□□■平河総合戦略研究所メルマガ■□□☆☆甦れ美しい日本☆☆

(2007年11月25日 NO.151号)




◎廸薫の「タカラジェンヌが日本舞踊家になったわけ」

 其の六「日本舞踊は洒落の世界・・・のお話」









 何かと気忙しくなって参りました年の瀬ではございますが、皆様如何お過ごしですか?私は先日、今年最後の講演会と稽古を済ませ、後は忘年会をこなすのみの年末となりました。今年は何故か事のほか忘年会のお誘いが多く、生まれて始めて乾杯の発声をするという経験も致しました。



 さて、今回のお話は日本舞踊の歌詞に焦点を合わせてみたいと思います。

この間ある方が稽古場に私達の稽古を見学に来て、「日本舞踊って、歌詞の通りに踊ってるんですね。始めて知りました。」とおっしゃっていましたが、現実には歌詞の意味が理解出来なかったり聞き取れなかったりして、目に映る踊りの動きだけに気を取られるのが現状かも知れません。本来動きだけでも何を意味しているのか、どんな踊りなのかが伝わるべきなのですけどね・・・・。ともあれ歌詞の意味を分かって踊りを見ると、この面白さが何倍にもなる事間違い無し。

 日本舞踊の歌詞は「万葉集」や「古今和歌集」等から引用されていたり、江戸時代に流行っていた流行歌の歌詞や郷土芸能の歌詞を取り入れたりと構成は様々ですが、特徴的な所は歌詞が洒落や掛けことばで成り立っているというところです。

 例えば長唄「藤娘」の歌詞を例にとるとこんな具合です・・・・。

その前に「藤娘」そのものの説明を少しさせて頂きますと、舞台は琵琶湖に近い近江国(現在の滋賀県)の大津。大津絵の藤娘が可憐な娘姿で現れるわけですが、この大津絵とは、江戸時代の初期に近江(滋賀県)の大谷・追分辺りで描き売られ流行した民画で、仏像・民間信仰・伝説などを描いた絵のことです。元禄時代には京都周辺で裕福な娘が豪華に着飾り、人目に立つのを競い合い、恋狂いの物見遊山に近郊の寺社へ出かける風習があったそうです。そんな恋に狂った享楽的な娘の外出姿の風俗を描写したものが一番人気の「藤娘」の絵で、それをモデルにした踊りがこの「藤娘」なのです。というわけでその歌詞の一部を抜粋致しますと・・・・。



「男心の憎いのは 外の女子に神かけて 粟津と三井の予言も 堅い誓いの石山に 身は空蝉の唐崎や 待つ夜を他所に比良の雪 解けて逢瀬のあた妬ましい ようもの瀬田にわしゃ乗せられて 文も堅田の片便り 心矢橋のかこち言」



 これは「藤娘」の主人公の娘の心情を告白する「くどき」と呼ばれている部分ですが、よく読むとこの部分には近江八景(歌川広重の作)の地名が読み込まれている事に気が付かれたでしょうか。



1. 粟津の晴嵐(あわづのせいらん)=神に誓い他の女の人と逢わず

2. 三井の晩鐘(みいのばんしょう)=見ないという約束の言葉(予言=鐘ごと)

3. 石山の秋月(いしやまのしゅうげつ)=石のように堅い誓い

4. 唐崎の夜雨(からさきのやう)=まるで蝉の抜け殻のようにからっぽの身

5. 比良の暮雪(ひらのぼせつ)=夜になり待っていても他所へ行き(雪)

6. 瀬田の夕照(せたのせきしょう)=よくも私をいい気にさせて、乗せた(せた=舌=旨いこと)

7. 堅田の落雁(かたたのらくがん)手紙を出しても一方通行の片便り(雁=手紙)

8. 矢橋の帰帆(やばせのきはん)=私の心だけが矢のように逸ると愚痴る



 

