では、もし病気で余命宣告を受けたら、何をしたらいいだろうか。体力や意識がなくなるまでには、まだかなり期間があるので、経済的余裕があればやりたい事ができるし、お金が無くても出来ることはたくさんある。
以前、「最高の人生の見つけ方」という映画を見たことがある。病室で知り合った仕事一筋の大富豪と、貧しいが勤勉に働いてきた自動車修理工が、共に余命6カ月と宣告され、やり残したことをするために病院を脱け出して冒険の旅に出るという話だ。
ふたりは「やりたい事リスト」をつくり、それを実行してゆく。絶景を見る旅をしたり、スカイダイビングなど、次々と実現してゆくが、それらを達成した後、大富豪は感情的な行き違いから長く別れていた娘に会い和解する。一方の自動車修理工は、最後の時を最愛の家族に見守られて過ごす。
人間はいろんな感情を持つが、心の奥まで探ってゆくと愛と恐れしかないという。特別な使命を持った人は別だが、ただ欲望を満たすだけなら、快感は一時的な満足に終わってしまう。人生の最後は、家族や友人との愛情ある関係が持つことが一番心を安定させるようである。
実際の幸福とは心の状態のことであり、周囲で起こる事とはほとんど関係ない。宝くじに当たったり、願い事が叶っても、一時的な高揚感しかなく、その時期が過ぎると元の不幸な状態に戻ってしまう。
死後の世界があるかどうか、あるいは神や超越的な存在が実在するかどうかも、死にゆく人には大きな関心事だ。
日本の神々のように喜怒哀楽のある人格神が存在するとは思えないが、万物を生み出し、何か目的を持って一つの方向に導いてゆく根源的なエネルギーがあるのは間違いないだろう。少なくとも地球上に生命を誕生させ、進化させてきた力が働いていると思う。、
人によって、そうした超越的な存在を神と呼んだり、宇宙意識や空の世界、根源的なエネルギーと呼ぶ。
病気をはじめ人生には努力だけでは、どうにもならないことが多い。もし神がいるなら、どうしてこんな大変な思いをするのだろうかと疑問に思うかもしれない。だが、困難な時期や状況の中で自分の身をゆだねる時、人は成長し神を知るようになるのだ。
わたしたちは自分に与えられたレッスンを学ぶために生まれてきた。つまり、人は生まれながらに課題や使命を持って生まれてくるのだと思う。そして神はそれを果たし、学べるように人間を導いてくれる。そのため学ぶ準備が整ったら、それを気付かせるための状況や試練が与えられる。
使命は社会的に成功したり、人類に役立つ発明や発見したりすることだとは限らない。人を愛することや忍耐、あるいはどんな状況にあっても平静でいられるようになることかもしれない。
宗教では人間が神と一体となることを悟りや解脱といい、そうなることを修行の目標としている。ではどうすればそうなれるのだろうか。
わたしたちの多くは、毎日したい事をするよりも、するべき事をしながら生きている。現在の日本社会は豊かさに価値を求め、効率を重視した厳しい競争社会である。社会的に成功したいなら、競争に勝ち抜き、人の評価や社会の価値観に従わなければならない。
もちろん、扶養家族がいたり社会的に成功したいなら、人の評価や社会の価値観に従い努力することも大事であり、意味のあることである。ただ、余命があまり残されていないなら話は違っている。そうなったら価値観を変え、自分の本当の心に正直になり、いい所も悪い所も受け入れるた方がいい。
他人の評価や社会の価値観を捨て自分の内面を見つめることで、本当の思いや隠された部分が見えてくる。それを受け入れることで自我が浄化され、自分の使命や生まれてきた目的を知ることができる。厳しい修行で霊能力を得たり、神秘体験をしなくても、神と一体になることは可能である。
神は時間も生死も超越しているので、自我を浄化し神と一体になれば死の恐怖は無くなるはずだ。そして、状況や人間関係をコントロールをしなくても、すべては神や宇宙の力で良い方向に導かれると信じることで、安心がもたらされる。
死後の世界があるかどうかについては、私自身もよく分からない。半信半疑のままである。死んで生き返った人はいないので、臨死体験者の語る死後の世界は、脳が作り出した幻影かもしれない。
インドにいた時に指導を受けたヨガの聖者は、自らの修行体験から死後の世界に確信を持ち、死に対する恐れもまったくなかった。そして自分で死ぬ日を決めて、予言通りその日に結跏趺坐のまま亡くなった。
死後の世界を信じれば、魂が身体を脱ぎ捨てるだけなので、死が怖くなくなるという人もいる。だが、たとえ死後の世界があったとしても、自分の現在の心境に応じた場所に生まれ変わるなら、この世から持ち越した苦しみが続くだけなのであまり楽にならないだろう。
それより、自分の抱えている問題を解決して、ありのままの自分を受け入ることができれば、死後の世界があっても無くても、死が受け入れやすくなると思う。人生の最後まで学べるがきりの事を学びとり、使命を果たし成長することで死への恐怖が少なくなっていく。
その意味でも、余命宣告後にどう自分に向かい合うかは大事である。余命宣言を受けた時が人生の終わりではなく、本当の人生が始まりだともいえる。