その3.沖縄戦 続ウチナーとナイチャー
※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。
導入:沖縄をめぐる唄の世界~ウチナンチュとヤマトンチュの想い~
以下、授業での展開例を参考までに考えてみた。
・沖縄と言えばカチャーシー
◎唐船ドーイ 2009/06/13 teamrimi 7:12 ・・・出だしの2分程視聴
「唐船(とうしん)ドーイ」とは「中国からの(貿易)船だぞー」という意味である。唐船ドーイは踊りを伴う琉球民謡の代表的なカチャーシー(三線の速弾きを伴奏にして踊る)の曲。エイサーのトリの定番で祝い歌の一つ。 沖縄では「唐船ドーイ」が流れると人々が無条件に踊り出すと言われるほど琉球民謡の中で最もポピュラーな曲の一つであり、THE BOOMなどいろいろな音楽家にも歌い継がれている。
中世から中継貿易で潤ってきた琉球王国時代、久しぶりに沖に浮かぶ中国の貿易船を目にして沸き立つ港の人々の喜ぶ顔とはやる心・・・元来は今ほどの速弾きではなかったが、カチャーシーの定番曲と言われるようになってからは競うように速弾きのスタイルが広まっている。 また、沖縄都市モノレール線(ゆいレール)において壺川駅到着を予告するチャイムにも用いられている。
※以上、ウィキペディアより抜粋・引用、一部改変
唐船ドーイと並んで「カチャーシー」によく使用されるのが次の「ハイサイおじさん」でやはり乗りの良いスピード感のある陽気な曲。故志村けんさんが「変なおじさん」のギャグで利用したことでも知られる、誰でも一度は耳にした名曲。
・喜納昌吉の「ハイサイ、おじさん」~「なんくるないさー」の裏側~
沖縄尚学4回ウラの応援歌♪ 魔曲「ハイサイおじさん」で逆転!【2019高校
野球・夏の甲子園】 2019/08/10 高校野球応援歌ちゃんねる 1:50から視聴
Q1この曲、聞いたことある?
Q2「ハイサイ」とはどういう意味?ハイタイとの違いは?
Q3どんな感じの曲? Q4誰の曲? Q5この試合の結果は?
※【第101回大会】一回戦 習志野 VS 沖縄尚学(2019.8.9甲子園) 5:4で習志野勝利
Q6沖縄の甲子園出場常連校トップ3は?
A. 興南高校、沖縄尚学、浦添商業 ・・・甲子園初出場校は沖縄水産
・喜納昌吉&チャンプルーズ - ハイサイおじさん
2011/06/24 ShokichiKinaVEVO 4:07 ・・・出だしの1分程度視聴
※喜納 昌吉(きな しょうきち、1948年6月10日 ~ )は、日本の音楽家、平和活動家、政治家。米軍
占領下のコザ市(現・沖縄県沖縄市)出身。琉球民謡を現代風にアレンジしたウチナー・ポップを確
立した一人。バンド、喜納昌吉&チャンプルーズを率い、ボーカル、ギター、三線、作詞作曲をおも
に担当する。
喜納昌吉のデビュー曲であり、喜納が中学生の時に創作された。歌詞は実体験を元にしているという。「ハイサイ」とは沖縄の言葉で「こんにちは」の意。1969年に沖縄の地元レコード会社マルフクレコードから発売の民謡集のアルバムに初収録。沖縄返還の年、1972年にシングルカットされ、30万枚の大ヒットを記録。
沖縄民謡のリズムや音階をベースにした非常に明るく踊りやすい楽曲であり、いわゆるウチナーポップの先駆者的な楽曲である。当初は「民謡ではない」との批判も多かったが、現在では創作民謡として定着し、カチャーシーの定番曲に数えられる。また甲子園大会でも沖縄から出場した高校への応援曲として繰り返し利用されてきた。
以下、1番の歌詞と現代日本語訳を紹介する。
歌詞では、近所に住む「おじさん」(女性ボーカルが担当)と、そのおじさんに「ハイサイ、おじさん」から始まる挨拶で話しかける、かなりませた少年(喜納昌吉が担当)とのやりとりが明るくコミカルに描かれる。「おじさん」は、酒飲みで少年に屁理屈をこねる存在として描かれており、少年もまたおじさんの屁理屈に屁理屈で対抗するようなやりとりを見せる。このおじさんのモデルは実在の人物であり、彼に語りかける少年は昌吉自身であるとされる。
Q1.この曲が一時期、甲子園での使用が出来なくなった理由とは?
