ぎだろうか…かつて政界で「 公立高校の独立行政法人化」(産経新聞 2023.5.2)

  の動きがあったことを踏まえると十分にありうる構想だと思えるのだが…

   ○大阪府 公立高入試 全日制倍率は1.05倍 志願者数は前年度比2000人以上減 「私学無償化」

      影響か ABCテレビ によるストーリー 2024.3.7

   ○私学無償化の影響か…大阪府の公立高校『定員割れ』75校中32校で去年の2倍以上 統廃合が加速

      する可能性も 毎日放送 によるストーリー 2024.3.19

 

 近年、どの高校でも「~部全国大会出場」などと書かれた宣伝用横断幕や垂れ幕を普通に見かけるようになった。しかし部活動に熱心な高校がすべての生徒達にとって良い高校であるという保証はまったく無い。ただし部活動とは無関係に「面白い、分かりやすい、役立つ授業をする先生が多い」との口コミ、評判がある高校はほぼ間違いなく多くの生徒達にとって良い高校であると確信する。授業の質こそが第一に追求されるべき、本来の学校の魅力ではなかったか。

 過度な献身性を賛美しがちな教員社会独特の精神的風土もまた教師の疲弊を自ら強めてきた一因であっただろう。これまでの自分の教師としての活動を改めて振り返ってみて痛感するのは教師自ら自分達の過重労働を賛美し、教師の「働き過ぎ」体質を助長すらしてきたのではなかったか、と言う疑念である。学校のブラック化は学校の内側から見れば皮肉にも多くの教師が持つ善意の発露によってもたらされた「負の遺産」の一つでもあった・・・つまり「やり甲斐搾取」と揶揄される現状は教師自らが招いてしまった側面があると私には思えるのだ。かつて教員社会に蔓延していた「教職」を「聖職」と見なす論調はとっくの昔に学者や組合によって否定されてきたはずであった。しかし組合加入率の低下、学校のブラック化もあってか、いつのまにか聖職論的な価値観に基づく無私の献身性が教師一人一人に強く求められる空気感が教員世界にジワジワと広く深く浸透し始めていたのではあるまいか。

 そもそも職場の労働環境の改善に取り組むべき組合員が率先して過剰労働を担い、職場のブラック化の先頭に立ち続けていたのではなかったか。組合活動自体が職場のブラック化に加担していた側面を私は否定できない。放課後の地区集会、土日の動員、資料の配布…部活動や学校行事の合間に行ってきた組合活動の多くが献身的自己犠牲を強いるものであった。普段の教師としての仕事が容赦なく山積していく中で組合活動との両立を諦めていった教師は私を含めて数多くいたであろう。組合員の減少は自己犠牲を当然とする組合の価値観そのものにも胚胎していたのではあるまいか。

 組合活動だけではない。教師をしていれば否が応でも相当の自己犠牲を強いられるような雑多な仕事の数々を学校のそこかしこに見出すことになる。たとえば困難校では学校内の清掃が行き届くことは極めて稀である。そもそも通常の清掃をしていてもたちまちゴミが散乱してしまう。場合によってはその清掃すら監督者が諦めてしまい、まともに掃除されない状況が時折見られるようになる。教室によっては黒板がジュースの染みだらけで字がどこにも書けないようなことがよく生じてしまう。つまり黒板消しではなく、濡れ雑巾を使わないと授業にはならないレベルの黒板となっている。足下、教壇の上には黒板に向かって投げつけられたジュースの紙パックや缶、丸められた配布物の切れ端が幾つも落ちている。第一、黒板消しもチョークの粉だらけ、黒板クリーナーはかえって粉を吹き出すだけでまったく使用不能。チョークが置かれるべき黒板の溝にも粉が山のように積もっている。この様では授業を始めるために一体どこから手を付けたら良いのか・・・誰であってもしばらくは途方に暮れてしまうだろう。

 まずは黒板のクリーナーを清掃し、濡れ雑巾で黒板をキレイにして教壇のゴミを捨てる・・・といった段取りが頭に思い浮かぶかもしれない。ところが大抵の場合、そうした教室では雑巾が見当たらず、ゴミ箱もチョークの粉すら捨てる余裕が無いほど沢山のゴミで溢れかえっている。結果的に教室内に何匹かのハエがしょっちゅう飛び交っている事だって稀ではない。ゴミ箱近くに座る生徒の悲しげな目を見てしまうと、授業中だが教師が遠くまでゴミ捨てに行かないわけにもいくまい・・・そんな学校では授業を始めるために20分以上を要する場合だってザラにある。ところが面白いことに教師がそうした仕事に取りかかっている間、実は掃除をさぼってきた当の生徒達の一部が決まり悪そうにしてくれる事がある。場合によっては清掃後、通常の授業中ほど騒がしくはならないクラスがあったりする。そうした事に教師は少し気を良くしてか、授業中や自習監督中であってもせっせと清掃に専念してしまう事すらあるのだ。

