遠くなりつつ昭和 | 脳梗塞と民話語り

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よう来なすったなあ~、ゆっくりしてきなっせ~





月・火曜日はブログ定休日だよ、

私が生まれたのは太平洋戦争が終わって二年目

   なので道路は舗装なんてされてない砂利道でした

 

冷蔵庫も洗濯機もありません

   今のように車など走っていませんから道路で遊ぶこともしばしば

 

車と言えば

   一時間に一本のバスが通るくらいでしたね

 

商い屋さんが

   棒ハンドル(オートバイのような)の三輪トラック

      冷暖房設備の車など夢の夢

 

間もなく、丸ハンドル(今のようなハンドル)が出ました

   我が家ではその三輪トラックで東京へコメを持って行き帰りに魚を仕入れて田舎で売る

 

随分と儲かりましたよ

   その儲けたお金でダットサンブルーバードを買って乗り回したり

 

日光東照宮に海水浴にと出掛けました

   小学校に行く頃は、テレビが入って来ました

 

電話は局を呼び出して繋いで貰う方法で

   電話は数えるほどしかありませんでしたので、よその家の取次に走った事もありました

 

そんな中

  昭和39年に東京オリンピックが開催されたんですね

 

景気がどんどん良くなるにつれ

   それでも円は固定相場で一ドル360円で海外旅行は制限されてました

 

バブルがはじけるまでは

   どんどん景気が良くなり我々の生活も良くなり国民総中流意識が芽生えたのですね

 

あの時代誰しも想像できなかった

   車は一人一台、電話も持ち歩く時代、子供が結婚すれば新居を立てて住む

 

こんな時代が来るとは

   夢にも思う事が出来ない時代でしたね

 

私達は零式戦闘機の時代から

   ロケットで銀河系のどこまでも行ける可能性の時代に生き続ける事が出来て

 

ある意味においては

  人類の発展する時代を共に進めた幸せ者と言えるかもしれませんね

 

これからの時代

   どんな時代になるのだろうと考えると夢が膨らみますね