あれからやや時間がたってしまった。私の中のパーツが召されてから四十九日以上も過ぎた(#^.^#)が、その後をしたためないでは、それこそバルドーの中だし…(*_*;

 

ブレインスポッティングを受けた日の夜は、偶然にも( 宇宙に偶然ということはないのだが…)

家族療法のジェノグラム勉強会もあった。ジェノグラムとは、家族構成員のダイナミクスの理解をするための家系図のことを言い、原則として3世代程度をさかのぼって作る。

また、自分の存在の背景にあるものや、多世代家族の間に横たわる問題を見せてくれるすごいツールである。

その勉強会前の宿題として、自分のジェノグラムを作成しておけというのがあった。

しかし私は数年前に、すでに自分の多世代のジェノグラムを作っていた。

ジェノグラム作成のために、まだ会ったことも行ったこともない遠くの親戚宅を訪れさえしていたのだ。だから勉強会用には、それをプリントアウトすればいいだけだった。

 

なのでブレインスポッティングのセッションの時はそのことさえ全く頭になかった。

しかし帰宅後、プリントアウトしてみてあらためて、今日のセッションとの符号を再確認して驚いた。

 

私の父方、母方とも長子が乳幼児期に死亡していることが多いのだ。

ジェノグラムを作る目的の一つは、世代連鎖するパターンや傾向を見つけることにある。

私は長子である。ジェノグラムのパターン(運命あるいは呪いのような…)からしたら、私はすでにこの世の存在ではなくてもおかしくないのだ。

 

私の中のその子は、本来なら、生まれてすぐに神の御許に行くべき子だったのではないだろうか。

だからこの世の存在であること自体に逆らうように、主人格である私というアイデンティティの意図することにもことごとく逆らっていたのではないだろうか…と。

 

ここでまたひとつの符号に気づいた。“天邪鬼”の“天”とは神の御許のことだ。

A course in miraclesという本によれば、神の世界の真実とこの世はポジとネガのように反転しているという。

ならば、“天邪鬼”の“邪鬼”は神の世界では、わざと逆のことをするひねくれ者ではないはずだ。自分の本当の心にまっすぐな気持ちを伝えようとする子どもに過ぎないのではないか。

 

私の中の天邪鬼というパーツが本来あるべき所へ戻ったというストーリーは、大脳新皮質つまり思考する脳のイメージだったりするかもしれない。

トラウマや解離という脳科学的視点から言えば、そのプロセスは本来は言語の介在しない深い脳、辺縁系や脳幹の中で起こっていることである。

それを、あえて統合という言葉で言い表すことはできるし、プラスネットワークがつながったというモデルで表現ですることもきる。

しかし本当のところは誰にもわからないのだ。

 

ともかく、この日を境に私の現実が変化したことだけは事実だった。

現実次元との親和性を感じられた。自分自身がこの次元の一員である感覚と言ったらよいのだろうか…。これまで、自分の中での現実のプライオリティは正直、高くなかった。現実世界というのは、もっとぶっちゃけて言えば人間社会のことだ。人間社会以外の場所、自然の中や動植物との関係性においては自分は確かに他の生命達と濃密で豊かな交流があったし今もある。

それは海や森林環境や、馬やオオカミ、薔薇や畑の野菜達との確かなコミュニケーションだ。

 

しかし、こと対人間社会となると、何か間にものが挟まったような、ワンクッションあるような

自分とは異なる種族のような感覚がずっとあったのが、今になってその違いがわかる。

 

 その夜のジェノグラム勉強会の終わりに、自分は一言シェアをした。

「私の家系は父方も母方も長子が乳幼児期に亡くなっているのがバターンとして連鎖しているようでした。奇しくも本日、BSPのセッションで私の一部が成仏しました。そうしたら、この残った私はいったい何なのでしょう?」勉強会主宰のF先生は言った。「そりゃあ良かった、良かった。そしたら森さん、あとは余生だよ。余生なんだから、好きなことやったらいい。」??…余生か…としばし反芻していたら、何故余生なのかと質問するタイミングを逸してしまった。

まあいいさ、いずれ聞いてみよう。

 

しかしふと、もうひとつ符合するものがあった。本来はネガvsポジのように、陰陽のように、あちらの世界にいるべきだった半分が、流産してこちらに流れ込んでしまったようなイメージなのではないか? それは、私の両親の家系の子どもたちの多くが流産していることとの対称形であり、コンステレーション(布置)でもあるように思えた。

 

こちらの世界でアクシデントがあると、流産してあちらの世界に行ってしまうように、あちらの世界でアクシデントがあると、こちらの世界に流れてきてしまうのだろうか…? などという妄想さえ湧いた。ココについては長くなるのでまた次回に回すつもりだ。

 

ともかく、それ以来、私はこの人間社会に何故かグラウンディングした。

身体の中が充実して質量に満ち、心は冒険に満ちている。

この現実の人間社会の一員であることにどこか深い所でOKが出たとでも言うような感覚だ。

世界への結びつきと信頼とにあふれている。

 

そして、どうしてだか、カウンセリング&セラピーの腕が上がった感覚がある。

自分の身体感覚と、現実に根付いている自分の直観に、これまでとは異なる信頼感が持てるのだ。カウンセリングをしている自分をどこか俯瞰して見ている時もある。それは、居るべき所、神の御許に行ったパーツが充足しているからなのかもしれない。

 

ブレインスポッティングは、受ける人によってその治癒のプロセスは様々だ、何故ならすべての人の脳の神経ネットワークは異なるからだ。でも一つ言えるのは、脳は認知では考えもつかない無限の可能性と治癒力を持って、常に最高の適応状態を目指しているということだ。

その可能性が最大に開かれることをお手伝いできるブレインスポッティングという方法にたどり着き(それは浜辺の砂粒からたったひとつの小さな宝石を見つけ出すようなもの…)実践できる自分の運命と奇跡に、今あらためて、人生もまんざらではないと思えるのだ。