日常の一コマ一コマがいちいちカワイイ街でしたね。
早朝着ということもあり、思いのほか寒かった3月のパリはこれが2回目。
初めてのパリは、さかのぼること約7ヶ月。
1年間のオーストラリア生活を終えて、ヨーロッパの周遊を初めて1週間ほど経ったときでした。
お金も体力も終盤戦になり、1泊のホテル代を浮かすために夜行バスを駆使していた頃。
フランクフルトからその日に出発する夜行バスの行き先にパリを見つけ、迷わず切符を買った。
憧れてたフランス、パリは、いとも簡単に手に入ったような気がした。
どんな街なんだろう。
期待しながらバスに乗り込んだものの、道中とっても不安。
だって、私、小汚いバックパッカーだったんですもの。
思い描くカフェやアンティークショップ、一流ブランド、街並に今の私はふさわしいのかしら。
履きつぶしたリーバイスとコンバースで、その地を踏んでもいいものなのかしら。
結局、バスターミナルに着くとすぐさまチケット売り場に並び、2時間後に出発するブリュッセル行きの切符を買ってた。
そのとき誓いました。
次は絶対この街にふさわしい姿で来よう。
あれから日本に帰国し、社会復帰し、バックパッカーから何とか元のオシャレ大好き人間に戻った。
新しい職場で初めてとる長期休暇は絶対パリに行こう、そう決めてた。
シャルルドゴール空港から鉄道で北駅へ。
切符の買い方分かんない。
オタオタしてると後ろに並んでたデッカい黒人のお兄ちゃんが助けてくれた。
ボンジュゥルしか知らないもんだから、「北駅」さえ言えずガイドブック指差す私。
何とか駅まで着いたら出口分かんない。
ダダ広い駅の構内を何度も何度も往復する。
フランス人は英語がキライ。
そんな先入観もあるから誰にも聞けない。
右往左往30分。
ダメ元で英語使う。
なんだ、最初からそうすればよかったよ。
思いのほか優しい駅員さん。
久しぶりに吸う異国の空気。
行き交う人々や、ただのカフェでさえ気分を高揚させてくれる。
ホテルに荷物だけ預け、朝ごはんを求めて目についたカフェへ。
ほんとにクロワッサンとバゲットだし。
ポットとミルクピッチャーでサーブされるカフェオレだし。
赤いギンガムチェックのテーブルクロスで、気分はすっかりパリジェンヌ。
この街は私の飽くなき好奇心をどこまでもどこまでも満たしてくれる、そんな気がした。
今年の旅目標の一つ、バリ島に行ってきました。
滞在したサヌールというエリアは、ビーチに沿って店が建ち並び、美しいサンライズが見られる小さなリゾートタウン。
日本人より欧米人がたくさん滞在しているというのも落ち着くポイント。
ビーチのすぐ前にあるヴィラで、ゆったりまったり。
私はスパに行ったり、ショッピングしてみたり。
夫はビール片手に潮風に吹かれるのが至福。
ナシゴレン、ミーゴレンに始まり、時にはカフェごはん、時には本格イタリアン。
滞在地と反対側にあるジンバランベイでサンセットを見ながらビーチで頂いたシーフードのグリルはよかった~☆
朝の散歩中に出会った元パイロットのオーストラリア人は、月の半分はバリで過ごしてリフレッシュするんだそうな。
シャトルバスで出会ったオランダ人のカップルは、4週間かけてアジアリゾートをホッピングしてバカンス中だそうな。
英語を使う機会が減った今では小さな国際交流もまた、旅の楽しみのひとつ。
あん まりたくさんは観光しません。
何かを考えたり、感じたり、リセットしたりする時間がなくなるので。
そして何より次の旅のイメージは、やっぱり旅先でないと浮かびません。
心身の余分を落とし、たくさんのプラスを吸収した後は、今までよりも人や物事に優しくなれる気がします。
旅するたびに成長できる人間でありたい、と願います。
滞在したサヌールというエリアは、ビーチに沿って店が建ち並び、美しいサンライズが見られる小さなリゾートタウン。
日本人より欧米人がたくさん滞在しているというのも落ち着くポイント。
ビーチのすぐ前にあるヴィラで、ゆったりまったり。
私はスパに行ったり、ショッピングしてみたり。
夫はビール片手に潮風に吹かれるのが至福。
ナシゴレン、ミーゴレンに始まり、時にはカフェごはん、時には本格イタリアン。
滞在地と反対側にあるジンバランベイでサンセットを見ながらビーチで頂いたシーフードのグリルはよかった~☆
