その4.千葉県の高校と教師(前編)

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

 今回は以下の内容となります。

前編

 ①千葉県の令和元年度学校基本調査結果より

 ②三部制定時制高校増設が学校社会に及ぼす衝撃

 ③学校現場への無理解、誤解が生じてしまう背景にあるもの

後編

 ④新科目「公共」や「歴史総合」が目指す授業とは?

 ⑤生き残るための授業実践とは?

 ⑥「教師のバトン」をどうつなぐのか? 退職教師に告ぐ!

 

①千葉県の令和元年度学校基本調査結果より

 以下は千葉県の統計から読み取れることではあるが、日本全体の人口動態を踏まえれば他の多くの都道府県でも似たような問題を抱えていると思われる。これから指摘することは千葉県の学校現場におられる方ならば敢えて統計を示すまでもなく、周知されている事柄であろう。ただ現在の若手教員と学校現場が直面している困難をクッキリと浮かび上がらせるためにも、念のためデータを用いて概観してみよう。なお学校基本調査は3年おきに行われる全国調査なので直近のデータは令和元年度のものとなることを予めご理解いただきたい。

 2019年段階で千葉県の公立高等学校の教員は半数が50代以上という超高齢化に直面していることが分かる。また学校現場にとって最も深刻な問題点は学校運営の中核を担うべき40代の教員(緑色のゾーン)が急激に減少してしまっていること。平成19年度に比べると令和元年度は4分の1以下まで激減している。40代と言えば既にそれなりの経験を重ね、かつ体力、精神力もまだ十分に残っている、いわゆる「脂がのっている」世代に該当しよう。

 今、若手教員にとって頼りがいのあるリーダー的存在となるべき40代の急激な減少は千葉県の学校現場に様々な局面で深刻なダメージを与えつつあるのでは。本来は主に40代が務めるのが妥当な主任、指導主事を、まだ経験の浅い20代の若手教師に務めさせている学校は県内に数多く存在しているに違いない。高校ほど年齢間の極端なアンバランスは見られないものの、中学校でも40代の減少は現場の困難度を大きく高めてしまっているようである。

 このアンバランスさを性別の観点を加えて人口ピラミッド風に表したものが上のグラフである。左側が公立中学校、右側が公立高等学校の教員の性別(それぞれ左が男性、右が女性)及び年齢階層別教員数を示している。高校の場合には中学校以上に性別のアンバランス(女性教員の少なさ)が目立ち、それが比較的若い世代においても十分に解消されていない、という残念な現実が見てとれる。千葉県の高校教育界での大問題としてこの件も追加すべきだろう。男女共同参画社会の実現を目指してこれまで繰り返し上から目線で掛け声をかけてきた千葉県の、高校における無様な現状がこのグラフによって明らかとなっている。おそらく性別面での教員数のアンバランスは部活動指導の外部委託がさらなる前進を見ない限り、改善されることはないだろう。何はともあれ千葉県の場合、教員の年齢別、性別構成での大きな偏りによって生じている問題はとりわけ高校において顕著なのである。

