1980年代以降の学校教育を巡る言説に関する私的覚え書き①
※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。
はじめに
これまでに購入した日本の学校教育を論じている書籍を自分の本棚に整理する上で私は「現場からの発信」と「学者からの発信」の二つに大別してきた。この二つに分けた理由は極めて単純である。日本の学校教育研究は実証的な研究を進める上で極めて難しい課題に直面してきたため、有効で客観的なデータを獲得することが常に困難であり、学校問題の深層部分、核心部分には十分に迫りきれないまま、今日まで来てしまったという印象がかなり強かったからである。私が思うに学校教育を専門とする学者達でさえ、教育委員会や学校組織の強固な排他的閉鎖性、隠蔽体質に阻まれてしまい、学校現場の内実、実相を十分には踏み込んで調査、研究できていないという残念な状況が長らく続いてきたのではないか・・・従って学校の外部にいる人が学校の本当の実態を知るためには学校の内情に通じた現職教員達による継続的発信、内部告発的情報がどうしても必要不可欠であると私は考えてきたのだ。またそのような発信が学校内部にいる若い教師の成長においてもかつては極めて大きな比重を占めてきていたと推察している。
しかし「現場からの発信」が本当に学校の実情を踏まえた適切なものなのかに関しては当然、異論があるだろうし、実際かなり疑わしい論考もあるだろうことには留意する必要がある。大学における高校教員養成の致命的欠陥も手伝ってか、日本の学校教師が自分の勤める学校現場をどれだけ広い視野に立って客観的、公平な観点から記述できているのか、に関してはどうかと思われるケースが時折目につくことはあるのだ。
すなわち単なる主観的印象論ではなく、できるだけ客観的なデータに基づいて学校教育は論じられなければならない。ところが学校現場における客観的で核心に迫れるデータを得ること自体が難しい日本では学校改革の議論をするための土台となるべき共通認識を確立することすら非常に困難なのである。
新卒で学校教育への十分な予備知識を持たぬまま学校現場に放り込まれた場合、多くの教師は自身の青少年期における児童生徒の立場での学校体験、さらに教師になってからの初任校の学校風土とそこにいる身近な先輩教師からの影響を大きく受けがちになる。が、当然、初任校で受けた影響の中身が広い視野に立った、適正で客観的な内容である保証は一つもない。つまり初任教師の少なからぬ人達が瞬く間に自身が勤める学校の、下手をすると旧態依然な日本的学校文化に残念ながらすっかり取り込まれてしまう、汚染されてしまう、という印象は決して無きにしもあらず、なのだ。
そもそも若手に限らず日本の高校教師の場合、自身の学校体験(多くは進学校に偏りがちな自身の生徒時代の記憶)と初任校での教師としての経験とが、教師としてのアイデンティティーを生涯、方向づけてしまうような傾向が強くあると私は学校現場にいながら幾度も感じてきた。そしてたとえその経験が偏った経験だったとしても、その偏りを相対化する理論、視点を獲得することは多くの教師にとって極めて難しい。相対化出来るとしても多くの時間と労力を要するだろう。とりわけ若手の場合、自己を顧みる余裕すら与えられないブラック化した現在の学校現場に出てからでは大抵の場合、偏りを是正するわずかのゆとりすら持てないまま、そのチャンスを逸してしまいがちなのではあるまいか。