朝の散歩中に出会った元パイロットのオーストラリア人は、月の半分はバリで過ごしてリフレッシュするんだそうな。
シャトルバスで出会ったオランダ人のカップルは、4週間かけてアジアリゾートをホッピングしてバカンス中だそうな。
英語を使う機会が減った今では小さな国際交流もまた、旅の楽しみのひとつ。
あん まりたくさんは観光しません。
何かを考えたり、感じたり、リセットしたりする時間がなくなるので。
そして何より次の旅のイメージは、やっぱり旅先でないと浮かびません。
心身の余分を落とし、たくさんのプラスを吸収した後は、今までよりも人や物事に優しくなれる気がします。
旅するたびに成長できる人間でありたい、と願います。
その一枚岩は突如として現れる。
まるで自分の周囲何百キロを人間達によって侵されること無いよう、オーラを放っているかのようだ。
オーストラリアの各都市から空路を使えば2時間程度で到着するが、私はあえて陸路を選んだ。
大陸縦断鉄道、THE GHAN。
国土面積の大多数を砂漠が占めるこの国の初期開拓者が、未開発の内陸地を切り開く際に用いたラクダをGHANと呼んだことに由来するという。
オーストラリア南部の都市アデレードを正午すぎに出発し、北上すること2979km、終着地である北部の都市ダーウィンに到着するのは2日後の夕刻だ。
大陸のほぼ真ん中に位置するエアーズロックへは、THE GHANを2日目の昼過ぎにアリススプリングスで途中下車し、さらにバスにて450km走った先となる。
なぜこの地へ行きたくなったのか、なぜこのルートを選んだのか、その理由は当時の私にも現在の私にも分からない。
この広い大陸をどこまでもどこまでも走ってゆけるという、ただただ漠然とした期待と喜びだけがそこにあった。
アデレードの駅は、この壮大な列車の発着地としてはいささか小ぢんまりとしていた。
ほとんどの乗客がツーリストであろうが、外国人ばかりではなく、現地オーストラリアの人々も少なくないようだった。
トランク片手に優雅な旅の雰囲気を醸し出している人々、大きなバックパックを背負い、足にはビーチサンダルといった欧州系のバックパッカー、そして集団で固まりおしゃべりを続ける日本人の団体客まで、客層は様々だ。
「みなさんの列車は’ゴールドカンガルー’です。荷物はすべて預けてあります。」
気づけばそんな日本人の団体客の集団が隣に座っていた。
添乗員らしき男性が声を張り上げるが、あまり聞いている様子はない。
定年退職をした熟年夫婦がほとんどだ。
この列車には2つの座席等級があり、1つは「みなさん」の’ゴールドカンガルー’。そしてもう1つは私の乗る’レッドカンガルー’。
どちらが格上かは言わずもがな。
かくして私の大陸縦断列車の旅は始まった。
レッドカンガルーの座席は日本で言う一般的な特急列車とほぼ同じであろうが、この先24時間以上をこの場で過ごすにはいささか窮屈であった。
あの日本人客達は今頃寝台付きの豪華客室で優雅な時間を過ごしているのかと想像しながら、私はすぐに席を立ち、ラウンジへと移動した。
日本の鉄道事情と大きく異なる点が、このラウンジ設備ではないかと思う。
列車一台分にソファスペースが設けられ、大きな窓から景色を眺めながらゆったりと過ごすことが出来る。
その先には売店もあり、軽食や飲み物を頂くことも出来る。
果てしなく続くアウトバックの景色を見ながら、まずは旅の習慣となった日記を書くことにした。
日本にいる時でも日記をつけようとしたことはあったが、何度試みても継続した試しがなかった私は、一人旅に出てからというもの毎日このA5サイズのノートと向き合っている。
日常会話、旅会話こそ何とかできたものの決して英語が得意というわけではなかったので、単純に日本語に飢えていたのだろう。
異国の地で移動を重ね、次々と舞い込む感情を自分自身を相手に文字を通して会話していたのかもしれない。
私は毎日1ページ近くの独り言を綴っていた。
一人旅は何とも自由だ。
いつどこへ何をしに行こうが、誰も咎めることはない。
次は北へ向かおうか、南へ向かおうか。
今の場所に1週間いようか、それとも2週間くらいいようか。
決めるのは全部自分自身だ。
集団の規律の中で仕事をし、家と職場の往復に明け暮れた日本での生活を思い起こせば何と素晴らしい時間なのだろう!