※参考記事

 ◎千葉県公立高の入試採点ミス 7月にも改善策提示 教育長「人為的ミス防止が第一の視点」

  千葉日報社 によるストーリー 2023.5.20

 〇「デジタル採点導入を」 千葉・公立高入試で有識者会議が提言 

  産経新聞 2023.6.14

 〇【高校受験】千葉県公立高、デジタル採点導入など…採点ミス改善策で提言

  リシード 2023.6.19

 2022年度の千葉県における公立高校での入試採点ミスが98校、933件にも達してしまった件に関して

 県の教育長は「…各県立高へのアンケートで不注意や解答用紙の様式などが採点ミスの原因として挙

 げられた」との認識を示し、専門家からなる改善検討会議を設置してその提言に基づく改善を検討し

 ていくとのこと。しかしながら直近まで高校入試の現場にいた自分としてはなぜもっと早くから改善

 策がとられなかったのか、不思議でならない。そもそも「解答用紙の様式」と「模範解答の様式」が

 異なることが採点時のミスを招く、との指摘はかなり昔から存在していたし、アンケートでも繰り返

 し指摘されてきたはず。ところがこれまでまったく改善されることは無かった。

  加えて入試の前後は3年生の追試、成績処理、卒業式の準備、就職指導などと重なり、3学年に関わ

 る多くの職員は極めて忙しい。殺人的な忙しさに振り回される中での不注意を一体、誰が咎められる

 のだろう。「入試」は別格の重要な仕事であることなぞ、とっくの昔に承知している。別格の仕事な

 らばその時期に他の仕事を集中させてはならぬはず。採点ミスの責任の一端は教員の多忙化を加速さ

 せ、アンケートの結果、すなわち現場からの提言を黙殺してきた県教委にあることは明白だろう。こ

 れこそが「人為的ミス」の最たるものなのに、相変わらず自らは反省せず、ミスの責任を現場に転嫁

 する無責任な弱いもの叩き…いかにも千葉県らしい対応ではある。入試という重大な場面でのこれだ

 けの大失態を招いた責任を本来、真っ先に負うべきは教育長以下、県教委であるはず。ならば教育長

 が率先して引責辞任をしてみせてから現場への指導を行うのがスジではないのか。

  とはいえ高校入試の受験者数が年々、減少の一途をたどり、採点すべき答案の枚数は以前よりかな

 り減ってきているはず。しかも千葉県では年2回の入試が1回に軽減されたばかりの段階であるにも拘

 わらず、ミスがこれだけ多いとなると、この件がはらむ問題は意外に根深く、相当に深刻なのでは。

  おそらく採点ミスの発覚件数は実際には数千件に達しているものと考えてよい。近年、生徒や保護

 者から自分の入試答案の開示請求が多くなり、開示請求で採点ミスが発覚してしまうという悩ましい

 案件が生じてきていた。こうした事態にようやく重い腰をあげた県教委が本格的に抽出答案(実際の

 答案枚数のほぼ1割に相当する答案で、毎回、各高校から県教委に提出されている)のチェックを行っ

 てみたところ、今回の件が不覚にも発見された…というのが推測される、事件発覚の経緯である。つ

 まり県教委側も抽出答案のチェックがこれまで不十分だった可能性が指摘できよう。

  とすればもはやミス多発の原因を単なる教員の過労や県教委の怠慢…といった分かりやすい要因だ

 けでは十全に説明できないようにさえ感じられるのだ。少なくともそう思えるほどに千葉県の高校教

 育現場の疲弊ぶり、破綻ぶりは今や切迫してしまっているのではあるまいか。

  では現今の入試採点ミス多発が意味することとは一体何だろう。もしかしたらこれは学校運営の中

 核たる40代後半から50代前半の教員の異常なまでの少なさと校務全体の複雑化、多忙化などによって

 千葉県公立高校全体が徐々に自らを教育機関としてまともに運営する力を失い、まさに今、地滑り的

 崩壊が始まろうとしている…すなわちこれは公教育としての破局的な局面に移行しつつある一つの兆

 しなのかもしれない。

  現に大学生は「沈もうとする船に乗りたくない」と言わんばかりに教職を忌避するようになってい

 る。教師不足が叫ばれる一方で今や再任用を断る退職予定の教師だって少なくない。一番悲惨なのは

 職場から職場から長期離脱したり、早期離職に追い込まれる働き盛りの教師が増えていること。加え

 て生徒たちもまた学校への忌避感が増大し、不登校児童生徒数は増える一方である。これらの問題ば

 かりは「人為的ミス」という表現でアッサリと説明してしまうことは許されないだろう。

  従って私としてはせっかくの有識者の提言もおそらく時すでに遅し、入試を含めたあらゆる事態の

 悪化が容赦なく加速度的に同時進行し、視野の狭い部分的改善など現時点に至っては何の意味もなさ

 なくなる…と考えるが、いかがか。

異例の196人処分・指導措置 千葉県教委、入試で採点ミス相次ぎ

 毎日新聞 によるストーリー 2023.7.20

 結局はトカゲの尻尾切りである。これで教師の意欲はさらに低下し、千葉県の公立高校における機能

 不全はさらに進行するだろう。マークシート方式の導入など、採点業務に絞られたミクロな観点から

 の改善策だけでは高校現場の働きやすさの向上には何一つ、つながるまい。採点ミスが減ったとして

 も教員採用試験の倍率が上がるわけではない。県の対応は対症療法でただのモグラたたきに過ぎず、

 今度は別の事件事故が頻発するだけ。

教員の魅力を動画でPR 千葉県教委作成、来月にも公開

  東京新聞 2023年9月10日

 教員採用試験の倍率低下、教員不足に危機感を抱いた文科省と各地の教育委員会は恥も外聞もはばか

 るこ となく、「青田買い」どころか教職のバーゲンセールまがいの詐欺的商法にまで手を伸ばし始め

 ている。ずいぶんと落ちぶれたものだ。

  さしずめ千葉県の場合はこう言った塩梅ではなかろうか。これまで堅調に売り上げが出ていた人気

 商品がこのところ何だか少しずつ、売り上げが落ちている。宣伝広告にもっと力を入れればきっと売

 り上げは回復するに違いあるまい。だって商品の質にはそれなりの自信があるし、老舗としての伝統

 の力もある、問題は宣伝不足…そこで思い切った新機軸を打ち出そう。そうだ、若者に訴求力のある

 動画作成を業者に依頼し、商品の魅力を分かりやすく、かつガッツリとアピールしてもらおうではな

 いか…

  しかし本当に商品の品質は保たれてきたのだろうか。肝心のお味の方は時代の流れに取り残されて