かくいう私自身もその例外ではない。私は幼少期から幼稚園、小学校共にまったく学校での集団生活に適応できず、学校では一言も発することのできない子供であった。いわゆるこの場面緘黙症の状態を小学校5年生までの5年間、続けてきたため、学校不信、教師嫌いの信念が骨の髄にまで染み込んでいた人間である。そして自分の辛く苦しかった幼少期を振り返り、なぜ学校では沈黙を余儀なくされていたのか、なぜ人は自殺をするのか、など心の奥底を知りたくて大学では心理学を専攻した。さらに学校とはどういう場所なのかを知るために教育社会学を大学院(修士課程)で学んできた。したがって自分は決して伝統的な学校文化に染まることなく、学校への客観的で批判的な観点を保ちつつ、教師を続けられるはずだと当たり前のように思い込んでいた。初任当時は自分の大嫌いな学校を舞台に「獅子身中の虫」となって暴れてやる…などという、初任教師にふさわしからぬ大胆不敵な心構えでいたのだ。
ところが高校の現場に出た途端にその心構えはたちまちくじかれてしまった。初任でありながら4月から凄まじい量の校務分担に追われる。生徒会会計と文化祭担当(文化祭前日は午前様)、教育相談(全校生徒対象のいじめ調査実施、その分析を学校の紀要に発表)と落とし物担当(毎日のように仕事があった)、授業は日本史5単位もの3クラスに選択日本史2単位もの1クラスで週17時間。剣道部副顧問に2学年の理系2クラスの副担で修学旅行の引率にも参加。授業の合間に初任研が入る。授業準備は自転車操業でまさにその日暮らし状態。通勤は当初、電車とバスを乗り継いでいたので片道90分近くを要していた。家を出るのが朝6時半、家に帰るのは夜11時を過ぎたあたりが平均。すでに9月ごろにはストレスと疲労が重なり、体重が3~4㎏ほど減少していた。目の回るようなあまりの忙しさの中で自分を見失いがちな日々が延々と続いていたのだ。
当時の生徒たちは校内暴力全盛期の名残が見られる生徒たちがたまにいて、数は多くないが教師に正面から反抗するケースも散見されていた。授業中、騒がしくなり、私自身が怒鳴り散らすなど威圧的な指導を繰り返すような場面も少なからずあった。生徒会と教育相談は生徒指導部に属していたため、早朝の遅刻指導、頭髪服装指導なども定期的に行なわれていた。生徒会指導で育むべき自治の精神や教育相談で発揮されるべきカウンセリングマインドとは真反対の、管理主義的・強権的指導の最前線にも私は立たされていたのだ。
加えて言い訳になるが、あまりの忙しさと疲労とストレスのなかで自分の気持ちにゆとりが失われ、普段からちょっとしたことでも生徒に対して切れやすくなっていたのも間違いない。理不尽なほどの忙しさと余裕の無さ…鍛錬主義が染みついた運動部では自分自身がスポ根アニメの影響を強く受けていたことも加わり、ほとんど体罰まがいの指導をすることすら稀ではなかった。学校文化への免疫がしっかりと身についていた…という自負は錯覚に過ぎず、思い上がりであった。もはや「獅子身中の虫」になるどころか、自分の体内には大量の寄生虫のように悪しき学校文化が続々と棲みついていったのである。
一旦、棲みついた寄生虫は教師としての自分との共生的関係をも作り出しつつさらに繁殖していく。そのため、頑固に染みついた悪しき学校文化を自力では退治できぬまま、2校目、3校目と異動を繰り返していた。そして本務であるはずの授業から逃れるようにして終いには運動部の指導に多くの力を注いでいく。まさに自分で自分の首を絞めるようにして私の教員人生はいつの間にかひたすらわき道へ、しかも最悪の方向へとそれていた。
こうした過ちだらけの教師としての歩みに何とか気付き、長い迷妄からようやく目覚めるきっかけをつかめたのは三部制の定時制高校に異動した50代半ばのことであった。最大の転機は運動部の指導から初めて解放された事を境に訪れた。部活から解放されたことでまず目の前の生徒たちの実態にしっかりと向き合えるだけの肉体的、精神的ゆとりを持てたのだ。クラスは不登校だった生徒や日本語を母語としない生徒、貧困に直面している生徒たちであふれていた。本質的に学校嫌いの私がなぜ大嫌いな教師を目指すようになったのか…私は退職目前になってようやく自分の原点に戻り、過去の自分を顧みる絶好の機会を手にすることができたのだ。
