自己犠牲の本当の意味 | dahlia/ココロのお天気 Life is still beautiful

こないだ、

嫌なことなんかやめちゃえばいいんだよって

ブログで書いたときに

 

義務感、罪悪感、過度の責任感だけで

何かをするのはやめたほうがいいって書いたけれど

 

自己犠牲って言葉は使いませんでした。

 

私、この言葉がどうもしっくり来ない。

 

犠牲って、本来は尊いものだったはず。

 

例えば昔だったら

神様に生贄で命を差し出す

とか?

 

そういうのが本当にあったとしたら

生贄制度自体は反対だけど

 

捧げられる命って

めちゃくちゃ尊いですよね。

だって、みんなのために差し出されるんだもの。

 

 

今の時代なら

家族を養うために、大学進学を諦めた、

自分が継がないと、代々守ってきたものが絶えてしまう、

そこで自分の夢を諦めて継ぐことにした

 

そういう現実があったりします。

 

そこで、自分が引き継ごう、

養おうっていう決断、覚悟って

誇れることだと思うんですよね。

 

なんだけど、

どうも自己犠牲って言葉を聞くと

(自分が)虐げられているような、嫌な感じがします。

 

言葉って一人歩きして

元々の意味からずれて使われることも多々あるけれど

 

もっとプライドがある言葉であって欲しい。

 

だって、誰かのために決心するって凄い事だもの。

 

それなのに、

まるで犠牲者みたいな認識で

自分は家族の犠牲になった、

みたいになっちゃうと、自分が一番悲しくなっちゃう。

 

自己犠牲って言葉は、プライドある、尊いもの。

 

だから、嫌なことをやるのに

自己犠牲はいらない。

 

自分が我慢すればいいんだ、みたいな苦しさを伴うと

それは苦痛になっちゃう。

 

でも、自分でやると覚悟を決めたら、それは犠牲じゃない。

 

その決断をした人は、最終的に気高くあってほしい。

その方が、格好良い雷

 

そういう人は、格好良い。

 

 

<今日の一言>

自己犠牲という言葉には

気高くあってほしい

 

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dahliaライブ@代官山

2018年9月6日(木曜)

 

Open19:00〜 Start 20:00〜

 

 

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