いよいよ開戦…!!

1115日、家康は大和路を大坂に向かい、秀忠は河内路を大坂に向かった。すでに、大坂方は篭城策を取っており、ここに大坂冬の陣の火蓋が切って落とされた。

実際に戦闘が始まったのは19日である。緒戦は、軍勢の点でも、士気の点でもはるかに勝る東軍の勝利となった。

大坂方にとって最大の誤算は開戦後、豊臣恩顧の大名が次々に寝返ってくるものと思っていたのが、一人も豊臣方に味方してこなかったことである。しかも、戦局は大坂方不利の状態で推移していったのである。

しかし、豊臣方で唯一光る存在があった。真田丸を守るおれたち(真田幸村隊)であった。

おれの戦略!!

真田丸を守るおれが注目したのは、砦の前方にある篠山という小山だ。篠山は真田丸の矢倉から200メートルくらいの所にあり、出丸に取り込むことも考えたが、そこまで取り込むと孤立するとして、割愛した所だ!したがって、前田利常軍が必ず布陣すると思っていた。しかし、篠山には前田軍が一兵も居らず、真田丸から見て篠山の向う側に柵を作り、割合のんびりと陣を構えていた。

そこで、おれは篠山に鉄砲隊の一部を潜ませ、前田軍に鉄砲を浴びせかけた。利常は家康から守備線を突出するなと命じられており、はじめのうちはそれをひたすら遵守していた。

しかしおれたちの鉄砲攻撃は毎日行われたため前田軍には毎日死傷者が続出、次第に真田隊の攻撃に苛立たちを見せ始めた。苛立たせることがおれの作戦…!!

前田利常の家臣・奥村摂津守は、篠山を占領し、おれたちを追い払おうと手勢を率いて篠山に押し寄せた。

しかし、篠山に着いてみると、真田軍はただの一兵もいない。

おれが奥村隊の出撃を見て、鉄砲隊を退却させたからだ

右往左往する奥村隊を真田丸から真田兵が嘲笑したので、前田軍は敵味方双方から笑いものとなり、面子を潰した。これが前田軍が理性を失うきっかけになった。

翌日の夜に前田軍は篠山を攻めたが、やはり空であった。そのため、そのまま真田丸の堀際まで攻め寄せた。これを見た藤堂高虎、井伊直孝、松平忠直は前田軍の抜け駆けと思い、一斉に真田丸に攻め寄せてきた。

このように敵が攻め寄せてくることを予測していた (というよりもおれが攻め寄せてくるように仕向けた)おれは、鉄砲で反撃し、空掘りに攻め込んだ敵兵数百を討ち取り、後続部隊を釘付けにした。

多くの被害が出た東軍は、たまらず退却をはじめたが、ちょうどその頃、真田丸西後方の城壁を守る石河康勝隊で火薬桶に火縄を誤って落としたために大爆発が起き、矢倉が焼け落ちる事件があった。

東軍に内応していた南条元忠が、寝返る手はずになっていたので、これをその合図であると見た東軍は、引き返してきて、平野口に殺到した。

おれは狭い所に集まっている東軍をじっくり引き付け鉄砲で攻撃した。

狭い所にごった返す敵を討つのであるから、無駄弾はほとんどなかった。寄せ手は、南条元忠が内応したと誤認して攻撃をはじめたので、攻城兵器を使っておらず、被害が増えた。

ようやく事態に気づいた東軍の先頭は退却しようとしたが、狭い所に後方から大軍が押し寄せてくるので、退くに退けない状態になり、退こうとする者と進もうとする者が折り重なり、衝突して、東軍は大混乱に陥った。ここでも してやったり…!!