そもそもの学校嫌いに加えて学校を批判的に捉える土台となりうる心理学や教育社会学を大学で学んできた…そんな自分ですら、学校を相対化し、学校教育の現状の異様さに教師としてしっかりと向き合えるようになれるまでには30年以上に及ぶ多くの時間と多くの回り道をすることが必要だった。
ただでさえ「教育」という営みは「聖職」という古いイメージがまとわりついてしまい、人を酔わせやすい。また教壇に立ち、大勢の生徒を前にしただけで人は独特の高揚感に包まれてしまう。教師は常時、まさに「オンステージ」状態に置かれているといっても過言ではあるまい。結果的に教師の多くは時折自分自身を見失い、肝心の生徒達をも見失いがちになる。「現場からの発信」が自己肯定を遙かに超えて自己賛美、自己陶酔に陥りがちになるのは心理的にも十分根拠のあることであろう。
そうした意味も含めて私たちは「現場からの発信」を丸ごと鵜呑みにするわけにはいくまい。だからこそ学者やジャーナリストといった外部の、比較的、冷静で客観的な立場からの鋭い論考が時に必要とされるわけだ。しかし学校教育を冷静な観点から調査分析しようとする教育社会学者達の試みが、分厚い岩盤のような日本の学校の閉鎖的体質によって絶えず侵入を阻まれてきた経緯は私も現場にいながら幾度も目の当たりにしてきた。ただでさえ忙しく、かつアラ探しをされたくない管理職や教師達にとって一見何のメリットも約束しない学校研究者の介入は基本的に煩わしく、できれば回避したいに違いない。しかし研究者が本気で学校改革に役立つ研究をしようとするのならば、日本の学校の問題だらけの現状から見てそれが結果的に学校の「アラ探し」となる可能性を避けては通れまい。しかし…むしろだからこそ多くの学校はそうした研究者に固く門戸を閉ざしてきたのである。
減点ばかりを恐れる管理職が仮に研究を受け入れるとすれば、おそらくそれは無難なアンケート調査への協力でしかない。しかし通り一遍のアンケート調査などで問題が山積する、閉鎖的な学校現場の実態を暴くことなど出来るわけがないのである。現場での困難や課題が多くなればなるほど学校の隠蔽体質は強化される傾向があると見てよいだろう。結果的に最も詳らかにされるべき学校教育の本質的問題点の多くが学者や世間から見えにくくされてしまうのは日本の場合、現実的にどうしても避けられないことと思われる。
※参考動画
○「GINZA CROSSING Talk ~時代の開拓者たち~」 ゲスト:成田悠輔さん【前編】 2022年9
月1日 2022/09/05 日経CNBC 19:04
◎個人情報丸見え社会のスウェーデン|どこまでマイナンバー管理?犯罪は?| 北欧在住ゆるトーク
Nord-Labo 北欧研究室 2023/09/23 16:52
やや視聴時間は長いが、考えさせられる場面が多く、討論にもっていくにはうってつけの動画。情
報公開の原則、知る権利の保障と個人情報保護、プライバシーの保護との調整は難しい問題だが、
スウェーデンでは200年以上も昔から取り組んできた大きなテーマの一つだったことに驚かされ
る。政府や政治家、学校などでの各種隠蔽、改ざん、金銭面での不透明さ…が目立ってきた日本社
会を変えるには参考とすべき部分が多いと感じた。
※参考記事
〇なぜ盛った?「児童相談所の成果」 自治体「今後も最高記録を出し続けるしか」 各地で数え方バラ
バラ 東京新聞 2023.10.4
学校と同様に児童相談所も深刻な人手不足に直面している。相談件数を「盛る」ことで職員の増員
配置と予算拡大を狙う意図は元教師として心情的にはよく分かる。自治体や相談所ごとにカウント
する基準が異なる点は修正すべきであるが、学校と同様、児相の置かれている厳しい状況を改善す
ることが急がれるだろう。
若者と子供、特に女性に無関心な男ばかりの老害政治家たちこそが日本社会の改善を阻む最大の