 いないだろうか。今どきパッケージだけ飾り立てても胡散臭いだけ…箱の中身は実際、いかがなもの

 だろうか。とっくの昔に賞味期限が切れていないだろうか。どうみても強烈な腐臭が漂っているはず

 なのだが、なぜ、売り場の誰一人としてそれに気づかないのだろうか。そもそも商品が劣化していな

 いか、誰か定期的にきちんとチェックしてきたのだろうか。腐り切った商品を30年以上の歳月と交換

 に若者へ売り渡し、彼らをたちまち過労死や精神障害に追い込む…こんなブラック企業のような悪徳

 商法を国はいつまで続けるつもりなのだろうか。

  完全なブラックボックスと化している学校の中身は意外なほど闇が深い。箱の中身が見えにくかっ

 たからこそ売れてきただけのインチキ商品に未来ある若者が騙されて手を出してはなるまい。

飲酒、わいせつ、セクハラ…千葉の先生のモラルはどこへ? 懲戒処分、最悪のペース

 産経新聞 2023.12.20

令和5年度の教職員の懲戒、過去最多の52件 千葉県教委 産経新聞 2024.3.21

 案の定、千葉県での教員の不祥事が多発してきている。明らかに千葉県の教育界は機能不全に陥って

 いるのであり、その原因は多岐にわたるだろう。しかし最大のポイントは県の教育界の頂点にいるは

 ずの教育長に責任を問う論調がマスコミにおいて皆無であること。指導的立場にいる人物が部下たち

 の不祥事の責任を一切、とろうとしないような組織に自浄能力は期待できない、と考えるのが世間の

 常識であろう。マスコミの機能不全は今に始まったことではないが、やはりマスゴミには今後も一

 切、期待してはなるまい。

      昨今のパーティー券販売による裏金問題では関係する自民党所属の閣僚が相次いで辞任している。

   当然、岸田首相もまた任命責任を厳しく問われることになろう。相変わらず腐敗を極める政界です

 ら、多少のケジメはとろうとしている。ところが千葉県の教育界では令和4年度の高校入試における採

 点等のミスが千件近くも発覚するという、未曾有の不祥事を引き起こしてもなお、教育長は自ら責任

 をとることを一切せず、末端の教員ばかりを処罰するにとどまっていた。そしてたちまち令和5年度の

 教員による不祥事多発である。

  残念ながら教育次長は何と学校現場に綱紀粛正を求める通達を出すだけで事足れりと考えているよ

 うだ。しかも教育委員会として他に出来ることは無い、というみっともないほどの言い訳がましいセ

 リフを残しているという。あまりにも無責任であり、恥知らずであり、無能すぎるのではないのか。

  この発言は教育困難校で授業中に騒ぎ出した生徒たちに対して「静かにしろ」と切れてみせるしか

 能の無い問題教師とまったく等しいレベルではないのか。真っ当な教師ならば自分の授業のつまらな

 さ、分かりにくさを反省して授業をより魅力的にするための努力を重ねていくはずであろう。仮に教

 師が授業中の騒がしさをひたすら学習意欲に欠ける無作法な生徒たちの責任であるとして自身の授業

 改善に一切取り組まないようなら、校長はその教師を厳しく指導するのが管理職としての当然の責務

 である。同様に部下の不祥事多発に対して教育長らが綱紀粛正を口先だけで求めても何らの意味が無

 いどころか、それはむしろ職務放棄に近い愚挙なのである。教育長、教育次長らが率先垂範、示して

 しまったこうした自浄能力の欠片も感じさせない無気力な姿勢はただでさえ問題の山積する千葉県教

 育界の隅々まで行き渡り、次年度以降のさらなる不祥事多発を呼び込むに違いない。

  一体、県の教育長は何のために存在しているのだろう。よくありがちな文科省の官僚が天下る高給

 取りの名誉職という、ただの肩書だけの役職に過ぎないならばいっそのこと無くしてしまった方が良

 いに決まっている。いよいよ兵庫県などに追いつき、追い越せとばかりに学校不祥事多発の県として

 の悪名を全国に轟かせようと勢いづいてきた千葉県の教育界からは今後とも、片時も目を離してはな

 るまい。

副校長・教頭の時間外勤務の多さ浮き彫りに…千葉県調査 リシード 2024.3.22

 これはかなり以前から指摘されてきた事態である。何をいまさら…という感は否めないが、学校の危

   機的状況の一端ではあり、世間にも周知された方が良いのは確か。

 

 40代の教員が少ないという年齢構成の歪みは初任教員の指導にも甚大な影響を及ぼすだろう。面白くて分かりやすく、生徒達の印象に残る社会科の授業を創り出す事は極めて難しく、授業準備には相当の手間暇がかかる。当然、若手教師にとって先輩教師のアドバイスは大いに参考となるだろう。特に沢山の生徒達から絶大な支持を集めている熟練教師の授業内容や手法は見逃せまい。脂がのった40代教師の授業には参考とすべき要素が多いはずである。しかし40代が少ない千葉県の高校現場では授業見学に値する先輩教師が実数としてかつてより少なくなっていることはほぼ間違いない。自分の親世代同然の50代教員の老練(老獪?)な授業がどこまで若手教師のお手本となれるのか・・・もちろん人によりけりだが、やはりIT化の波に乗り遅れがちな50代教師に過度な期待は出来ないと考えるべきだろう。

 生徒数が多かった30年ほど前までは千葉県内の多くの高校が一学年10クラス程度の学年規模であった。学校内の社会科の教員数は一学年のクラス数とほぼ同じだったので新米教師は10名近くの先輩教師から多方面にわたるアドバイスや教材、プリントなどをいただくことが出来た。しかも年齢構成のバランスが比較的とれていたので、多くの高校では新米教師が孤立してしまうことなど起こり得なかったのである。ところが現在は少子化の進展によって多くの高校が一学年4~5クラス程度の規模に縮小している。つまり校内での同じ教科の教員数がほぼ半減している。加えて40代教師の激減である。千葉県内の高校では若手教師が授業以外でも孤立しがちとなり、様々な場面で孤軍奮闘を迫られているに違いない。

 近年、初任教師には初任研の指導員として校内でベテラン教師が一人割りあてられている。私も一度、その任に就いたことがあるが、経験上これで十分とは言いがたい。もちろんそうしたマンツーマンの指導場面もあって良いのだが、かつてのように多様な先輩教師に囲まれて多様な刺激を受ける方がはるかに現場の実態に密着でき、豊かな経験を積めるのではあるまいか。

