前回のブログから、
気づけば2ヶ月が経とうとしてる。

このブログを始めてから15年、
最初の7年間は毎日更新していたから、
人生の一部のようなもので。

ここに書けなくなる時期は
今までも時々あったけど、
そんな時はいつも、
かなり衝撃的な
動揺する事態があった時だったりする。

(強靭なメンタルの私が
ダメージ喰らうなんて
よっぽどの事がない限り
起こり得ない)

ここに何かを綴れるかどうかは、
どうやら私の、
人生の衝撃のバロメーターに
なっているようだ。


そんな訳で、
あまりにも大きな課題が
浮上した怒涛の2ヶ月。
その課題は、現在も継続中。

いつものように
解決してから書こうとしたら、
何十年先になるか分からないから。

これから先も
かなりの長い年月を
費やすことになるだろう。
覚悟の長期戦。




それでも私は
いつかこの経験は
必ず役に立つ事を知っているし、
だから、その日の為に。

既に今、
始まったばかりで実感済みなように、
多くのことをこの先も、学ぶだろう。
そして沢山の出会いがあるだろう。

知らないことを知る。
知恵と方法を手に入れる。
それを使いこなせる魔術を得る。
その時々の感情を味わいつくす。
奈落の底までダイブする。


信じる。
なんて、
信じることには力を入れず、

諦めない。
なんて、
諦めないことにも力を入れず、

きちんと流れ着く場所に
辿り着くようになっているから。

必要なことが起きるように起きて、
必要なものがあるなら
それは授けられるだろう。

受け取る準備は
とっくに出来ているから。



膨大な宇宙の計らいは、
いつだって完璧なのだ。

今日ここに、
この瞬間
この葉っぱが落ちることも
すべてが完璧のストーリーの中に。

空の雲も
完璧な風の流れに乗って
冒険の身を委ねている。







あまり理解されにくいが、
私は元々、自己肯定感が高い。

小さい頃からずっと、
自分で自分を否定した事は
ただ一度もなくて、
多くの人が自己否定をしながら
生きていることを知った時は
本当に驚いた。

私は生粋の負けず嫌いだから、
出来ない事も沢山あるし、
悔しい思いも沢山してきたけど、
それは努力すればいい事。

その分野は苦手分野なのだ、
と認識できた事も発見だし、
その発見できた事は、
それだけでも「価値」だと思ってた。

その苦手な分野は
私の中のほんの一部でしかなく、
そこだけ見て、
「私は出来ない子」だと
すべてを否定する必要が
あるのだろうか。

私は、
生きている命、全部が、
高貴な魂だと思っている。

小さい頃は
そう言葉では表現できなくても
感覚でそれを知っていた。


だから友達が
何かが苦手でも
ちょっと意地悪なところがあっても
それはその子の
「ほんの一部でしかない」
という認識で、いつもいた。
それで相手を貶めたり
嫌いになったり、
そんなことは全くなかった。