抵抗勢力なのではあるまいか。
〇実は誰も知らない、虐待児童の実人数 調べなくていいの? こども政策担当相に聞いてみた
東京新聞 2023.10.7
国が統一基準を示さないがためにまともな統計が得られない、というお粗末な実態は児童虐待にも
みられるらしい。イジメ、不登校や自殺に関する統計もしかり。日本政治の死角がいかに大きく、
それが致命的なものであるのか、今になって気付く。
◎「不登校の原因はいじめ=0.2%」という文科省と学校を信用できないワケ
JBpress 石井 志昂,湯浅 大輝 によるストーリー 2023.8.18
現場にいた人間からすれば、この手の調査結果は全くと言って良いほど信用できない。
◎不登校児童の8割「前兆あった」原因はいじめが最多
リセマム 2023.9.21
当然だが文科省のデータよりもこちらの方がはるかに信頼できる。注目すべきは文科省の調査結果
と現実、学校現場との認識面における凄まじいほどの乖離の方であろう。これも教育行政自体が実
質的な機能不全に陥っている証拠なのであり、「現実、現場を見ることが出来ない」官僚と政治家
が招いた、絶望的な状況なのであろう。
〇子どもの自殺411人で最多水準 「望ましい」はずの詳細調査は少数
朝日新聞社 によるストーリー 2023.10.4
文科省調査の411人と警察庁調査の485人とでは74人もの差が生じている。厚生労働省の514人と
では何と103人もの開きがある。私たちは一体、どちらを信用してよいのだろうか。
加えて「指導死」やイジメが原因の可能性がある中高生の自殺では責任官庁である文科省を中心
に徹底した原因究明が必須であるはず。しかし全体のわずか4.6%、19件しか行われていないのは
なぜだろう。やはり何もかもが地方に丸投げで、本気で取り組もうとしていないからである。
文科省以下、教育委員会や学校の隠蔽体質をここでも厳しく追求すべきだろう。
〇小中学生の自殺“過去最多” 近年増加「市販薬のオーバードーズ」による死が統計に含まれない事情
弁護士JPニュース によるストーリー 2023.10.5
「全国の精神科医療施設における薬物関連精神疾患実態調査」によると、10代の薬物使用における
「市販薬」の割合は14年には0%だったが、16年には25%、18年には41.2%、20年には56.4% 、
22年には65.2%と増加している。その結果として、市販薬のオーバードーズによる死亡が後を絶た
ない…という。しかもオーバードーズによる死亡は自殺としてはカウントされていない可能性がある
らしい。とすれば児童生徒たちの「自殺」件数は厚生労働省のものですら信用できない。
〇不登校 茨城県内8577人 小中生最多、33%増
茨城新聞社 によるストーリー 2023.10.2
〇不登校の小中学生33%増 茨城県内22年度 千人当たり全国最多
東京新聞 2023.10.7
この記事が学校の置かれた悲惨な実情、その裏側を余すところなく示している。学校のブラック化
とブラックボックス化、そしてそれらが必然的にもたらす学校の教育力の低下。
これらは茨城県に限ったことではない。2022年度の不登校発生率で全国最多を記録した茨城県教委
の的外れの言い訳めいた分析がこの問題に対する教育行政の無能ぶりと無責任ぶりをさらけ出して
いるのではあるまいか。
茨城新聞の記事によると県教委は「コロナ禍のほか、無理して学校に行く必要がないとの考えが
保護者間で増えたことが要因」と分析している。県内の不登校児童生徒は前年度から2166人増え
た。増加は11年連続。小学校が46・8%増の3288人で7年連続、中学校が26・8%増の5289人で
10年連続だった。県義務教育課によると、学校が判断した不登校理由は「無気力、不安」が小学生
で5割、中学生で6割を占めた。コロナ禍の制限で「交友関係を築く難しさなどが影響したのではな