 指導が難しい高校では生徒指導上、教科準備室よりも学年室や大職員室に常駐する時間が長い。千葉県内の高校の少なくとも三分の一程度は教科準備室よりも学年室や大職員室が教師の居場所として重視されるだろう。学校によっては教科準備室がただの物置になっているような高校さえある。そのような高校に採用されてしまった初任教師は先輩教師から授業に関する温かい助言を受ける機会がどうしても少なくなり、授業の成立に一層大きな困難を覚えるに違いない。

※参考記事

25歳の女性、県立高の教育実習で教員から暴言・暴力を受け「今でもつらい」と県を提訴…抑うつ

 状態で働けず 読売新聞 によるストーリー 2023.11.6

 鍛錬と協調を旨とする抑圧的な精神主義がいまだにはびこる学校ではありがちな事件。また本格的な

 教員養成教育を受けなくとも高校教師に採用されてしまうシステム上の問題も背後にはあるかもしれ

 ない。それに加えて学校現場のブラック化による慢性的なストレスで精神的に追い詰められた教師に

 よる感情の暴発、といった要素も十分考えられる。ただ県としてはこうした事件によって教員志望者

 数がさらに減ってしまうことこそ、避けなければならない事態なのだろうが、いずれにせよ、千葉県

 の公立高校が抱える問題の深刻さを予感させる事件の一つとして捉えたい。

教員の精神疾患による休職・病休は依然として多く、20代30代で増加:背景になにがある? 

 妹尾 昌俊教育研究家、学校・行政向けアドバイザー

 YAHOO!ニュース JAPAN 2021/12/22(水) 15:00

教員免許の授与数、20万件割れ 「過労死ライン」の労働環境影響か

  朝日新聞社 2022/08/01 06:00

 高校での教員免許授与数が特に激減していることの背景を問いただしたい。文科省は教員免許取得条

 件の緩和による取得免許数の増大を検討しているようだが、ただの数合わせ、泥縄式の発想に過ぎ

 ず、かえって学校現場の混乱を深めるだけであろう。このような短絡的発想しか出来ない教育行政の

 側こそが最早オワコンなのだとつくづく思う。

「業務断れず限界まで」「眠るのが怖い」20代教員に心の病増加…過重業務で適応障害、自殺も 

 読売新聞 2022/10/24 05:00

千葉の中学3年の過半数は公立高校志望、でも「学費が同程度なら私立」選ぶが76%

 読売新聞 によるストーリー  2023.11.24

 確かに公立高校の改革はすでに手遅れであり、もはや多くの公立高校が時代の急速な進展にまったく

 ついていけなくなっていることは明白だろう。とりわけ千葉県の場合、公教育における制度的、組織

 的欠陥、束縛の多さや頑迷な保守的体質、予算の圧倒的少なさが教育の改革、改善の足を引っ張る現

 象があまりにも目立ち過ぎてはいないだろうか。

  今後は東京都や大阪府のように高校改革の多くを私立校の努力に委ねる方向に動いていくのが多く

 の民意に沿い、現実的であるように思えるが、いかがだろう。すなわち公教育の民営化を進め、市場

 原理を導入して高校間での競争を煽ることで時代の変化に即応できる高校教育の実現を目指した方が

 現在の高校教育の、残念なまでの行き詰まり、閉塞状況を打開するにはどう見ても手っ取り早いよう

 に思えるのだ。

  中学生の4分の3以上が私立進学希望であるならば、今後は中学生の進路希望に応えて私立高校の数

 を増やすとともに私立高校の入学定員を大幅に拡大していくべきだろう。私立における保護者の学費

 の減免はある程度必要になってくるだろうが、公立高校の予算を削った分をまわすことで相当程度、

 家計負担の軽減は可能となるはず。そのためには当然、公立高校の職員数の大幅な削減も進める必要

 はあるだろうが、現今の教員不足がむしろ追い風となっており、文科省や県教委の妨害さえ排除でき

 れば公教育の縮小は思いのほか順調に進むのではないか。 

  公教育の大幅な民営化こそ、保護者、児童、生徒の要望にこたえる方途であり、文科省は学習指導

 要領や学校設置基準等による下らない縛りを緩めてより自由で多様性に満ちた高校教育の実現を推進

 するためにまずは徹底的な自己変革を行うべきであろう。

  1980年代以降、鉄道や郵政など多くの分野で民営化が進み、その都度、様々な議論を呼んできた。

 もちろん民営化に大きな犠牲が付きまとってきたのは事実であろう。教育の民営化に反発する人は少

 なくあるまい。しかし日本の公教育の閉塞状況は既に日本の経済力、政治力を酷く毀損させてきてい

 るほどに深刻な機能不全に陥っているのではあるまいか。今後、「公」の力に期待できないとすれば

 民活導入は不可避であろう。

  それほどに文科省以下、千葉県教委、公立高校の弱体化は深刻であり、公立高校が自身の力だけで

 悲惨な現状を打破できる可能性は決定的に低いと言わざるをえない厳しい現状があると私は考える。

 したがって千葉県教委はこれまでの公立高校の入学定員を今後は大幅に削減させていき、私立高校に

 高校教育の主導権を委譲する決断をすべき段階にきていると思うが、いかがだろう。

 