 確かに教室、とりわけ黒板が新品のようにキレイになると(それなりの時間は要するが)ほぼそれだけで不思議なほどにクラスが静かになってくる場合がある。それまで荒れていたり、無気力だったりした生徒達が何だか観念したかのように俯いて大人しくなってくる事もある。こうした経験を重ねていくとせめて自分が担任するクラスの教室だけは黒板を中心に徹底的にキレイにしたいと思うようになるのが学級担任としてのごく自然な心情である。生徒の状況によっては最早、教室の清掃を生徒任せには出来なくなる。少なくとも黒板と教壇付近は教師の独壇場で、教師自ら徹底的にキレイにするように努めてしまうのは困難校のクラス運営上、ありがちな成り行きとも言えるだろう。

 ところが折角キレイにした教室が翌朝、悔しくなるほど汚され、乱雑にされてしまう事がよくある。運動部の生徒達が部活終了後、あるいは夜間部の生徒達が清掃後、教室で飲食し、ゴミをまき散らした挙げ句、黒板にいたずら書きをしたりするのだ。そこで教師は仕方なく生徒が誰もおらず、しかもせめて午前中だけでも教室のキレイさを保てることを可能とする清掃時間帯を探すことになる。すなわち毎朝7時頃から教室の掃除に取りかかるのだ。キレイな教室で毎朝、一日のスタートが切れる・・・確かになんという清々しさだろう。

 本来、黒板は濡れ雑巾を使うとチョークの付きが悪くなるため、黒板消しで何度も繰り返して汚れを拭き取る必要がある。だから黒板の清掃だけで少なくとも20分は要するだろう。実はある時期、教室の清掃に私は毎朝40分前後を費やしてきた・・・ただしこれは明らかにやり過ぎである。どう見ても自分の首を絞めているに違いない。ところが朝早く来るような真面目で大人しい生徒が偶然、そんな教師を目撃して感謝の思いを述べ、手伝ってくれたりすると彼は嬉しさのあまり有頂天となってしまい、この愚行をやめられなくなる。しかも実際、これでクラスの荒れが沈静化していったと思えるケースは自分の経験上、決して少なくなかった。だからこそ、一度この悪循環の沼にはまってしまうと私だけではなく、普通の教師ならばその多くが自ら沈み込んでいく過重労働のブラック沼から容易には抜け出せなくなるのだ。

 以上の例は私が実際に経験してきた「献身性のワナ=沼」の一例に過ぎず、同じようなワナの話は枚挙に暇が無いはずである。そしてこんな些細な作業一つだけでも毎朝繰り返してしまうと山積する他の仕事が疎かになるのはもちろん、遂には自分自身の心身を極限まで疲弊させてしまう原因の一つにもなろう。しかしこうした事は多分、自分だけに限るものではないはず。困難校に勤務する多くの教師が似たり寄ったりの献身性のワナ、沼に繰り返し、性懲りも無くずっぽりとはまってきたのではあるまいか。

 運動部の顧問ならば普段の練習のみならず、朝練や合宿、遠征、部員のお誕生会、グランドの整備(草取りと石拾いなど)、ルールや作戦の講習会、炎天下での審判、特に大会の関係者になれば部員達の指導に加えて会場の確保、早朝からの準備、日が落ちてからの更衣室の清掃、顧問や審判の昼食の準備・・・教職員組合の学校におけるまとめ役ともなれば毎月の資料の配付、種々の会合への参加(夜遅くか休日)や教育委員会との交渉、駅前でのビラ配り・・・いずれも本来の職務ではなく、自発的なボランティア的活動であったはずの取り組みなのに、いつの間にか有無を言わせぬ重苦しい義務と責任がズッシリとのしかかってくる、ある種の「職務」にすり替えられてしまう。教師集団の同調圧力は極めて強い。従ってこうした事に運悪く個人的な事情(介護等の家庭の問題など)が重なった場合、あるいは勤務校が急激に荒れてきた場合、一体誰が自分の仕事を代替してくれるのだろう。そんな時、「昔からみんな文句も言わずにやって来た事だ、個人的事情を楯にして今更ワガママを言うな」という声が頭の中で反響してしまうのは私だけではあるまい。授業という本務を差し置いて、本来は強制されないはずの自主的取り組みを最も重い不可避の職務にすら変質させてしまうのが、村社会化してしまった学校をギリギリで機能させてきた猛烈にストレスフルな教師集団の、強烈に歪んだ集団心理のなせる業なのである。

