今回は、岡本かの子氏の『鮨』の感想です本

実は、岡本かの子氏といえば、あの芸術家の岡本太郎氏の母としか認識がなく、今回初めての読ませてもらいました。
あの独特なボブの髪形やトリッキーな人生に彩られ、作家としての「岡本かの子」が薄れていますが、なんのなんの素晴らしい作品を執筆していますビックリマーク 他の作品も読みたくなること必須ですドキドキ

 

( 著者近影 )

 

 

 

『 流れ来り、流れ去る 』

 

 私は湊の談話で、自らの心をぐにゃりと掴まれた。それは、私自身も幻想の中の母がいたからだ。躾が厳しい母だった。叱られた後などは、「きっと本当のお母さんが他にいるはずだ。」と思うことで溜飲を下げていた。しかし、湊が鮨を食べている様を見て嬉しいのをぐっと耐える、「母としては一ばん好きな表情で、生涯忘れえない美しい顔をして」いる湊の母のような表情を、私自身も母の中に見つけたことがある。結局、親子はお互いに幸せを融通し合っているのだろう。だから、幻想の中の母と現実の母が重なる感覚はよくわかるのだ。親からすると、かなり身勝手だけど。

 

「お互いに現実から隠れんぼうをしているような者同志」の常連の中で、ともよは湊にひっかかりを覚える。客の男の扱いには慣れていても、母への郷愁から福ずしに通っていた湊に、自らと同じ孤独をどこか感じ取ったのだ。表面だけ世慣れているが、内実は孤独なともよは、自らも気づかずに湊と「孤独」という観点で共鳴したのだろう。だからこそ、常連客と分け隔てなく対応している湊が許せない。なぜだかは、ともよは気づいていない。

 

ともよは、客へのあしらいから、客にも「新陳代謝」があると理解していた。自らは杭根の苔のように定着していても、鮒は苔を食んで、流れ来り、流れ去っていく。ともよの人間関係の理解とはそのようだったろう。しかし、湊に対しては食まれるだけの苔になりたくなかった。しかし、同じく「孤独」を理解している湊は、さりげなくともよの前から去ってしまう。まるで、骸のようなゴーストフィッシュを残して…。偶然だが、別れのプレゼントにしてはエスプリが効いている。

湊と会えなくなって、涙さえためたともよであったが、「鮨屋は何処にでもあるんだもの」と流れ去る鮒であった湊を理解する。

好きな人には、流れ去らずに自らを食んでほしいと願ってしまう私は、まだ湊やともよのように孤独を本当の意味で理解していないのかもしれない。

 

 

 

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