カンヌで亡くなったクラウス・マン
カンヌ映画祭の報道があったので、頭の中はクラウス・マンでいっぱいに。
クラウス・マンはノーベル文学賞作家、トーマス・マンの息子で彼もまた作家です。
(この記事は、もっと後の方に書こうと思ってましたが、カンヌ映画祭をきっかに、クラウス・マンが気になってしまいました。笑)
トーマス・マンは、三島由紀夫さんが、とても敬愛していた作家なので高校から大学時代にかけてよく読んでいました。『魔の山』や『トニオ・クレーゲル』(登場人物も覚えている、ハンスとインゲ。笑)が私には印象的でした。
三島由紀夫さんの自決の仕方と、『魔の山』の自殺のシーンが似ていると、昔指摘もしました。(物語中、自殺した人の名前も今も覚えている。ペーペルコルン)
また、マン家には自殺者が多いことも書きました。
私が、カンヌのグラン・ジャ墓地に、クラウス・マンが眠っていると知ったのは、取材後の『コート・ダジュールの天使達』の執筆中です。
彼について少々調べてみると、とてもよく書いてらっしゃるブログを当時より発見。ブックマークしていました。約10年も前のことね。笑
一部引用。
『自殺に心ひかれている人間にはどこか明るさがあります。死の恐怖を感じない人間の独特の明るさ。半分死者の世界に足を踏み入れているので、地上の重力はあまり彼を束縛しません。暗い軽さというようなものがつきまといます。』
私は、保育園や幼稚園の頃から自殺を考えていたので、この気持ちわかります。「地上の重力はあまり彼を束縛しません」という表現はなんかきれいだね。笑 あっ、でも勿論私は、私の大嫌いな太宰的な人間ではないですが。
こんな事書いているくらいだから大丈夫です。
開高さんも言っている「自殺を考えることと、それを実行するのは雲泥の差だ」という意味の事を。
その上でトーマス・マンの言葉
『なんとか(クラウスを)地上にひきとめてやりたかったのに、、』
(親を悲しませちゃいかんですね…)
リンク先のブログで、作家、川口松太郎の「二度と人間に生まれたくない」という言葉に少々、驚いておられるようですが、仏教では、生まれ変わりや輪廻からの解脱が目標ですので、さして驚くような事はない気が、私にはします。
私も、二度と生まれ変わりたくない。またそれを目標に…笑
でも、確かに、その境地になると、人間の情や業には興味が無くなるので、小説なんて書けないので…その点では驚きか。
べつに、クラウス・マンを敬愛している訳ではない、『転回点ーマン家の人々』も全然読みたくない。リンク先の記事でもう充分読んだ気分だ。
おそらく、マン家の自殺は思考パターンに遺伝的なものがあるような気がします。 あるいはもっと根深い家系的なものも。
あんな太陽と海の楽園のようなカンヌで、自殺なんてもったいない…。
確か、カミユは殺人の理由を「太陽のせい」と言ってましたよね。なんかわからん。というか、わかりたくない。なんだか西洋の病気じゃないかしらとさえ思う。東洋の方がもっと生と死への認識は深淵なのは間違いないでしょう…。
写真は、カンヌ、グラン・ジャ墓地で嘆く人の像。
造形的には面白いと思います。この感情むき出しの意匠は明らかに、イタリア墓地文化の影響です。特に、近所のジェノバ、スタリエーノ墓地の影響で、私は、ここグラン・ジャ墓地で、スタリエーノ墓地の拙いコピーものの意匠の天使像を何点か目にしたことがあります。
『コート・ダジュールの天使達』では、こんなに露骨に嘆いている天使や人物像は非常に少ないのですが、なにかイタリア的で魅かれて撮りました。以下の言葉を添えて。
『それは生まれる決心、というより── 一種の精神的な意味における
──生まれ変わる決心に似ています。おそらくわたしたちの何人かは、
魂の目的地に通じる静謐な小川や本通りをみつけるまえに、暗くて
曲がりくねった道を歩まなければならないのでしょう。』
これは、確か、心理療法の被験者の言葉と記憶していますが、「暗くて曲がりくねった道」で挫折してしまう人もいるので、難しいものです。私も7年間は随分「暗くて曲がりくねった道」でした。
ちなみに、この像が左手に持っているのは、ナツメヤシの葉で、勝利や、死に対する勝利を暗示しているものです。勝利なんて大袈裟なことを言わずに、その先の光りを信じて。
追記:自殺すると森の民から大爆笑されるよ。笑