参考資料

千葉県公立学校教員採用試験倍率の推移(2020~2024年度採用)

 

2020

2021

2022

2023

2024

小学校

2.0

1.9

1.9

1.6

1.4

中・高国語科

2.0

2.3

3.3

2.5

2.0

中・高社会科

5.3

4.8

4.8

6.1

3.5

中・高数学科

3.4

3.2

3.3

3.2

2.2

中‣・高理科

3.2

2.3

2.2

2.3

1.7

中・高英語科

2.7

2.4

2.5

2.4

1.7

表中の年度は採用予定年度であり、採用試験自体はそれぞれ前年度に行われている

   なお2025年度採用試験の志願倍率はまだ発表されていない。

  以上の受験倍率の経緯からみて千葉県の場合、次年度の教員不足がかなり懸念される状況にあると言えよう。中・高の国語科に関してはここ数年、比較的低め安定の倍率だが、女性教員の割合が多く、産休等で年度途中から教員不足が生じがちな教科であり、今後も予断を許さない深刻さを感じる。社会科や数学科の急速な倍率低下は現状では教員不足を免れる段階だろうが、教員の質を保てなくなるレベルには既に達しているだろう。ついに2倍を切ってしまった理科と英語科はとりわけ深刻であり、教員不足と質の低下の双方が同時進行していると見て間違いあるまい。とりわけ女性教員の多い英語科はかなり危機的状況にあると言っても過言ではないだろう。

 

 

①   三部制定時制高校増設が学校社会全体に及ぼす衝撃

 高校の場合、他校に赴任すると自分の意に反して突然、自分の専門外の科目を任されることは普通にある。そもそも転勤先が定時制や職業高校ならば専門外どころか複数の科目を任されること自体、当たり前である。特に定時制や小規模校(現在、増加中)の場合、少なくとも三科目までは覚悟する必要があるだろう。自分も大学時代に専攻した学問とは全く異なる科目を初任からずっと任されてきた。初めて受け持つ科目が一つならば何とか対処できるだろうが、それまでやったことのない科目を一度に二科目も任されてしまうとなればさすがに誰でも辛いはず。

 ところで今、話題の三部制の定時制高校では多くの場合、学年制ではなく、単位制を取っており、しかも秋入学秋卒業を認めている例が多い。このためほとんどの講座は2単位もので構成されている。と言うことは必然的に一人の教師の持ち科目数と持ち時間数が多くなりがちになる。

※4単位ものの場合、半期の講座では週8時間の授業となってしまうのでこれは教師、生徒共に辛すぎ

 る。どうしても4単位ものの講座は通年の講座しか設定できない。とは言え通年の4単位ものの講座を

 多くしてしまうと選択肢が狭まるため、今度は秋卒業が難しくなってしまう生徒が出てくる。これで

 は生徒の不利益につながるので勢い、講座は2単位ものばかりになってしまう。

 また各科目の講座は通年の講座と半期の講座(半年で2単位が修得できる)とに分かれている。私は日本史で採用試験を受け、表面的には日本史を専門としていたにもかかわらず、三部制の定時制では現代社会の通年講座と半期講座(前期)、倫理の通年講座と半期講座(前期)、政治経済の通年講座と半期講座(前期)をそれぞれ一講座ずつ年度の前半に持たされた経験がある。

 半期講座の場合は半年で2単位取得できる。つまり2単位の講座にもかかわらず週に4回の授業を行うわけである。同じ倫理という科目でも通年の講座の方はごく普通に週に2回の授業で一年かけて行う。このため、単純に見ても半期の方が授業の進度は通年の講座の倍の速度になる。すなわち倫理を通年と半期の2講座を担当するといっても同じ内容の授業を繰り返せるのは最初の頃の授業だけ。ということは倫理一科目に限ってみても、授業準備にかける労力は通常の2単位ものとは比べものにならないほど重くなる。倫理の場合、「週6種類の授業準備」とまではいかないにしても、実質週3種類余りの授業準備をほぼ半年間行う・・・少なくともそれくらいの負担に相当すると言えるだろう。

 私のいた高校ではすべての講座が2時間連続(45分+45分=90分)の授業展開で、合間に僅か5分の休憩が入るだけ。もちろん連続の2時間が終われば今度は次の2時間まで15分もの休憩が入るから、休憩時間に関してトータルで不足しているわけではない。ただ授業の合間の5分という時間がそもそも休憩時間として適切なのか・・・と思う部分はあった。

 転勤してきた際に初めて受け持つ科目(倫理)が2単位ものと聞いた時、2単位ものなのだから授業準備にそれなりの時間が確保できそうだ・・・と実際に授業が始まるまでは安心していた。が、4月になって半期ものが週4時間、それも一度に2時間が連続するということを知った時、愕然としてしまった。これでは授業準備が間に合わなくなるかもしれない・・・加えてこれまで教えたことのある政治経済や現代社会までもが異様なほどの負担感となって私を襲ってきたのである。

 三部制の場合、午前部、午後部、夜間部の時間割にそれぞれ2時間分オーバーラップする時間があるため、教師の時間割は一日6時限ではなく、一日8時限で組まれている。普通の学校は授業の分母が6時限なのに対してこちらは8時限であるため、当然、一日6時限分もの授業を割り当てられることは普通にある。最悪の場合は半期のみとは言え一日8時限の授業となる日も出てくるかもしれない。となればその日に必要な授業準備は確実に前日までに終わらせておく必要が出てくる。否応なしに授業準備や提出プリントのチェックなどは前後の空き時間が少ないため、そのほとんどを自宅へ持ち帰ることになるのだが、時間不足と翌日の授業に間に合わなくなるかも、という不安とで、曜日によっては夜もまともに寝付けなくなる。

