鈴木大拙さんと岡村美穂子さん | Talking with Angels 天使像と石棺仏と古典文献: 写真家、作家 岩谷薫

鈴木大拙さんと岡村美穂子さん

 ゴマちゃんで放置したくないので更新。(でも、釣りと禅は近いのよ。笑)
 それにしてもアメーバの検索能力はホントダメだね…いつものことだけど。以前書いた「シンデレラと葉限」の話、検索サイトで出て来やしねえ…、この件に関しては間違っている人がとても多いので、少なくとも2ページまでには載ってほしいところですがアメーバーじゃ、どだい無理ですねぇ…むかしから知ってる…

岡本美穂子 本題、先週たまたまお昼に見たNHKこころの時代『大拙先生とわたし』はとても良かった。調べると全文があるみたいなので、御興味ある人はどうぞ
 一度見た私に、これをもう一度読み返す気合いはないのですが…笑。

 『こころの時代』は興味があればTVの前でノートも付ける私ですが、鈴木大拙は、このブログでも何度も語っているように、過去に多くの著書を読んでおり、食事時ということもあり「今更、ノートを付けることもなかろう…」と油断していました。笑

 内容はノートを付ける価値ありましたよ。
 岡村美穂子さんは、晩年の鈴木大拙の秘書や身の回りの世話をした人。
 禅については元々知らなかった岡村美穂子さんだからこそ、かえって解りにくい禅を解りやすく語っていただく印象がありました。 
 これは、『新釈 中国古典怪談』で紹介したオイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』と同じで、禅を知らない外国人だからこそ、解りやすく禅が語れるのだと思ったものです。

 禅の教えは、
 教外別伝
 不立文字
 直指人心
 見性成仏

 この4つに帰結するわけですが、岡村さんは大拙から、オイゲンは阿波研造から、この4つを体得したのが伝わります。決して書籍からではありません。

 知らないからこそ、純粋な問いが発せるわけで、御本人よりも第三者の語りや問いも大切なんだなぁと実感しました。

 なので、岡村さんの文章に興味が湧き、大拙さんが亡くなった頃のエッセイを見付けました。「”死人”大拙」というものです。それによると、
 大拙さんは、禅の大家らしく、95才で跡に何も残さず去った印象があったと言います。
 あまりにもサッパリしているので、岡村さんは、彼を忍ぶ何かがないかと、大拙の書斎を探します。 しかし何一つ、しっくりくるもの無い…
 たまりかねて、外に出てみると、松の枝が風に吹かれている。
 「ハハァ、これだな、先生は……」と合点が入ったといいます。
 以後、道端の丸太にさえなつかしさを感じると。
 
 これは、『コート・ダジュールの天使達』でも引用した、マイスター・エックハルトの、以下の言葉に似た境地ですね。

● 何者も神よりわたしに近いものがないのは、わたしが生きて
いると同じく確かなことである。神はわたしがわたしの自己に
近いよりももっとわたしに近い。わたしの生命は神がわたしの
近くにいる、わたしの中に現存していることに依存している。
そのように神は一つの石の中に、一本の丸太の中にもいられる
のだが、ただ彼らはそれを知らないだけだ。

また、『トマスによる福音書』には

●木を切ってごらんなさい。私はそこにいます。石を持ち上げてみなさい。私はそこにいます

 と言った、キリストの境地と同じです。(おそらくエックハルトは、トマスによる福音書から語ったと思われますが)
 つまり、『コート・ダジュールの天使達』で語った世界共通の華厳の世界なのです。

 学者御本人の本よりは、第三者の目を通してでこそ、解る真実というものもあるもので、愛弟子である岡村美穂子さんの本も読んでみようと思いました。
 もうすっかり不勉強なため、『新釈 中国古典怪談』でも解説した十牛図の忘牛存人か人牛倶忘の忘却の彼方ですが。笑

忘牛存人
人牛倶忘

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