余計な介入(おせっかい)と適切な支援や援助の違い | 自由の翼 Die Flügel der Freiheit

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昨日までの記事「アドラー心理学の課題の分離」について自分の思うことを書いてきました。日本以外の国、たとえば欧米は特にそうですが、個人主義といわれる姿勢は、自分さえ良ければいいという身勝手さではなく(日本ではそう誤解されている気がします)、この「課題の分離」の姿勢が子どもの頃からの教育によって獲得できているように感じています。

人は個人としての自分の存在を大切にする、受け入れることができて初めて、他者に対しても同じように、自分の思い込みや決め付けではなく、自分と同じように生きている1人の個人として尊重する姿勢で向き合えるようになると思っています。

ですが、自分と他人の境界線をはっきり区切ってしまうと、他者との関わり方が分からなくなる。何がおせっかいで何が必要な援助なのか判断がつかない。そう感じる方もいるかもしれません。

実際は、他者への余計な介入(おせっかい)と適切な援助には、実は明確な違いがあると思います。

それは…
相手に何かが足りない、相手には出来ない、と感じて手をや口を出したくなる…なのか 

=余計な介入
相手には自分で出来る力がある、それを信じて応援するが必要なことがあれば手伝う…なのか

=適切な支援や援助

その人に対する先入観を捨てて、その人の中に備わっている可能性を見出すこと。それが出来れば、余計な手出しや口出しをせずに「時を待つ」「見守る」という形の援助も可能になると思います。子どもや家族など近い存在の場合は特に、この形の援助が大切だと思います。

自分のルールで勝手に裁いたり、無理だと決め付けることをしなければ、その人が本来持っている力が見えてくるようになるかもしれません。

また、おせっかいをしがちな人は、相手にとって自分が必要な存在であるという関係性に執着している場合もあります。自分より弱い、自分よりダメな存在に手を貸すことで、自分の価値を高めたいという隠れた目的がないかどうか、自らを振り返ってみる必要があるかもしれません。

相手の存在自体を尊重する、信頼することは、相手に完璧を求めることではありません。完璧な人間はいませんし、そもそも自分の考える完璧が他人にとっての完璧だとも限りません。相手に何が起きても、どんな失敗をしようとも、それも含めてその人という「存在」です。自分の人生に関わっているその「存在」を認め、信頼し、尊重することは、自分自身を尊重することでもあります。

もしもその相手をどうしても信頼できない、認められないと感じるならば、そのときは自分の人生を大切にするためにはどうしたらいいかという判断の時なのかもしれません。自分がいなければ…と我慢して耐え続ける必要はなく、その人はその人で、自分なしでもちゃんと生きていけると信じてあげることです。

距離の近くない、公共の場で見かけた人が困っているように感じたらどうすれば良いでしょうか。

困っているように見えたら、迷わずに手助けを申し出れば良いと思います。万が一その相手が馬鹿にされたと怒り出したとしたら、それは相手の問題です。課題の分離が出来ていれば、その反応に対しても傷付く必要はないと分かると思います。

また、自分が困ったときにも、誰に対しても援助を頼んで良いとも分かりますよね?援助を頼んだときに無視されたり、馬鹿にされたとしたら、それもまた相手の問題なわけです。

個人主義は利己主義ではありません。自分という存在を認め、同じように他者を認め、必要なときは助け合い、人と人との関係性にとってもっとも大切な自主性を重んじるという考え方だと思います。そういう視点から見れば、何がおせっかいで何が必要な援助なのか、はっきりと分かるのではないでしょうか。

 

 

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