Q2.この曲が甲子園で復活した理由とは?
2010年、「遊郭を遊び歩く酒飲みおじさんをからかう原曲の歌詞が、高校野球にそぐわない」という内容の投書が地元の沖縄タイムス紙に掲載されたことにより、第92回沖縄県代表校興南高校野球部OB会は使用自粛を決めた。後日掲載された沖縄タイムスの記事によれば、その是非を議論しないまま使用を先送りしていたという。
沖縄県代表校OB会が決めた甲子園での使用自粛はごく短期間のみ実行された。数日後の8月20日、2010年夏の甲子園準決勝(興南-報徳学園)において市立尼崎高校吹奏楽部が五回表と七回表の興南の攻撃場面で演奏した。甲子園球場応援席は演奏に湧き、その様子はテレビ放送各局で広く報道された。報道は「ハイサイおじさん」演奏を肯定的に報じる傾向が趨勢を占めた。併せて、実際に吹奏楽部の演奏を指導した市立尼崎高校教諭は取材に対し経緯を語り、沖縄県代表である興南サイドに事前に演奏の予定を知らせて了解を得た上で演奏したものであったことが報じられた。なおこの大会では興南が自粛している間にも長崎日大(沖縄尚学初優勝時の監督である金城孝夫が監督を務めていた)が沖縄県出身選手の打席で「ハイサイおじさん」を演奏していた。
2014年秋には当時の優勝メンバーである我如古(がねこ)盛次・大城滉二が進学した立教大学硬式野球部でも応援曲として使用されていた。興南の次回出場は2015年の夏であったが、この際は「野球部員からのリクエストがない」という理由により甲子園でハイサイおじさんが演奏されることはなかった。これ以降の興南出場時には再び演奏されているため、沖縄代表の試合で演奏されなかったのはこの年が唯一となっている。2010年代以降はいわゆる「野球留学」により沖縄県出身の選手が他県の学校に進学するケースが増え、それらの学校でも演奏されるようになっている。
※以上、ウィキペディアより抜粋、引用
Q.それにしてもこの歌詞は少年のせりふとして確かに過激な部分があるが、喜納はな
ぜこんな歌詞を書き、しかも陽気な曲として仕立て上げたのだろう?
Q.この「おじさん」、ただの飲んべぇだったのか?一体どんな人物だと思う?
喜納はこの曲の由来についてインタビューや自著で度々触れており、あっけらかんとした楽曲の背景にある沖縄戦の傷跡を生々しく語っている。この「おじさん」はかつて喜納家の隣人であったが、奥さんが精神に異常をきたして実の娘の首を切り落とし鍋で煮るという事件を起こしたために村八分同然の身となり、以前から交友のあった喜納家に酒を無心に来るようになったのだという。この孤独な「おじさん」との触れ合いの中で「おじさんに歌を作ってあげよう」と思い立った中学生の昌吉が生まれて初めて作詞作曲したのがこの「ハイサイおじさん」なのだという。
※以上、ウィキペディアより抜粋・引用
〇陽気な曲「ハイサイおじさん」の背景にある沖縄戦の悲劇
毎日新聞 2023/08/11
◎クロ現+] 戦場のトラウマで精神疾患に… 戦後も続く元兵士や家族の苦しみ | 2021/09/24 NHK 4:59
Q.喜納昌吉の代表曲をもう一つ挙げてみて
・喜納昌吉の「花~すべての人の心に花を~」~沖縄から世界へ~
〇「花」すべての人の心に花を 夏川りみ
2016/01/13 東京 「 夏川りみ 」 倶楽部 5:40
Q.「すべての人の心に花を」というフレーズはかつて日本で開催されたある国際大会
がきっかけに生まれたという。その大会とは何?