敵の混乱を見てとったおれは、門を開き真田大助(息子)、伊木七郎右衛門ら500人を出して、寺沢、松倉隊に甚大な損傷を与えてやった。

真田丸の攻防戦で、東軍は松平忠直隊480騎、前田利常隊300騎が戦死し、雑兵の戦死者は数知れないという大損害を受けた。真田丸での敗戦の報告を受けた家康は、

「またしても 真田―ッ!!」

と、機嫌が悪くなったという

力攻めではなかなか落ちないと見た家康は、調略でもって落とすことを考えた。

早速、大坂城に使者を送り、秀頼、淀君に講和を申し入れた。大坂城内では、おれたちなど浪人衆をはじめ、講和に反対の意見が多かった。

淀君、大野治長らは、幸村達浪人衆は、講和をすると禄が食えなくなるので講和に反対しているとして、意見を取り上げなかった。

淀君は、東軍の大筒(大砲)の轟音に悩まされていたことなどから、精神的にまいっており、早く講和をしたかったのである。

また、真田丸以外では豊臣方不利の戦が続いていたことから兵の士気は落ち、結局は家康との講和(話し合い、いわゆる和議のこと)に応じることになる。

その後も戦いは また今度・・・



徳川方との対決がもはや避けられないものと悟った大坂方は、抗戦を決意せざるを得なかった。

しかし、関ヶ原の合戦の敗北により、豊臣家の禄はわずかに65万石。私兵は3万前後しかいない。そこで、徳川家に対して不満を持つ諸国の浪人を呼び集める策を講じる。さらに、豊臣秀頼の名を持って、故太閤秀吉恩顧の大名らに応援を依頼した。

大坂方が頼みとした大名は、福島正則、蜂須賀家政、細川忠興、蒲生秀行、佐竹義宣、島津家久、前田利常、浅野長晟、池田利隆らであった。

しかし、大坂方の期待は見事に裏切られた。豊臣恩顧の大名で力のない秀頼に味方するものは誰一人としていなくなっていたのである。

かたや、浪人集めの方は、期待通りの効果が表れ、浪人たちが次々と大坂城に入城してきた。

そして おれは、いよいよ九度山脱出…!!

もちろん、九度山で不遇を託っていたおれ(真田幸村)の元へも大坂からの使者が訪ねてきた。

使者は豊臣方へつくことを要請し、当座の支度金として黄金200枚、銀30貫を持ってきた。

おれはこれを承諾し、109日に家族を伴って九度山を脱出し大坂へ向かった。

おれは、紀伊の大名・浅野長晟から付近の百姓達がおれの監視役を命じられていたのをよく知っていたため、

「日頃からいろいろお世話になっているので振舞いをしたい」

と、彼らを屋敷に招き、散々酒を飲ませて酔い潰し、隙を見計らって、荷物を百姓達が乗ってきた馬に載せ、武装をして脱出した。

おれの九度山脱出は見事に成功し、かねてから連絡をつけておいた故郷・信州上田から、百余人の旧臣が集まり、おれは大坂城に入った。

おれを先頭に浪人衆が入城した報告は、1014日に京都所司代・板倉勝重から駿府の家康の元に届けられた。

報告を聞いた家康は、真田が入城したと聞くと顔色を変え、その使者に向かって、

「篭城した真田は親か子か」と聞く…

戸を掴み、立ったままの姿勢であったが、その手は震え戸が

「ガタガタガターッ…」

と音を立てて鳴った

「それは、親じかー? 息子かー?」

家臣、板倉勝重にきいた

「息子の幸村に御ざります。」

ほっと、胸をなでおろしたらしい…が!!!

家康の安堵が恐怖に変わるのはもうしばらく後のことである!!

