カラン、とドアベルの音。

夜のミネルヴァ珈琲に、ひとりの若い女性が入ってきた。
泣きはらしたような目をしている。

 

「……占い、してもらえますか」

 

そのとき、高瀬は南雲と外出をしており、
店にはママと夏子しかいなかった。

 

一瞬、答えに詰まった。
――本来なら、先生がいないときは占いを受けない決まりだ。

 

けれど、目の前の女性は、まるで今にも泣き崩れそうだった。
夏子の胸の奥で、小さな灯が揺れた。

ママは何も言わず、そっとカウンターの奥に消える。

 

――このまま帰したら、きっと後悔する。
――先生なら、きっと「できる範囲で見てあげなさい」と言うはず。

 

でも、本当に私にできるの……?
 胸の奥で、心臓の鼓動が速くなる。

 指先が少し震えている。

 

それでも、夏子はそっとバッグの中から小さなカードケースを取り出した。
それは、高瀬に教わる前、自分を励ますために使っていたタロットカードだった。

 

「大丈夫です。
 ……良かったら、今夜は私が見ますね。」

 

女性は驚いたように顔を上げた。
夏子は微笑み、カードを静かに並べた。


一枚、そしてもう一枚――。
ランプの灯が、テーブルの上でゆらめく。
カードに浮かんだのは、“希望”の文字。
 

「……あなた、もう一度、信じてみてください。
人を――そして、自分の未来を。
傷ついた分だけ、人はやさしくなれる。だから、あなたはもう、大丈夫です。」

 

その声は震えていなかった。
まるで、自分の中にもうひとりの高瀬がいるようだった。

 

***

女性が帰ったあと、夏子は深く息を吐いた。
店の外では、夜明けの気配が静かに広がっている。

 

そのとき、奥からママがそっと顔を出した。
静かに様子を見ていたらしい。

 

「夏子ちゃん……いい占いだったわね。」

 

夏子は少しうつむき、微笑んだ。
「勝手にしちゃいました。」

 

ママは穏やかに首を振った。
「ううん、あの子、救われた顔してたわ。」

 

二人は顔を見合わせ、ふっと微笑んだ。
やがて、ママがそっとコーヒーを差し出す。

 

***

ドアのベルが鳴った。
振り向くと、高瀬が静かに立っていた。

 

「どうだ?」

 

夏子は少し戸惑いながらも、正直に答えた。
「……私が見ました。先生の代わりに。」

 

高瀬は驚いたように眉を上げ、それからゆっくりと微笑んだ。

「そうか。」

 

短い沈黙ののち、彼は自分のテーブルの冷めたコーヒーに視線を落とした。

 

「星を読むというのは、未来を言い当てることではない。
その人の心の奥に、静かに灯る火を見つけることだ。
それが見えるようになったなら、

もう占い師として一人前だ。」

 

夏子の目に、静かな涙が光った。
その瞳には、夜明けが確かに訪れていた。

 

***

夜の扉が、静かに開いた。
そこに立つ夏子は、もう“占われる側”ではなかった。

 

 

――つづく。