それが私の普通だったから、
普通じゃない感覚に出会うと
好奇心を掻き立てられた。

おお!
こんな風に思うんだ!
ていう新たな発見になった。


発見の連続の人生は
裏を返せば私が少数派ということ。
だから人から理解されない事も
昔からよくある。


「本当に人の裏を知らない。
人に裏があることすら知らない。
そんなに純粋だと騙されるよ。」
と忠告してくれる人が時々いる。

そんなのどうでもいいよね。
私は私のいる世界の方が
ずっと好きだ。


「人の裏の気持ちを考えないから
人を知らずに傷つけてるよ」
「人の気持ちが分からない」
「そのポジティブに苛々する」

同じ言葉を発しても
受け取る人次第で
180度違う感情を与えてしまう。

「元気が出る」「温かくなる」
と受け取ってくれる人もいれば、
不快感を露わにする人もいる。

人は
自分の持っている価値観が
脅かされそうな時に
負の反応をするのだと思う。


分かち合えない時もあるし、
理解してもらえない時もあるけれど
それも一過性のもの。

生きていく過程の中で
たくさんの経験をし、
また新しい価値観に出会って
砕けてくっついて
砕けてくっついて
広がっていく。

いつかお互いを
理解できる時がきっと来る。

来なくても。

来なくても
それでいい。


みんなそれぞれの
自分の与えられた課題を紐解く旅に
果敢に挑戦するだけだから。






人生が動き出す時は、
きっとこんな感じ。


どのタイミングが正解かなんて、
今は分からなくてても
動き出したということは、
最善最高のタイミングと
示されたのだと思うから。


動き出したタイミングで
色んな人の人生が
大きく変わっていく。

人と人、
その周りの人と人。
その周りの人と人と人。

ただ1人の大きな決断をする時、
それがたった1人の決断であっても、
そこにも、その先にも、
沢山の人の人生が
本当に沢山の人の人生が
絡みあって交差しあって、
紡いでいく。

すべてのタイミングが揃う時、
それはやっぱり神様しか
わからない。

それは誰を主人公にしても、
完璧なタイミングで、
完璧な配役が揃っていて、
1分1秒の誤差も
1㎜の誤差も
ないはずだから。

どれほどの調整を経て、
どれほどの大きなものを動かして
77億9500万人の、「今」がある。

そうして
用意された器は、
すべての感情をも呑み込み
すっぽりと納めていく。

「完璧」でない
わけがない。



だから、

良いにも
悪いにも
振れることをしなくて良い。

ただ均等のバランスのまま、
浮かんでいれば良いのだ。

もしかしたら
そこには意図すら、
要らないのかもしれない。


すべてを委ねる覚悟は
究極の自己信頼だ。







日本人女性の平均寿命は、87.45年。

1人の女性が子供を生んだ場合、
1人の子供が成人になるまでの
子育てに関われる時間は、
20年しかない。

人生90年として僅か22%、
1/4にも満たない時間。

それがどんなに貴重な時間か、
それがどんなに僅かな時間か、
その1/4を生きている時間は
特に意識するわけではなく、
ただ日々のことに
我武者羅に過ごしてきただろう。


小さい時は
ただただ笑ってくれたら良かった。
楽しそうにけらけら笑う顔に
1日の疲れも吹き飛んだ。
疲れている時は勘弁してほしい
と思った時も沢山あるけど。

思春期の難しい時期は、
体当たりでぶつかった。
その時はどんなに憎らしいと思っても
あの頃は可愛かったな、なんて
昔の写真を見ながら後悔してみても

子育てはいつも一過性で
そんなひとときも
あっという間に過ぎていく。


大学2年生(もう来年成人式)
高校1年生、中学2年生と。
子育ての終わりが
見え始めた今日この頃、
モコはまだ
赤ちゃんみたいな顔立ちして
小学1年生くらいの大きさで、
知能指数も1歳児あるかないかだけど。

それでも今もう中学2年生。

あと4年もしたら、
18歳なんだ。

あっという間に、
自立の時間。

ちょちょちょちょっと待って。
私の方が全然準備できてないよ。

障害のある子供は
一生親が面倒見ないといけなくて、
子育てはずっと続くんだって。
それを大変だと思う事はあるけど、
それでもまだこんなに小さなモコと
ずっと一緒にいられる事は
それは大きな喜びだった。

モコが小さい時からずっと、
モコに依存しているのは私の方だ。

いつだって癒されて
その笑顔に救われて
瞬間にリセットできて
エネルギーチャージできる、
それに依存していたのは私。

モコはモコの人生を生きる。
私は私の人生を生きる。

そんな当たり前のことを。

私の手を離れることによって
モコにはモコの
新たな出会いが待っているし、
モコはモコの新しい人生が
動き出すんだ。

子育ての期間なんて
人生で僅か1/4しかないなんて。

過ぎてしまえばあっという間で、
子育てしてきた過去を
遠い昔のように思うのだろう。

いつまでも
子供は子供。
そう思う親心と、
そう思いたい親心と。

この1/4の時間が
なんて贅沢で
なんて色濃くて
なんて充実していて
まるでそれが人生のすべてのように。

子育てという
かけがえのない経験を
子供たちから贈られていたんだ。

それはギフトだ。


現実は
思っていたより
ずっとずっと早い。





埼玉県 行田八幡神社 花手水
※花手水は期間限定
2020年は春先から8月7日まで
以前何度か
このブログにも書いている事で、
同じ話をされる著名人が
増えてきている。