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クラウス・マンはノーベル文学賞作家、トーマス・マンの息子で彼もまた作家です。
(この記事は、もっと後の方に書こうと思ってましたが、カンヌ映画祭をきっかに、クラウス・マンが気になってしまいました。笑)
トーマス・マンは、三島由紀夫さんが、とても敬愛していた作家なので高校から大学時代にかけてよく読んでいました。『魔の山』や『トニオ・クレーゲル』(登場人物も覚えている、ハンスとインゲ。笑)が私には印象的でした。
三島由紀夫さんの自決の仕方と、『魔の山』の自殺のシーンが似ていると、昔指摘もしました。(物語中、自殺した人の名前も今も覚えている。ペーペルコルン)
また、マン家には自殺者が多いことも書きました。
私が、カンヌのグラン・ジャ墓地に、クラウス・マンが眠っていると知ったのは、取材後の『コート・ダジュールの天使達』の執筆中です。
彼について少々調べてみると、とてもよく書いてらっしゃるブログを当時より発見。ブックマークしていました。約10年も前のことね。笑
一部引用。
『自殺に心ひかれている人間にはどこか明るさがあります。死の恐怖を感じない人間の独特の明るさ。半分死者の世界に足を踏み入れているので、地上の重力はあまり彼を束縛しません。暗い軽さというようなものがつきまといます。』
私は、保育園や幼稚園の頃から自殺を考えていたので、この気持ちわかります。「地上の重力はあまり彼を束縛しません」という表現はなんかきれいだね。笑 あっ、でも勿論私は、私の大嫌いな太宰的な人間ではないですが。
こんな事書いているくらいだから大丈夫です。
開高さんも言っている「自殺を考えることと、それを実行するのは雲泥の差だ」という意味の事を。
その上でトーマス・マンの言葉
『なんとか(クラウスを)地上にひきとめてやりたかったのに、、』
(親を悲しませちゃいかんですね…)
リンク先のブログで、作家、川口松太郎の「二度と人間に生まれたくない」という言葉に少々、驚いておられるようですが、仏教では、生まれ変わりや輪廻からの解脱が目標ですので、さして驚くような事はない気が、私にはします。
私も、二度と生まれ変わりたくない。またそれを目標に…笑
でも、確かに、その境地になると、人間の情や業には興味が無くなるので、小説なんて書けないので…その点では驚きか。
べつに、クラウス・マンを敬愛している訳ではない、『転回点ーマン家の人々』も全然読みたくない。リンク先の記事でもう充分読んだ気分だ。
おそらく、マン家の自殺は思考パターンに遺伝的なものがあるような気がします。 あるいはもっと根深い家系的なものも。
あんな太陽と海の楽園のようなカンヌで、自殺なんてもったいない…。
確か、カミユは殺人の理由を「太陽のせい」と言ってましたよね。なんかわからん。というか、わかりたくない。なんだか西洋の病気じゃないかしらとさえ思う。東洋の方がもっと生と死への認識は深淵なのは間違いないでしょう…。
写真は、カンヌ、グラン・ジャ墓地で嘆く人の像。
造形的には面白いと思います。この感情むき出しの意匠は明らかに、イタリア墓地文化の影響です。特に、近所のジェノバ、スタリエーノ墓地の影響で、私は、ここグラン・ジャ墓地で、スタリエーノ墓地の拙いコピーものの意匠の天使像を何点か目にしたことがあります。
『コート・ダジュールの天使達』では、こんなに露骨に嘆いている天使や人物像は非常に少ないのですが、なにかイタリア的で魅かれて撮りました。以下の言葉を添えて。
『それは生まれる決心、というより── 一種の精神的な意味における
──生まれ変わる決心に似ています。おそらくわたしたちの何人かは、
魂の目的地に通じる静謐な小川や本通りをみつけるまえに、暗くて
曲がりくねった道を歩まなければならないのでしょう。』
これは、確か、心理療法の被験者の言葉と記憶していますが、「暗くて曲がりくねった道」で挫折してしまう人もいるので、難しいものです。私も7年間は随分「暗くて曲がりくねった道」でした。
ちなみに、この像が左手に持っているのは、ナツメヤシの葉で、勝利や、死に対する勝利を暗示しているものです。勝利なんて大袈裟なことを言わずに、その先の光りを信じて。
追記:自殺すると森の民から大爆笑されるよ。笑
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