 もちろん自習監督の割り当ては一日8時限という分母を基準にしているので一日4時限程度の授業ならば当然の如く自習監督を入れられてしまう。しかも8時限の時間割のため教師及び生徒には放課後としての時間がほとんど確保されていない。どうしても生徒との面談や文化祭の準備、部活の指導、学年会議や分掌の会議などはその時間設定と教室の確保に常時、非常な困難を感じてしまう。HRや教室掃除の時間も実質20分程度しか用意されておらず、休憩時間を削らないとどちらも成り立たないのだから最早稀に見る、驚きのブラック・システムであった。

 半期の講座は通年の講座よりも早く終了してしまうため、定期考査の問題漏洩を避け、両講座の成績面での公平を期するには、厳密に考えれば(通常とは逆に思えるだろうが・・・)テスト問題をまったく同じ内容にするわけにはいかないはずである。したがって同じ倫理という科目で同じ担当者でありながら、実は通年と半期とでは問題どころか授業内容自体をも一定程度、変えていく必要が生じてしまうはずなのだ。

しかしこんなことは一体どこまで可能だろうか・・・そもそも一体どこのどなたがこんな無茶苦茶なシステムを考え出したのだろう・・・というわけでこの年は前期の場合、実質的には週に合計18種類の異なった授業をしなければならず、定期考査の問題はその都度6種類、前期だけで合計12種類もの試験問題を限られた空き時間の中、たった一人でひねり出す必要があった。

 三部制の定時制の生徒達の中には日本に来たばかりで日本語すら十分に理解できない子(日本語を母語としない生徒は定時制の全学年で合計50人以上か。平仮名すら分からない高校3年生もいた)や中学校3年間で200日以上欠席している子(かつて不登校だった子は午後部ではクラスの3割近くを占める)、非行に走り、腕力にものを言わせて周囲を威圧するいじめっ子、家ではDVを受けて心に深い傷を負っている子(児童養護施設から通う子もいる)、貧困にあえぐ子(生徒の8割近くはアルバイト)、何らかの発達障害や学習障害を持つ子(重い知的障害を抱えた自閉症の子もいる)・・・それぞれが少なからぬ割合で一つの講座に混在している。こうした定時制の生徒達を授業中誰一人取りこぼすことなくしかも合計90分という長丁場を飽きさせることなく乗り切っていける社会科教師など果たしてこの世に存在しうるのだろうか。そもそもどんな生徒が相手であってもこの条件下で三科目すべての科目、講座を一人の教師が無事に最後まで勤め上げること自体ほとんど神業に等しいに違いない。だが誰が何と言おうと、割り当てられた週18時間分の授業準備を前期の半年間は続けなければならない・・・

 もちろん三部制の定時制だからといって、すべての高校がこんな過酷さを持つわけではなく、また担当教科や午前部、午後部、夜間部によっても負担感の差はかなりある。夜間部の場合は普通の定時制に比べて若干、授業の負担は重いものの、生徒指導や進路指導のあり方には他の定時制とほとんど差が無い部分も少なくはない。しかし午前部や午後部は教師の誰一人として経験が無い分、何かと面食らうことが多い。

とりわけ教科の違いによる負担感の差は三部制の場合、明らかに極大化してしまうだろう。多様な生徒の実情に合わせようとして授業を工夫しようとする教師ほど悪戦苦闘は不可避であり、なおのこと負担が重くなる。毎時間、提出用の自作プリントを用意し、回収するだけでも過酷な作業量である。プリントは授業中に終えることが出来なくとも授業の終わりに必ず回収する必要がある。次の授業の時(多くは1週間後)までにかなりの生徒が紛失してしまうか、教室に持参してこないからである。多様な背景を持つ生徒達に通用する社会科の授業を創り出すには想像を絶する努力を要するのだ。

 こうした学校ではよくありがちなことだが学級担任の希望者が極めて少なく、新任者には有無を言わせずに学級担任、場合によっては学年主任などを委ねてくる。特に再任用の常勤講師ならばベテランということでクラス担任どころか主任にされることも珍しくない。だから多くの場合、転勤早々の4月から分掌の責任者あるいは新入生の学級担任としての激務なども加えられた上で授業を含め、疾風怒濤の勢いで新学期が始まったりするわけである。

 当然の事ながら教育困難校にはこれまたありがちなことだが、新一年生の学年団が新任者ばかりという笑えない事態が繰り返されてしまう。そのため、極めて常識外れで複雑怪奇な三部制のシステムのことを校内の誰に聞いても苦笑いされるだけでほとんどの教師は明確には答えてくれない・・・人事面での異動が激しいため、経験の蓄積と共有が決定的に不足してしまっているのだ。私の属していた不登校の多い午後部の担任の多くは3年で転勤するか、たちまち午前部へと鞍替えしていった。私の隣のクラスなどは4年間、何とすべて違う教師が入れ替わり立ち替わり学級を受け持っている。事情に通じている他の三部制高校の経験者がこの高校に転勤してくることは在任6年間で一度も無かった。いつまでたってもまったくの手探り状態のまま、時間だけが慌ただしく過ぎていく。