しかしふと思う。
自由は時として何と不自由なものなのだろう、とも。
そんなことを考えながら、夜は更けていった。
私はそのままラウンジに居座ることにした。
少し前に自分の席に戻ってみると、隣の席の女性が既に私の席を占領して眠っていたからだ。
腑に落ちない部分もあったが、足を伸ばせ、身体を自由に動かせるこのソファも悪くないと思った。
20代の女性が一人で夜を明かすには無防備極まりない場所ではあったが、その時の私にはそのような警戒心は旅の重荷と化していた。
バスでくしゃみ一つすれば、隣に座った人が「Bless you!」と言い、そして2人でにっこり微笑み合う。
そんな国だ。
旅先では何人もの人に出会う。
100人出会って、その後も付き合いが続いていく人が1人いれば上等といったところだ。
一瞬のコミュニケーションで終わる人々が大半であるが、その一瞬の積み重ねは確実に現在の、そして未来の私に変化をもたらそうとしていた。
夜が明けると、窓の外には一面の赤土が広がっていた。
いよいよ中央部に入ってきたのだ。
こんな場所に1本のレールを敷き、電車を走らせようなどという発想は日本人に浮かぶだろうか。
この列車に乗る前に、ブリスベン近くの街にある老人ホームで2ヶ月間ボランティアをしていた。
私が初めてそこを訪れた日からちょうど3週間、所長はバカンスで不在だった。
その後も次々と職員達は2~3週間のスパンで休暇に入った。
バスに乗っても夕方5時台はバス停に行列ができ、車内も当然満員だ。
ところが6時台になった途端、人影はまばらとなり車内でも着席することが出来る。
6時台から7時にかけては電話がタブーとされる。
その時間は家族揃ってディナーを楽しんでいる最中だから、というのが理由だ。
全行程で2泊3日、距離にして2979km。
そのような文化や考え方が根底になければ成し得なかったのではないだろうか。
ともかく私は朝食を摂ることにした。
一人旅は、とにかくよく食べる。
持て余した時間の使い道は、すぐにカフェタイムと化すからだ。
おかげさまで日本を出国してから半年で、私の体重は4キロオーバーだった。
カウンター越しの小さな売店だったが、設備は整っているらしく、スクランブルエッグとトーストといった温かい朝食が用意されていた。
日本でいう10枚切り、サンドイッチスライスのトーストにも慣れた。
4枚や6枚切りを恋しむ日本人もいたが、私は案外こちらの方が食べやすくてよいなと感じていた。
食事を終え、ほどなくしていると列車はアリススプリングスの駅に到着した。
砂漠の真ん中に小さな駅舎がぽつんとある、ホームも何もない駅だった。
それでも周りにはホテルの名前を書いた看板を持った旅行客の送迎者がずらりと並んでいた。
私も事前に予約はしていたものの、ここで置いていかれたらどうすることもできないという焦りもあり、バックパッカーズの名前を見つけた時には心底安堵した。
12月のオーストラリアは夏の真っただ中だ。
気温は高いが空気が乾燥しているこの国では、強い日差しさえ避けて影にいればおおよそ快適に暮らしていける。
しかし、建物の少ないこの街においてはそれは至難の業であり、じりじりと照りつける強い紫外線にさらされることになる。
日本での夏は日傘を差し、美白化粧品を努めて使用していた私にとっては今までの努力が水の泡にもなりかねない過酷な環境であった。
それでもキャミソールとショートパンツで惜しげもなく肌を露出している地元オーストラリア人や、欧米からの旅行客の生き生きと旅を楽しむ姿を見ていると、日焼けを危惧している自分が小さく思えてきた。
