昨日は七草粥を
お正月はお節を
毎日の暮らしもそう
お弁当やご飯を作りながら、
食材をまな板にのせる時も
ぐつぐつお鍋を煮る時も
じゅわじゅわっと炒める時も
使い終わった調理器具や食器を
洗う時も
それは、特別な時間。
まな板の上は神聖な場所。
食材以外のものは置きたくなくて
食材以外のものを置いたら
まな板に失礼な気がして。
いつも使っている菜箸も
お玉もターナーも
どうか優しく扱って。
丁寧に。
洗う時もそう。
お箸もお椀も器も
激しくぶつからないように。
泡に包まれて
気持ち良さそうにしている
この子たちに
丁寧に、心を込めて。
そこにいる
100均のスプーンも
ちょっと高めのお箸も
シンクの中ではみんな同じ。
*
きっと誰でも、
高価なものを扱う時は
丁寧に丁寧に扱うだろう。
高価だから
大切にしたり、
使うと気持ちが高揚したり、
幸せな気分になれたりする。
でもきっと
100均のスプーンも
同じ。
何も変わらない、
と思ったんだ。
たとえ100円だとしても、
高価なものと同じように
丁寧に、丁寧に
大切に、大切に
扱ってみたら。
この100均のスプーンも
高価なものと遜色ないくらい
愛おしくなる。
きっとそれは、
値段なんかじゃ
図れるものではなくて。
*
気づけばそこにある
白菜もそう。
私はオーガニックの野菜を
定期的に購入するけど、
それは最高に大好きだけど、
スーパーの野菜も
地元の畑で採れた野菜も
この白菜だって、好き。
どんな風に育ったか
分からなくても
なんだか愛おしく可愛く見えて。
「ようこそ、地球へ」って
心の中で話しかけてみたら、
地球歴は人間よりずっと長い
この子たちに、
新参者の人間の方こそ
「ようこそ、地球へ」と
言われているみたいに。
可笑しく思えた。
*
100均で売られていても
高価なものでも、
オーガニックの野菜も
スーパーの野菜も、
きっとみんな同じ。
100均だから、とか
高価だから、とか、
その判断基準は
なにか違う。
すべてが大切なもの。
日々の生活を彩る
必要不可欠なものだったり、
生活を少し豊かにするものだったり、
私たちの身体をつくるものだったり。
そこにもう垣根はなくて
大切なもの。
大切な仲間。
“大切”であることは
何も変わらないよね。
どちらが
優れているとかいないとか、
価値があるとかないとか、
この大きな地球の中では
どうでもいい事なのかも。
*
そしてこれは
人間もそう。
地位とか名誉とか
学歴とか職歴とか
役職とか年収とか
そんなので図れるものではなくて
働いているとかいないとか
障害があるとかないとか
関係なく
この大きな地球の中で
生きている私たちの魂は、
小さくて逞しくて
みんな同じに輝いていて。
儚くて
尊くて
愛しくて。
毎日を平等に
生きている。
誰が
優れているとかいないとか、
価値があるとかないとか、
この大きな地球の中では
どうでもいい事なのかも。