それから息子は、48時間点滴投与されることになった。

 

大部屋に泊まるのは厳しく(私は娘を妊娠中だった)

二人部屋を選び、私はずっと付き添う事にした。

 

ガンマグロブリンの投与により

一旦持ち直したが、それでも血小板の値は低いままだ。

 

-特発性血小板減少性紫斑病とは-

血液中の血球のうち血小板だけが減少する病気で、難病に指定されている。

血小板には出血したときに止血するはたらきがあり不足すると出血しやすく(止血しにくく)なる。

血小板が極端に少ない、重篤な出血(脳や消化管から出血する)の危険性が高い場合は命に関わる。

 

それから、私はほぼ家に帰らず病院に泊まり込んだ。(流石に途中で大部屋に移動した)

息子は1歳を過ぎており、元気いっぱい。

ちょこちょこと走り回りたい時期だった。

それでも、転んでけがをして出血すれば、血が止まらなくなる可能性がある。

 

病院のキッズルームでも、息子が転ばないよう

ずっと目を凝らしていなければならなかった。

お腹も重く、自分が機敏に動けないことを呪った。(娘よ、ごめんなさい)

 

Hさん(元旦那)は、仕事帰りに毎日顔を見せてくれた。

自分も疲れているだろうに、息子と身重の私を労わってくれる。

お父さんが大好きな息子は、とても喜んでいた。

 

勿論、私の母や姑もしょっちゅう来てくれていた。

 

ただし、姑は私が泣いているのを見て

「お母さんが泣いていたら、子供が不安になるじゃないの」と

言ってきた。(息子が寝ているときだけ泣いていたのに)

 

話はそれるが、この姑のことは、大嫌いだった。

当時の私のストレッサーは、このBBAだった事は間違いない。

この姑は、離婚でもめた時も、うざい行動にでてきたムキー

 

毎日まいにち、息子の血小板が増えますように・・・と

祈り続けた。

 

それから2か月ほどして、やっと退院できる事になった。

それでも、値は正常とは言えず、息子が怪我をしないように

見張っていなければいけない。

 

私はすでに仕事を辞めていて、保育園も退園手続きをしていた。

 

家に戻ってくると、けがをしないよう

家中を柔らかいもので埋め尽くす。

 

当面は、定期的に通院しなければならなかった。

それでも、自宅に戻れた事がとても嬉しかった。

 

そして、娘が産まれた。

 

家族が4人になった。

 

息子が産まれたときに

「やっと、自分になれた」と感じた事を思い出す。

 

娘が産まれて思った。

「やっと、揃った」

と。

 

つづく