最近は、年配者の間で終活が流行っているらしい。終活とは、自分が死を迎える前に、死の準備をしておこうとすることである。たとえば遺言を書いたり、葬式やお墓の手配をしたり、断・舎・利を実行して必要な物や思い出の品以外は、手放したり整理することである。
もちろん終活も必要だし、やるにこしたことはない。だがそれは、あくまでもまだ死が身近にない健康な人がやることなので、余命宣告を受けた人が死の恐怖を克服するのにはあまり役に立たないと思う。
日本では死をタブー視し忌み嫌う風土があるためか、死に対する現実的な心構えや教育というのがほとんどない。死を迎える心構えとしては、臨終のとき阿弥陀如来を迎え極楽浄土へ行く作法や、チベットの死者の書などもあるが、唯物主義の現代人にはなじまないと思う。
一般的な死のプロセスとしては、精神科医のキューブラー・ロスが臨床場面で死にゆく人たちを観察を続け導きだした、死を受け入れるまでの五段階のプロセスが、一番参考になるだろう。
ロス博士によると、個人差や順不同もあるが、余命宣告を受けた入院患者はたいてい、死ぬまでに五つのプロセスを段階的に踏んで死を受け入れられるようになるという。
五つのプロセスを簡単に述べると、次のようになる。
否認
怒り
取引
抑うつ
受容
第一段階 「否認」
「うそだ」、自分が死ぬはずがないと否認する段階である。
第二段階 「怒り」
なぜ自分がこんな目に合うのか、死ななけれればならないかという怒りを周囲に向ける段階。
第三段階 「取引」
「悪いところは改めるので生かしてほしい」とか「子供が成人するまで生かしてほしい」、あるいは神絶対的な物にすがろうとするのも一つの取引である。
第四段階 「抑うつ」
取引が無駄と分かり、運命に対し無力感を感じ、失望し、抑うつに襲われ何もできなくなる段階。
第五段階 「受容」
一縷の希望を捨てきれないこともあるが、死ぬことを受け入れる段階。希望ともきっぱり別れを告げ、安らかに死を受け入れる。
死を恐れるのは人間の本能なので、末期癌のような病気で余命宣告を受けたら、とり乱すのが普通である。むしろ、冷静でいられる方がおかしいので、湧き上がってくる感情のままに振る舞えばいい。とりあえずは心のままに泣き叫んだり、人に怒りや悲しみの感情を爆発させたりすればいい。
もちろん、友人や専門のカウンセラーに相談するのもいい。人に話せば、少しは気がまぎれると思う。たとえ悪あがきだとしても、神仏に祈ったり、代替医療でも心霊治療でもやってみればいい。とにかく、思いついたことやいいと思うことは、ダメもとで何でもやってみることだ。
理性や頭で考えたきれい事やプラス思考などは、かえって、死の受容のプロセスの進展の邪魔をする。不老不死を求めた中国の皇帝のように、地位や物欲に執着が強いと、死の受容は難しくなるかもしれない。
そうして自分のやり方で死へのプロセスを過ごしていけば、やがては諦めの境地になり、最後には死を受け入れられるようになるようだ。心配しなくても、たいていの人は死の受容は時間の経過とともにできる。
痛みの緩和ケアが受けられれば、死の恐怖はかなり軽減する。
出来ればなるべく早く、死を受け入れる覚悟をしたいものである。何故なら本当に大事なことを学べるのは、実は死ぬ覚悟ができてからだからである。死ぬまでに出来ることは限られているし、残された時間は決して多くない。
人間は死ぬまで成長できるし、人は死を意識することで、生について本当に知ることができる。私自身は、人は何か課題を持ってこの世に生まれてきたのだと思っている。もしそうなら、なるべく早く死を受容し、体力や気力のある間に自分の使命や与えられた課題を成しとげたいものだ。
果たして、死後の世界はあるのだろうか、神や超越的な存在は実在するのだろうか。事故や天災と違って、病気の場合は死ぬ前にしばらく時間がある。それでは人生の最後に、人は何をすべきか、何が出来るかを考えてみよう。