光忠寺は亀山藩主形原松平家の菩提寺です寺名は形原松平氏前移封地丹波篠山から移されたもので寺そのものは亀山城の頃からあった


形原松平氏は徳川の譜代大名で寛延元年(1748)信岑(のぶみね)の時に前任城主であった青山氏の後を継ぎ丹波篠山から移され明治維新まで8代121年間亀山城主として君臨した


この地には前亀山藩主青山氏の菩提寺幟龍院があったため境内墓地には歴代藩主の墓碑が整然と並んでいる


形原松平の祖与福(ともすけ)は三河形原の領主で今も愛知県蒲郡市西浦町には光忠寺があり与福(ともすけ)

から5代家忠までの墓がある寺名の

光忠は与福の法名「光忠大居士」から来ていている


本堂屋根の瓦には「丸に利」の文字を

書いた瓦がたくさん使われていてこの「利」の形原松平家の家紋であり「形原記」によると形原松平家の家紋は4代家広が三河大樹寺合戦の時に「利剣即是」の旗を揚げて戦いあまりに激しい戦いのため旗も「利」一文字を残すのみだった


その武勲を忘れないために子孫が丸に「利」の字をいれて家紋にした「利」の意味は経典の「利剣即是弥陀号」で

弥陀の名号は終生の罪業を断尽する

最上の利剣なりということです


境内には「糸繰り姫の血染めの石」という話が伝わっている


亀山藩主のお殿様が商家の織屋の娘に惚れ糸繰り姫といって夢中になって政務をおろそかにしてしまった


家臣はお殿様を何度もいさめると聞き入れられて糸繰り姫を下ろせと命じられた


しかし家臣は糸繰り姫を殺せと聞き間違えて姫を殺してしまったその血が染みついた敷石は三つに割られて

一つは姫の生家に一つは城内の散歩道にそして最後の一つは光忠寺に移されて供養されたとあります