いか…不登校の急増に、同課は「登校が難しい児童生徒の学びの場の確保が重要」と指摘。不安や
悩み解消へ交流サイトの相談窓口や24時間相談「子どもホットライン」などでも対応する。
いじめの認知件数は、国公私立小中高校と特別支援学校を合わせ、7・8%増の2万4650件。
「冷やかし、からかい」が5割を占めた。心身に大きな被害が生じるなど、いじめ防止対策推進法の
「重大事態」は2件増の21件だった。…」と分析する…
いかがだろうか。私はこの分析に強い違和感を覚える。不登校増加の原因をもっぱらコロナ禍に
結び付けて説明しているが、これでは「10年連続」で増えている理由を十分には説明できていな
い。不登校数の増加はコロナ禍のはるか前から始まっているのである。また不登校の原因を児童生
徒側の「無気力、不安」に帰している学校側の判断を皆さんは素直に信じるだろうか。信じてしま
うとしたらかなりのお人好し、というほかあるまい。私もこの調査に何度も答えてきたが、不登校
の原因の多くは生徒間のトラブルに由来すると考えるのが世間の相場であり、児童生徒と真面目に
向き合ってきた教師たちの一般的な印象でもある。
しかし教育行政側、管理職側、実は学級担任すら不登校の原因究明にまったくといって良いほど
無関心であり、たとえ関心があったとしても原因究明するゆとりがまったく無い。したがって多く
の学級担任はしつこく繰り返されるこの調査を本音では面倒くさがり、「無気力、不安」(この調
査は記号選択となっていて、もともと「授業が分からない、楽しくない」といった学校側の原因を
しっかりと選択肢に入れていない、きわめて恣意的で出来の悪い調査であり、「やってる」感を演
出するための調査に過ぎない)を原因として安易に選択しがちである。そのため、イジメ認知件数
が増加している結果と不登校が増加している現象とを結びつけて説明することができないように巧
妙に細工されている、見せかけだけの「エセ調査」となっているのだ。
とはいえ、誰が見ても茨城県での急速な状況悪化がコロナ禍だけで説明できないことはもはや一
目瞭然なのだが、それでも鉄面皮のごとく堂々とごまかそうとする、この頑固な無責任さ、責任逃
れのための隠蔽体質は文科省からの天下りばかりが県の教育長となっている都道府県では普遍的に
見られるものなのだと思うが、いかがか。
教育行政に携わる人たちはいい加減、下手なごまかしをやめて、学校現場の現実にきちんと向き
合う一層の努力をお願いしたいものである。
〇“Fラン大学”と揶揄されるけれど…掛け算割り算ができぬまま高校を卒業する学生が少なからず存
在している怖い事実 集英社オンライン オピニオン 2023.7.29
この記事にはビックリ。高校では一桁の足し算が出来ない、南極が熱帯だと勘違いしている、東と
西の方角を指さすことが出来ない、日本地図を一つの円としてしか描けない、ひらがなが読めな
い…といった生徒が入学し、ほとんど特別な指導を受けずに何も分からないまま、出来ないまま卒
業しているケースが少なくない。これは周知の事実であり、「怖い事実」などではない。本来なら
ばマンツーマンの手厚い指導を必要とする生徒たちに対応するだけのゆとりと能力を今の教師に期
待するのは間違いである。同様のことはもっと頻繁に小学校、中学校でも起きていて、実際にはど
の学校段階でも「形式卒業」が繰り返されている。大学だけが例外なわけがない、という当たり前
の事に過ぎない。
○成田悠輔氏 日本人のデータリテラシー不足に嘆き「教育の失敗であり、社会の失敗」
東スポWEB 2022/11/17 18:48
日本の場合、学校や教育行政に限らず、様々な政策がDXの遅れや情報公開の大きな制約ゆえに実
際には政策の有効性、成否をきちんと検証されることなく、時の政権の思惑に左右される形で、ま