 こうして長々と三部制の定時制における無茶ぶりの実態を愚痴ったのには訳がある。実は何と悲惨なことに現在、多くの県の教育委員会はこの過酷な実態を持つ三部制の定時制高校をその欠陥を取り立てて是正することもなく、増加する一方の不登校者への対策としてさらに増設する計画を持っているというのだ。

 このとんでもないダイナマイトのような破壊力のある「教師のバトン」を一体、誰が手にしてしまうのだろう。このバトン渡しはまさに命懸けの罰ゲームのような悪夢ではないのか。運の悪い(?)少なからぬ数の教師にとってあまりにも過酷すぎる将来がすぐ近くまで迫ってきていることを皆さんは実際、覚悟出来ているのだろうか。特に社会科教師が直面する悲惨さには全員が絶句する他ないだろう。

 もちろん中学時代、不登校だった生徒達や発達障害などでいじめられてきた子共達の貴重な受け入れ先として各地の三部制の定時制高校が不十分ながらも一定の社会的役割を果たしている側面は見逃せまい。しかし教師の授業負担一つとっても異常なレベルであるこのシステムの欠陥だらけの現状は余り世間には知られていない。しかもこうした学校がこの状況のままで増やされていくことが意味することは学校社会全体にとってとてつもなく破壊的であろうと予想する。これまでも批判されてきたはずの学校のブラック化が性懲りも無く一気に加速していき、心身を病む教師がいよいよ増えていくに違いないのである。

 おそらく中学校でも教師達が三部制の定時制と大差のない苦しさの中で高校を遙かに上回る週20~24時間程度の授業数を精神的に不安定な思春期の子供達相手に必死でこなしているはずである。そして当然のように中高の多くの教師は放課後や土日のほとんどを会議や保護者への対応、事務処理、とりわけ部活動に捧げている。であるにも関わらず、十二分にブラック化していた学校現場に(今度こそ教師達のとどめを刺そうとするかのように)何とコロナ禍への対応、そして高校の場合はいよいよ2022年度から新科目「公共」、「歴史総合」などを含む新学習指導要領の導入が始まってしまった。にもかかわらず文科省はこれまで教員の負担軽減にずっと力を入れてきたと平気でうそぶいているのだから何とも始末に負えない。

 

③学校現場への無理解、誤解が世間に生じてしまう背景にあるもの

 公務員には「職務上知り得た秘密」を退職後も外部には漏らしてはならない、という守秘義務が地方公務員法によって課されている。この守秘義務に違反するとかなり重い罰則が与えられる。それは当然のことで仕方ないだろうと素朴に思う方がいるかもしれない。確かに教師が保護者から提出してもらった生徒の個人調査票の記述内容、すなわち生徒及びその家族のプライバシーなどを勝手に外部に漏らすことは厳禁である。これは当たり前。

 問題は「職務上知り得た秘密」をどのような範囲に限定するのか、にかかっていると思われる。かつて食品関係の企業で「食の安全」を脅かす様々な事件が連発した際、事件事故の再発防止を狙って政府は食品関連の企業の社員から所轄官庁への情報提供を積極的に促す対策をとった。外国産の原料を使っているのに国産と偽って製造・販売している企業をケースに考えてみよう。この場合、原料の調達などにあたっている社員が自社の偽装工作、犯罪行為を知ってしまう事は十分あり得る。もしも公務員の守秘義務のような厳しい規則が民間企業にあてはめられているとすれば、立場の弱い平社員は守秘義務を楯にとって自社の犯罪に関しては見て見ぬ振りを続けてしまうかもしれない。その一方で消費者側が蒙る損害は会社の偽装が世間にバレない限り、際限なく拡大し続けることになるだろう。

 こうした企業犯罪を防止するには社員からの内部告発を容易にすべく、告発という行為によって特定の個人が不利益を蒙らぬよう、国が内部告発した社員を手厚く保護する必要がある。実際、政府はそうした告発者の身分保障までしても、多発する企業の不祥事を減らすために社員自ら勇気を持って告発するよう、促したのである。企業のコンプライアンスが厳しく世に問われ始めたのもこの頃からであった。

 では公的組織の犯罪行為を公務員は同じように勇気を持って内部告発できるのだろうか・・・たとえば公務員が上からの職務命令に基づいて明らかに違法と思われる行為を強要された場合、どうなるのだろう。近年、地方公務員法改正によって人事評価制度が導入(←勤務評定)され、特定秘密保護法が成立し(施行は2014年から)、公務員の守秘義務違反に対する罰則規定の強化(3万円以下の罰金⇒50万円以下の罰金)が図られるなど、「他言無用」とばかりに公務員への締め付けがどんどん進んできた。今や多くの公務員が社会通念上は告発すべき事案に対してすら萎縮気味になっている気配を私は感じてきている。もちろん上司からの命令が明らかに法律違反である場合には今もこれに従う必要はないはず。とはいえ上司から公文書の改竄を命じられ、罪悪感に駆られて自殺してしまった赤木氏の例がある。近年、組合加入率が極端に低下し、ただでさえ組織力を失って孤立しがちな下々の公務員にとって上司の命令に逆らう事はたとえ教師の身と言えども今や決して容易なことではない。

