夜の喫茶店「ミネルヴァ珈琲」は、いつもより静かだった。
高瀬は珍しく、早くから席に座っていた。
窓の外の星を、じっと眺めている。
「先生、今日の星、きれいですね」
夏子がコーヒーを差し出すと、高瀬は微笑んだ。
「そうだな……」
立ち去ろうとしたそのとき、高瀬が静かに言った。
「夏子。今夜は、君に伝えておきたいことがある。」
夏子はハッと顔を上げた。
***
「君が最初にこの店に来た夜を覚えてるかい?」
「……はい。まだ右も左も分からなくて。」
「もう、あれから四年になるか。」
夏子は少し笑った。
「早いですね。最初は月星座も分からなくて。」
高瀬はゆっくりうなずいた。
「けれど、じっと続けた。
星を読むことも、人と向き合うことも。
それに――この店で、私のそばで“生きた占い”を学んだ。
君は、もう立派な占い師だ。」
夏子の胸の奥が熱くなった。
あの夜、初めて星を教えてもらった光景が蘇る。
***
その余韻を見届けてから、
高瀬はふっと、一呼吸置いて言った。
「……そこでだ。夏子。
明日から、私は少し旅に出る。」
「……旅ですか?」
「ああ。新しい風に当たりたくなってな。」
高瀬は穏やかに笑った。
「ここの占いは、しばらく君に任せる。
ミネルヴァのランプの明かりは、絶やさないでほしい。」
夏子は息を呑んだ。
コーヒーカップを握る手が微かに震える。
「私に……先生、私にできるでしょうか。」
「できるさ。
迷うときは、あのランプを見なさい。
灯が消えなければ、星も見失わない。」
夏子はしばらく黙っていた。
そして深く息を吸い、静かにうなずいた。
「……はい。怖いけど、やってみます。」
高瀬の目に、やわらかな光が宿った。
「それでいい。その“怖さ”の中に、本当の光があるんだ。」
***
夜が明け始めていた。
高瀬は立ち上がり、カウンターに手を置いた。
「どうかお元気で」と夏子。
「君たちも。星を見失わずに」と高瀬。
店を出る背中を、ママが静かに見送った。
夏子はランプにそっと火を入れた。
その光は、託された想いのように彼女の胸を照らした。
「……先生。灯(ともしび)は、絶やしません。」
──夜明けが近づいていた。
ミネルヴァ珈琲に、新しい“星読み”がまたひとり、生まれた。
了