さに「垂れ流し」状態のまま、次々と実行に移されてきたと考えられる。
〇「うちらは捨てられてる」先生が教室に現れず、授業を受けられない子どもが増加…教育現場で今
起きている“非常事態” 文春オンライン いしい しんじ によるストーリー 2023.6.19
学校教育の隠蔽体質は、ただでさえブラック化した学校において正規教員の不足という最悪の事態
の進行をも招いてしまった。学校自らが教師不足という致命的な事態を世間一般からは見えにくく
していたのだ。それが社会問題と化し、表面化してきた現段階に至ってしまっては最早、手遅れに
近いほどに学校の病巣は進行し、肥大化しているのではあるまいか。もはや手の施しようのない末
期患者と同様、日本の公教育は大げさに言えば存亡の危機に直面しているのではないのか。垂れ流
し状態の「教育改革」の連打がいかに学校現場を疲弊させ、限界まで追い詰めてきたか、改めて教
育行政の責任を問いたい。
〇公立小・中学でのいじめ認知件数 自治体間で最大30倍の格差
毎日新聞 によるストーリー 2023.6.21
学校によってはイジメ認知件数がゼロのところもあったという。もちろん現実的に見て「ゼロ」は
ありえない数字である。といっても別に驚くことはあるまい。市町村によっては学校からの報告に
虚偽が含まれるのは当たり前であり、むしろ普通のことではないのか。管理職が自らを不利にする
ような報告をお上にあげるわけがない、と思うのが教育界の常識。全国学力テストの結果がほぼほ
ぼ信用できないのと同様に、学校の上っ面をフワッとなでる程度の安易な手法による報告や調査で
学校現場の実態がつかめる、と思う方が今やあまりにも能天気なのだ。
いや、もとより調査を命じた側も「やってます」感を演出するためだけに嫌々、調査を行なわせ
ているに過ぎないはず。でなければ神戸市のようにイジメ事件の隠蔽が学校や教育委員会の中で執
拗に繰り返されるはずがないのである。逆に文科省が各教育委員会や学校の牢固な隠蔽体質を知ら
ぬわけがあるまい。所詮は「同じ穴のむじな」、この調査自体が国民を欺くだけの、ただの茶番だ
と思うべきだろう。
しかし、こうしたアリバイ作りを主な目的とする虚しいだけの仕事だからといって決して侮って
はいけない。学校のブラック化はお上から送り付けてくる文書の山が生み出している側面もあるか
らだ。教員不足が問題視される以前から指摘されていたのが、学校における管理職希望者の減少で
あった。実際、傍から見ていても教頭や教務主任の仕事量は異常なほど多く、多岐にわたってきて
いる。管理職として必要とされる能力はもはや学校教育への深い理解や豊富な経験、授業の力など
ではなく、膨大な事務仕事を滞りなく表面的にスマートにこなす事務処理能力の高さに特化してき
ているという印象が強い。
形骸化した事務仕事の削減は文科省以下、すべての部署に共通した切実な願いとなっているはず
だ。そしてこの願いが実現するためには予算と人員の増大が必要不可欠であることは言うまでもな
く、しかも予算増の可能性は現政権下、限りなくゼロに近い。これに由来する先の見えない絶望感
こそが現今、多くの教師の心身を追い詰めている最大の元凶なのではあるまいか。
〇「毎週100枚の書類が教育委員会から届く」藤原和博が見たベテラン教員を忙殺する"いらない書類仕
事"の実態 プレジデントオンライン 藤原 和博 の意見 2023.6.21
〇「教育再生」の象徴、なぜ年に一度も開かれない?…4都県232市区町村で会議がゼロ
東京新聞 2023.6.25
