新釈 中国古典怪談30 革命哲学としての陽明学 三島由紀夫 | Talking with Angels 天使像と石棺仏と古典文献: 写真家、作家 岩谷薫

新釈 中国古典怪談30 革命哲学としての陽明学 三島由紀夫

30 「知って行動せざるは、知らざると同じ」という陽明学の思いで本日は長文。笑。
 お暇な時に読んでね。

 先日、お友達とお話しているときに、三島由紀夫さんの『革命哲学としての陽明学』を思い出しました。高校生の頃、夢中で読んだ記憶があります。
 なので、超久々に読み返してみました。やはりとても面白い。
 うん十年も経って読み返す読書も、その間に自分の知識も増えて、うん十年後の自分が、高校生の頃の自分と対話するわけですから。
 当時は理解できなかった意味も、今となっては解ることが非常に多いことに驚くことがあります。


陽明学 この本に納められている『革命哲学としての陽明学』。
 装丁、超ダサイね!爆! 私の本もダサイが!爆!(内容、内容…)

 これはほとんど三島由紀夫さんの遺書であり、あの行動の謎を解く大きな鍵の一つでもあります。
 陽明学の創始者、明時代の王陽明は、書家の王羲之の子孫だったとはびっくり!

 三島さんはこの中で、陽明学を学んだ大塩平八郎と西郷隆盛、そして勿論王陽明ことを書いています。
 45歳で爆死した大塩平八郎と、45歳で割腹自決した三島さんは、明らかに生前から大塩平八郎を意識していたことが解ります。
 (ちょっと脱線ですが、今でこそ大塩平八郎は義人のイメージですが、私の母の世代は「御上に楯突いた逆賊!」ということで、歴史の授業で教わったそうです!笑  歴史解釈とは、そういうものですね。きっと、三島さんも「逆賊」として学校では教わっていたかも?  また、確か澁澤龍彦さんは、三島さんの弔辞の中で「45歳の爆発」という表現を使っていた記憶が… 当然ですが澁澤さんはよく解ってます。笑)

 いつも疑問に思うことは、本来ニヒリストの三島さんが、どうして、ああいう行動を起こしたかということ。
 ニヒリズム(虚無主義、全ては無だという考え、「色即是空」)に徹するのであれば、行動すらしなくていいはずなんです。

 でも、本書にその答えは書いてあります。
 私は、気付きましたが、三島さんの行動は『新釈 中国古典怪談』「弓の名人」の項P231で解説した、「入鄽垂手」(にってんすいしゅ)だったということです!
(以下、『新釈 中国古典怪談』を読んでないと解りづらい説明かもしれませんが…)

 三島さんは指摘しています。

『いったん悟達に達してまた現世へ戻ってきて衆生済度の行動に出なければならぬと教える大乗仏教の教えには、この仏教の空観と陽明学の太虚をつなぐものがおぼろげに暗示されている。』と。  ここ重要。

 陽明学の太虚を、三島さんは「無」と訳してもよく、あるいは能動的ニヒリズムの根源という言い方もしています。
 大塩平八郎の説明では太虚は

「万物創造の源であり、また善と悪とを良知によって弁別し得る最後のものであり、ここに至って人々の行動は生死を超越した正義そのものに帰結する」

 とかたり、さらに、壷の比喩で解説しています。

『壷を人間の肉体とすれば、壷の中の空虚、すなわち肉体に包まれた思想がもし良知に至って真の太虚に達しているならば、その壷すなわち肉体が壊されようと、瞬間にして永遠に遍在する太虚に帰することができる』 と。

 
 三島由紀夫さんは、『新釈 中国古典怪談』で解説した、「人牛倶忘」(にんぎゅうぐぼう)の虚無を経て、「返本還源」(へんぽんげんげん)という最後の『豊饒の海』という小説を書いたともいえるのです。

 注目すべきは、『豊饒の海』の『天人五衰』の最後の部分です。

───────────────────────────
 芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏山へみちびく枝折戸(しおりど)も見える。夏というのに紅葉している楓もあって、青葉のなかに炎を点じている。庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子(なでしこ)がつつましい。左方の一角に古い車井戸が見え、又、見るからに日に熱して、腰かければ肌を灼(や)きそうな青緑の陶(すえ)のとうが、芝生の中程に据えられている。そして、裏山の頂きの青空には、夏雲がまばゆい肩を聳(そび)やかしている。  
 これと云って奇功のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠(じゅず)を繰るような蝉(せみ)の声がここを領している。  そのほかには何一つ音とてなく、寂莫(じゃくまく)を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。  
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……
────────────────────────────

 このシーンは、私が解説した「返本還源」(へんぽんげんげん)の草木の絵と、奇しくも、非常にオーバーラップするところがステキです!
 思い出してください、いつか紹介した三島さんの動画。1分頃から始まる、彼の戦後の風景。「返本還源」(へんぽんげんげん)を彼は体感していたのです。