真逆の発想から、未来を描いてみる




「働かないと
食べていけない社会」から、
「働かなくても
食べていける社会」へと
世の中は変わっていくのだと思う。




コロナによって
特別給付金10万円が配られた。

他にも自治体から
子育て世代に向けて
地域振興券が配布されるなどして、
その券がなくなるまでの少しの間、
期間限定で、日常の買い物で
自分のお金を払うことを
しなくなった。

お釣りは出ないので、
端数の支払いは現金にしたけど、
手元のお金があまり減らない経験を
させて頂いた。

お店で貯まったポイントを
商品と引き換える時もそうだけど、
買い物する時の心理が
ふわっと軽くなる。

自分で負担しなくても
欲しい商品が手に入る、
ありがたいな、と、
感謝の気持ちも湧いてくる。

貰ったお金だからと
無駄遣いする人もいると思うけど、
私は普段から、
本当に欲しいものだけを
買うようにしている。


ふわっと軽くなった心のまま、
これから先の未来は、
これが普通になるかもしれないな。
と思った。

ベーシックインカムを
少しの間、体験したような感覚だ。


以前の私は、
自分が稼いだお金以外は興味がなくて、
働かなくて手に入るお金なんて
邪道だと思っていたけど、
多分、それは違う。


私たちは、
「生産すること」に目を向けて、
「生産すること」(働くこと)が
偉いことで、それをしていない人は
非難の対象になってしまっている。

受け取るだけの人は
生きる価値すらない存在だと、
その長年の価値観は
そろそろ要らない。

私たちは、生きていることで、
消費をすることで経済を回している。

この世の中に存在していることで
誰1人欠けることなく、
経済を回しているのだ。


生産できない人は要らない?

実はその逆で、
消費してくれる人がいなかったら、
私たちは、生産することはできない。

このコロナ禍で、
多くの産業が打撃を受けているのは、
消費をしてくれる人が
一時的に、
いなくなってしまったから。

消費をしてくれる人がいなくなったら、
私たちの商売は成り立たない事が
当たり前の前提に気付く、
きっかけとなった。

「生産している人」だけが
偉いわけじゃない。
「消費する人」がいて、
初めて成り立つなら、
お互いの関係は対等なはずだ。




この先の未来は、
働かなくても食べてはいけるけど、
働きたい人は、働く。

そうなっていくのだと思う。
「働く」真の意味が問われる。

いや違う。
あなたは「何の為に働くのか」
それが1人1人に問われる時代になる。

最低限生活するお金が貰えて
贅沢をしなければ生活できる。
そうなった時、
あなたは働くだろうか。

ベーシックインカムを
実験的に取り入れた国では、
それでも多くの人は働いたそうだ。

それは「働く」という事により、
自分の存在意義を感じたり、
「好きな事で働く喜び」や、
「誰かの役に立つ幸せ」や、
「自己表現」や「成長する喜び」を
得ることができるから、ではないか。