「すべての人の心に花を」というフレーズは1964年東京五輪のアナウンサーの実況がもとになっている。1964年東京オリンピックの閉会式では、選手たちは各国入り乱れ、肩を組み、肩車をし、踊りを踊り、笑うものあり、泣くものあり、互いに祝福しあいながら入場行進を行った。そこには国境や人種といった人類の垣根を越えた「平和の祭典」の姿がたち現れていたが、テレビの中継でこの模様を見た喜納は涙がこみ上げる感動を覚えたという。
実況のアナウンサーの、「泣いています・・・笑っています」という言葉とともに、この日の感銘が歳月の中で喜納の中で発酵して生まれたという。オリジナル・バージョンは、1980年に喜納昌吉&チャンプルーズの2枚目のアルバム『BLOOD LINE』に収録。1999年の読売新聞調べによると、全世界で3000万枚を売り上げたという。2006年、文化庁により日本の歌百選に選定されている。曲はイルカ、小林幸子、サザンオールスターズ、氷川きよし、木村弓らに加えて沖縄出身の石嶺聡子、夏川りみ、BEGIN、普天間かおり、やなわらばーらもカバーしている。
※日本の歌百選は、2006年(平成18年)に日本の文化庁と日本PTA全国協議会が、親子で長く歌い継
いでほしい童謡・唱歌や歌謡曲といった抒情歌や愛唱歌の歌101曲を選定したもの。一般から募った
895曲から選考委員会が選出し、2006年12月15日に最終的に決定した。多くは童謡、唱歌が占めて
おり、戦後の歌謡曲は15曲に過ぎない。沖縄関係では他にBIGINの「涙そうそう」が選ばれ
た。ただしBEGINといえば本来、「三線の花」や「島人ぬ宝」も外せないだろう。
・さとうきび畑(歌)~ヤマトンチューからウチナーへ
◎沖縄 歴史☆Okinawa History part-1 2012/10/04 Okinawa ☆ 沖縄『三
線』『唄者』『歌手』 14:11
沖縄 歴史☆Okinawa History part-2 14:44
〇未開発の緑地帯の地中には今も多くの遺骨が (23/06/22 19:25)
OTV沖縄テレビ 2023/06/22 1:22
◎森山良子「さとうきび畑」(from 『Concert Tour2007-2008』)
2011/07/21 8:52 ・・・出だしの3分程度視聴
「さとうきび畑」は、作曲家の寺島尚彦が自ら作詞も手がけた歌。1964年、寺島が、歌手・石井好子の伴奏者として本土復帰前の沖縄を訪問した際、摩文仁の丘を観光して着想した作品。 第二次世界大戦末期の沖縄戦で戦死した人々が眠る、夏のさとうきび畑に流れる風の音が繰り返される。全部で11連からなり、通して歌うと11分近くを要するため、大抵は要所要所カットして歌われる。2001年には後述の森山良子が「特別完全盤」として11連全ての詞を歌ってシングル発売しており、収録時間は10分19秒だと紹介されている。
第二次世界大戦を通して、沖縄の人々は日本で最も激しい地上戦を戦い抜いた。その沖縄戦を通して、日米両国、無数の人々が敵味方殺し合い、そして集団自決した事例もみられる。とりわけ日本軍最後の戦場となった島尻地区(糸満市、南風原、八重瀬町)では数え切れないほど多くの戦死者・自決者たちが今なお「さとうきび畑」の下に眠っている。作者の寺島は、1972年に日本に復帰する前の沖縄を訪れて、作品中「66回」繰り返される風の音を考えたという。歌の主人公はひとりの少女である。少女は沖縄での戦闘で死んだ父親の顔を知らない。やがて大きくなると、ひとりで父親を探しにさとうきび畑に行く。父はなぜ戦い、なぜ殺されたのか、なにを恐れ自決したのか。通り抜ける風の音を聞きながら静かに悲しみを訴える。
また、この曲は、学校音楽教育の教材としても、様々な形で取り上げられている。1981年以後、音楽の教科書に何度か掲載されている。2003年9月28日にはこの曲をモチーフとしたスペシャルドラマ『さとうきび畑の唄』(TBS)が放映された。