「戦争に負けたらこの世界は崩壊するはずであるのに、まだ周りの木々が濃い夏の光を浴びている。それが実に不思議でならなかった」

 そして市ヶ谷で「入鄽垂手」(にってんすいしゅ)ってとこでしょうか!笑。
 
 ニヒリストの三島さんにとって、永遠とか正義とか義とか、良知など相対的なもので本来、興味なんてないはずなんです。それを一度、「人牛倶忘」(にんぎゅうぐぼう)で否定しておきながら、あえて「返本還源」(へんぽんげんげん)で再肯定する手法ですね。
 この再肯定の手法は禅の本質的プロセスでもあり、鈴木大拙もこれを指摘していました。「色即是空 空即是色」なのです。
 三島由紀夫さんの興味深い点は、私は、こうしたところなのです。

 三島さんは語ります。
「朱子学はこの良知に至るための往きの道であり、陽明学は良知が到達した果ての太虚、言い替えればニヒリズムをテコにして、そこから能動性のジャンプを使ってしゃにむに行動へ帰ってくるための帰り道である」と。

 この『言い替えればニヒリズムをテコにして』が本質ですね。



 王陽明は、机上の朱子学にどうも納得がいかず、「五溺(ごでき)」という五つの迷い事に浸ったそうです。笑

1. 「任侠に溺れる」 弱きを助け、強きを挫く。三島さんも『からっ風野郎』って妙な任侠映画に出てたよね。歌も演技もあまり上手くなかった記憶が。笑。
2. 「武道に溺れる」 三島さんも剣道好きでしたよね。
3.「詩や文章に溺れる」 本業。笑
4.「透視術や千里眼に溺れる」 オカルト、神秘主義ですね。本来、文化には、これがないといけません。三島さんの『英霊の声』はシャーマンとして、いい線いってる。
5.「仏教に溺れる」 三島さんは仏教にも詳しい。

 など、似てるところがいいですね。

 王陽明は宦官との衝突で島流しにもあったらしい。島流しは西郷隆盛とも似ています。 『新釈 中国古典怪談』にも書いたけど、実直な心は時として低い心に、足をすくわれやすい……みなさん苦労しています…
 この経験で王陽明は
「道理を外側の事物に向かって求めるのは誤りであり、聖人の道は自分の中にあるのだ」
 と気付いたそうです。『道理を外側の事物に向かって求めるのは誤りであり』は
『新釈 中国古典怪談』でも書いたことが。

 こうした数々の経験から、有名な
「山中の賊を敗るは易く、心中の賊を敗るは難し」

という言葉が生まれたそうな。単なる格言ではなく、彼は禅と同じく、個人の「体験」を重要視しているところも、好感がもてます。


 後半は、私が感銘を受けた、陽明学の名言
 西郷ドンは

『故人の事跡を見、とても企て及ばぬと云う様なる心ならば、戦いに臨みて逃るより猶ほ卑怯なり』
 これ、超カッチョイイ♡♡♡♡笑

『事に当たり、思慮の乏しきを憂ふることなかれ』
『猶予狐疑(こぎ)は第一毒病にて、害をなすこと甚だ多し』
『猶予は義心の不足より発するものなり』

 ちなみに、西郷ドンは、大塩平八郎の著書『洗心洞箚記』(せんしんどうさつき)が愛読書。


 吉田松陰は
『死生の悟りが開けぬと云ふは、余りに至愚故、詳に云はん、十七八の死が惜しければ、三十の死も惜しし、八九十百になりても、是れで足れりと云ふことなし、草虫水虫の如く半年の命のものあり、是を以て短しとせず、松柏の如く数百年の命のものあり、是を以て長しとせず』


 やはり十代の心をワクワクさせる言葉に溢れていますね。笑
 
 この思想は、私が『新釈 中国古典怪談』で紹介した無為自然と言わば、対極の思想ですが、中国では昔から諸子百家と呼ばれる、さまざまなイデオロギーが生まれた訳です。儒学なども、百家の一つのイデオロギーしかすぎず、中国と日本で採用されたということですが、みなそれぞれ魅力があるものです。三島さん、大塩平八郎、西郷ドン、吉田松陰らは、そのライフスタイルに、儒教の流れをくむ陽明学を選んだわけです。

 最後にこれも雑学ですが『天人五衰』とは、天上界の天人が、死んでいく様を、五つの徴候として、表した言葉です。
 博学、段成式の『酉陽雑俎』(ゆうようざっそ)によると(この人、何でも書いている。笑)、これははじめて天に転生した者の衰退の五相で、天女の衰退には九相あると書いてあります。出典は『正法念処経』というお経だそうです。
 まぁ、そんな相の違いはどうでもいいことで、大切なのは、天人や天女でも死んで滅びてしまうってことですね。
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村
にほんブログ村 美術ブログ 宗教美術へ
にほんブログ村