夜の喫茶店。
閉店間際のカウンターに、静かなピアノの調べが流れていた。
夏子は、コーヒーカップを磨きながら考えていた。
あの夜、南雲に言われた言葉が、まだ胸の奥で灯のように揺れている。
「お前は、もっと輝ける女だ。」
色恋ではなかった。
あの人の目には、何かを見抜くような光があった。
――夜の世界で生きてきた男の、本物の眼差し。
「答えは、今出さなくていい。
選ぶ時期は、いずれ来るから。」
高瀬の言葉が、ふと胸の奥で重なった。
その“時期”が、まさに今、訪れようとしていた。
***
カラン、とドアベルが小さく鳴った。
「……おい、夏子ちゃん。まだやってる?」
その声を聞いた瞬間、夏子の手が止まった。
顔を上げると、そこに南雲が立っていた。
コートの下からのぞく包帯。
少し痩せた顔。
けれど、その目にはまだあの光が宿っていた。
「南雲さん……!」
「はは、驚くよな、ちゃんと足もあるで。」
そう言って笑った。
だが、その笑みの奥には、言葉にできない深い静けさがあった。
高瀬が奥から出てきた。
「南雲さん、歩くなんて。退院したばかりでしょう。」
「まぁな。麻雀の連中に顔出す前に、コーヒーが飲みたくなってよ。」
いつもの調子で言いながら、ゆっくりカウンターに腰を下ろした。
***
夏子が淹れたコーヒーの湯気が、静かに立ちのぼる。
南雲はその香りを吸い込み、しばらく目を閉じた。
「それにしても、高瀬ちゃん。
今回は死神の奴も、本気出してきたでぇ。
店の売り上げを狙ってな、
あいつ、ナイフ持って、何も言わずに突っ込んできよった。」
夏子は息をのんだ。
高瀬もさすがに笑えなかった。
「痛みも、時間もなかった。
生きとるんか死んどるんか……
救命士が“これはだめだ”って言ってんのが聞こえた。
あんた、運ばれながら、そんなん聞かされてみーな。」
夏子は思わず口を押さえた。
けれど南雲は笑っていた。
「しかし、うまいな、夏子のコーヒーは。」
その声が、静かな夜にやわらかく溶けていった。
「……人間は、どんなに偉そうにしとっても、
結局は一瞬で終わる。
どうせなら、何かを残していきたいよな。」
高瀬が短くうなずいた。
「そうですね。
……誰かの心に、少しでも。」
南雲は夏子を見つめ、ゆっくり言った。
「お前も、光を見失うな。
お前は、もっと輝ける。」
夏子の胸の奥が熱くなった。
――あの夜と同じ言葉。けれど響きは違っていた。
その声には、命の重さがあった。
***
南雲が去ったあと、ランプの灯がわずかに揺れた。
高瀬が静かに言った。
「不死身ってのは、死なないことじゃない。
何度でも、立ち上がるってことなんだよ。」
夏子は窓の外を見た。
「沈む月……でも、また昇るんですよね。」
高瀬がうなずいた。
「そうだ。人も月も、何度でも昇る。」
ランプの灯が静かに瞬いた。
その光の中で、夏子の心に新しい決意が生まれていた。
──つづく。

