父ちゃんとおれは急いで、犬伏を離れ上田に向かった。そして、兄ちゃんは小山の徳川秀忠の本陣へ駆けつけ、父ちゃんと離れ自分に反抗のないことを告げた。家康は7月に小山に着き、即日でにいちゃんに、父ちゃんのように離反しなかったことを賞する書状を与え、父ちゃんの領地を兄ちゃんに渡した。
父ちゃんは、7月21日に石田三成の挙兵を知る(京都犬伏)。父ちゃんと、おれは、7月23日に沼田城に着く。
父ちゃんは上田に引き返す途中、沼田により孫の顔を見てから上田に帰ろうと思い、夜になって兄ちゃんの居城・沼田城に使者を出し、入城を申し入れた。
しかし、応対した小松殿(兄ちゃんの奥さん)は、
「今、家康公を見捨てて、なぜ帰陣されるのですか。」
と使者に尋ねた。
「理由はわかりませんが、上田に帰ることになりました。」
と使者が答えると、
「伊豆守殿(兄ちゃん)も一緒ですか。」
と尋ねた。使者が
「伊豆守殿は家康公に従軍しました。」
と答えると、安心した表情を浮かべ、
「女といえどこの城を預かり、留守を守っている以上、父、兄弟といえども、理由なく城に入れることは出来ません。どうか市中に宿を借りて休息してください。」
と言った。使者がこのことを父ちゃんに伝えると、
「さすがは本多の娘だ。」
と言った…
「父ちゃんは城を取ろうとしているのではない。孫に会いたいと思っただけである。心を労することの無いように。」
と使者に伝えさせた。これに対しても耳を貸さず、城下の敵に備えて戦闘の準備を指示したという。
これではかなり冷たい女のように感じるが、実は沼田城下の正覚寺に孫を連れて父ちゃんに会いに来てくれた…
また、父ちゃんと、おれが九度山に流されてからは仕送りをして生活を助けてくれた。本当は心のやさしい小松殿なのである。
徳川家康は東海道を西上し、徳川秀忠は中山道を西上することになった。秀忠軍に中山道を行かせたのは、真田が、家康が去った後の江戸を上杉らと連絡を取り合い奪うことを恐れ、抑えておきたかったからである。
中山道を通り、西上するのに上田を通る必要はなかった。真田を抑える兵を置いて、すぐに西上するべきであったが、まだ若かった秀忠は敵がいるのを無視して通ることは出来なかった。
8月24日に宇都宮城を出発した秀忠軍3万8千は9月2日に小諸城に入った。
秀忠は、まず父ちゃんを降伏させようと、兄ちゃんと本多忠政(忠勝の嫡子)を使者として送り、9月3日に信濃国分寺で会見が行われた。父ちゃんは頭を丸め、開城する意思を申し入れた。使者に立っていた兄ちゃんは父の申し入れを半信半疑のまま秀忠に伝えた。これにより秀忠が真田を降伏させることに成功した・・・かに見えたのだが。(――〆)
父ちゃんと、おれは上田城に兵糧、弾薬などを運び込み、上田城周辺の各所に伏兵をしのばせ、軍備を固めていた。そして、万全の軍備を固めることがすでにできていた。
いつまでたっても開城しないことを不審に思った秀忠は、開城を催促する使者を出すと、父ちゃんは会見を破棄し、喧嘩をしかけたのである!!
これに対して、怒った秀忠は9月5日に上田城への攻撃命令を開始!!
父ちゃんは秀忠軍3万8千を決戦場(関ヶ原)に遅らせることが目的であり、少しでも長く秀忠軍を上田城に引き付けておく必要があった。上田城を無視して行かれては父ちゃんには面子がなかった。なんとか上田城に目を向けさせるために挑発をしたのである。若い秀忠は父ちゃんの挑発にまんまと乗ってしまうのであった。
まずはじめに上田城の北に位置している戸石城を落とすために、兄ちゃん隊が進撃した。戸石城はおれが守っていたが、おれは兄ちゃんとの戦いを避けるため上田城に撤退した。兄ちゃんは無人となった城を確保し、これを守備した。
秀忠は9月6日に上田城外の染谷台に陣を進め、上田城を包囲した。そこに、父ちゃんとおれが4、50騎を率いて城外に偵察に出た。父ちゃんは戦わないで城内に引き揚げると、徳川軍は父ちゃんを追って上田城に迫った。
しかし、続く兵が少ないので後軍が来るまで待機していると、そこにおれんちの伏兵が現れ激しい戦いになった。次第に押されてきた真田軍は城に退き始めた。これにつられた徳川軍は追撃をはじめ、上田城近くまで迫ったとき、伊勢崎城(虚空蔵山)から現れた伏兵が手薄になった秀忠本陣に襲い掛かった。徳川軍は混乱し、そこに向かって真田鉄砲隊が射撃をはじめた。
「バババババーン!!」
さらに、おれらが城から討って出る、秀忠軍を襲撃した。
「ゥオーーッ!!」
徳川軍はかろうじて総崩れを免れたが、大損害を受けた。後軍は救援に来ようとしていたが、神川が増水しており流れが激しく渡ることが出来ない。これは、あらかじめおれが神川の上流をせき止めておき、徳川群の状況を見て、せき止めを切ったためであった。しばらくして、徳川の後軍がやって来たので、おれは上田城に戻り、篭城策をとった。秀忠はなおも上田城を攻撃したが、為す術がなく、また、老臣達の進言もあり、上田城攻略を諦めて、関ヶ原への道を急いだ。しかし、秀忠軍が関ヶ原に着いたのは、決着がついた4日後であった。
「ヨッシャーーッ!!」
小勢で城に篭り、大軍を迎え撃ち、奇策をもって大損害を与えるというやり方がおれんちの戦略である。
この戦いでも、父ちゃんはわざと逃げて徳川勢を城近くまで誘き寄せ、一斉射撃で足並みを乱し、その隙に伏兵をもって秀忠の本陣へ奇襲をかけ、混乱する所を城から撃って出て、勝利した。
さらに、この戦いで重用だったのは、秀忠を挑発して怒らせることであった。怒らせることの目的は二つある。
一つ目は決戦場(関ヶ原)に行かせない事である。上田城を無視されては父ちゃんの謀略も発揮することが出来ない。そのため、秀忠を怒らせ、上田城を攻めさせなければならなかった。二つ目は兵を混乱させることである。秀忠が怒り陣頭に立って攻めてくれば、兵(徳川軍)は総大将の前で手柄を立てようとわれ先にと突進する。そうなっては、軍令も何もあったものではない。そこが、父ちゃんのねらい目であった 。
そしておれたちは 西軍が関ヶ原の戦いに負け敗将となる… そしておのれの「イキザマ」を探すのである・・・