自分自身の優先順位と言おうか、価値観と言おうか、ともかく26年間生きてある程度確立したと思えていたそういったものがどんどん変化していくのを旅の中で何度も感じていた。
私たちを乗せたワゴンは20分ほど走り、小さなアリススプリングスの街の端っこにあるバックパッカーズへと到着した。
バックパッカーズとはいわゆるユースホステルだ。
地域や施設によって若干の差異はあるものの、だいたい4人から8人が一部屋に眠る。
2段ベッドを使用するのが一般的で、案内された部屋の空いているベッドが自分の唯一のパーソナルスペースとなる。
料金は1泊20ドル(2004年当時約1700円)前後であり、所によってはトースト程度の朝食が付いていることもある。
共同のバストイレにキッチン、ラウンジスペースがあり、基本的には自炊をする。
部屋に入ると一人のドイツ人女性がいた。
彼女は今朝までエアーズロックのツアーに参加し、帰ってきたところだと言う。
どうだったかと尋ねると、何とも言えないいい表情をした。
アデレードを出発してから1日半が過ぎていた。
明日の昼には目の当たりに出来るかと思うと、私の中での期待はますます高まっていった。
出発は朝の6時だった。
エアーズロックリゾートへの到着時刻は正午の予定だ。
砂漠の真ん中を今度はバスでひた走る。
砂漠とはいえ赤土で、植物もところどころにある。
景色の変化が少ない450kmの道のりは長いようでいて、何かに思いを馳せるにはちょうど良い長さにも思えた。
自分と向き合う時間が多いということは、一人旅の最大のメリットであり、デメリットでもある。
案ずるより産むが易し、な場合も多々あるからだ。
何度かの休憩を挟み、ラクダを見たりエミュに遭遇したりしながら正午が近づいてきた。
周囲に何もない、地平線が延々と続く景色がごく当然のように感じるようになってきたその時、遥か彼方に茶色い小さな物体が見えた。
それは紛れもなくエアーズロックだった。
もっと近づきたい思いをよそに、バスは大きく左へ曲がった。
オーストラリア最大のリゾート、エアーズロックリゾートだ。
広い敷地内には5つ星からバックパッカーズに至るまで様々なホテルが立ち並び、スーパーマーケットやカフェ、レストラン、お土産屋さん、郵便局や銀行に美容室まで揃っている。
リゾートでありながら、生活空間にも見えるのはこのリゾートを支える数多くのスタッフが実際にここで生活をしているからだ。
私はここで1泊し、翌日のサンライズツアーに参加した。
サンライズを観るためのツアーなのだから、集合時には当然あたりは真っ暗だ。
1年で一番日が長い真夏に来ているのだから、午前5時の出発時刻もいた仕方ないといったところだろうか。
日中は40度を超えるこの地でも、朝晩の気温は20度過ぎまで下がる。
寝ぼけ眼でバスに乗り込み、一路あの一枚岩を目指す。
しばらく走るとゲートが見えた。
先住民族アボリジニの聖地とされるエアーズロックの周囲は、今ではオーストラリア政府により国立公園とされている。
ヨーロッパからを主とする移民が増えた今では、アボリジニの人口比率は減少し、シドニーやメルボルンといった大都市においては現代社会に馴染んだ人々も増えてきた。
しかし、ダーウィン周辺の北部からアリススプリングスにかけては今でも英語が理解できず、裸足で歩き、入浴の習慣も持たない人々が目立つ。
ましてやここは彼らの本拠地とも言えるエアーズロックだ。
私たちのような観光客が立ち入るのを彼らは本来好ましくは思っていないようだが、国立公園として観光地にすることにより政府からの援助を得ながら現代社会で暮らしている。
エアーズロックの麓にはそうして作られたアボリジニの小さな村があるというが、当然私たちが立ち入ることはできない。
