今回のテーマは、「 良心 」です![]()
「良心」って、オトナになればなるほど、コントロールできちゃうんですよね![]()
子供の方がごまかしのきかない「良心」を抱えて、苦しんでしまいます![]()
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『 幼き良心 』
小学生の頃、友達数人とよく公園に遊びに行っていた。
その中のひとりが、よくお菓子を持ってきていた。何気ない光景で、何も不思議なことはないはずだった。
市販のお菓子をいつも大量に抱えてくるその子は、公園の遊具で遊びながら、いつもおやつを食べていた。大量に持ってくるだけあって、私を含め友人たちにも気前よく、お菓子をくれた。最初は飛びついた私だったが、結局は食べずにそのまま返した。なぜなら、親から「歩きながらものを食べてはいけません。」「おやつは、家で座って食べなさい。」と口酸っぱく言われていたからだ。親は近くにいないし、小学生からすると目の前のおやつの魅力は半端ない。そのまま食べてもよかったはずだが、もやもやとした気持ちが晴れず、食べることができなかった。
おまけに、その子は大量に持ってくるがゆえに食べきれず、公園の砂場に残ったお菓子を遊びがてら埋めていた。私はその光景にびっくりして、「そんなことしちゃダメじゃん。」と注意したが、「だって、おもしろいじゃん。」とその子はきかなかった。もちろんお菓子のゴミも散らかしっぱなしだ。心の中が再び、もやもやで覆われた。
そのもやもやの正体は、今から考えると幼い「良心」だったのかもしれない。
公序良俗のマナーやまだ食べられるお菓子を捨てる(それも砂場)ことに対しての罪悪感がないまぜになって、自分の中で処理ができていない「良心」だった。
今では、自分の中の「良心」に対して、無意識に折り合いがつけられるようになっている。同じ出来事でも、空気を読んで、歩きながら食べただろう。いけないことだとわかっていても、一緒になって砂場にお菓子を埋めたかもしれない。「良心」よりもKYだと言われる方がこわい大人になってしまっていた。
だから、大人には「良心の呵責」という言葉があるのだろう。大人の「良心」は、子供の頃の純粋な良心と違って、状況に応じてかたちを変える少しずるい「良心」だ。
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