1973年私が未だベビたんの時ですね


閉山した国使跡多田銀銅山の一角に卵パックの第1工場跡地が残っている


建て看板には1979年11月創業開始と

猪名川町広根出身の加茂守さんが透明で割れない卵パックの開発者だ


残念ながら2020年7月に亡くなられたとのこと85才それでも凄いですよね


60年前までは卵の販売は対面が主流で新聞紙等に包んで持ち帰っていたそうですが


スーパーマーケットの業態が広まり

大量に陳列販売するじゅようが高まっていた


食品容器を製造していた加茂さんの

共同会社[ダイヤ化成工業](現エフピコダイヤフーズ)に取引先から

割れない卵パックの開発依頼が舞い込む


当初進駐軍が使っていた弁当箱型ケースを参考に紙製の卵パックを考案


紙製懐かしいですね地元の手作りでしている卵屋さんと取引して宅配してもらってましたずっと 


仕事でケーキ作りしてるとこで働いてる時にまた紙製パックの手作りの

卵屋さんと巡りあってね


何回か私も取りに行かさしてもらって手作りやってる卵工場を見学させてもらったこともあります


めちゃめちゃ周り田園地帯でね


スーパーマツモトの卵が透明パックが99円のがあってそれを家で紙パックの卵が足りない時は買ってた時もありましたが今は卵も高くなりましたね


うちは卵好きなんで困っていますが

話をさて戻します


紙製の卵パックは中身が見えないから消費者としては不安だから当たり前ですけど買わないのが多かった為

透明なパックの開発が求められた


透明で薄く軽い低コストな塩化ビニールに目をつけた加茂さんは連続真空成型機を使い卵の型取りに成功


透明な卵パック第1号が完成するがそこでまた新たな難題が発生して出てくる


透明なパックは強度が弱くて積み上げると簡単に割れてしまう


割れない卵パックの開発の試行錯誤

ある日子どもが遊ぶ吹き上げ風車が

目に止まった


ボールが宙を浮く形状に卵を浮かせれば良いことに


卵を浮かせれば良いことに気づき着想を得るパックを八角錐形にすることで実現


新鮮な卵が低価格で全国の食卓に届けられるようになった


それから約50年今もほぼ変わらず使われている



加茂さんはそれだけやなしに

パックの口の止めかたも進化させました当初はホッチキスで止めていた

やりかたでしたが


消費者が怪我をしないように熱圧着で閉じるようにパックが裂けないように糸を引っ張り開ける[ピイパック(糸付き卵パック)]を更に考案

1983年に特許を取得した


それでも満足せず糸をテープに

誰でもより簡単に開けられるよう

改良を加えた

 

それだけやなしに

販売や消費者だけやなしに環境の

配慮も忘れなかった


パックを回収し再利用するシステムを進めたリサイクル原料のシートを

通常のシートに挟む三層構造のパックも開発した 


会社を退職後加茂さんは多田銅山の

国使跡指定や携帯基地局の設置子どもたちのふるさと教育にも尽力した


私は日本人は気づかいの気配りの

人種というけれどそれは優しさから

来ていると思う


現在人は優しさを知らないとか

日本人の心を忘れてしまったとか

いうけれど


出しかたを知らないだけだと思っ

ています


身近なものがどういう経路で

私たちの周りにあらわれてるのか

を知ったらもっと他人に対して感

謝する思いやりというのを持てる

と思います