 もっと分かりやすく現代語訳に直すと、「ほんとに憎らしい。他の女性には見向きもしないって神様に誓って固く約束したのに、夜になっても他所の女の所に行ったきり戻らない貴方を待つ私はまるで蝉の抜け殻のよう。二人の雪を溶かすような熱い逢瀬を思うと妬ましくてしょうがない。騙された私も私だけどよくもいい気にさせてくれたわね。便りを出しても返事はないし、その気にさせるだけさせといて、今更押さえられないこの思いをどうしてくれるの。」とこんな具合です。現代語訳に直すとかなり露骨な感じになってしまいますが、昔の人はこんなドロドロした嫉妬さえも、この「藤娘」が大津絵から題材に採った物で、滋賀県が舞台で有るという事を上手く取り入れ、有名な絵の題名に擬えてさらりと娘の胸のうちを表現したのです。



 また、歌詞の冒頭の部分に「~愛しいと書いて藤の花・・・」という部分があるのですがこれには二つの意味が有り、1つは読んで字の如く藤の花が愛しいという意味。もう1つは「い十(とう)し」つまり、「い」を縦に10回書いてその中央に長い「し」を書くと藤の花になるという絵文字の意味なのです。このように日本舞踊の歌詞は、まるで漆を何回も塗り重ね美しい光沢を醸し出すのと同じように、1つの歌詞に何重にも意味が込められているのです。

 実は歌詞だけでなく、大道具等舞台装置もそれぞれの演目の物語を象徴する様な設えになっていることが多く、この「藤娘」の場合にも緞帳が上がると正面に、大きな松の太い幹に絡んだ藤の花が垂れ下がっている大道具が見えるのですが、これは男(松)にしどけなく絡んだ女(藤)というこのストーリーを象徴的に捉えた物に他なりません。 



 江戸時代に発達した歌舞伎の舞踊の分野から、明治時代になって独立した日本舞踊ですが、そのせいか江戸時代の洒落の文化に大きく影響を受けていることは否めません。日本舞踊の動きだけに気を取られずに、舞台上の総ての事柄に関連性を持たせて見ると、思わぬ発見があるものです。

総てに理由があり総てに必然性がある。それが日本文化なのです。





 幕開きの長唄「高砂丹前」の実演が終わると、次は日本舞踊の基礎知識のレクチャーでした。ワークショップの時は国内外に限らず、先ず始めに必ず日本舞踊の起源とそれからの経緯を話し、それから日本舞踊の独特の動きやテクニックに進んでいくやり方をしています。

 今回は10歳代から70歳代と観客の年齢層も広く、おまけに強いライトで客席が見えず、最初観客の反応がわからないのには参りました。絶対に話をする事を決めてはいますが、其の時々の観客の雰囲気を感じ取りながら、原稿無しで話しをするので顔が見えないのは命取り。途中で照明さんがライトを落としてくれたので客席の笑顔が見え、やっといつものペースを取り戻す事が出来ました。





 実演や映像、画像を交えながらレクチャーを進めていくやり方は、今まで日本舞踊を見たことが無い人にもわかり易く、日本舞踊を知っている人でもこれまで疑問を持っていたことが殆ど明快になり、「納得!」という感じで頷くのを見ると、心の中で「よしっ!!次っ!」とまた気合が入るというわけです。

 でも何度やっていても、会場や企画によっていつも同じように行くとは限りません。其の時々の環境を最大限に有効に使うためには、どんな場合にも柔軟に対応する事のできる、矢張りここでも心の余裕が大事だと、今更ながら思いました。 
□□■平河総合戦略研究所メルマガ■□□☆☆甦れ美しい日本☆☆

(2007年11月25日 NO.150号)




◎廸薫の「タカラジェンヌが日本舞踊家になったわけ」

其の五 「何ぼでも迷惑かけていいんやで・・・のお話」







 今年も後僅かとなりました。

先日、千葉県印西市でのワークショップも無事終わり、あとは連日の忘年会が待っている年の瀬でございます。



 さて、年末恒例「今年の漢字」が12日、京都清水寺で発表されましたが、何と今年の世相を表す漢字は「偽」・・・。はがきやインターネットで寄せられた9万816通のうち、約18%の1万6550通が「偽」に集中したそうです。

