『二都物語』感想 ~生きた証~
「人間の真価は土壇場だ」と聞いたことがある。
まさに、フランス革命という革新的かつ陰惨な有事を前に、この小説の登場人物たちは自らの人間性を否が応でも露呈していく。
人間は自分の為にだけ生きるには限界がある。カートンがまさにそうだ。自暴自棄の生活を送り、仕事でも有能さを生かさず、ストライヴァーの後塵を拝している。
幼い頃は他人の宿題ばかりしていた利他的なカートンは、美しいルーシーに出会って、彼女の幸せが人生の目的となる。
長年投獄されて廃人同様のマネット医師も、愛しい娘の婿を助ける目的の為に、思いやりのある強い頼れる男に生まれ変わる。その娘婿は、自らが投獄される原因となった貴族の親族であるにも関わらずだ。人(娘)の為を想うは、なんと大きいことなのだろう。
それに比べ自己の復讐心のためにだけに生き、配偶者にさえ思いやりのかけらさえもみせないドファルジュ夫人の末路は憐れだ。
自分のエゴだけでルーシーに求婚したストライヴァーはいうに及ばず、ダーネイや父親さえも凌駕するほどの本気の愛にカートンは突き進んでいく。
ダーネイの処刑前日に、ダーネイにルーシーとの約束を筆記させるところは・・・胸に詰まるし、景色が歪む。カートンは、自らの命と引き換えにルーシーの心を自分の居場所に決めたのだ。今まで、生きる目的を見失っていたカートンにとって、ルーシーを愛して人間らしくなっていく自分に高揚していたのかもしれないが・・。
「恋」とは自らのエゴであるが、「愛」は相手の幸せを願う無償の想いだ。それはカートンにとって、彼女自身だけではなく、自分ではない男性と結婚をし子供も生まれた彼女の人生ごと愛すことだ。しかし、それがあぶりだされるのは、平常時ではなく有事であることが人間の哀しいところだ。
ダーネイの意思は、カートンの命と共に聖女ギヨティーヌの前に消えた。あとは「生きる」のみだ。ダーネイは、ルーシーの良き伴侶で、マネットの良き義息で、娘の良き父親として生きるしかない。それこそがルーシーの「幸せ」だからだ。ダーネイを愛するルーシーの幸せこそがカートンの「生きた証」だからだ。