辺りがだんだん白んできたころ、エアーズロックが目の前に佇んでいた。
圧巻だ。
想像を遥かに超えた大きさに目を見張る。
バスはすぐ麓を通る道をゆっくりと走り、駐車場に停車した。
ここからは散歩がてら、サンライズが見える場所まで移動する。
辺りにはたくさんの観光客が今か今かとその時を待ちわびていた。
間近で見るエアーズロックは、表面がだいぶ浸食され、大きなうねりもあり「一枚岩」のイメージとはやや離れてはいたものの、これがプレートの移動により地底からこの地に隆起したものだと思うと自然の神秘を感じずにはいられなかった。
だんだんと明るさが増してきた。
日本でも何度か初日の出を拝んだことはあった。
しかし、日本で見る日の出はほぼすべてが水平線もしくは山間からのものではないだろうか。
あの遥か彼方の地平線から昇る太陽に早く会いたかった。
そちらをじっと見つめながらも、私は時々後方のエアーズロックもちらりちらりと振り返っていた。
楽しみにしているのはサンライズそのものだけではなかったからだ。
完全に夜が明けたと感じられるほど明るくなった頃、小さな、しかし強いオレンジ色の光が現れた。
聖なる土地で迎える夜明けにふさわしい、美しいサンライズだ。
次の瞬間、私は再びエアーズロックを振り返った。
岩肌の、色が変わる。
くすんだ茶色をしていたエアーズロックの岩肌は、日の光を浴びるほどに輝きを増し、鮮やかなオレンジ色へと変化していった。
粉刻みでシャッターを切る。
自然と自然が織りなす最高のアートだ。
太陽とエアーズロックとの素晴らしい共演に魅せられた瞬間だった。
あれから私はあの一枚岩をエアーズロックとは呼んでいない。
アボリジニにとっての神聖な場所での神秘的な体験により、私にとってのあの土地はもはや単なる観光地ではなくなり、アボリジニに対する敬意が生まれたからだ。
そしてこう呼ぶ。
Uluru、と。
まるで自分の周囲何百キロを人間達によって侵されること無いよう、オーラを放っているかのようだ。
オーストラリアの各都市から空路を使えば2時間程度で到着するが、私はあえて陸路を選んだ。
大陸縦断鉄道、THE GHAN。
国土面積の大多数を砂漠が占めるこの国の初期開拓者が、未開発の内陸地を切り開く際に用いたラクダをGHANと呼んだことに由来するという。
オーストラリア南部の都市アデレードを正午すぎに出発し、北上すること2979km、終着地である北部の都市ダーウィンに到着するのは2日後の夕刻だ。
大陸のほぼ真ん中に位置するエアーズロックへは、THE GHANを2日目の昼過ぎにアリススプリングスで途中下車し、さらにバスにて450km走った先となる。
なぜこの地へ行きたくなったのか、なぜこのルートを選んだのか、その理由は当時の私にも現在の私にも分からない。
この広い大陸をどこまでもどこまでも走ってゆけるという、ただただ漠然とした期待と喜びだけがそこにあった。
アデレードの駅は、この壮大な列車の発着地としてはいささか小ぢんまりとしていた。
ほとんどの乗客がツーリストであろうが、外国人ばかりではなく、現地オーストラリアの人々も少なくないようだった。
トランク片手に優雅な旅の雰囲気を醸し出している人々、大きなバックパックを背負い、足にはビーチサンダルといった欧州系のバックパッカー、そして集団で固まりおしゃべりを続ける日本人の団体客まで、客層は様々だ。
「みなさんの列車は’ゴールドカンガルー’です。荷物はすべて預けてあります。」
気づけばそんな日本人の団体客の集団が隣に座っていた。
添乗員らしき男性が声を張り上げるが、あまり聞いている様子はない。
定年退職をした熟年夫婦がほとんどだ。
