母の事について。

 

正直、まだ記事にできる気持ちではないので、書ける範囲で。

 

過去の記事でお伝えしたとおり、母は2か月前に天国へと旅立った。

 

 

私の家庭は母子家庭だ。私には姉がいる。

母は、女手一つで、私たち姉妹を育ててくれた。

 

小さいときなので、父親の事はうろ覚えだが

記憶がほんの少しあるが、良くない思い出だ

母は、姉と私を連れて、父親から逃げるように実家に戻ってきたと

叔母から聞いたことがある。

 

私が家を出ていくまでは、祖父、祖母、母、姉と5人で暮らしていた。

 

母は、働き者だった。とても良く働いた。

もうそんなに動かないで、休んで欲しいといつも思っていた。

母子家庭であることで、私たちに苦労をかけたくなかったのだと思う。

そして、心が広く、誰にでも優しく、人の悪口を言わない素晴らしい人だった。

友人から「piyoちゃんのお母さんて神様みたい」と言われたこともある。

だめだ・・すでに胸が苦しくなってきた

 

私は、ちょっぴり(?)やんちゃな少女であった。

気性が荒く、喧嘩っぱやくてすぐに手がでる。

中学に入るとすぐにオキシで脱色し先輩数十人から呼び出しをくらった。

廊下で煙草を吸って停学になったり、喧嘩を売ってきた生意気な後輩を

校門の前でぶっとばす。などなど・・・

 

「ビーバップ」に始まり「特攻の拓」「今日から俺は」が流行っていた時代だ。

現在でこんな奴がいたら、ヤバい奴かもしれないが

当時は、そこらじゅうにこの程度の人間がいたと認識している。

 

多少の問題はあれこそ、ここで踏みとどまれたのは

母という存在がいたからだ。

 

私は母から沢山の愛情を注がれて、育ってきた。

何でも話せたし、どんな時も私を受け止めてくれた。

 

超絶ネガティブ人間な私。

何度も道に迷ってきたが、その都度、超絶ポジティブ人間な母が

ダークサイドに陥らないよう適切なアドバイスをくれた。

 

母という存在が、私の心理的安全性を常に確保してくれていたお陰で

気性は荒くとも、嘘をつかず真っすぐに生きてこれたのだと思う。

 

うちの子供たちは、心優しくとても良い子だ。

とても私の子供とは思えない。

こんなに良い子に育ったのは、母のお陰だと思っている。

私たち姉妹にかけた愛情と同じくらいか、それ以上に孫たちへ深い愛を注いでくれた。

 

幼い頃から母の苦労を見ていた私は、もう何十年も前から

母の面倒は私が見るんだ。そう決めていた。

 

母は、8年ほど前から、とある難病を患っていた。

数年後には、私がお風呂にいれるようになった。

マラソン大会に参加する日など特別な場合を除き、休日はほぼ実家に行った。

母と散歩に行く。病院の担当も勿論私だ。

段々、普通に話せる時間が少なくなってきていた。それでも、母と話す時間は

私が誰よりも、私でいられる時間だった。

 

最期の事は、今は辛すぎて文章にできないので、簡潔に。

 

ここ2、3年。母は何度か命の危険にさらされた。

何とか命を繋いできたものの、昨年「要介護5」になった。

そして、1月に入院した。

もう長くないと聞き私は看取りに入った。

 

辛くて心がもぎとられそうだった。生活の全ての音が消えたようだった。

私は、母という存在がこの世からいなくなることに耐えられる自身がなかった。

それでも、母の命の灯が少しずつ小さくなっていく。

悲しい。寂しい。辛い。苦しい。

嫌だ、逝かないでくれ。

 

もっと話したい。私の話を聞いて。お願い。

私が悩めるときに、言葉をちょうだい。

 

大好きだよ。大好きだよ。

とても感謝してる。ありがとう。幸せでした。

あなたの子供に産まれて本当に幸せだった。

家族を大切にするから。心配しないで。

 

母は、逝ってしまった。

 

後日。母の遺品のノートからは

「家族みんな、仲良く。明るく暮らしてね!」と書いてあった。

 

おかん。ごめんね。

あなたが最期にたった一つ、私に願ったこと。

守れそうにありません。

親不孝でごめんなさい。