多くの方々が、今年世の中で起きた様々な「嘘」や「偽り」に失望や怒りを感じた年であったと言わざるを得ませんが、まるでパンドラーの箱を開けたが如くこれでもかこれでもかと、うんざりするほど、続けさまに「偽」溢れ出し、留めの字が「偽」では本当に救いが無い。刀の切っ先を突きつけられたようで、何も来年に期待が持てない気が致します。でも其れほどまでに日本は病んでいるということか・・・。「どげんかせんといかん。」は宮崎だけに限定されたことでは有りませんね。

しかし、この「偽」という文字、よく見ると「人の為」と書くのはどうしたことか?「偽装」は「人の為に装う」ですか????嘘は「口に虚しい」で納得ですが、偽りは人の為なのでしょうか?「必要悪」「嘘も方便」とか、そういった類なのでしょうか?



 

 話は変わりますが・・・・。今NHK朝の連続ドラマで「ちりとてちん」という若い女性の落語家内弟子修行の話しが放映されています。本来あまり連続ドラマというものを見ない私なのですが、今回は「ちりとてちん」「落語」「内弟子」という要素が興味をそそり何となく毎回見ているのです。

今日の話の中で、落語の師匠が一門のドタバタな落語勉強会で一番弟子の落語を聞きながら、純粋だけがとりえのそそっかしくて出来の悪いその女弟子に言った次の言葉が強く心に残りました。

「頼りない弟や妹の為に一生懸命なんや。面白いもんやなぁ。未熟なもんのお陰で成長するやつもおる。何ぼでも迷惑かけていいんやで、あんたは末っ子なんやから。」・・・・。それを聞いた女弟子は、数々の失敗や、不器用で思った様に上手く行かない自分に対する劣等感やジレンマでカチカチになっていた心が温められ、新たなエネルギーが生まれてくるというシーンでした。この優しさ、厳しい中にも感じられる人としての暖かさ。今の日本に信じられないような様々な問題が次々起こってくるのは、こういった一番大切な思いやりの人間関係が今の社会にも家庭にも欠けているからでは無いの?と思いました。師匠に限らず、上司、親、政治家等、人を指導していく立場にいる人間の、人としての心の余裕と品格。これは必要不可欠でしょう。







 昔から伝統芸能では内弟子を取り、師匠と寝食を共にする所から芸事を学ぶことが多かったようです。今は内弟子制度を取る師匠は減ってきましたが、現在、通いの内弟子でも稽古場で最初の仕事はお茶入れと掃除です。宝塚音楽学校の一年目(予科生)の時も9時から始まる授業の前に毎朝一時間以上掛けてやることは、校内中の掃除でした。たかが「お茶入れと掃除」ですが、されどその「お茶入れと掃除」の中から学ぶことは多く、この事からも芸事は生活の中から様々な事を学び、其の事柄に対する精神的な在り方が、自分の芸に残酷なほど反映されるのも事実です。

「親子は一世、夫婦は二世、師弟は三世」というそうです。それだけ、「師弟」関係は因縁が深く特別の関係である事を言い表している言葉ですが、こういった血縁関係も何も無い赤の他人を肉親以上に結び付けてしまう芸事の考え方の奥深さを、今の世の中に反映させることは出来ないでしょうか?



 「偽」は良くないこと「嘘」も「悪」人として許されないことと私共は教わってきました。でも昨今の重箱の隅を突く様な報道のあり方はどうでしょう。人間良い時ばかりじゃない。生きている年数が長ければ長いほど、人から触れられてたくない事柄の、一つや二つは有る筈です。「人の為」と書く「偽」、「人の為に装う=偽装」「必要悪」「嘘も方便」等々、昔の人々の生活の中から出てきた言葉の知恵は、現代の人間の感性では理解できない深いところにあるのかも知れません。