※『さとうきび畑の唄』はTBS系にて、2003年9月28日に放送されたスペシャルドラマ。平成15年度文
化庁芸術祭テレビ部門大賞受賞作品。脚本は遊川和彦、主演は明石家さんま。太平洋戦争の頃の沖縄
と沖縄戦を舞台にした物語で、内容は家族の尊さを扱った反戦ドラマである。寺島尚彦の作品「さと
うきび畑」をモチーフに作られ、タイトルも同作から付けられていた。また、本作と同じ第二次世界
大戦を題材にしたイタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』の日本版を意識して制作されたと
いう。
2012年、「さとうきび畑」の歌碑が読谷村高志保のさとうきび畑の一角に建立され、4月1日に除幕式が行なわれた。歌碑のある一帯は、1945年4月1日に米軍が沖縄本島への最初の上陸作戦を行なった地域である。なお森山良子と沖縄との関係は深く、沖縄の曲として有名な「涙そうそう」(1998)は森山が作詞しBEGINが作曲したもので、夏川りみのカバーが大ヒットした。「花~すべての人の心に花を」とともに日本の歌百選に選ばれている。
○【沖縄戦】読谷村チビチリガマとサトウキビの歌碑~海から戦がやってきた~絶望
の海 2022/06/15 街歩きokinawa 16:30
・「島唄」の反響~交錯するヤマトンチュとウチナンチュの想い~
◎THE BOOM 島唄PV20周年記念 ver 2013/3/4 よしもとミュージック
3:14
Q.この動画になぜ沖縄の芸人や一般の人達が多数出演しているのか?
ウチナーではない宮沢さん(山梨出身)が辿ってきたこの20年の歩みを想像してみよう。この動画に登場しているのはアルベルト城間(ペルー出身)、新垣勉、我如古より子、ガレッジセール、具志堅用高、ジェイク・シマブクロ(ハワイ出身)、島袋寛子、スリムクラブ、平良とみ、藤木勇人、やなわらばー、山咲トオル(以上五十音順)。
※平良とみ(たいら とみ、1928~2015)は、沖縄県出身の女優。本名、平良とみ子。旧姓は比嘉。愛
称「おばぁ」。 NHKの朝ドラ「ちゅらさん」で一躍有名に。
※デイゴは沖縄の県花で開花期は台風が到来し始める4~6月、沖縄戦が最も苛烈を極めた時期と重な
る。沖縄を代表する花は他にはブーゲンビレア、ハイビスカス、サンダンカ、オオゴチョウ、月桃な
どがある。
Q.1「でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た」とはどういうことだろう?
Q.2「ウージの森であなたと出会い ウージの下で千代にさよなら」とはどういうこ
とだろう?
Q.3この歌は一部の沖縄の方から激しい反発を買ってしまった。その理由は?
◎宮沢和史「島唄」30周年記念インタビュー 2022/01/22 よしもとミュージッ
ク 31:18
16分辺りで沖縄の人々から反発された状況を宮沢さん自身が回想している。
〇沖縄への思い、当初は反発や批判も 「島唄」きっかけに現地と交流続ける宮沢和史
さん 今伝えたいこと 神戸新聞NEXT/神戸新聞社 によるストーリー 2023.5.1
BEGINの比嘉栄昇はTHE BOOMの「島唄」について、「BOOMさんの『島唄』は画期的だった。それまでは沖縄のミュージシャンは本土でどう歌えばよいか分からず、本土のミュージシャンも沖縄で歌うのは遠慮があった。その橋渡しをポンとしてくれたのがBOOMさんの『島唄』です。ありがたかった」と述べている。
当初沖縄では(主に沖縄民謡に関わっていた人たちに)「沖縄の人間でない人間が沖縄民謡の真似事をするなんてとんでもない」「本当に(沖縄音楽を)やりたいのなら沖縄に住め。そうすればあなたの子供ができるだろう」と痛烈に批判され、THE BOOMはショックを受けていたが、比嘉栄昇のエールを受けて非常に感謝した事を語っている。また、沖縄民謡協会でも20周年を受けて「最初はムカついたが、今は感謝している」とコメントしている。
