私が子供のころ、家には祖母が家計簿用にと母に買ってくれた発売されて間もない蛍光管の小型電卓がありました。電子辞書も早い時期からありました。母が真面目に家計簿をつけることはありませんでしたが、何でも母が子供のころ勉強ができないことを親に相談したところ、「計算は今に機械がやってくれるようになる。漢字は辞書が引ければ十分だから心配しなくていいよ」と言われたそうで、その言葉通りに電卓が出てきたから買ってくれたそうです。

 

私が小学生だった昭和50年代、子供の習い事と言えば習字と算盤教室でした。みんなが通っているので私も通いたかったのですが親に不要と言われて通わせてもらえませんでした。バブルの絶頂期に大学を出て入社した損害保険会社では、先輩が電卓を職人技で電卓を叩いて料率を計算している姿に圧倒されました。さすがに算盤の人はいませんでした。私は表計算ソフトLotus 1, 2, 3を使って計算をさせました。ワープロが普及しだした頃で、私は社会人になってから手書きをしたことはほとんどありません。

 

1994年。米国・フィラデルフィア美術館で働いていた私は、松下電気が制作した未来の暮らしのビデオを翻訳していました。携帯型テレビ電話でレストランのシェフと話して予約を取るストーリーは、2001年の3Gネットワークでで実現されました。

 

シンギュラリティという言葉を私が初めて聞いたのは2002-3年頃です。当時はシスコ・システムズのコンサルティング部門にいて、新年度のキックオフ・ミーティングにレイ・カーツワイルが来て大学のゼミのように2-30人を相手に半日かけてThe Law of Accelerating Returnsとシンギュラリティについての話をしてくれました。「The Singularity is near」が2006年に出版される前のことで、私はマッド・サイエンティストのような人がSFのような話をするのを半信半疑で聞いていました。

 

FutureEdu Tokyoで日本各地で上映会を開いてきた2015年作の教育ドキュメンタリー映画「Most Likely to Succeed」は、制作に2年かかっているので撮影は2013年ごろからスタートしています。映画は、当時はまだ輪郭がはっきりとしていなかった、やがて来るAIが人間の知能や能力を上回る世界に向けて、子供たちをどのように教育したらよいのかと問う内容となっています。

 

2017年はDeepLが発表されたり、Smart Speakerが広まってきたりしました。使ってみましたがヘンテコな直訳で使えたもんではないなと思いました。当時の翻訳を保存していなかったのが悔やまれます。音声入力も伝わらないことが多く、自分でやったほうが早いことばかりでした。

 

新しい言葉が生まれると、新しい市場が生まれると言います。2023年の初めにChat GPT, AIと呼ばれた技術は、わずか半年で生成AIという言葉に進化しました。GoogleとWikipediaが合体したようなものだったのに、雑務を頼めるぐらいになりました。

初めてFAXを使ったとき、一家に一台目の携帯電話を買ったとき、スマホで1枚目の写真を撮ったとき。その後の暮らし方が後戻りできないほど変わりました。

 

私は先週あたりから、生成AIがある暮らしを感じ始めています。それは新しい家電を買うように、何気なくフッと始まりました。Most Likely to Succeedの撮影から10年。映画の中では具体的な脅威はなく、得体の知れないものとして描かれていた未来の解像度が上がって来たように感じています。

 

それとともに、子供たちの学び方もいよいよ待ったなしで変わるべきときにさしかかっているなと危機感を感じます。大人の「リスキリング」の必要性が叫ばれていますが、最悪、大人は逃げ切れるんじゃないかな。

 

でも、教育の「リスキリング」は大丈夫でしょうか。大人の二の次になっていませんか。二の足を踏んでいませんか。変えてはいけないもの。変えねばならないもの。正解はまだわかりません。でも、次の教育改革が始まるまで待てますか。