この列車には2つの座席等級があり、1つは「みなさん」の’ゴールドカンガルー’。そしてもう1つは私の乗る’レッドカンガルー’。
どちらが格上かは言わずもがな。
かくして私の大陸縦断列車の旅は始まった。
レッドカンガルーの座席は日本で言う一般的な特急列車とほぼ同じであろうが、この先24時間以上をこの場で過ごすにはいささか窮屈であった。
あの日本人客達は今頃寝台付きの豪華客室で優雅な時間を過ごしているのかと想像しながら、私はすぐに席を立ち、ラウンジへと移動した。
日本の鉄道事情と大きく異なる点が、このラウンジ設備ではないかと思う。
列車一台分にソファスペースが設けられ、大きな窓から景色を眺めながらゆったりと過ごすことが出来る。
その先には売店もあり、軽食や飲み物を頂くことも出来る。
果てしなく続くアウトバックの景色を見ながら、まずは旅の習慣となった日記を書くことにした。
日本にいる時でも日記をつけようとしたことはあったが、何度試みても継続した試しがなかった私は、一人旅に出てからというもの毎日このA5サイズのノートと向き合っている。
日常会話、旅会話こそ何とかできたものの決して英語が得意というわけではなかったので、単純に日本語に飢えていたのだろう。
異国の地で移動を重ね、次々と舞い込む感情を自分自身を相手に文字を通して会話していたのかもしれない。
私は毎日1ページ近くの独り言を綴っていた。
一人旅は何とも自由だ。
いつどこへ何をしに行こうが、誰も咎めることはない。
次は北へ向かおうか、南へ向かおうか。
今の場所に1週間いようか、それとも2週間くらいいようか。
決めるのは全部自分自身だ。
集団の規律の中で仕事をし、家と職場の往復に明け暮れた日本での生活を思い起こせば何と素晴らしい時間なのだろう!
しかしふと思う。
自由は時として何と不自由なものなのだろう、とも。
そんなことを考えながら、夜は更けていった。
私はそのままラウンジに居座ることにした。
少し前に自分の席に戻ってみると、隣の席の女性が既に私の席を占領して眠っていたからだ。
腑に落ちない部分もあったが、足を伸ばせ、身体を自由に動かせるこのソファも悪くないと思った。
20代の女性が一人で夜を明かすには無防備極まりない場所ではあったが、その時の私にはそのような警戒心は旅の重荷と化していた。
バスでくしゃみ一つすれば、隣に座った人が「Bless you!」と言い、そして2人でにっこり微笑み合う。
そんな国だ。
旅先では何人もの人に出会う。
100人出会って、その後も付き合いが続いていく人が1人いれば上等といったところだ。
一瞬のコミュニケーションで終わる人々が大半であるが、その一瞬の積み重ねは確実に現在の、そして未来の私に変化をもたらそうとしていた。
夜が明けると、窓の外には一面の赤土が広がっていた。
いよいよ中央部に入ってきたのだ。
こんな場所に1本のレールを敷き、電車を走らせようなどという発想は日本人に浮かぶだろうか。
この列車に乗る前に、ブリスベン近くの街にある老人ホームで2ヶ月間ボランティアをしていた。
私が初めてそこを訪れた日からちょうど3週間、所長はバカンスで不在だった。
その後も次々と職員達は2~3週間のスパンで休暇に入った。
バスに乗っても夕方5時台はバス停に行列ができ、車内も当然満員だ。
ところが6時台になった途端、人影はまばらとなり車内でも着席することが出来る。
6時台から7時にかけては電話がタブーとされる。
その時間は家族揃ってディナーを楽しんでいる最中だから、というのが理由だ。
全行程で2泊3日、距離にして2979km。
そのような文化や考え方が根底になければ成し得なかったのではないだろうか。