そうして社会の中に
自分の「役割」があって
自分の「居場所」があることが、
実は「生きる」上で
とても大切なことで、
「生きがい」にも繋がるのだと思う。

本来の
「働く」ことで得る喜びが
もっと鮮明に
もっとシンプルに
浮かびあがるだろう。

喜びの中に。




これは、
「障害者が働く」にも
通じると思っている。

彼らは彼女らは、
「何の為に働くか」、
それはシンプルに、
自分が役に立っている喜びが
嬉しいからかもしれないな、
と思う今日この頃と。


またしても未来の予想図が
ぴったり一致してしまった。

これが一番シンプルで
理想の世界だから
なのかな、と思う。


一斉休校を取り戻す為に
夏休みが短縮になる学校が多い中、
モコの通う支援学校は、
校舎のメンテナンスの都合で
いつも通り、夏休みに入りました。
(長女の高校は夏休み短縮、
長男の大学はオンライン授業)

先週、夏休みに入る直前、
担任の先生との面談がありました。

4月からモコは中学部2年生。
担任の先生は前年度から
同じ先生なので一切の不安なし。

更に今年度からは
新しい先生も入ってこられて、
若い女の先生に囲まれて
ご機嫌らしいです。笑

気を引かせようと、
わざと「イタズラをするよー」
と挑発して喜んでいるそう。

普段のモコが思い浮かんで、
なんとも微笑ましい。


そしてモコの癒しパワーは
学校でも発揮されてる模様。

他学部の先生までも
何の用もなくても
モコの教室に来て、
モコに構ってもらい、
癒されて帰って行くそうです。

それは直接その先生からも
伺ったことがあって、
仕事で嫌なことがあったり
ストレスを抱えてしまった時、
モコに会いに教室を
覗きに行くそうです。

モコに遊んでもらうと、
嫌なことも全部忘れて
癒されるそうで、
そのお話を聞いた時も
嬉しく思いました。

この笑顔と、
そのまんまの存在そのものに、
癒す力が宿っているのだろう。


学校での色んな様子を
話してくださった先生、

「そんな風に何処に行っても
誰からも可愛がられています。」

とおっしゃってくださり、
そしてこう付け加えてくださった。

「こんな風に育ったのは、
お母さんの育て方でしょうね。」


多分、絶対違うけど。笑

でもそうおっしゃって
くださった言葉は、
今までの道のりに
合格を貰えたようで、
やっぱり嬉しかった。

この言葉を
有り難く受け取った後に
客観的に見てみると、
私の功績でも何でもなく、
モコの癒しのパワーも
可愛がられる能力も、
100%、天性のものだろう。



あれ、
そっか。

側に居すぎて
気付かなかったけど、

その恩恵を
一番近くで

生まれた時からずっと
あずかり続けているのは、
100%、私だった。





今日は
あの痛ましい
やまゆり園事件があった日。

このブログ記事を書き終わる頃、
ちょうど4年が経ったことを
友達の投稿から知ったので、
意識して書いた文章ではないけれど、
リンクした。

障害がある人は
支援がなければ
生きていけなくて、
何かを与えているなんて考えは
もしかしたら、
なかなか及ばないかもしれない。

でもそんなことなくて。


なんの生産性がなくても、
話すことができなくても
笑うこともできなくても。

「生きている」
その存在そのものが
誰かに生きる力を
与えているんだと思う。

誰しも。



「誰もが、誰かの特別な人。」

事件で犠牲になった人も、
家族や関わった方にとって、
かけがえのない特別な人。

みんな誰かの特別な人。
誰かが愛情もって
生んでくれた命。
育ててくれた命。


加害者もまた、
誰かの特別な人だったはず。






ここ何回か
久しぶりに苦手な事に直面した。

急に話を振られて説明するとか、
何かを回すMCみたいのも、
下準備があれば完璧にできるけど、
アドリブとかは無理。

そういえば
親になってからの
幼稚園の授業参観とかで、
1人ずつ話す番が回ってくるのも
心臓ドキドキバクバクして
苦手だったな。
(今では話す事を仕事にしている)


普段の日常で
得意を活かせる中にいると、
「出来る」体験ばかりで
「出来ない」体験をすることは
あまりない。

「出来ない」体験は、
昔の記憶が蘇って
くすぐったい。

「出来ない」ことは
恥ずかしいことではなくて。

みんな誰にだって、
苦手なことの1つや2つくらいある。
(私はもっと沢山ある)