ただし、学者達が日本の学校教育を諸外国と比較して制度的に俯瞰して論ずることは教師が自分の立ち位置を冷静に眺められるという点で役立つ。また一部の学者が試みた生徒と教師間でのやりとりを分析するようなミクロな視点も授業技術や教師及び児童生徒理解の向上という点では有効である。他にも若者文化論や教師文化論の研究は自分としては現場に臨む上で有益だったと感じる。とは言え現場の実態を調査することを本分とする教育社会学者ですら、学校教師や児童生徒に寄り添った、現場感覚に近いデータを獲得することは極めて難しい。このことをほぼ断言できるほどに、今の学校を覆う隠蔽体質は既に強化され、普遍化されてしまっている。
要するにいずれの立場からの発信も限界があり、どちらにも偏るわけにはいかないということであり、二つの立場からの発信を総合的に捉えるといった、学者ですらかなり難易度の高い努力が日本の教師達には常に求められてきた、と私は考えているのだ。
以上のような観点から「現場からの発信」と「学者からの発信」の二つに大別して私の教員時代に相当する過去40年近くの学校教育に関わる言説を概観してみようと思い立ったわけである。ただし私は学者の調査上の限界を踏まえ、どちらかと言えば学者からの発信よりも「現場からの発信」を重視してきた。また学問的には自分の専攻もあるが、実証性と学校現場を重視する教育社会学の成果を偏重してきた。決して教育学全体を見渡してはいない点をご了承頂きたい。しかも教員生活の後半は勤務先が教育困難校続きであったこと、さらには学校教師全体の労働環境の悪化などが重なり、教材研究以外の読書がままならなくなっている。結果的に本を買っても読めないことが続いたために、教職最後の10年間はわずかの本を読むことすら出来なくなっていた点をご容赦願いたい。
※読書時間は次第に減ってしまったが、読書しなければならないという義務感だけは背負い続けていた
ため、同じ本を2冊、3冊と買ってしまうことが40代、50代で徐々に増えていった。つまり本を買っ
てはみたものの、ほとんど読めていなかったため、本の題名や買った事自体覚えられずにひたすら強
迫観念、義務感に駆られて同じ本を繰り返し購入していたのである。
また「現場からの発信」と「学者からの発信」の二つの観点はいずれも大学時代に教育社会学を少しだけかじった経験に基づく、自分なりの謬見に満ちた選択であり、あらゆる言説を公平な観点から網羅できているわけではない。私は基本的に怠け者であり、理解力、読解力に乏しいので、以下の文章はあくまでも自分の狭い了見から、結局は主観的に「チラ見」した程度のものに過ぎない点も何卒ご容赦願いたい。
もちろん、教育社会学以外に心理学、それも臨床心理学を少しだけかじった経験から青少年期の心理、カウンセリング、子供・青年文化、非行や不登校、イジメ、若者の自殺関係なども浅く、つまみ食い程度に読み散らかしてきた。これらのテーマも広い意味では教育を巡る言説に含まれる。しかし自分の能力上の限界はあまりにも大きい。ここでは自分が教師となった1980年代以降の約40年間にたまたま自分の目に映じ、自分なりに気付くことの出来た(と思えた)日本の学校教育を巡る言説のザックリとした流れ、変遷にまずは的を絞ることにしたい。
繰り返しになるが怠け者の私が読んだ本は極めて数が少ない。「現場からの発信」でこれから紹介する論者達は自分からすれば驚異的な読書量と高い読解力、分析力に基づいて自身の著作を世に問うている。当然のことながら私はそれらを逐一論評するだけの力量を持ち合わせていない。したがってここではこの40年近くの学校を巡る言説の変化の一部を教育改革の動きと絡め、独断と偏見に基づいて指摘しつつ、同時に自分の教員生活を振り返ることに留めたい。
また「学者による発信」に関しては尚更、私の勉強不足、能力不足が露呈している。従って以下の考察はあくまで私の一教師としての回想録という性質を併せ持つ。実際には学校教育に関する言説へのほぼ個人的印象論のようなものに過ぎない点を予めご理解頂き、至らぬ点が多々あることを是非ご寛恕頂きたい。
②に続く(なお表題が長すぎるので②以降は「私的覚書②」等、略記していきます)