ブログでは
新年最初の投稿!

いつも読んでくださる皆さまへ
たまたま目にしてくださった皆さまへ
新年明けましておめでとうございます。

いつも読んでくださり&
たまたまご訪問くださり、
ありがとうございます!

いいね!も、とっても嬉しいです。
本年もよろしくお願い致します。


さて恒例のお節から。
今年はこんな風になりました(^^)
お節写真を投稿すると、
もう長年見てくれている友人が
「かんさんのお節が
歳時記のような存在になってる」
と言ってくれました。

楽しみにしててくれる人がいること
なんだか嬉しいです(*^^*)


私は過去記事は殆ど見ないのだけど、
たまたまFacebookの機能で
1年前のお節の記事が
あがってきていて。

そこには、
“毎年お節に飾っている金柑が
今年は枯れてしまって、
飾り付けに試行錯誤した”

と、書かれていた。


ああ‥。
1年前のことだったんだ‥。
もうなんだか金柑がなくなって、
それから数年はお節を
作っているような気がした。

お節の最後の仕上げを
元旦の朝に残した大晦日の夜、

明日の朝のお節の飾り付け
(飾り物の緑の野菜などを
バランスよく添えて整える工程)を
頭の中で構想している時、
「そういえば金柑はないから‥」
と、金柑のことが一瞬過ぎったけど。

でも
「絶対あった方が良かった」とか、
「ないと困る」とか、
「せめて金柑があったら」とか、
そんな風には思わなかった。

「ない」ものは「ない」として
「あった」時の過去に拘ることはない。

「ない」ものは
最初から「ない」ものとして。

ゼロからスタートするだけだ。

昨年は「ない」が初めてだったから
飾り付けにも試行錯誤したけれど、
今年は「ない」が当たり前で。
もう数年も「ない」ような気がして
飾り付けに迷う事なくスムーズに。

感性だけが自然に動く。
この時間がすごく好きだ。


こうして日常は
「当たり前」になっていき、
いつかあったことの記憶すら
忘れられていくのだろう。

それはそれで
少し悲しい。


昨年、寒さのためか
金柑の木と一緒に枯れた
柑橘系の木は、
柚子もグレープフルーツも
見事に復活をした。

たわわな実を重そうに
その枝にぶら下げている。

重そうだけど、
嬉しそうに。

大きくなった吾子を
嬉しそうにおんぶする母か
祖母の背中のように。

そこには愛があって。

金柑の木もいつか
新しい命が芽吹いてくれる奇跡が
あったらいいなと思うけど。

それはこの場所じゃなくても
いいんだ。

地球上の大きな大地の中で上で、
命はずっと繋がっていくから。