どんな事が出来ても
どんな事が出来なくても、
それが偉いわけでも
劣っているわけでもなく、
全部、花丸なのだ。




私は元々、
器用に何でもこなすタイプでは
全然なくて、その真逆だった。

早生まれで
3月の最後の方に生まれた私は、
クラスでもいつも
1番誕生日が遅かった。

だから特に幼少期は
何をしても出来ない子で、
何をやるのも断トツ遅かった。
だから悔しくて人一倍頑張った。

それでも頑張ってようやく
人並みに届くか
届かない程度だったけど、

それでも私は私の中で
例え結果が平均より劣っていても
その時持てる力を精一杯出し切って、
限界までチャレンジしたことに
誇りを持った。

その努力は私が1番
誰よりも知っているから。
どんな結果でも満足だった。

自分の中の限界に挑戦した後は
素晴らしく清々しかった。


思えばこの精神は、
この頃からずっと私の中に
あったもの。




なんて体験を書くと、
「苦手なことは克服するものだ」
「克服できなくても努力するものだ」
という思想だと
思われてしまいそうだけど、
全然そんな事はなくて。


目標を掲げるのもいいけど、
私は、どっちでもいいや。

そのことを
頑張りたいと思ったら、
頑張ればいいし、

そのことが
興味の対象外で、
箸にも棒にもかからなければ
そこに時間をかける分、
やりたいことに時間をかけた方が
絶対にお得だから。
(放置してる苦手も沢山ある)

苦手なことを
頑張るのも素敵だけど、
苦手に拘るよりも
好きなことに一生懸命に
なった方がいい場合も
絶対にある。


何が自分の中で頑張る対象なのか
何が対象外なのか、
何処で諦めをつけるのかも、
それは多分、
自分が一番分かっているよね。


苦手を知るのも
自分を知るチャンス。


人に頼ることが
できる分野を持つのは
素晴らしいこと。







「大切なものは目に見えない」

10年くらい前に、
有名大学卒のインテリの知人に
今までどんな本を
読んできたのか聞いてみた。

「今まで読んだ本の中で、
1番好きな本を教えてください」

どんな学術的な本が聞けるのか
どんな経済学の本が聞けるのか
どんなビジネスの本が聞けるのか
ものすごく楽しみにしてたら、

「『星の王子さま』です。」

って返ってきた。
『星の王子さま』に対する
熱い思いを添えて。

その意外すぎるセレクトに、
びっくりしたんだ。


『星の王子さま』は、
学生の頃、読んだ事がある。
正直、意味を理解していなかった。


今、机として使っている
大きなダイニングテーブルの上に、
置きっぱなしにされていた
『星の王子さま』を手にとった。

私はこの本を、理解していない。

少し読み進めていくと、
王子さまの小さな星に咲いている
たった1つの花と、
王子さまとの会話のシーンで
心が溜まった。


1週間前にこの話を
読んでおけば良かったんだ。

あなたが発した言葉に対して、
それを受けて
「感じ悪い」とか
「面倒くさい人だ」とか
「こうすればいいのに」とか
「私ならこうする」とか
色んなことを思った私がいたけど、
それは私が勝手に見た
色眼鏡で見た世界でしかなかった。


その言葉や言動に
引っかかるのは
私の世界が勝手に作った妄想。

その言葉に
一喜一憂したり
苛々するのでなく、
もっとその奥にある
あなたの存在そのものを
あなたの魂そのものを
見るだけで良かったんだ。


例えばモコは言葉を知らない。

言葉を発することがないから
魂そのままの存在のモコが、
ただただそこにいるだけで。

そのままの存在が
どんなに愛おしいか
感じることができる。

きっとそれと同じで。


今まで私は存在以上に
そこに紡がれる言葉を
それだけがまるで全てなように。

目に見える事だけを
信じていた気がする。


言葉が邪魔してることって
きっとこの世の中には
たくさんたくさんあって。

言葉を失った時初めて、
その人の魂の輝きを
感じることができるなら、
それは悲しすぎるから。


誰でもいい
誰かの言葉の写す世界は
私のエゴで満たされていて、
私の考えそのものを
反映してるだけだってことを
私は本当は知っていたよね。


言葉なんかじゃない、
その人の内側にある
その人の瞳の奥にある
魂そのものの輝きを、
大切にしていけたら
それでいいではないか。






私は小さい頃、
1つ年上の兄がいたのもあり、
戦隊ヒーローを夢中になって観ていた。
(今も観てるけど)


