nyuutoraraのブログ
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焼き芋

オーブン 250℃ 60分

さつまいもはやや大きめ


出来

長時間茹でたようなやや水っぽさ

時間不足か

反射と考えることの違い

バッタを捕まえようとして、それは跳ねて逃げる

詳しいことは分からないが、考えはなく反応してるだけだろう。


ふと、人の思考について。

人は考え、行動する。

考えによって、まるで行動を支配できるかのようだ


だが、他人から見た自分、または自分から見た他人について、

その人を外から理解することは、物理的に不可能だ。

人は視覚、聴覚等によって情報を得るが、

得た情報は、極端な話、ある種の刺激に過ぎない。

視覚情報でさえ可視光の解釈であって、脳が勝手に色付けまでしている。

犬がモノクロで世の中を見ているのと同じく、

人は人の見える波長の光しか見えず、しかもその解釈がたまた自身の生命維持と

合致しているという歴史的偶然によって、この世の中はこんな色だと、

判断している。

本当の所は誰にも分からない。

人々の共感をもってして、自分、ひいては人の世界認識の正しさは証明している、と考えてもいいが、

実際の所、森を見ているか、木を見ているかは不明だ。



バッタとの比較について

人の脳も、外界の刺激があって反応している。

さまざまな選択をしているという感覚はマクロの視点であって、単に何かしらの大きな情報が

加わったに過ぎない。

ある瞬間における要素は瞬時の外乱により反応していく。


人の反応は複雑であると言えるかもしれない。

だが、その複雑さは、外からの予見不可能の度合いであるに過ぎず、

時間を極小に区切れば、バッタの跳躍に等しい、単純なものと思う。


1秒の、何千、何万分の1単位での、

脳に対する全ての刺激を知ることが出来れば、

その人の思考が予測できるだろう。

ただそれは、あまりにも短い、一瞬先の未来で、

一般に予測と言うものでは無い。


これ以上まとまらないのでここで閉じる。

12月

12月第1日も終わってしまいましたが、

いつも年度単位で考えてしまい、

今年度は、あと四半期ある、と思って頑張ります。


まだ冬は初まったばかりなのです。

一日は映画1000円。

映画を見に行きました。

ゴースト・ニューヨークの幻 が印象深かったので

ゴーストもう一度抱きしめたい を見に。



ところが道に迷い、5分送れて到着。

どうしようかと思いプログラムをみると、運よく上映直前のものがあったのでそれを見ました。

パラノーマル・アクティビティ題2章。


心霊チックでミステリーな映画だったんですが

・・・


違う意味で、「ゴースト」、を見たな、と。


以上。


チャットって難しいですね

出会い系なんかポイント購入させる目的だし


ツイッターもスカイプも


そもそも知り合いが居ないとだし


2chの流れはやいスレのような


チャットルーム


どこでやってるんだろ?

認知 対策 メモ

認知行動療法


自分の認知の仕方が困難を生むもしくは生んでいるか不明だが・・・


目標を定め行動を開始する時、又は行動途中の横槍に弱い

思考が無防備か

シマウマがライオンに狙われた瞬間とびはねるかのよう

だがとどまり考えねばならないのだ


・不安の軽減には、問題をはっきりさせ解法を決める事

楽観視や先送りは不安すら消せないらしい


・また、敵を横並びでなく縦に並ばせば当面の敵は一人(何かコラム)


