信州読書会さんに参加させていただいて、毎週金曜日に
課題図書の感想文を提出させていただいています![]()
今回は、安岡章太郎氏の『 海辺の光景 』の感想です![]()
私は、高知の桂浜から見る海が好きで、よく車を飛ばします。
水平線まで何もない、果てしない海を眺めていると、
自分の内面に奥深く沈んでいく気持ちになります。
小説の舞台は、四国の海岸となっていますが、私はこの桂浜を
頭に浮かべます。
主人公の信太郎は、母が危篤の連絡を入院している
精神病院から受取り、東京から駆けつけます。
そして、母を看取る10日間、同じ病院で過ごします。
そこで、終戦後からの長く苦労の多かった家族の生活について
信太郎は振り返るのです…。
この小説では、精神病院となっていますが、 当時1950年代だと
主人公の母は認知症だったのではないかと思われます。
主人公は、母の命が尽きる10日間で、無意識だった「家族」という
共同体について、深く考えます。
誰しも、家族・・・特に両親に対して、「男」や「女」という意識は
ありません。両親にとっては、意識して作った共同体でも
子供にとっては、初めからそこにある無意識の共同体であると
いうことがこの小説から伝わってきます。
そして、親の老後とは、看取るとは・・・私小説といわれているだけ
あって、心象風景が細やかで胸に迫ってきます。
是非、手に取っていただきたいと思います。
『 それぞれの光景 』
私の父は、寡黙な人だった。口の達者な母に、よくやり込められていた。そんな光景を幼い頃から見ていた私は、いつでも父の味方だった。読書が好きな父の本を、いとも簡単に捨ててしまう本を読まない母の行動に、一番憤っていたのは私だった。父の代わりに矢面に立って、母とよく喧嘩していたのも私だった。当時は、自らの見える「光景」だけで、父を守らないと…というよくわからない使命感にかられていたのだ。
しかし、この小説のある場面で、私はふと腑に落ちる。
信太郎は、褥瘡の痛みで気がついた母チカの手を握るが、錯綜した意識の中で、母の口からこぼれたのは「おとうさん…。」だった。信太郎の「母の手を握った掌の中で何か落とし物をしたような気がした」との心情は、痛いほど沁みた。きっと、私が同じ状況でも、父は私の名前を呼ばないだろう。「風景」は誰の目にも普遍的であるのに対し、「光景」はそれぞれ違う。光景は同じ家族ですら、共有できないものだと今更ながら実感した。
(引用始め)
息子はその母親の子供であるというだけですでに充分償っているのではないないだろうか?母親はその息子を持ったことで償い、息子はその母親であることで償う。
彼等の間で何が行われようと、どんなことを起そうと、彼等の間だけですべてのことは片が附いてしまう。
(引用終わり)
信太郎の思う上記のことは、一理あると思う。ただ、チカの意識が、まだらで苦しんでいた時に、寄り添って介護していたのは信吉だった。永楽園に入所する際も「ふん、とうとう放りこまれることになったか!」と正常であり、信吉の介護も認識していたことだろう。東京で暮らしていた信太郎には見えていない光景だ。
信吉がニワトリで失敗しようとも、結局チカは大変な思いをして、一緒にニワトリを仕入れに行く。きっと、信吉に対しても、信太郎とチカが見ている光景は違うのだ。ただ、息子であるという事実だけでは計り知れない「光景」なのだと思う。
永楽園のある桂浜の水平線は、絶景だ。それでも、作者は「海辺の風景」としなかったのは、この三人のそれぞれの「光景」を書きたかったのかもしれない。
私は、父が同じ状況の際、母の名前を呼べば、信太郎と同じように「いくらかの失望とそれに見合う安堵」を感じると思う。それは、夫婦としてとても幸せな結末だったと思うからだ。
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