「大きくなったらピンクになるんだ!」

って本気で思っていたし、
その為に、回し蹴りや拳の使い方など、
日夜、訓練していた。

(父が若い頃、空手を教えていたので、
時々決める型を見様見真似で)


「悪い敵が地球を襲いに来たら、
ピンクになって地球を守るんだ!」

って本気で思ってた。


でもね、44年間生きてきて、
宇宙から敵が現れた事は
一度だってなかった。

いや、本当にあったら大変だし、
でもこの先は、あるかもしれないけど。
(その時は流石に
年齢が厳しいと思うので、
もっと若い子にピンクを
譲ることにする。笑)


そう、
私が戦隊ヒーローになれなかったのは、
宇宙から敵が現れなかったから。

もし本当に私が
戦隊ヒーローになるのなら、
「宇宙から襲ってくる敵」
が必要なのだ。
 

これ、
実はめちゃくちゃ深い。


ある時、私は
カウンセラーになりたいと思った。

それは小さい頃から
誰かの役に立ちたいと思っていたし、
実際に私に
悩みを打ち明けてくれる子が
たくさんいたから。

その役目がずっと嬉しかったし、
この役目は更に加速していった。

一番この役目を担ったのは、
障害のあるモコを生んだ時。

当時からここに発信している事で、
同じく障害のあるお子さんのご家族から
多くの悩み相談がくるようになって。
1000人以上は軽く超えた。

その間に
メンタル心理カウンセラーの
資格も取った。

障害のあるお子さんの
ご家族だけでなくて、
家族を事件や事故で
亡くした方からも増え、
私の経験した事が役に立った。


そんな少し重い内容だけでなく、
ふと出会った方が
なんとなく私と話しているうちに、
言う予定も全くなかった
仕事や恋愛の悩みを話してくれて、
いつの間にか人生相談になっている
ことも、沢山あった。
これも昔から。


もうそれは、
小さい頃からの私の
役割みたいなもので。


誰にとっても
“安心して話せる場所”で
“保健室”のような場所を
私は無意識に提供していて、

“心が軽くなった”
と言ってもらえるのが
嬉しかった。

それは今でも、
継続してはいるけれど、
以前よりずっと少ない。


私が悩み相談を受ける為には、
「悩んでいる人」が必要で、
「困っている人」が現れてくれないと
私は自分の役割を果たせない。

でも本当は、
「悩んでいる人」も
「困っている人」も
みんな「大丈夫」ってこと。


私が解決してあげなくても
私が救ってあげなくても
そう思うこと自体が傲慢で、

みんな果敢に、
自分の「大丈夫」な人生を
歩んでいるということ。


そもそも、
「悩んでいる人」も
「困っている人」も
どこにもいなかった。

だから私は
その役割を担う必要はなくて、
意識することもなくて、
ただただみんなが、
今日も果敢に
それぞれの人生に
立ち向かっているだけ。

自分の人生に
立ち向かえるのは、
自分だけだから。
誰も代わることはできない。


聞いてあげることも
解決してあげることも
手を差し伸べることも
道標を示すことも
見守ることも
過去にはたくさん
してきたけれど。


今私がしたいことは、
驚くほどに何にもない。

果敢に
立ち向かっている瞬間も、
誰もがみんな、宇宙の中の
完璧な流れの中にいるから。


私がしていること、
強いていえば、
それぞれの人生のストーリーを
完璧なまでに、信じてるから。






前回の記事を書いたあとに、
また続きを書いてみた。




もし今日が
本当に地球最後の日だったとしたら。
あなたは、誰と何をしたいだろうか?