大坂城で行われた軍議で、おれは、単なる篭城策では勝ち目がないことを説明し、積極策に出ることを申し出た。

「篭城策というのは援軍が期待できる時に有効な作戦であり、大坂の陣のように援軍が期待できない戦では無効な作戦である…」

おれは、東軍の戦備が整わないうちに先制攻撃をしかけ、豊臣秀頼自ら出馬し天王寺に旗を立て、おれ、毛利勝永、後藤基次らで伏見城を落とし、宇治、瀬田に陣を構え、東軍の渡河を阻止し、木村重成らが京都所司代を屠って京都を占領し、長宗我部盛親、明石全登らは大和から奈良を攻撃し、秀頼側近衆が片桐且元の茨木城を落とし、大津に砦を築き、畿内を確保してから東軍と戦うことを提案した。

後藤基次、毛利勝永ら浪人衆もおれの提案に賛成し、畿内を制圧し、宇治、瀬田に出撃し、遠征疲れの東軍を迎え撃つことを主張した。

しかし、大野治長をはじめとする豊臣側近は、家康の行軍速度が遅いことを指摘し、家康到着までに大坂方の軍勢が大軍であるということが広まれば、大坂方に寝返る大名が出てくると主張した。

また、秀吉が築いた大坂城に絶対の信頼を寄せており、篭城策を譲らない。

いくら浪人衆が主張しても、積極策は取り入れられることはなく、東軍のスパイである小幡景憲の後押しもあり、西軍の方針は篭城策に決定した。

積極策が取り上げてもらえなかったおれは、次に大坂城の南方に弱点があることを指摘した。大坂城は北に天満川を控え、西は難波港がひらけ、東は深田といった湿地帯が展開し、城に迫るには南方の天王寺方面に抜ける丘陵地帯が最適であった。そのため、天王寺付近で激戦が展開されることは容易に予想できた。

おれはここに、砦を構えることで南方の弱点を補強しようと考え、砦を築く許可を求めた。

この砦が後に真田丸と呼ばれるようになる。真田丸は大坂城の堀を背負い、三方を空掘りで囲み、三重に策をめぐらし、矢倉などを設けた設備である。

つづく

上田合戦での勝利にもかかわらず、関ヶ原で西軍が敗北したために、父ちゃんとおれは敗将になってしまった。

敗将は死罪が普通であったが、兄ちゃんは家康の家来であったため高野山に流刑になった。

上田を出るときに父ちゃんは、

「さてもさても口惜しきことかな。内府をこそ、このようにしてやろうと希うておったものを」

と言い、涙を流した。

自分の面子を潰された秀忠はおれたち親子を生かしておくことなど耐えられない事だった。

家康にしても父ちゃんには一度ならず、二度までも痛い目にあわされている。おれたち親子はどう考えても死罪を免れない状況だった。

兄ちゃんは自分の恩賞と引き換えに父ちゃんとおれの命を助けてもらえるようにお願いした。

家康はおれたち親子には何度も苦杯を飲まされているのでなかなか首を縦に振らない。

しかし、自分の命と引き換えにと懇願する兄ちゃんを見て、さすがの家康も命だけは助けることにする。

おそらく、兄ちゃんの正室・小松姫の父・本多忠勝(徳川四天王の一人)の口添えもあったものと思われる。

兄ちゃんの命ごいにより罪一等を減じられたおれたち親子は高野山に配流と決まった。同行した家来は相当数であった。(父ちゃんには16人の家来が随行、おれには妻子も同行)

俺たちの九度山での生活は、自身に収入がないために他からの援助に頼るほかはなかった。紀伊藩からの年50石の合力、国元(上田)兄ちゃんからの仕送りで何とか生活をしていたが、金は不足しがちで、かなり貧乏だった。