今の疲労より明日の立場

困難に上記二つは役立つか

久々に前向きなメモ

行動基準

正論などあるだろうか

誰しも腹を立てるのはある種の正論に対してではないだろうか


多数が納得する論理。

多数が合意する論理。


だが人それぞれ譲れない言葉があるのではないだろうか


誰が何を基準に合意するかなど、はっきり分かりはしない


この人は論理に依って行動するだろうか

感情に従って動くだろうか

時によっても変わる

どちらが正しいなどと言えるだろうか


理詰めで納得させた時に、なにかわだかまりが残ってはいないか

その感覚的なものは積もり積もって、ある種の論理を生み出すだろう


結果を以って判断するか?だが内面に引き起こした結果を知るすべは少ない


納得させたつもりが、反感を買ってないだろうか

だが言わなければ言いくるめられるだけだ

双方弱いのだろうか

自分が弱いだけかもしれない

お互い言いたいことを言うことが出来る、使える言葉が持てていて、言える権利があって、

受け止め伝えることが出来て

言葉は完成するのかもしれない。

収束

収束しないようにしよう


自分の人生訓なるもの。

限りなく収束すると平穏な状態になるか?いやならない。

何故ならさざ波にかき消されてしまうから。

だから何か良くない事態が起きようと、その発生原因が前向きな行動なら仕方ない。

何も無い状態を望みはしないと。


生活ぎりぎりのある若者が、日々何か一つ贅沢がしたくてコンビニで

デザートを買う癖がついた。

僅かだが、もともと生活費を借りるくらいのきびしい暮らしだったので、

1年、2年経つと返せないほどの額になり破産した。


彼を批判はしない。必要だったのだから。

他の何かに替えるすべを知らなかったのは本人のせいだけではないだろう。

収入が20ポンドで支出が19ポンドなら人生は天国

収入が20ポンドで支出が21ポンドなら人生は地獄

端からそうなる運命だったかもしれない。


ジョジョのストーンオーシャンで緑色の赤ん坊のスタンドの能力は、

近づく者を縮小する。自身を保護する能力。

歩いて近づくなら距離/歩幅は一定となりいつまでもたどり着かない。

では落下して行けばどうか。

落下であれば歩幅に制限されず速度は一定以上あるので到達する、

たとえ体が豆粒ほどの大きさになろうと。

だが手は打たれている。「ゼロ」にすべくスタンド本体がやって来る。

小さいままの生存を、目的達成を許してはくれない。


何かをしないことは、それをせざるを得ない時のリスクを増大させる。

ゼロに収束していくくらいなら、大きく正負に振動するほうがマシだ。

海の広さとか

沈む夕日を眺めていたら、自分の悩みなど小さいことだと気づいて

前向きになれた。


などと言う話。


そもそも関係ないじゃん等と冷めてた私だが、

夕日100選なる夕日を見に小旅行をした時感じたことは、悔しさだった。

自然はせこい。

人はアリのように小さく、

胃に収まる食べ物もわずかで、

豊かな自然のその欠片だけで人は十分に生きていける。

人は小さい。

はるかに大きな自然に包まれてるだけだ。

広大な大地、海、大気。人が自然を消化しつくことなんか出来やしない。


自然から、小さいことで悩むな、等という励ましは感じない。

人自体ちっぽけな存在だと、知らされる。切ない。ただ、何か心地よい切なさ。

別れ

いきものがかり「YELL」

「さよならは悲しい言葉じゃない・・・」


今年だったかNHK「視点論点」よりの感想


別れの挨拶には3種類あるらしい。

一つは god bye 神のご加護を

二つには see you again また会う日まで

三つ アウフリーダーゼン(ドイツ語) お元気で


さて、日本語「さようなら」は特殊でいずれでもない。

「そうであるならば」「そうならねば、ならぬなら」の短縮。

「では」「それでは」、が別れの挨拶だ。

これは過去を振り返り事実を確認し、

又は総括して次へ進む、

物事の区切りを明らかにしようという意味目的があるという。

「別れが必要ならば分かれましょう、さようなら」と言うわけだ。


だから日本語の別れは案外スマートとも言える。

淡白で、意識的に別れを、自分と他人の区分けを演出する。

一期一会とはいうが、そこには意識的に別れを意識しないとその時を大事に出来ない、

もともと長いスパンでの人付き合いを前提にしてる気がする。


その点海外ではもともと他人で当たり前、だから逆に挨拶は出会いと、幾分でも時を共にした、

との強調があるのかも。


よく考えたら「さようなら」もなかなか使わないな。


「さようなら=そうならねば、ならぬなら」

「旅立たねばならぬなら、では」

変化を恐れることなく。別れは振りかえることで前を向くこと。