『小僧の神様』感想文 ~「場」違い~
この小説の読後、遠い記憶が呼び覚まされた。
私が学生の頃、小さなアパートの玄関先で、大きなお腹をした野良猫が鳴いていた。お腹を空かせているのはすぐにわかった。私はただ、可哀想という感情だけで食べ物をあげて・・それで終わったはずだった。
しかし、それから度々玄関先でミャーミャー鳴くようになった。ついついまた食べ物をあげてしまう。すると、今度は小さな子猫たちを連れてミャーミャー合唱しだしたのだ。
飼い猫という「場」を与えてあげられない私は、耳を塞ぐことしかできなかった。
貴族院議員Aが仙吉に与えた善意は、決して悪いことだとは思わない。ただ、鮨屋に堂々と出かけられる番頭たちと違って、仙吉はあまりにも「場」が違い過ぎた。番頭たちもかつては小僧として奉公をし、徐々に今の「場=ステージ」に辿りつき、鮨屋に似合う風格が出てきたのだ。ステージは飛び越えることはできない。身の丈に合っていないと、仙吉が勇気を出して入った鮨屋での恥ずかしい所作になってしまう。ひょっとしたら、鮨屋の主もそれがわかっており、あえて突き放したのかもしれない。
仙吉は自分にとって身に余る幸運が腑に落ちず、結局「神様」のおかげにしてしまう。人は自分の理解を超えたものに神をみてしまうのだ。
しかし、現実はそうではなかった。善意を与えた方のAも、仙吉とは違うベクトルで思い悩んでいた。Aは、確かに地位や金銭の面で仙吉に善意を与えられる立場だった。しかし、若さゆえか人に善意を与えられるステージにまだ辿り着いていなかったのではないか。自分が与えようとしている善意と人物のバランスを見極められるようになってこそ、Aも悩まずにすむと思うのだ。
仙吉もAも、これから飛び越えずに徐々にステージを上がっていけば、作者が最後に割愛したお稲荷様を拝まずに生きていけると信じている。
私も、野良猫にいっときの幸運を与えてしまった。小さなアパートで飼い猫にできる器もなかったのに・・。今なら、安易で自己満足な善意は与えない。この野良猫たちにとって、何が一番よいことか考えるだろう。私も少しはステージがあがっただろうか。
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