ともかく私は朝食を摂ることにした。
一人旅は、とにかくよく食べる。
持て余した時間の使い道は、すぐにカフェタイムと化すからだ。
おかげさまで日本を出国してから半年で、私の体重は4キロオーバーだった。
カウンター越しの小さな売店だったが、設備は整っているらしく、スクランブルエッグとトーストといった温かい朝食が用意されていた。
日本でいう10枚切り、サンドイッチスライスのトーストにも慣れた。
4枚や6枚切りを恋しむ日本人もいたが、私は案外こちらの方が食べやすくてよいなと感じていた。
食事を終え、ほどなくしていると列車はアリススプリングスの駅に到着した。
砂漠の真ん中に小さな駅舎がぽつんとある、ホームも何もない駅だった。
それでも周りにはホテルの名前を書いた看板を持った旅行客の送迎者がずらりと並んでいた。
私も事前に予約はしていたものの、ここで置いていかれたらどうすることもできないという焦りもあり、バックパッカーズの名前を見つけた時には心底安堵した。
12月のオーストラリアは夏の真っただ中だ。
気温は高いが空気が乾燥しているこの国では、強い日差しさえ避けて影にいればおおよそ快適に暮らしていける。
しかし、建物の少ないこの街においてはそれは至難の業であり、じりじりと照りつける強い紫外線にさらされることになる。
日本での夏は日傘を差し、美白化粧品を努めて使用していた私にとっては今までの努力が水の泡にもなりかねない過酷な環境であった。
それでもキャミソールとショートパンツで惜しげもなく肌を露出している地元オーストラリア人や、欧米からの旅行客の生き生きと旅を楽しむ姿を見ていると、日焼けを危惧している自分が小さく思えてきた。
自分自身の優先順位と言おうか、価値観と言おうか、ともかく26年間生きてある程度確立したと思えていたそういったものがどんどん変化していくのを旅の中で何度も感じていた。
私たちを乗せたワゴンは20分ほど走り、小さなアリススプリングスの街の端っこにあるバックパッカーズへと到着した。
バックパッカーズとはいわゆるユースホステルだ。
地域や施設によって若干の差異はあるものの、だいたい4人から8人が一部屋に眠る。
2段ベッドを使用するのが一般的で、案内された部屋の空いているベッドが自分の唯一のパーソナルスペースとなる。
料金は1泊20ドル(2004年当時約1700円)前後であり、所によってはトースト程度の朝食が付いていることもある。
共同のバストイレにキッチン、ラウンジスペースがあり、基本的には自炊をする。
部屋に入ると一人のドイツ人女性がいた。
彼女は今朝までエアーズロックのツアーに参加し、帰ってきたところだと言う。
どうだったかと尋ねると、何とも言えないいい表情をした。
アデレードを出発してから1日半が過ぎていた。
明日の昼には目の当たりに出来るかと思うと、私の中での期待はますます高まっていった。
出発は朝の6時だった。
エアーズロックリゾートへの到着時刻は正午の予定だ。
砂漠の真ん中を今度はバスでひた走る。
砂漠とはいえ赤土で、植物もところどころにある。
景色の変化が少ない450kmの道のりは長いようでいて、何かに思いを馳せるにはちょうど良い長さにも思えた。
自分と向き合う時間が多いということは、一人旅の最大のメリットであり、デメリットでもある。
案ずるより産むが易し、な場合も多々あるからだ。
何度かの休憩を挟み、ラクダを見たりエミュに遭遇したりしながら正午が近づいてきた。
周囲に何もない、地平線が延々と続く景色がごく当然のように感じるようになってきたその時、遥か彼方に茶色い小さな物体が見えた。
それは紛れもなくエアーズロックだった。