他所の文化を知る、学ぶためにはまず真似することが学習の入り口となるだろう。「学ぶ」は「まねぶ」に由来するとも言われるように、真似ることは学習に不可欠。沖縄を学ぶには沖縄戦に関するウチナンチュの言葉や語りを真似ることから入ることも一つの方法だろう。宮沢氏はウチナンチュの心に近づくために沖縄の音階を用い、三線を弾いて沖縄方言で歌っている。だとすればこれに反発する沖縄の人の理不尽さ、偏狭さに嫌な感じを受けてしまうかもしれない。しかしかつての宮沢氏がそうだったように沖縄への知識が浅く、理解も不十分であり続けたヤマトンチュへの不信感から心を閉ざしがちになるウチナーの心を一方的に責めるわけにはいくまい。
何はともあれ、ウチナンチュから猛反発を受けても学ぶ姿勢を崩さなかった宮沢氏の沖縄を思う一途な30年があったのである。
「島唄」について以下、ウィキペディアより引用(一部抜粋)
THE BOOMは1992年1月22日発売のアルバム「思春期」で三線や琉球音階など沖縄音楽の要素を取り入れた「島唄」を発表。 またその年の12月12日には沖縄の方言(ウチナーグチ)で歌われた「島唄(ウチナーグチ・バージョン)」を沖縄県限定でリリース。
一方、東京弁で歌われた「オリジナル・バージョン」のシングル全国発売の要望も高かったが、もともとその予定はなかったようである。THE BOOMのボーカルで「島唄」の作詞・作曲を担当した宮沢和史も当時の沖縄ブームに便乗したシングルリリースには否定的であったが、いろいろな人に意見を聞いた結果、「オリジナル・バージョン」をシングル発売することにした。特に喜納昌吉から贈られた「(『島唄』を単なる沖縄音楽の真似事、と批判する者もあるが)音楽において、『魂』までコピーすれば、それはもうコピーなんかじゃないんだ」という言葉に背中を押された、と宮沢はTV番組でコメントしている。
こうして1993年6月21日、「島唄(オリジナル・バージョン)」が全国発売となり、150万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。その年にTHE BOOMは大晦日の紅白歌合戦に出場、「レコード大賞」でも「ベストソング賞」を受賞した。
島唄の歌詞は表面上、男女の別れを歌ったラブソングであるが、実際は沖縄戦での悲劇と平和への希望が唄われている。これは、当時宮沢には「戦争のことをそのまま歌っても聴いてくれないだろう」との考えがあったためである。歌詞は読谷村に米軍の艦船という「嵐」が押し寄せる光景から始まり、「ウージの森(サトウキビ畑)」で出会った幼馴染の男女が、「ウージの下(サトウキビ畑の下の地下壕)」で永遠の別れ(自決)をする。そして「二度と戦争が起きることなく、この島に永遠の平和が来るように」との願いで歌は締めくくられる。
宮沢は1991年に沖縄県の「ひめゆり平和祈念資料館」を初めて訪れ、ひめゆり学徒隊に入っていたという老婆に出会い、想像を絶する沖縄の戦争時の悲劇を聞いたのが制作のきっかけだったという。資料館はガマ(自然洞窟)の中にあるような造りであり、老婆は洞窟での集団自決の事や捕虜になることを恐れた肉親同士が互いに殺し合う事などを語ったという。そのインタビューの内容は「宮沢和史の旅する音楽」というシリーズが連載され、2回に渡り「島唄」の創作秘話が2005年8月22日と2005年9月1日の朝日新聞(朝刊)に掲載された。また、宮沢はニュース番組「NEWS ZERO」において、「沖縄戦があったことは知っていたが、集団自決やひめゆり学徒隊などのことを知らなかった。その無知だったことに対する怒りや、当時の軍事下の教育に対する疑問みたいなもので怒りがこみ上げて、地下のガマに残っている皆さんの魂を空に解放したいなみたいな思いがあって、東京で『島唄』を作った」と述べている。
島唄には琉球音階が用いられているが、サビ前の「地下壕で自決した」との意味が込められた部分は西洋音階である。これは、「彼らを自決させたのは日本(本土)であり、そう考えたら琉球音階はとても使えないと思った」と宮沢は述べている。