アルメイダ墓所調査プロジェクト(仮) | ---My life with K--- 高浜寛 公式ブログ

---My life with K--- 高浜寛 公式ブログ

2匹猫とアンティーク、田舎暮らし、時々漫画家。

みなさまご無沙汰しております。一昨日、3月6日付の熊本日日新聞(及びYahoo!ニュース)に掲載して頂いた、天草市河浦町におけるアルメイダ墓所調査プロジェクト(仮)について、こちらでも報告しておこうと思います。




記事でも書いていただいたように、昨年の暮れ頃から、天草の大江村大庄屋末裔・松浦四郎氏と二人で、郷土の伝承や河浦地区の切支丹関連史跡について調査をしておりました。この時点での目的は、新しく始まる天草・島原の乱をテーマにした長編の取材の為で、まだアルメイダ云々という話ではなかったのですが、ちょうど松浦氏と二人、河浦でちゃんぽんを食べている時に、そういえばこの辺りで亡くなったアルメイダ神父の墓はどこにあるんだろうという話になりました。私は漠然と、現在の下田城の辺りかその上ではないだろうかと考えていたので、そう松浦氏に言ったところ、氏も少し驚いたような顔で、「実は亡くなった郷土史家の鶴田八洲成先生が生前、アルメイダの墓はきっと、下田城にある天草氏の墓所と伝承の残る場所、その中の石垣の崩れた所だと言っておられた」と言われたのです。ただ、この時その「石垣の崩れた所」がどこなのか、二人とも行ったこともなければ、場所さえ全く知りませんでした。天草市の方でも、その辺りは一応「天草氏歴代墓所」として看板を立てていますが、まだ実際に詳しい調査がなされた事はなく、山中のどこなのかもはっきりせず、本当に墓なのかどうかさえもまだ分かっていないのです。そこでしばらく過去の資料や鶴田先生の残された文章・フロイスの日本史などを引っ張り出してきて場所の当たりをつけ、実際に現地に行ってみると、山中に確かに宝篋印塔の積まれた場所があり、その近くに長さ180cmほどありそうな、長い石積みの寝墓のようなものを見つけました。





実際このあたりは石垣だらけで、どこが「崩れた」場所なのかを特定するのは難しいのですが、この長い寝墓自体が崩れた石垣の残骸に見えなくもありません。この日は私物の金属探知機も持参して調査し、先述の寝墓の他にも、宝篋印塔や石が集まっている場所を中心に複数箇所、深度50cm~1mくらいで金属反応が出ました。また、すぐ隣の菅原神社の礎石に、天草氏の墓所と思われる場所にあった宝篋印塔の台座部分が使われている事や、神社の建つ前の遺構らしきものが床下に残っているのも発見し、写真を撮って帰りました。これらの事は、菅原神社が建つ前にここに何か別の建物が建っていて、それを破壊した勢力があったという事になるかもしれないからです。フロイスの記述によれば、もしここが天草鎮尚の墓所だとしたら、セットで側に聖堂と修道院もあった可能性があり、菅原神社はひょっとしたら聖堂跡かもしれないと思ったわけです。



 といっても、これ以上は素人には手に負えないので、長崎で「千々石ミゲル墓所発掘プロジェクト」に携わっておられる(株)オリエントアイエヌジーの中島社長や切支丹墓碑の専門家・大石一久先生にお願いし、2月に河浦までお越し頂いて現地を見ていただきました。大石先生と皆で半日その辺りを調査した結果、墓所と思われる場所にあった宝篋印塔は1540年~同年代末の物とわかり、時代的には天草氏やアルメイダの亡くなった時代と一応一致します。また、神社の礎石に使われていた宝篋印塔を調べると、土に埋もれた部分に「明林賀(文字の一部破損。貞か資の可能性もあり)公」と読める戒名も見つかり、大石先生が墓拓を取ってくださいました。「公」の付く戒名は、ある程度身分の高い人物のものと思われます。









大石先生によると、これだけではここがすぐに天草氏やアルメイダに関係する場所だという事はできないけれども、引き続き調査をする価値のある、興味深い場所である事は間違いないということで、その日のうちに調査プロジェクトを発足する流れになりました。







といっても、アルメイダ神父の墓について、具体的に書かれた文献は今の所ありません。フロイスも彼の死については記録していますが、墓については書き残さなかったようです。以前、近くの信福寺にアルメイダの墓があり、それが発掘されたという噂が流れたことがありますが、住職にお聞きした所、実際は何も発見されなかったという事でした。ではなぜ亡くなった鶴田先生は今回の場所だと思われたのでしょうか?そこが肝であり謎です。しかし確かに、アルメイダの亡くなった時期はまだバテレン追放令が出されておらず、信仰は自由で切支丹だという事も墓の場所も隠す必要がありません。その少し前に天草の殿である天草鎮尚が信頼するアルメイダに看取られて亡くなり、息子の久種は父のために、教会を建て、新しい切支丹墓所を切り開きます。その後間もなくアルメイダ本人が亡くなった時に、イエズス会と協力して葬儀を出したのは、久種とその母ドナ・ガラシアだったでしょう。そうすると、父・鎮尚と同じ教会の墓地に丁重に葬ったというのは確かに自然な成り行きのようには思えます。それからもう一つ、これは印象の問題になってしまいますが、もし我々が見つけたものが本当に寝墓だとしたら、この辺りではちょっと見たこともないほどに大きなサイズなのです。この区画で唯一、墓かもしれないと思わせる形を保っていて、大きな石の下にはぐり石のようなものが敷いてあります。鶴田先生も、これを見つけて誰か重要な人物の墓なのではないかと思われたのかもしれません。これについては実際に墓なのかどうか、引き続き調査を行う必要があります。

今回は、専門家が調査検討した挙句見つけた場所ではなく、素人が興味本位で人から伝え聞いた場所に行ったら、たまたま怪しい物を見つけてしまった、という性質の発見であります。こういったハプニングに対して、専門の先生方やメディアの皆さまから興味を寄せて頂いている事を大変嬉しく思います。現在各方面から素晴らしいプロジェクトメンバーが構成されつつあるところです。今後も進展があり次第、次々と情報アップしていく予定ですので、どうぞしばらくお付き合いくださいませ。
まずはご挨拶まで。   

高浜寛