 20年近く前、ある学校で美化清掃を担当する管理部長の教師はとあるスポーツ種目の専門家として県の仕事を任される一方で、近隣からの苦情もあって自分の空き時間を見つけては大きなゴミ袋を肩に学校内外を歩き回り、せっせとゴミ拾いをしていた。何と学校から数百メートルも離れた場所でも、である。私も当時は近隣からの苦情と変質者の出没などで雨天時以外は学校の周辺を2~3㎞ほどしつこく歩き回っていたので彼の姿を時折見かけていた。その時、私もまた組合のまとめ役として県教委との人事交渉などにも当たっていた。さて、こうした苦労談はただの個人的な自慢話なのだろうか、はたまた素晴らしい美談なのであろうか。

 当時、他校の野球部顧問だった方は激務の中、組合の支部役員をも引き受けていた。実はそうした教師の中には分掌の主任まで同時に引き受けている方が少なからずいた。その多くはまさに「体力モンスター」でなければ務まるはずの無い膨大な仕事量に直面していたであろう。こうした無謀なまでの献身性こそが教師として持つべき当然の美徳である、とするような教員社会の歪んだ滅私奉公的価値観は教育行政側から巧妙につけ込まれて「やり甲斐搾取」を招く一方で、特定の教師を追い込み、深刻なレベルまで心身を疲弊させてはこなかっただろうか。心身の破綻や家庭での修正不能な軋轢を生み出してこなかっただろうか。

 私を含め、ベテラン教師の多くは今こそ胸に手を当てて学校におけるかつての自分自身と同僚達の仕事への献身ぶりを、絶対に美談化することなしに、虚心坦懐に反省してみてはいかがだろう。果たして誰のための、一体何のための仕事だったのか、今やそれが招いた正の側面だけではなく、負の側面をも直視すべき時ではあるまいか。現在のブラックな状況の進展にこれまで私たちは何一つ関与してこなかったのだろうか。むしろもう少し早く自分達の負の役割に気付くべきではなかったのか・・・反省すべき点は数多いと思うが、さて、皆さんはいかがだろう。

※参考記事

   ◎「プールの水垂れ流し弁償」で分かった、学校組織の「異常性」…教師はどこまでが「仕事」なの

  か 現代ビジネス 大原 みはる の意見 2023.9.26

  学校現場のブラック化が招いた教員のミスに対して本来、管理責任を負うべき文科省、教育委員会

  がこれまで一方的に学校現場に責任転嫁してきたツケがここにきて多くの事件、事故を生み出して

  いる。2022年度千葉県高校入試の採点ミスが千件近くも発生した件はその最たるものであるが、相

  変わらず現場責任のみを問う風潮は消えていない。

   川崎市の判断は行政側の、疲弊しきった学校現場への理解力を疑わせるものであった。本来、重

  い責任を負うべき側が「トカゲの尻尾切り」に終始してきたからこそ、何か学校での不祥事があれ

  ばたちまち「教師がたるんでいるのはけしからん」とばかりに教師叩きが繰り返されるのだ。

   ただでさえ教師全員を罰するが如き「教員免許更新制」の導入が現場にもたらした教育行政への

  根強い不信感…当然の結果としての深刻な教員不足の現状。どれもが学校現場の実情への無理解が

  最大の原因である。

   教師への研修をさらに増やす暇があるならば、文科省の官僚こそ、学校現場への理解を深める研

  修をしっかりと受けていただきたい。それが出来ないならば、これまで通り無能な政府の言いなり

  になって官僚としての仕事を続けること自体が犯罪的行為にあたる…

   「教育改革、学校改革、教師改革」の垂れ流しによって教師が溺死寸前にある…ここまで学校を

  ブラック化させた責任は一体、誰が負ってくれるのだろう。

 ◎「あった方がいい病」が組織の生産性を低下させる 優秀な管理職は「引き算」発想で仕事を取捨する

  東洋経済オンライン 櫻田 毅 の意見 2023.5.11

  「日本人は人のサイフは盗らないが、人の時間は平気で盗む」―時間価値の意識が乏しい日本人

  を、こう揶揄する外国人も…との指摘はむしろ学校現場や教育行政の世界に最もよく当てはまるの

  ではあるまいか。

 〇学校の先生は大変…給食を“64秒で食べる日も やりがいに依存した教育現場 何を変えれば負担

  は減るのか?【大阪発】 関西テレビ によるストーリー 2023.6.10   

   ◎日本の深刻実態が露呈…3兆円以上がばらまかれた東京五輪に見る「クソどうでもいい仕事」の実

      態 現代ビジネス 酒井 隆史 の意見 2023.9.9

  成田氏が指摘した、あたかもミルフィーユのように層をなして少数派の若者の上にのしかかってく

  る高齢者集団の「老害」こそがおそらく社会の中に次々と「クソどうでもいい仕事」を増やし、時

  間とお金の無駄遣いを強いる「クソどうでもいい肩書」を増やすことと密接に繋がっているのだろ

  う。オリンピックや万博は「老害」がはびこる絶好のフィールドを提供しているのかもしれない。