もっと近づきたい思いをよそに、バスは大きく左へ曲がった。
オーストラリア最大のリゾート、エアーズロックリゾートだ。
広い敷地内には5つ星からバックパッカーズに至るまで様々なホテルが立ち並び、スーパーマーケットやカフェ、レストラン、お土産屋さん、郵便局や銀行に美容室まで揃っている。
リゾートでありながら、生活空間にも見えるのはこのリゾートを支える数多くのスタッフが実際にここで生活をしているからだ。
私はここで1泊し、翌日のサンライズツアーに参加した。
サンライズを観るためのツアーなのだから、集合時には当然あたりは真っ暗だ。
1年で一番日が長い真夏に来ているのだから、午前5時の出発時刻もいた仕方ないといったところだろうか。
日中は40度を超えるこの地でも、朝晩の気温は20度過ぎまで下がる。
寝ぼけ眼でバスに乗り込み、一路あの一枚岩を目指す。
しばらく走るとゲートが見えた。
先住民族アボリジニの聖地とされるエアーズロックの周囲は、今ではオーストラリア政府により国立公園とされている。
ヨーロッパからを主とする移民が増えた今では、アボリジニの人口比率は減少し、シドニーやメルボルンといった大都市においては現代社会に馴染んだ人々も増えてきた。
しかし、ダーウィン周辺の北部からアリススプリングスにかけては今でも英語が理解できず、裸足で歩き、入浴の習慣も持たない人々が目立つ。
ましてやここは彼らの本拠地とも言えるエアーズロックだ。
私たちのような観光客が立ち入るのを彼らは本来好ましくは思っていないようだが、国立公園として観光地にすることにより政府からの援助を得ながら現代社会で暮らしている。
エアーズロックの麓にはそうして作られたアボリジニの小さな村があるというが、当然私たちが立ち入ることはできない。
辺りがだんだん白んできたころ、エアーズロックが目の前に佇んでいた。
圧巻だ。
想像を遥かに超えた大きさに目を見張る。
バスはすぐ麓を通る道をゆっくりと走り、駐車場に停車した。
ここからは散歩がてら、サンライズが見える場所まで移動する。
辺りにはたくさんの観光客が今か今かとその時を待ちわびていた。
間近で見るエアーズロックは、表面がだいぶ浸食され、大きなうねりもあり「一枚岩」のイメージとはやや離れてはいたものの、これがプレートの移動により地底からこの地に隆起したものだと思うと自然の神秘を感じずにはいられなかった。
だんだんと明るさが増してきた。
日本でも何度か初日の出を拝んだことはあった。
しかし、日本で見る日の出はほぼすべてが水平線もしくは山間からのものではないだろうか。
あの遥か彼方の地平線から昇る太陽に早く会いたかった。
そちらをじっと見つめながらも、私は時々後方のエアーズロックもちらりちらりと振り返っていた。
楽しみにしているのはサンライズそのものだけではなかったからだ。
完全に夜が明けたと感じられるほど明るくなった頃、小さな、しかし強いオレンジ色の光が現れた。
聖なる土地で迎える夜明けにふさわしい、美しいサンライズだ。
次の瞬間、私は再びエアーズロックを振り返った。
岩肌の、色が変わる。
くすんだ茶色をしていたエアーズロックの岩肌は、日の光を浴びるほどに輝きを増し、鮮やかなオレンジ色へと変化していった。
粉刻みでシャッターを切る。
自然と自然が織りなす最高のアートだ。
太陽とエアーズロックとの素晴らしい共演に魅せられた瞬間だった。
あれから私はあの一枚岩をエアーズロックとは呼んでいない。
アボリジニにとっての神聖な場所での神秘的な体験により、私にとってのあの土地はもはや単なる観光地ではなくなり、アボリジニに対する敬意が生まれたからだ。
そしてこう呼ぶ。
Uluru、と。