生きていれば
誰しも年を重ねる。

自分が高齢になった時、
思うように動かなくなった身体を
どうにか動かしながら
歩いていたとして。


早く歩けないことを、
舌打ちされたり、
邪魔にされたり、
明らかに迷惑そうにされたら、
やっぱりそれは、嫌だと思う。


至近距離を速いスピードで
過ぎ去られたら、きっと怖い。


哀れに思われて
変に同情されて
嫌々合わせられるのも
やっぱりしんどい。


そんな風に
扱われたくないもの。





先日、
足腰に負担のあるおばさまと、
一緒に歩いた。

歩幅を合わせて、
ゆっくり、と。


「ごめんね、年でね」


って。

そんな遠慮も要らないし、
後ろめたくもならなくていい。
迷惑かけてるなんて思わないでほしい。


ただ
そうであるだけ。




そこに、未来の自分を重ねた。


自分が高齢になった時や、
病気や事故で
身体が不自由になった時。



どんな風にしてほしい?




冷たくしてほしいなんて人は、
まずいないだろう。


温かく見守ってほしい。
そこにいてほしい。




それを今、
目の前のお年寄りに
当然のようにしよう。

そこにいるのは、
時空を超えた、未来の自分。






「邪魔だな、くそじじい」
と舌打ちしながら
足早に通りすぎいく。

あなたが今、
邪魔だと思いながら通りすぎた
そのおじいちゃんは、

もしかしたら
未来の自分かもしれません。



自分のした事が
いづれ返ってくる。



世界は

回り回り、
巡り巡っていく。






未来の自分が
してほしいことをしよう。





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