「今日が地球最後の日です」
それを知ったのは、
「その日の朝」だと仮定して、
シミュレーションをしてみる。
 

私はもし、
「あなたの余命はあと1ヶ月です」
と言われたとしても、
多分普通に毎日会社に行って、
死ぬ直前まで普段と変わらない生活を
するのではないかと思っているので、
「今日が地球最後の日」だと
当日の朝宣告されようとも、
多分普段通り、出勤してると思う。

ただきっとその日は
朝から様子が違う。

それは、
私1人が私1人の寿命を
宣告されたわけではなく、
地球上に生息している人
もれなく全員、
今日死ぬと決まっていて、
尚且つ一斉にそれを
その日の朝、宣告されたからだ。

恐らく大混乱だろう。
その様子がテレビ画面を
通じても伝わってくる。

「あれ?今日は会社
行かなくていいですよね??」
「休み取るって会社に
連絡した方がいいですか?」

なんて間抜けなラインや電話が
きっと6人くらいからかかってくる
と推測する。

「行かなくていいよ!
連絡もしなくていいでしょ!
だって今日が最後なんだから!」

なんて緩いことを言ってみて、
私は会社に向かってみる。

きっと社内には
それでもいつも通り、
3分の1くらいの社員は
出社している気がする。

「あれ?
結構みんな来てるんだね!?」

「伝票切らないとだから」
「今日の発注が」、、

「いやいや◯◯さん!
そんなのもうやる必要ないって!
今日で地球最後なんだから笑」

「そうだった!笑」

なんて爆笑しながら、
いつものように
他愛のない会話を楽しんで、
お昼前くらいになったら、

「もう帰った方がいいんじゃない??
今日で最後だから」

てみんな言い出して、
それもそうだ、と、
最後の別れの挨拶を交わすだろう。

「それじゃあ元気で!
また来世で会おうね!」
(私はもう来世ないけどね)

て、笑顔で手を振るだろう。

家に帰ったら、
家の中はきっといつも通り。

「今日地球最後だって!」
って言ったら、

「で?」と返してきそうな長男は、
この状況すべてを
運命として受け入れているようで、
呑気にスマホ片手に寝転んでいる。

「大変だーーー!
そしたらケーキ
1ホール食べなきゃ!!」
って騒ぐ長女に付き合って、
最後の晩餐になるケーキを探しに
ケーキ屋さんを長女と
はしごするだろう。

太るとかカロリーとか
気にしなくていいんだから、
もう死ぬほど食べていい!

ケーキのホールを5個くらい買って
家に帰ると、長男が
「なんでそんなに買ってきた?」
と、笑ってる。

モコはこの状況は
当然知る由もなくて、
新聞紙をひたすら破ってご機嫌だ。

そうかと思えば
音の出るオモチャの電池が切れて
音が出ないと怒ったり、
最近手にした超お気に入りの
携帯用扇風機の電源を入れろと
私の手を持って催促してる。

いつも通り母に
寄り掛かりながら、
時々怒られたり、寝転んだり。

それを眺めながら、
買ってきたケーキを
手当たり次第食べまくる。

「めっちゃ美味しい!!!
最高や!!!!」

美味しいものを食べて、
美味しい!と言う。
その感動を一緒に味わえる。


いつもの日常がそこにある。

「今日が地球最後の日」
だとしてもきっと関係なく。


大切な毎日が、
そこに流れている。


そんな風景を見ながら私は思う。

「今日も平常運転、
いつも通り、平和だ。」




「幸せ」は、
いつもそこにある。

「今日が地球最後の日」だとしたら、
あなたは誰と一緒にいて、
何をしたいだろう?

こうして
シミュレーションしてみると、
きっと大切なことに気づくだろう。