生活は苦しかったが、比較的自由で、監視はされていただろうが、外出などは自由だった。

父ちゃんは来るべき日に備え、武技を練り、再起に備えてひたすら赦免される日を待ち望んでいた。上田合戦の頃からは想像がつかないくらい、しおれて爺ちゃんになっていた。

家康に赦免してもらう日を強く期待していた父ちゃんだったけど、寄る年と病気から、その望みも消え、慶長16年(1611)についに九度山真田庵で死んでしまった。

「公儀御はばかりの仁」

として正式の葬儀は行えなかった…おれは悲しかった

父ちゃんの一周忌がすむと、上田から随行した家臣の大部分は帰国し、兄ちゃんのもとにかえっていった。

多くの家臣がいなくなった九度山真田屋敷はますます淋しくなる。残った家臣は高梨内記ら23人になってしまった。

おれの嫁も九度山に同行しており、ここで長男大助、次男大八、女子3人が生んだ。

おれは常に野人老僧に交わり、或いは寺院に入って囲碁双六に日を暮らし、宿所にては夜深更に及ぶまで兵書等に目をさらし・・・暫くも武備を忘れずと、日ごろから来るべき日に備え、武技を鍛錬していた。これが大坂の陣での活躍につながるのである。

父ちゃんが死んだ慶長16年、後水尾天皇の践祚(現在の即位にあたる)に参加するために上洛していた徳川家康は、その際に豊臣秀頼に二条城で対面することを望み、実現させた。

これは、徳川家と豊臣家の立場が逆転したことを象徴する出来事であった。豊臣方は、徳川家は臣下の大名であるという認識をもっていたために、家康への不満は増し、表面上はおとなしかったが、いつ爆発するか分からない状況だった。

慶長19年、家康は、自分の目が黒いうちに豊臣家をつぶしておきたいと考え、豊臣家攻略のための準備をはじめ、戦の口実を探していた。

おりしも同年8月に京都方広寺の大仏開眼供養が実施されることになっていた。ここで、家康は梵鐘の銘文に対して難癖(なんくせ)をつけ始めた。

問題の銘文は、「国家安康」「君臣豊楽」という部分である。銘の作者は博学能文の誉れ(ほまれ)高い清韓長老である。

家康が言うには、「国家安康」は家康を二つに裂き呪い、「君臣豊楽」は豊臣を君として楽しむと読むということ…実はこの銘文批判は家康の御用役人・禅僧以心崇伝と儒者・林羅山の考えによるものであった。

もちろん、これは喧嘩を売ろうという徳川方の言いがかりである。

大仏殿造営の奉公にあった片桐且元は、家康に釈明をしようと駿府におもむいた。しかし、家康は且元に面会を許さず、本多正純に命じて大坂方の不都合だと、あざけ笑った…

動揺した且元は、ひたすら家康の内意を憶測し、大坂城を明け渡すか、秀頼または淀君を人質として江戸に送ることのいずれかを承諾しなければ、問題の解決は困難であると豊臣家に報告した。

淀君をはじめとする豊臣方が怒ったのは言うまでもない。家康と豊臣の板ばさみになった且元は、豊臣方から徳川に通じているのではないかという疑念を持たれ、命の危険を感じ、摂津茨木の居城に逃げ込んだ…なんと酷い(むごい)話だった。

家康は、且元を大坂城内で孤立させ、淀君らが且元を追放するように仕向けたのであった。且元を追放した豊臣家と徳川家の交渉は決裂し、豊臣家は挙兵するに至るのである。全ては腹黒い家康の思惑通りであった…

家康は、且元退去の当日(101日)、大坂城討伐令を布告し、江戸の将軍秀忠に通達して、自らは翌日駿府を出発した。また、本多正純らに命じて、近畿西国の諸藩に動員をかけさせた。

その命令とは、伊勢、近江、美濃、尾張、三河、遠江の諸勢は淀、瀬田に、北国勢は大津、阪本、堅田に、中国勢は池田に、西国勢は西宮、兵庫にそれぞれ布陣すること。四国勢は武軍を編成して和泉の沿海に碇泊。大和の諸城主は各自の城を堅固にして守備し、後に命令を待てというものであった。

豊臣討伐のための準備は周到に行われていたために、討伐が決まってからの家康の行動はすばやかった。

そして いよいよ 戦いの場所へおれは出ていくことになる…  (つづく)