 森友事件の場合には明白な違法行為を上司から迫られていた。しかし、それでも改竄は行われてしまったのである。社会正義を脅かす危険性は普通のお役所だけではない。公立学校でも村社会化が進んでおり、内部告発がほとんど不可能と思えるほど「他言無用」の同調圧力は強い。たとえ職員会議の決定や校長の判断に何らかの違法性がありそうだと感じても内部告発に強いためらいを覚える教師は決して少なくないだろう。

 たとえば旭川女子中学生凍死事件の場合、報道から見る限りは学校側がイジメの隠蔽という違法行為を組織的に行っていると今のところ推測できる。世間一般からすればこの事件の違法性はほとんど疑う余地がないとさえ感じられるだろう。ところがこれだけマスコミが騒いでいるにもかかわらず、管理職の違法性を告発する動きは未だに当該中学校の職員や関係者からは出ていないかのようである。守秘義務を厳格に課されている学校現場では多くの場合、校長や教頭、さらには教育委員会に背いてまでして一職員がそう易々と内部告発できる状況には置かれていないと言えるだろう。実際、旭川のような案件はこれまでも各地の学校で繰り返し発生してきた。当然イジメ案件以外でも学校や教育委員会の強固な閉鎖性、隠蔽体質を物語る事例には事欠くまい。

 以上のような学校の閉鎖性は時代遅れのブラック校則や体罰、組み体操のような安全性への配慮を欠く伝統行事を長く温存させる土壌ともなり、「チーム学校」などの美名に隠れて教師集団の同調圧力、すなわち隠蔽体質と職員間のイジメ体質を継続させ、強める働きをもたらしてきたと私は考えている。

 教師による内部告発はたとえ告発者側にそれなりの社会的正義や正当性があろうとも、村社会的教師集団においては「裏切り者の卑劣な行為」、「職員間の和を乱す狼藉者」としか受け止められない可能性が極めて高くなっているのだ。神戸の小学校のように教師間のイジメやパワハラが校内で横行してしまうのはベテラン教員の経験からすれば必ずしも不思議ではないのである。内部告発の出来ない旭川の中学校教師を声高に批判できるほどしっかりと外部社会に開かれ、腹の据わった教師は現実にはそれほど多くはない・・・というのがこの事件に対する私の偽らざる印象である。

※学校教師間でのイジメ、学校教師の精神疾患が増えている背景にはまず学校での過労死レベルの激務

 と激しいストレスがあることは「大人のいじめ」(坂倉昇平 講談社現代新書 2021)でも指摘さ

 れている通り。こんな状況下で一教師が管理職や教育委員会を敵に回す覚悟で告発するだけの精神

 的、体力的余裕など持てる訳がない・・・ただの言い訳に聞こえるかもしれないが、これが現場で苦

 悩する教師の真っ正直な実感ではないか。

  なおイジメ自殺などの件に関わる学校の隠蔽体質に関してはこのブログの「§3学校問題編」で参考

 となる動画や記事を数多く紹介している。

 

 社会的公正や信義を守る上で必要とされる市民としての告発義務の方が公務員としての守秘義務を遙かに上回るかもしれない・・・といった悩ましい事態はとりわけ入試などの際においてどの学校でも起こり得る。そうしたケースに直面した教師が自身の良心に照らして学校長の判断や動きにかなりの違和感を覚えたとしても公務員の守秘義務を楯にとって自己保身を図り、結局は問題に目をつむりダンマリを決め込んでしまう・・・といった可能性は必ずしも低くはないだろう。言うまでもなく本来、優先すべきは入学希望者に対する公平、公正な対応なのに、である

 他方で学校の閉鎖性、隠蔽体質は学校が抱えている問題点の本質をマスコミや世間から見えにくくしてきた。そもそも内部告発をほとんど期待できない、すなわち自浄作用の損なわれた閉鎖的村社会と化している学校の場合、外部から十分な理解が得られることはまず期待出来ないだろう。学校を管轄する文科省ですら学校からすれば外部に過ぎず、教育学者の多くもまた学校外部の存在に過ぎない。実際、長く「学校教育村」の現場にいた者からすれば文科省の方針や教育学者の学校教育を巡る言説、マスコミの論調に現場感覚との大きなズレを覚えることは少なくないのである。こうして教師集団は知らず知らずのうちに国家や社会、世間から隔絶して孤立を深めていくことで健全な社会性を喪失していき、やがて世間常識、公序良俗ですら自ら容易に逸脱してしまう可能性を高めていったのかもしれない。

 担当する学級内のことを学級担任が一身で抱え込み、他の教員から介入されたくないと思う古臭い縄張り意識、つまり「学級王国」的発想は教員世界の中から払拭されているとは到底思えない。それどころか、今も色濃く残存しているようである。自分の学年の事は他学年から介入されたくない、自分の部活の事は他の部活顧問から介入されたくない、自分の学校のことを他の学校や地域住民、まして「何も知らない」第三者からは絶対に介入されたくない・・・学校特有の閉鎖的隠蔽体質はこうした奇妙なほど徹底的に外部からの介入を排除しようとするプライドの高い教師集団特有の心理、あるいはストレスフルなブラック職場の重圧下で、外部の誰からもまっとうな理解が得られないことから生じる孤立し、傷つきやすい被害者意識によって強く自閉してしまった少なからぬ数の教師達に見られる極度な内向きの姿勢・・・といったような、長年に及ぶ日本の学校の精神病理的風土が育んできたのかもしれない。

 

 (後編に続く)